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小ネタの一日

(土手のエドヒガンは咲いた/一昨日撮影)

昨夜遅く、名古屋のかなくん一家が来た。かなくんの怪我も治って、4月からはかなくんが幼稚園へ入園、しばらく来れないからというが、一方でゴールデンウィークにはまた来ると話している。今朝から雨、これも入園が近いまーくんと、弟のあっくんも掛川から来て、午前中は賑やかであった。

昼食は今や我が家の名物と言って良い、スパゲッティである。今日は茹で係りのみで、具の準備などは女房と娘が担当した。大人6人、幼児3人で800gでは少なかった。幼児3人がけっこう食べるようになってきたのである。

自分はお遍路の準備をした。持ち物をかき集めた後、昨日は金剛杖の握りのカバーを直した。カバーの中にクッションで入っている段ボールを取替え、紐でしっかりくくり直し、切れそうになっていた鈴の紐も取り替えた。今朝は、菅笠に被されたビニールカバーのゴム紐を取替え、あご紐も汗で黄色くなっていたので、新しく換えた。


(白衣と輪袈裟はこんな風に着用する)


(白衣と輪袈裟にホックを付ける)

輪袈裟と白衣にそれぞれホックを付けて、今回は遍路の間、輪袈裟は外さないようにしようと思った。白衣の洗濯のときは輪袈裟は外したいからホックが必要となった。女房に頼み、小さいホックを出してもらった。オスメスで止めるもので、4つの穴で布に取りつける、昔からのタイプである。もう50年以上前、その付け方を小学校の家庭科で学んで以来の作業であった。手際よくは出来なかったが、首の周りに3ヶ所付けた。白衣の襟の外側と、輪袈裟の内側に取り付けるのだが、同じ間隔でつけると首に上手く下がらない。白衣の方を少し間隔をつめて、すっきり出来た。やれば出来るものである。あとでマジックテープもあったと女房が言う。今はマジックテープが主流で、ホックも余り使わないのだろうか。

あとは白衣のふところに地図帳と行程表を入れるために、ポケットを作りたい。白衣と同じ白い布を女房に頼んでいる。ミシンを使えば訳ないけれども、針で縫いつけても良いと思っている。

夕方、甥のH君が看護師試験に受かり、就職のため保証人になってほしいとやって来て、しばらく話して帰った。看護師試験で、男性の看護師も10%位いるという。ムサシの散歩へ出ると、空の雲はすっかり晴れて、朝からの風と雨が嘘のようで、その代わりに寒さが戻って、冷たい北風に、咲き始めた桜も縮み上がるほどであった。帰宅すると、大学の先輩のO氏から電話があり、久し振りにブログを見たらお遍路に出かけるというが、その前に一度お邪魔したいと話す。月曜日の午前中で約束した。

夜は班長最後の仕事、班の常会である。会計報告などしたが、最後に毎月班長会の報告書を書いて回覧していたことについて、Sさんからお褒めの言葉を頂いた。けっこう時間を掛けて書いていたけれど、その一言で報われる気分になった。任務をすべて果して、気分良く帰宅した。

その後、女房と娘の3人でフィギアスケートの世界選手権の男子フリーをテレビ観戦した。高橋と羽生が銀と銅を取って終わった。羽生の一生懸命さと、高橋の会場を虜にする完璧な演技に心を打たれた。
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金谷でもお寺巡りに

(金性寺の白い大理石のお地蔵さん)

昨日、島田のお寺巡りの帰り、島田駅まで歩き、金谷駅までは電車で戻った。大井川線は時刻表を確認することもなく、我が家まで歩いた。途中、いくつか金谷のお寺を巡ろうと足が向いた。

金谷の通りの北の裏道を川沿いに歩くと、山側にいくつかお寺がある。最初は金性寺。「聖徳太子尊碑」と刻まれた石碑から、細い石段の道を真っ直ぐに登ると左に金性寺がある。本堂前で子供が二人、草取りをしていた。頑張ってるねと話しかけると、おじいちゃんと呼ばれて、住職が顔を見せた。記憶を頼りに、境内に大岩のあるお寺はどこでしたかと聞く。自分は最近来たのでよく分からないと答え、裏に大理石のお地蔵さんが出来たので見て行って欲しい。大理石のお地蔵さんは日本唯一だと思うという。本堂裏へ回ると、腰をひねった親しみやすい地蔵尊が祀られていた。大理石の肌が真っ白である。確かに変ったお地蔵さんであった。


(利生寺の大岩、一枚岩だという)

自分の記憶で大岩のあるお寺は利生寺のことだった。川沿いに歩いて、その道から少し上がったところに、正面に大きな巌が見えていた。正面の大岩は女岩、その左手の岩は男岩と呼ばれて、その間を小さな流れが区切っていた。このお寺は「歳代記」に度々登場するお寺で、幕末の御札降り騒ぎの時には、この大岩の上に御札が降ったと記述されていた。境内には、岩山観音、八大龍王、聞き耳地蔵、水掛け地蔵、歯子観音と、それぞれ由緒の付いた細々とした仏が祀られていた。地元のお年寄りが集いやすい空間である。幸せの鐘という小さな鐘を一つ撞いてみた。


(尾根上の墓地から富士山が見える)

人家を縫うように坂道を登って、旧国道1号線まで出、洞善院に行った。ここは大きなお寺で、金谷町の歴史をひも解くと、たびたび出てくるお寺である。檀家も多いのだろう、お葬式でも何度か来た。堂々とした立派な伽藍を後に、尾根上の道を歩く。両側にはびっしりと墓石が建っている。こんなところ一帯が墓地になっているとは初めて知った。尾根が尽きるその先には、金谷、大井川、島田と広がる景色がある、その先の山の上に真っ白な富士山が見えていた。見晴らしがよくて、ここの墓地に入る仏さんはさぞかし気持が良いだろうと思った。

それより下ったところに、もう一ヶ寺、古い甍が見えた。墓地の間を降りて、お寺の正面に回ると、医王寺とあった。いつも旧国道を通るときに、お寺があることは承知していたし、金谷で医王寺は有名なお寺である。しかし、医王寺がこのお寺だったとは知らなかった。医王寺の薬師堂の天井には、渡辺崋山の十哲の一人、金谷に住んでいた永村茜山の手になる龍の絵があって、県指定の文化財になっている。絵は知っているが、実物はまだ見たことがない。日を改めてじっくり見せてもらおうと思った。

この後、北へ伸びる西原のふもとを、曲がりくねって進む里道を歩いて、自宅へ帰った。この道も通して歩くのは初めてである。車で帰るときはもっと東側の広い真っ直ぐな道を通る。
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トレーニングの足も自然お寺に向く

(竜泉院の丸坊主のイチョウ)

暖かくなって、快晴の今日、歩くトレーニングに出た。10時半を回ってから出て、家に帰ったのは午後3時であった。結果を先に書けば、時間が4時間半弱、歩数が24,132歩、推定距離で15kmほど歩いた。計算すると、歩幅は62cmとなる。自分の歩幅からすると、うろうろ距離など、もう少し歩いたかもしれない。出発前に足を痛めては計画が狂うから、無理をしないように、そこまでで止めた。

行く先を定めないで出るのはよくあることだが、今日も島田方面としか、歩くコースは決めていなかった。国一バイパスの橋を渡り、大井川左岸の土手に降りて、何輪か開き始めた桜を追って、水神社へ寄る。石段下でおばあさんが軽い屈伸運動をしていた。目を合わすと、何時になったら直すのかねぇと、左側の倒壊した石灯籠を示した。「ほんとだねぇ」とは答えたが、心の中では、自分は関係者じゃ無ぇと毒づいていた。

右の石灯籠は無事に残っているが、左は台座だけ残して倒壊していた。去年、確か5弱の地震があったときに倒れたものであろうか。側らのお堂の裏に石灯籠の部品が転がっていた。竿の部分に刻まれた文字によると「紀元二千五百三十五年 明治八亥年三月廿八日 謹奉献」と読める。この修理は地区の宮総代が資金を集めて修理するしかないだろう。

この会話がきっかけで、この先、島田市街の北側、山の下の里道を歩いて、点々とあるお寺を巡ってみようと、歩くコースが何となく見えてきた。

さっそく、竜泉院という、無住らしいお寺があった。丸坊主にされたイチョウの木が面白い。乳のような気根が下がり始めていて、かなりの樹齢と思われる。近年、頭を丸めない坊主を良く見るだけに、このイチョウの丸坊主は何とも健気に見える。

伊太の入口の左手高台に、お寺がある。よく車で見て通るけれども、立寄ったことはない。慶福寺という。出てきた女性に声を掛けた。お寺の名前を聞き、由緒あるお寺なのかときくと、「いえいえ、大したお寺ではなくて、旗指の静居寺の末寺です」という。本堂の扁額に、「月枩山」とあった。古文書をやっているから「枩」は「松」の異体字だと分かるから、「げっしょうざんと言うんですね」と確認した。嫌な性格である。

禅寺の山門前には、ニンニクと酒は寺内に入れることを禁じる旨の石碑が建っている。「葷酒山門入るを許さず」は、10代のころ、漱石の「草枕」で知った。この表現がけっこう色々ある。

慶福寺は「本門禁葷酒」、この後訪れた、康泰寺は「葷酒不入山門」、静居寺は「山門禁葷酒」と末寺の慶福寺に似ている。さらに続いて、法憧寺は「不許葷酒入門」と、「草枕」に近い。なかなか同じ文句には出会わなかった。この戒律はどこまで守られているのだろう。「般若湯」なら問題ない、山門の外ならよい、などと理屈をつけて、けれどもこだわりを持っている坊さんなら、まだ尊敬できる。(つづく)
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班長を新班長へ引き継ぐ

(毎年、クロッカスの鉢の真ん中に遅れて咲く紫のヒヤシンス)

昨日、お遍路のタイムスケジュールを完成させて、今朝から、女房からうるさく言われていた、組の班長を新班長へ引き継ぐ作業を行なった。と言っても、それほど仰山な仕事ではない。

第1に、一年間に回覧した資料を、参考資料として一冊にまとめること。これは女房がほとんどやってあって、表紙を付けるだけであった。第2に、班長会の資料を一冊にまとめること。一年12回の班長会の報告書は毎回作って、回覧してあったので、それを基に、資料を添付してファイルにまとめた。第3に、班員34名の色々な場面で必要になる最新名簿をプリントして準備した。これはパソコンが出来ない新班長さんの便宜を計ったものである。第4に、班長として一年やってきて気付いたことを、女房がまとめていたので、それに何項目か付け加えて、引き継ぎ事項としてパソコンで作成し、必要資料を添付した。

準備が出来て、夕方、女房がそれらの資料を持って、隣の新班長さんへ説明しに行った。1時間ほど掛かって帰ってきて、一年の大任を果たし肩の荷が降りたといった晴れ晴れとした顔をして話した。

時代が勝手に進んで、町内会の資料ですら、もう手書きのものがほとんど無くなり、パソコンで打ってコピーしたものに移行してしまった。ところが、我々の年代では、パソコンを使える人がまだ少数派である。先日の班長の慰労会でも、自分より一回りも上の区長さんは、パソコンが使えないので、皆んな孫に頼んだと話していた。資料に間違いが多かったのも、そんな理由があったのだろうと思った。

新班長さんも自分より少し若い程度だが、夫婦してパソコンが使えなくて、2世帯住宅で同居の嫁さんに頼むのだが、仕事が忙しくて、なかなか頼みにくいという。先日打ってもらった資料に間違いを見つけて、嫁さんに言うのを迷ったが、話すと何のことはなく、すぐに直してくれた。嫁いだ娘に頼めないかと話すと、亭主のお義父さんがやはり町内会の仕事で、パソコン打ちの仕事がちょくちょく回ってくると言われ、何処も同じだと笑ったという。

新班長さんには前年の資料がパソコンに取ってあるから、それを直すだけなら時間は掛からない。言ってくれれば打つよ、と話してある。当方は暇は残念なことにたくさんある。

手書きでも何も問題ないはずであるが、時代の方が進んでしまって、辛い立場に立っている同年代が多いことを、今さらのように感じる。パソコンの使えないことを逆手に取って、共通の話題が少ない子や孫との、コミュニケーションのチャンスととらえれば、悪くないと思うのであるが。

とにかく、班長としての仕事は、残すところ、月末の班の常会だけとなった。
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タイムスケジュールをすべて入れた

(大代川のカラシナの花)

とうとう、お遍路計画にタイムスケジュールをすべて入れてしまった。歩行距離を中心に計画を作ったまではよかったが、本当にその通りに歩けるのか、少し検討するつもりが、歩行距離だけで計画を作っていると、とんでもないことが起きると判った。だから、やり始めた。

前回のお遍路は出たとこ勝負で気楽であった。2度目はハードルを上げた。出たとこ勝負ではとても目標達成できないと思い、歩行距離を主として計画を作った。歩行距離1500kmに近い、55泊の計画が出来た。時間を当てはめてみると、こんな杜撰な計画ではすぐに挫折してしまうと感じ、微調整を行いながら、時間を当てはめていった。

その作業を進めているうちに、だんだんと腹が立ってきた。時間を入れていく間に、夜に近くなって宿に入ることが度々生じ、その分、途中の余裕時間を縮める作業になってしまった。もともと、今回のお遍路は、時間に余裕をもって、人との出会いを大切に巡るお遍路と意味づけていた。それなのに、時間に余裕をなくしては本末転倒になると思った。

特に伊予、讃岐に入ると、回るお寺が急に増え、山中に入って行くと、山登りが毎日のように出てくる。歩行距離で追っているとお寺で過ごす時間や、山登りに費やされる時間が、どうしても十分に取れていないのである。そこで、後半は日程まで含めて計画を練り直した。結果、55泊は57泊と2泊増えることになった。けれども、その分余裕が出来て、ほぼ満足できるタイムスケジュールになったと思う。

八十八ヶ所プラス番外20ヶ寺、ほかに「四国遍路ひとり歩き同行二人」に霊場として載せられている127ヶ所を回ることを目標にしてきたが、数えてみると、その他の霊場の内、18ヶ所はどうしても計画に取り込めなかった。88プラス20にチャレンジする人はたくさんいるけれども、その参考になる書物は見たことがない。このお遍路を紹介すれば良い参考になると思う。

今回のお遍路で、コース取りに当たって、自分ながら納得のコースと、自画自賛している部分がいくつかある。

  ① 番外3番の滋眼寺で穴禅定の体験のコース取り
  ② 三十八番金剛福寺をピストンしないで、西へ進んで三十九番延光寺へ至るコース
  ③ お遍路の通常コースから上手く都合をつけて、石鎚山へ登るコース
  ④ 最後の難関、番外20番の大瀧寺を登るコース

いずれも、詳しくは、実際に歩いた結果でもって、ブログに書くことになる。明日からは携帯品の準備に入ろうと思う。
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ムサシの尿回収装置

(ムサシの尿回収装置)

ムサシも、この4月2日で10歳、人間で言えば中高年の部類に入るのであろう。当然、犬であっても成人病にならないわけはない。昔の飼犬ならば成人病になる前に、ヒラリアなどで亡くなっていた。しかし、最近は愛犬の医療も進んで、ヒラリアなどの予防も進み、概して飼犬は長生きになってきた。だから当然成人病も出るわけである。ムサシも年1回は血液検査などを行ってもらっている。今までのところさしたる問題も無く推移していた。

ところが、一日二日前から、ムサシの腹部に膨らんだ部分が2ヶ所ほどあると女房が騒ぎ出した。ムサシは自分の腹部などは女房にしかは触らせない。他の人が手を出そうものなら噛み付きかねない。だから自分で確かめたわけではない。そういえばムサシは最近体重が減っていると、女房は、当然、ガンなど最悪のことを考える。それで、月曜日の今日、午後の診察を予約して、動物病院に出かけることになった。

午前中は検査のための便や尿などの準備で右往左往している。ムサシは尿と便は散歩に出ないとしない癖がついている。検査のために必要だといっても、コップに取らせてくれるはずがない。便はいつも散歩で新聞紙で受けて回収しているから、容易く準備できたが、困ったのは尿である。散歩しながらあちこちに少しずつ引っ掛けるので、それを回収は無理である。そこで女房がない智恵をしぼって考案した愛犬用尿回収装置が写真のものである。大きいペットボトルを中間で切って器を作り、それに野菜などに使う支柱を取り付けたもので、散歩させながら足を上げるタイミングで回収装置を差し出す。何ともユーモラスな散歩になるが、それを使って、尿回収に見事成功したと報告があった。

さて、ムサシの診断であるが、皮下に溜まった脂肪の塊りだとのこと。痛みもなく、別に心配することではないようで、余り大きくなるようなら取除くことが出来るという。注射針で吸引したら、どろどろした脂肪が出てきたという。それならば安心である。人でも皮膚の下によく溜まることがあって、目立つようなら手術して取り出してもらう。

それで、本日の診断に掛かった費用であるが、保険が使えないから、実費で、15,900円かかった。中身を少しのぞいて見てみると、血液検査7,350円、尿検査2,630円、皮下腫瘤の針吸引生検2,600円などが主な項目であった。高いというのか、安いというのか。何にしても高い安心料となった。
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歩行距離が分かると時間が気になる

(昨年頂いたクリスマスローズ)

お遍路のおよそのコースと距離は決めた。そうなると、次にその距離を歩けるかどうか検証したくなった。前回はすべてが初めてのことで、何も分からず、計画も無しにスタートした。2度目は経験があるだけに、色々なことが気になる。

歩行距離が30km、平均4kmで7時間半、朝7時に歩き始めれば午後2時半には宿に着く計算になる。何となく楽勝に思えるが、札所ごとに勤行を行い、朱印をもらう時間が必要である。1ケ所に30分として、一日に4ヶ所の札所を巡るとすれば、それで2時間は余分にかかる。宿に入るのは一気に午後4時半になる。

海抜300メートルの山や峠を越えるとなれば、距離は短くても、それぞれ1時間はかかる計算をしておかねばならない。宿へ入る時間はさらに遅れる。日は徐々に長くなるとはいえ、遅く宿に入ると翌日に疲れが残る。時間をはめていくと、あちこちに齟齬が生じ、微調整が必要になる。

生きていくために必要なこと、宿、食堂、コンビニ、トイレ、ピストンするときは荷を預ける所、気付くとチェックして置きたくなる。毎日々々の宿へ入る時間を計算していくと、午後4時から5時台と、最初のお遍路より遅くなる計算になった。

1時間の歩行距離は4kmと想定して、例えば1キロならば15分、2kmなら30分と計算する。1.8kmならどう計算するのかと考えて、次の数式を考えた。

   (歩行キロ数+歩行キロ数の1/2)×10

これなら暗算で出来る。1.8kmの場合は18分プラス9分で27分かかる計算になる。これを5分単位に丸めて使うことにした。この場合は25分。時間4kmはスピードに余裕がある。1回目のとき、平均すると、時間4.2kmほど歩いていた。

そんな計算をしながら、計画の微調整をしていて、大変なことを思い出した。19番札所の鶴林寺に登る前に、8kmほど山の中に入り、慈眼寺というお寺に参る。慈眼寺は番外の3番目のお寺になる。見所は「穴禅定」と「灌頂の滝」と深く考えないで計画を作った。半日ほど時間を取って参詣する計画だった。前回のお遍路で、あるお遍路さんの話を思い出した。「穴禅定」の修行は是非一度体験されるとよいという言葉である。早速ネットで調べてみると、「穴禅定」はロウソクを持って狭い鍾乳洞を巡る修行で、早くても1時間半、団体で入ると3時間もかかってしまうという。一方、「灌頂の滝」は午前中早く行くと、お天気が良いと虹がかかって素晴らしいと書かれていた。ここでその体験を外したのでは詣でた意味がない。

早速、その前後の計画を立て直した。慈眼寺のすぐふもとの村に宿泊して、朝早く「灌頂の滝」を拝み、天気が良ければ虹を見る。お昼をかけて「穴禅定」の行に参加し、夕方までに翌日に備えて鶴林寺のふもとの宿に入る。そんな風に計画変更した。その結果、計画が一日延びることになった。
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班長会慰労会の席で

(庭の隅でレンギョウの花が咲いていた-
狭い所で毎年切り刻まれて自由に咲くことが出来ない)

一年間、うちの班の回り番の班長を勤めた。一年は大変だと思ったけれども、地方選挙もなく、祭り当番もなく、平穏に過ぎた1年であった。不満を言えば切りがないが、そんなところで納得してもらうより仕方がない。

東日本大震災でまるまる一年間、日本中大騒ぎであったけれども、その波が当班まで及ぶことも無く、島田市が引き受けた瓦礫焼却問題もほぼ片が付き、島田市は全国に名を上げた。それも当班とは無関係なことであった。防災には御近所も力を入れなくてはならないとは、つくづく感じさせられたが、海辺に近い地域ならともかく、それがすぐに行動になるほどのこともなかった。

とかく人間関係ほど難しいものはなく、当班でも色々あったが、そんな事は取り立てて言うことではなく、近所付き合いの中では多少なりともありがちなことで、早急に白黒付けても解決したことにはならない。さっぱりとお茶に濁して、次の班長さんに送ろう。

夜、班長会の慰労会があった。慰労会と言っても、班長への慰労金が出て、そこからいくがしか出して宴会を催したもので、慰労金プラス慰労会という訳ではない。

料理を前にして、自治会長の報告があった。毎月末の班長会では、自治会長からの報告の中に、市長の話という項目がある。班長会はどこかの会議と同じで議事録が出ないため、班長として班の皆さんに伝達するために、独自に議事録を作り、毎月回覧報告してきた。その最後に記録することになる、今回の市長の話は、新年度の予算に関わる話であった。

合併後に、旧金谷町が継子扱いされているという、旧金谷町民の思いを察してか、来年度はいよいよ金谷が中心の年になると発言があった。その理由として、予算を付けた事業を並べて説明があった。

1.金谷地区が取り残されている、光ファイバー事業へ1億円(補助金)。
2.金谷牧之原の「お茶の郷」の改修に3億円。
3.金谷の新堀川改修に4億円。
4.JR金谷駅全面改修に1/3の負担。国が1/3、JRが1/3をそれぞれ負担。靜岡空港へのアクセスは金谷駅からに変える。直行バス便を走らせる。
5.新東名開通に伴い、国道473号バイパスを空港入口から国1へ繋ぐ延長工事。
6.国1バイパスを4車線化して、新東名金谷インターとのアクセスをスムースにする工事。
7.瓦礫処理で風評被害が心配される茶業界に対して、1500万円出して、時期に新聞に大きく安全広告を出す。

この内、5と6は国交省の事業である。来年度、この内どこまで実現するのだろう。ウォッチして行きたい。

慰労会は2時間ほどで終わった。
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2度目のお遍路計画を作り直す

(S氏に苗を頂いたビオラが咲き溢れている)

一年ほど前に、2度目のお遍路に出るならば、こんなコースにしたいと考え、おおよその計画は作ってあった。今日、その計画をもう一度洗いなおした。1度目のお遍路は恐いもの知らずに、計画もロクに立てずに出かけた。それはそれで面白かった。2度目になると、色々な知識が付いて、ある程度は計画を立てて置く方がよいと思った。

2度目は、八十八ヶ所の札所に加えて、番外と呼ばれる20ヶ所の霊場を踏破する。もともと八十八ヶ所の選に漏れた理由に、コースから外れた辺鄙なところで、一般の遍路には向かないお寺もいくつか入っている。だからコース取りが難しい。あてずっぽうで行けば、野宿を覚悟しなければならない。それを避けるために計画をしっかりと作ろうと思った。

計画を作る上で注意したのは、全体に1度目よりもゆったりと計画を作ったこと。特に歩き始めの何日かは一日に歩く距離を極力減らした。

途中にどうしても入れたいと思ったのは、四国の最高峰、石鎚山の登頂である。標高1970メートルで、中部山岳では並の標高である。それを途中一泊して登るのだから、それほど大変というわけではないが、天候が悪ければパスすることになる。石鎚山は修験道の山で、山頂には石鎚神社があって、お遍路に縁がないわけではない。60番の横峰寺を越えて登り、64番の前神寺へ降りてくる。両寺ともに石鎚山を展望するお寺と言われている。特に、前神寺の奥之院は石鎚山登山コースの途中にあって、そこまではロープウェイも付いている。この前後のコース設定にはかなり苦労した。

コース取りを大きく変えたのは、1度目は足摺岬の金剛福寺へ同じ道をピストンしたが、今回は西側の海岸を進み、月山神社を経て延光寺に至る道を選択した。

コースを作ってみて楽しみにしているところがある。立江寺から鶴林寺へ登る前に、星の岩屋、仏陀石、灌頂の滝などの何やら床しき霊場を回る辺り。高知では桂浜に寄るつもりで計画に入れた。往復6キロ、2時間ほどの遊び時間である。道後温泉の安宿を取って、本館の温泉に入る計画も入れた。金毘羅さんにもお参りして、有名な満濃池もコースに入っている。弘法大師ゆかりの霊場、舎心ヶ嶽、捨身ヶ嶽禅定もどんなところかわくわくする。

最も迷ったのは終わり方である。番外の最後、20番目の大瀧寺は八十八番の大窪寺よりもう一つ奥の、標高910メートルの山頂に有って、一日で登って下りるのはなかなか厳しい。当初は大窪寺の後に登って、降りたところで終わりバスに乗ろうと考えたが、終わりは1番の霊山寺まで戻りたいと考えた。それで四国を一周回ることになる。結果、長尾寺から、先に大瀧寺に登り、その後、大窪寺を終えてから、霊山寺へ戻るコースにしようと考えた。

以上、八十八ヶ所の霊場、20ヶ所の番外霊場、その他お参りする所縁の地や神社仏閣、すべて合わせると232ヶ所にもなる。総歩行距離数1483.5キロメートル、55泊のお遍路で、自分としては空前絶後の大旅となる。
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お遍路モードに徐々に切り替わる

(今年も紫木蓮が咲いた)

十日ほど前、思わぬ連絡が鹿児島からやってきた。鹿児島の銀行口座にお金が残っているけれどもどうしますかという。忘れていた。昨年の秋に関与を終えた鹿児島の会社から、月々わずかずつながら、地元の銀行の自分名義の口座にお金が振り込まれていた。聞けば、その残額はお遍路の旅費にお釣りが出るほどの金額になっていた。カードも作っていながら、何年か払い出すのを忘れていた。

その預金口座から、今日、郵便局の貯金口座へ移し変えた。これで最重要と考えていた旅の資金が準備できた。一気にお遍路モードに切り替わった気分である。

昨日は、もう一つ気になっていた、現地から、パソコンでブログ更新方法する手段について、一気に解決した。今までの「b-mobile3G」が期限切れになっていたので、昨日お店に更新に行ったところ、色々あって、結局NTTdocomoの「データ通信専用機種L-02C」を新たに購入することになった。NTTdocomoのケイタイが使える場所であれば、通信できるのは、前と同じである。

契約して2ヶ月少しでも使った実績がチェックできると、4万円のJCBの商品券をくれるという。2年契約になっているが、3~6月まで使って、そこで解約すると違約金が25千円ほど掛かるが、商品券を計算にいれると、持ち出しは5千円位で終わりそうである。解約しないと、月々基本料金が1600円位かかる。但し、2年使えば解約金は不要になる。どうするかは、帰ってきてから考えることにして、実に3時間ほどかかって契約して戻った。帰宅後、設定を終え、その環境でブログ更新が出来ることを確認できた。

今日、もう一つ手続きした。JR東海のジパング倶楽部への入会手続きである。夫婦ともに60歳以上で、どちらかが65歳以上という条件が整うと入会資格が出来、年会費二人で6120円払い、営業距離数200km以上乗れば、最大3割引のサービスが受けられる制度である。入会資格はしばらく前に生じたけれども、ここまで手続きをしないでいた。今回の出発に会員証が届くかどうか、微妙なところである。

図書館で借りていた本は、今日ですべてを返却してきた。もう一冊、3ヶ月ほど前に予約をしていて、ようやく順番が回ってきそうな本が一冊残っている。その本が来れば読んで出たいと思うけれども、あまりギリギリになる様ならキャンセルしなくてはならない。

靴はすでに2足購入してあるし、歩く訓練も足に違和感が無くなったら、来週ぐらいにもう少しして置きたい。装具類は前回準備したものがそのまま残っていて、基本的にはそれが使えるが、来週には新しく買うものなどをチェックしたいと思う。そして、後はXデイを何時にするかである。
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