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水掛地蔵、99小菊堂、手無地蔵 - 駿河百地蔵巡り 15回目

(水掛地蔵)

(昨日の続き)
次の水掛地蔵として、事前調査で地図にポイントしたのは、伊豆箱根鉄道、三島田町駅の南、100メートルほどのところであった。そこまで行ってみるが、お地蔵さんらしきものはない。地元の人を呼び止めて訪ねていると、たちまち3人ばかりが立ち止まって、25000分の1地図を中にして、首をひねり出した。所在地が南本町というと、それなら300メートルほど西だと教えてくれた。電柱に南本町の表示を見つけて、水掛地蔵を探したが、見つからない。再び、散歩の老人を呼び止めて聞いた。首をひねっていたが、そこの食堂の前にあるお地蔵さんのことだろうと、教えてくれた。

半信半疑で行ってみると、小さなお地蔵さんがあった。胴体の割に顔が大きな、今風のお地蔵さんである。脇に「水掛地蔵」の立て札があった。そばに竹筒から一筋の水が落ち、その水を柄杓で掛ければ願いごとが叶うという事らしい。この地蔵、後で調べると「佐野美術館」とあり、そこは佐野美術館の前であった。はじめからそれを知っておれば、途中に幾つも標識があって、最短距離で導かれたはずであった。三島は町中に富士山の湧き水があちこちに湧き出していて、水掛地蔵とは、いかにも三島らしいお地蔵さんである。


(小菊堂)

第九十九番小菊堂は、三嶋大社の鳥居前から真っ直ぐに南下する、県道141号線を500メートルほど行った左側にあった。朱色の屋根の地蔵堂である。立て看板に「駿河一国百地蔵尊第九十九番 言成地蔵尊(小菊堂)」と書かれていた。

小菊堂(言成地蔵尊)の由来を書いた案内板があった。貞享四年(1687)、小菊という6歳の娘が、播州明石城主松平若狭守直明の行列の供先を、向側の母親の元へ行こうとして横切った。当時、大名行列を横切れば切り捨てられても仕方がなかった。役人は「犬だ、捨ておけ」と言ったが、供先下役人が小菊を捕らえ、短気な二十五歳の大名は怒って切り捨てるように言った。

三島宿は大騒動となり、町名主、問屋場、本陣、さらには玉沢妙法華寺二十四代日迅上人まで出て、命乞いをしたが、聞き入れられず、小菊は切り殺された。小菊の父源内は娘の仇を討つため、箱根山中、塚原新田で行列を待ち受け、鉄砲で打ったが、察知されて空駕籠だったたね、無念が晴らせなかった。小菊のあわれな死を悼み、里人は地蔵尊を祀り、大名の言い成りに斬られたところから、言成地蔵尊と名付けた。

行列を横切っても、相手が子供で悪意が無ければ、犬だから咎めるに足らないと、事を荒立てないのが、当時でも大人の対応であった。馬鹿な大名の下で、めったに起きないことが起きてしまった。立派な小菊堂は庶民の痛烈な批判であったはずだが、江戸時代を通じて咎められることもなく、現代まで残った。供先を過ぎる事件としては、幕末の生麦事件を思い出す。


(手無地蔵)

次の手無地蔵は、伊豆箱根鉄道に沿って、さらに2キロほど南下した県道端にあった。空腹を抱えていたので、お参りの前に、地蔵堂の縁側に腰を下し、途中のコンビニで求めたサンドイッチを食べた。

手無地蔵に付いても、謂れが立て札に記されていた。焼けて荒廃した神社跡に地蔵堂が建った。そのそばにあった石地蔵は、よく化けては人を驚かせていた。ある時、いつものように化けて、若侍の髪を引いたら、逆にその若侍に左手を切り落とされてしまった。それで手無地蔵と呼ばれるようになったという。なお、その若侍は源頼朝だという言い伝えもある。そういえば、この辺りは若き日の頼朝が育った地域である。立て札には記されていないが、その左手の欠けた石地蔵がこの地蔵堂に祀られているのであろう。(つづく)
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木町観音堂、96蓮馨寺 - 駿河百地蔵巡り 15回目

(黄瀬川から見る富士山)

昨日、ブログを書く段になって、全く材料がないことに気付いた。ないと思っていても何かしら出てくるもので、そのことには自信があったけれども、昨夜は頭が真っ白のままであった。暮れから1月と寒さが増して、フットワークが悪くなっていた。だから材料も底を付いたのである。その反省から、今日は寒さも緩むというニュースに、地蔵巡りに出かけることにした。一ヶ月ぶりである。

駿河一国百地蔵を中心にした地蔵巡りの旅も、15回の今日で、一応の区切りとなる。引き続き、「しずおか百地蔵」(靜岡リビング新聞社刊)を元に落穂拾いをしながら、もう一回りする予定である。これは、西は藤枝から東は清水までに地域が限定されている。このエリアは自分の見るところ、地蔵信仰の厚いところで、その分、地域に密着したお地蔵さんがまだまだたくさんある。

いつものように、朝7時半には電車に乗ったけれども、今日のスタートの沼津駅に着いたのは9時を回っていた。ずいぶんと遠くまで来たものである。花粉が飛び始めているだろうという判断から、花粉対策の眼鏡を掛けた。花粉は防げるが度が入っていない分、見える世界が少しぼやけている。気持もややぼやけて、一日ふわふわと雲の中を歩いているような気分であった。

沼津駅のスタートだが、今日のターゲットはすべて三島市のお地蔵さんである。三島市に入るまで、ほぼ旧東海道に沿った道を歩いた。かつて東海道歩きで2度歩いているから、記憶に残る旧跡が次々に出てくる。

 
(潮音禅寺の地蔵尊)

黄瀬川の手前はまだ沼津市である。左手に潮音禅寺がある。街道の三大美女の一人、遊女亀鶴の碑が残るお寺で知られる。境内に立寄ると、小さな祠に石の地蔵尊が祀られていた。どんないわれが残るお地蔵さんなのか知れないが、番外の地蔵尊として数えよう。

黄瀬川に架かる橋が架け替え工事に入っていた。古い橋は撤去され、歩行者のために仮橋が架かっていた。黄瀬川を越えると、柿田川湧水で有名な清水町である。黄瀬川の橋のたもとでお地蔵さんを見たような記憶があった。この工事の様子では、どこかへ移されたのだろうと、土手を下って行くと、左手の智方神社の鳥居脇に、新しいコンクリートの台が出来て、8体の石仏や石碑が並んでいた。

案内札が立ち、「川施餓鬼地蔵尊像」の標題の下に「1馬頭観音、2庚申塔、3馬頭観音、4馬頭観音、5正観世音菩薩塔、6観音像、7石仏、8蛇塚」とそれぞれの案内があった。「川施餓鬼地蔵尊像」とうたいながら、地蔵尊像が無かった。地蔵尊像が無ければ、番外としても数えられない。


(木町観音堂の言成地蔵)

対面石の八幡神社、伏見の一里塚を見て、千貫樋が交差する境川を跨ぐと、清水町から三島市に入る。木町(西本町)に入って、木町観音堂の場所を聞くと、手前の角を北へ折れた先にあるという。木町観音堂は立派なお堂であった。境内入口左に小さいお堂の言成地蔵が安置されていた。格子の中に石の地蔵座像が見えた。


(蓮馨寺本堂)

伊豆箱根鉄道、三島広小路駅脇の踏み切りを渡ると、左手に第九十六番蓮馨寺がある。階段を上がった上層の本堂に「駿河一国百地蔵尊第九十六番」の板が貼られていた。御本尊阿弥陀如来の隣りの厨子の中に、日限地蔵尊(別名約束地蔵)が安置されているという。「約束地蔵」とよばれるのは、その縁日に男女が逢引きの約束をしたという話からである。(つづく)
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「空間除菌ブロッカー」と円安誘導

(空間除菌ブロッカー)

夕方、調剤薬局に勤めている義弟の嫁さんから、「空間除菌ブロッカー」なる商品を頂いた。身分証明書と同じように、ストラップに付けて首からぶら下げていると、インフルエンザの予防になるという。薬局の人が使っていて、今のところ効果がありそうだと話す。

説明を読むと、中に固形化された二酸化塩素が入っていて、少しずつ蒸発し周囲に漂って、インフルエンザウィルスなどを除菌するという。飲料水の塩素殺菌と同様の作用なのだろう。風の強い屋外では効果がなく、屋内、室内、車内での使用に効果があると書かれている。塩素だから時に刺激臭を感じることもあるらしい。通常、液体で使用される二酸化塩素を固形化できるようになって開発された商品のようだ。除菌、防カビ、消臭などに効果があるが、花粉症には効かない。封を切ってから1ヶ月効果があるというから、シーズンには有効かもしれない。なお、この商品は医薬品ではなく、雑貨であるという。

色々な商品が出てくるものである。説明を聞くと、何となく効果がありそうな気がしてくる。使って見ても良いかと思うが、実は自分は生れてこの方、インフルエンザに罹ったという確たる記憶がない。風邪は年に1、2回罹っていたが、医者に行くこともなく治っている。この二、三年はその風邪すら引かなくなった。最近は人ごみに出ることもほとんどなく、インフルエンザの予防注射も受けたことがない。したがって、自分で使って、インフルエンザに罹らなかったとしても、効果を試したことにならない。「ムシコナーズ」を付けているようで、抵抗感はあるが、せっかく頂いたから、どこかで使ってみようと思う。

   *    *    *    *    *    *    *

円安が急速に進んでいる。長い間、デフレが続く日本の通貨、円がどうしてこんなに高いのか。どうにも理解できずにいたけれども、最近、遅ればせながら理解したのは、通貨も他の商品と一緒で、需要と供給の関係で価格が決まる、市場原理の中にあるという、極々当り前のことであった。

日本銀行はバブルの教訓から、通貨の供給量を増やすことに及び腰であった。リーマンショック以来、他国が競うように通貨発行量を増やす中、日本でも枠は広げていたが、通貨発行量は他国に遅れを取ってきた。これが1ドル130円であったものが、70円台と倍近くに値上がりした主原因であったようだ。比較的安全と見られた円に目が向いたとき、通貨の量が少ないから、円は実力以上に値上りしてしまうのである。これでは日本の輸出メーカーが軒並み成績不振になるのは当然といえる。

日本が円の発行量を増やし、円の低め誘導をしているという批判がドイツの首相などから出ているようだが、低め誘導は今まで日本以外の各国が競ってやってきたことで、何を今さらと言いたくなる。これで何とか100円台まで戻せば、日本の貿易も活気付くと思うのだが。
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鳥のうんちはどうして白いの?

(この冬一番の寒さの大代川)

4歳のまーくんは最近いろんなことに興味を持って、ママをなぜなぜ攻撃で悩ましているという。暮れであったか、年頭であったか、聞いた話に、「どうして鳥のウンチは白いの」という質問があった。66年生きてきた自分でさえ、そんな疑問を感じたことがなかった。子供の目は素晴らしい。ママは「♪白い実を食べた」では返事にならないし、困ってしまい、こんなとき、親のセリフは「分からないことは先生に聞きなさい」であるが、そういうママも元保母さんだから、こんな質問をされたら困ると分かっている。

ところで、この保母さんは、現在は男女ともに保育士が正式の呼称である。看護婦さんは看護師と呼ぶようになった。看護士と呼ばないのは「士」には「さむらい」の意味があって、女性を看護士と呼ぶのはおかしいという理由があった。保育士だって、同じ理由で、保育師と呼ぶべきであろう。お役人のやることは、何とも場当たり的で、空きだらけである。

地方公務員の退職金が下げられて、3月まで勤めると大損をするからと、1ヶ月、2ヶ月を残して、中途で退職する職員が続発して、現場で混乱を起こしていると、報道されていた。中でも教員が1月や2月で中途退職すれば、学級担任など、混乱が生徒たちにまで及ぶ。民間に比べて高止まりしている公務員の給料や退職金などを、民間レベルまで下げようという政策であるが、切り換え時期を上手にやらなければ混乱が起きることは当り前で、制度設計者に、制度変更によって起きるであろう混乱を、予測する想像力が欠如していたといわなければならない。自分も企業の中でそんな制度変更を実施して来たが、成案を得るまでに、何度も何度もシュミレーションして、矛盾が生じないか、検討を積み重ねてきたことを思い出す。これも、お役人の場当たり的、空きだらけの政策の結果である。

NHK深夜の「生サダ」という月一回の番組を時々見ている。さだまさしが視聴者のハガキを読むトーク番組であるが、落研(おちけん)出身のさだまさしのトークは抜群に面白い。その話術には脱帽である。その中で出た話を一つ。

雄牛はブル、雌牛はカウ、それでは「こうし」は英語で何という。答えは「チェック」と明かして、何の説明もなしに、話が先へ進んだ。頭に子牛を思い浮かべて、リットル何とか‥‥‥、子牛は雄と雌は呼び方が違うのだろうかなどと考えている視聴者は置き去りにされた。自分も番組終了後、布団に入ってからも考えて、「子牛」ではないと気付き、講師、孔子、公私、行使、公使など思い浮かべるが、「チェック」が分からない。そしてようやく「格子」にたどり着くまで、寝床についてから10分ほど掛った。正しくは「チェック」は格子縞の模様のことで、建具の格子ではないはずだが。ともあれ、こういうのを「考え落ち」という。

ずいぶん脱線してきたが、問題は、鳥の糞はなぜ白いかであった。ネットは全く便利である。たちどころに答えが出てきた。鳥は身体を軽く保つ必要から、溜めないで、糞(うんち)と尿(おしっこ)を一緒に排出する。尿に混ざった尿酸の結晶は白くて水に溶けないので、糞と尿の混ざった全体が白く見えるというわけである。尿酸が出来るメカニズムも説明されているが、4歳のまーくんにはまだ理解出来ないだろう。
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百姓が名主を訴えた その2(後) - 古文書に親しむ

(JR山陰線養父駅の旧機関庫-1月20日撮影)

一日、風が冷たく、北の空より中天まで雪雲が覆って、風花が散っていた。南は晴れて、この近辺が雪の境で、これより奥は積雪もあったのだろうと想像した。靜岡市では初雪だとのニュースも伝わってくる。

(昨日のつづき)
且つ、元右衛門儀は始終勘定致させ候えば、兼ねて実意の事は相心得候などと申し立て候えども、右、元右衛門儀は、勘定の場所へ携り、立ち合いは致し候えども、算筆などは一切不案内の者にて、諸帳面取調べの儀は、存じざる儀に存じ奉り候、なおまた、御免状の儀は、村方へ一向拝見も致させ申さず候、これにより、右両人勤め中の内、諸帳面勘定仕訳取り調べ候わば、右越石の儀、増減相分り申すべく候に付、何とぞ先き願い書の通り、両人勤め中の内、諸勘定取り調べ仰せ付けられ、下し置かれ候様、願い上げ奉り候
※ 算筆(さんひつ)- 算術と習字。計算をすることと文字を書くこと。

且つまた、当役清兵衛儀は、私ども先き願い書の通り、相手取り仕らず候えども、この度返答書の趣は、小前を相手取り、相手方より書き上げ奉り候に付、よんどころなく、両人一同の御請け書にて申し上げ奉り候

右は先だって、相手方より返答書差し上げ奉り候処、なおまた、銘々御請け書面にて、差し上げ申すべき様、仰せ渡され候に付、又候(またぞろ)添え書を以って、御請け申し上げ候処、相違御座なく候、且つ返答個条の内に、全く歎心より事起こり、謀計を以って事を巧み、両人を越度にいたし候段、甚だ心外の儀に候など、申し立て候趣、書き上げ候えども、私どもにおいては、右様の義は一切これ無く、相手方にて、ただ、事を拵え聞こえの宜しき様に、躰よく文言を差し加え、書き上げ奉り候段、甚だ以って残念至極に存じ奉り候
※ 歎心(たんしん)- 嘆かわしい気持
※ 越度(おちど)- 手落ち。あやまち。過失。


なおまた、山論中より以来、御上様へ御苦労相掛け奉り、漸く山論も事済みに相成り候処、間もなくこの度、かようの願い立て仕り候段、甚だ以って不宜の由を以って、御咎仰せ付けられ、恐れ入り奉り候御儀には御座候えども、打ち捨て置き候ては、往々(ゆくゆく)村方難渋仕り、行き立ても出来兼ね候ては、歎かわしく存じ奉り候に付、何とぞ御仁恵を以って、前書願の通り、仰せ付けられ下し置かれ候様、願い上げ奉り候、右、御聞き済まし成し下され置き候わば、小前一同相助かり、百姓相続き仕り、有り難き仕合わせ存じ奉り候、恐れながら、御慈悲と御意、幾重にも願い上げ奉り候、以上
 弘化四未年四月十八日
              御領分
                北沼上村
                  百姓  権七  ㊞
                  同   久蔵  ㊞
                  同   庄左衛門㊞
                  同   林右衛門㊞
                  同   文四郎 ㊞
                  組頭  伝蔵  ㊞
  宮ケ崎
   御役所
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百姓が名主を訴えた その2(中) - 古文書に親しむ

(カニバサボテンの花が咲く)

(昨日のつづき)
一 並木西ヶ谷、見取り畑の儀、郷地を私所持の場所と唱い、年々米壱斗ずつ取り来たり、村方へは差し出さざるなど申し立て候趣(百姓側の訴え)、この段、沼奥並木西ヶ谷、見取り畑の儀、元禄四年、御水帳にも弐拾壱歩にて、名請けは又左衛門に候えども、永久私先祖と覚えの所持畑に相違御座なく候の趣(名主側の反論)
 右、御請け申し上げ奉り候
※ 見取(みとり)- 江戸時代、やせた土地や開発後間もない新田などで収穫が不安定な場合、石高をつけずに、坪刈りをして納米高を決めたこと。
※ 郷地 - 村有地のようなものか。
※ 名請(なうけ)- 江戸時代、土地の所持者または耕作者として検地帳に登録されること。


元禄四年、御改めの節、善右衛門、見取り請けの儀は、諸所、五郎左衛門と名請けこれ有り候えども、右、又左衛門の名請けなど、心得がたき儀に付、申し争いの地所より下に、当村又左衛門の田地の地先、古畑五六荷かけ程、これ有り候、私ども心得には、右弐拾壱歩の儀は、多分、この古畑と相見え、相手方より申し上げ候には、不慥かなる書付など持ち出し、証拠がましき儀、申し立て候えども、この趣、書き上げ候えども、先祖より善右衛門、自分控えの持ち地に御座候わば、開発人より差し出し候証文に准(なぞ)らえ、見取り御年貢、毎年取り立て候はずはこれ無き儀、如何様に申し争い候ても、事相分らず候義に付、開発人、南沼上村甚左衛門儀、御呼び出し遊ばされ、御尋ね候わば、事明白に相分り申すべくと存じ奉り候に付、何とぞ右甚左衛門、御吟味成し下され置き候様、願い上げ奉り候(百姓側の反論)

一 名主勤め中、金三両ずつ、年々村方へ出金致し来たり候処、私ども両人は差し出さず、如何の取計い仕り候様申し立て候趣、この段、当村出作高の儀、二十五、六ヶ年までは、百弐拾石余もこれ有り候処、丹誠を尽し、当時七拾六石余に相成り候の趣(名主側の反論)
 右、御請け申し上げ奉り候
※ 出作(でさく)- 近世において、百姓が他村・他領に田地をもち、その村へ出かけて耕作すること。
※ 丹誠(たんせい)- 飾りけや偽りのない心。まごころ。誠意。丹心。赤心。


相手、善右衛門申し立て候、越石の儀は相違なく御座候えども、右、越石、村方へ相戻し候は、去る拾壱、弐ヶ年以前、米穀高直の時節を相除き、その後より当村四、五ヶ年、急に相減じ申す処、高壱石に付、米弐升ずつ取り来たり候とは申し上げ候えども、全て弐升には相定めず、かつまた名主給米の内、骨折りとして、差し加え置き候なども申し立て候えども、この儀は小前一統、相心得がたし、名主給米の儀は、古来先々の通り定り居り候処、当時差し加えの儀相分らず、甚だ以って不審なる処に存じ奉り候(百姓側の反論)
※ 越石(こしこく)- 江戸時代、知行割りの際に一村の村高では不足が生じたとき、隣村の村高から補う不足分のこと。
※ 給米(きゅうまい)- 給料として支給される米。江戸時代には、家臣団のうち小身者は、幕府、領主の米蔵から米を支給された。また、村役人等も役手当てとして米を受け取ることがあった。
(明日へつづく)
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百姓が名主を訴えた その2(前) - 古文書に親しむ

(暮れに頂いて植えた花の苗、早くもビオラの花が咲いた)

今月の「古文書に親しむ」講座は、法事が重なって出席できなかった。先月と今月、2ヶ月に渡り、一文書を解読したと聞いた。欠席の今月分も、ほぼ自分で解読出来ているから、以下へ読み下し文で示す。内要は「百姓が名主を訴えた」文書の第二弾で、訴状に対して、名主から反論が出て、その反論に対して答えたものである。名主、百姓、どちら側の言い分が書かれているのか、錯綜するので、部分部分でしっかり見極めないと、混乱するかもしれない。

   恐れながら書付をもって申し上げ奉り候
一 北沼上村小前百姓ども、惣代より先だって願い上げ奉り候処、相手方より返答書差し上げ候に付、御呼び出し、御吟味の上、返答書御読み聞かせ遊され、又候右請け書の儀、書面に認め、差し上げ奉るべく候様、仰せ渡され候に付、則ち、左に申し上げ奉り候
※ 又候(またぞろ)- 同じようなことがもう一度繰り返されるさま。あきれた気持ちや一種のおかしみを込めていう。またしても。またもや。

一 北沼上村小前惣代、申し上げ奉り候、長尾村治郎吉へ、善右衛門、一己の存じ寄りをもって、山論入用と名付け、出金致させ候趣、この段、長尾村治郎吉、地所の儀、同人昨午年、御年貢御上納筋に差し詰り、難渋の趣をもって、金子取り替えくれ候様の趣
 右御請け申し上げ奉り候
※ 一己(いっこ)- 自分一人。自分だけ。
※ 山論(さんろん)- 山野の境界・利用をめぐる村落間の争論。江戸時代に頻発し、耕地開発の進展による、山野を供給源とする刈り敷き・秣(まぐさ)などの肥料の不足から生じる場合が多い。


私どもより、長尾村次郎吉へ相掛け合い、委細聞き糺し候処、山論入用と当て付けられ候儀は、実正の処、金子相出来申さず候に付、これにより、金三両請け取りの地所、相返し候、もっとも買地証文紛失いたし候に付、新証文相認め、譲地にいたし相請けられ候旨、これを申し候、この段、先願書の通り、右地所、村方へ差し出させ候わば、請金の儀は、三両、村方にて差出し申すべく候様、願い上げ奉り候

一 山論一件入用取調帳、等閑(なおざり)にいたし、披見致させ候儀、これ無き趣、この段、山論入用差別なく捨て置き候様、申し上げ候えども、右出入りの儀、御上様へ御苦労掛け奉り、始終内論などもこれ有る趣、
 右、御請け申し上げ奉り候
※ 披見(ひけん)- 手紙や文書などを開いて見ること。

この儀は、先だって御呼び出し遊ばれ候節、申し上げ候通り、後日に勘定致しくれ候わば、小前一統、申し分御座なく候


このように、読み聞かせて貰った、名主の返答書を、一項目づつ、答える形式になっている。(つづく)
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六郷筋御成りの節、勤め方(3) - 駿河古文書会

(故郷の繁華街、豊岡市大開通り、先週土曜日)

(昨日の続き)六郷御成りもいよいよ復路に入る。

それより六郷へ参り付、御目付と張紙これ有り候町屋にて、御先へ参り居り候御徒目付へ、又兵衛、馬乗兼ね候に付、自分と代り合い参り居り候段、且つ、かれこれにて遅くなり候趣、御居船御固め、大原大次郎へも申し達し候様、申し遣わす。ほどなく御場懸り戸川藤十郎より御鳥見をもって申し越され候は、表向き御供宜しく候わば、申し聞けさせ候様申し来り、則ち御鳥見留め置き、御徒目付へ申し付け、諸向へ申し達し候処、宜しき旨、即刻御徒目付申し聞け候間、その段、御鳥見へ申し遣わす。又候、根本内膳より同様の趣、申し越し候に付、戸川藤十郎よりも申し来たり、宜しき段、只今申し遣わし候段、挨拶に及ぶ。
※ 御居船御固め - 係留した船に乗り、川筋の警備をする。
※ 御場(ごば)- 江戸時代、将軍家が鷹狩の場として用いた土地。


それより御上り場参り候処、大次郎、御固め上がられ、川端にて又兵衛と逢い、代り合い候訳、申し談じ、並び、御乗返しの節、心得方、馬に乗り居り候にて通御の節は、平伏致し候様、又兵衛、申し聞けられ候間、その心得にて候段、申し談じ候処、若し馬立ち居り候辺まで御歩行のほどは計り難く、その節、急々下馬致し混雑にても如何一躰の処も馬に附き居り候趣の懸け合い済に付、馬立ち候前、御乗馬にて通御の節、下に居り平伏仕り候分は苦しからず候間、その趣に心得、然るべき旨、申し聞けられ候間、その通り心得、表方早乗り御供の向へ御徒目付を以って申し達す。

それより御目付と張紙これ有り候、町屋にて休息致し居り候処、ほどなく御徒目付罷り越し、只今川端へ御着船の由、申し聞く、それより諸向へも申し達す。銘々馬に附くまま罷り在り、御上り場より直ちに御乗馬、銘々馬の前へ平伏、御通り相済み候て、直ちに乗り上り、御支配方御側衆跡より乗り出し、御小休まで早乗り御供相勤め候。

一 浜川御小休へ乗り附け候処、又兵衛、差引致され、御供立ち候て居り申し候、又兵衛へ逢い、六郷にて取り計い候趣、申し達す。又兵衛、申し聞けられ候は、御小休より還御の節、前条の通り御目見え済み候わば、直ちに引き下り、騎馬にて虎御門外まで御供仕り候様、申し聞けられ候に付、その通りに致す。還御の節、飯倉町にて御歩行に成らせられ、御支配方御側衆にも下馬致され候間、自分も下馬致す。段々欠け抜け、惣御供へも薮小路辺にて、近づき、御供致す。坂下より還御、浜御殿御成りなどの通り相替る儀これ無く候
※ 差引 - 差図すること

一 浜川に残り居り候、御供も中の和中散にて御賦頂戴相済み候わば、六郷まで参り候御規定に候えども、一躰道のりも遠く御早乗りの事ゆえ、その間には御乗り返しにも相成るべく候につき、差略の趣にて、御賦所より直ちに御小休へ引下げ候事に候間、その趣、兼て心得候様、申し聞けられ候

※ 差略(さりゃく)- 適当にとりはからうこと、斟酌、考慮、配慮
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六郷筋御成りの節、勤め方(2) - 駿河古文書会

(JR山陰線豊岡駅構内-先週土曜日)

金曜日の続きである。江戸城から六郷まで、順路を抜き出してみると次の通りになる。

紅葉山下(御成り)- 坂下門 - 虎御門 -(浜御庭 -)飯倉町 - 品川(同勢所)- 浜川(御小休)- 鈴ヶ森 - 大森(中ノ和中散、御賦所、待合)- 六郷(御小休、御賦所)- 玉川

この順路を往復した訳だが、道中警備が役割である御目付は、どういうわけか、右往左往するばかりで、本隊になかなか付き従うわけにはいかない。どういう意図で動いているのか、理解が難しい部分もあるけれども、以下へ読み下して示してみる。

一 御小休より御早乗(はやのり)御乗出し相済む。諸向乗出し、直ちに御鳥見罷り越し、御賦所へ案内致し候由、申し聞く。御小休へ残り候向き、自分引き候て、大森中之和中散、御賦所へ参るべくと、弐拾町ばかりも参り候処、途中に又兵衛、馬を留め居られ申し聞けられ候は、馬つれ候て乗り兼ね候間、自分馬はもはや浜川御小休まで引上げ申すべくと存じられ候に付、馬を呼び上げ申さるべく候間、御賦所より自分儀、六郷へ罷り越し、御早乗之方、相心得候様、申し聞けられ候に付、何れにも御賦所まで参り居り候様、申し聞けられ候に付、その心得にて和中散へ相越す。
※ 諸向(しょむき)-どちらへも向くこと。あちらにもこちらにも向かうこと。
※ 大森中之和中散 - 旧東海道の品川宿と川崎宿の間の大森に、江戸時代中頃に三軒の和中散薬店が開業した。三家ともに東海道添いで江戸に近いことから、薬業はもとより立場茶屋としても盛業であった。忠治郎家、久三郎家は共に将軍徳川吉宗の鷹狩りの休息所にもなり、御成門を構える大家で、なかでも、久三郎家では広大な庭に梅を多く植え、戦前まで梅屋敷として有名であった。
※ 御賦所-「賦」は配るという意味で、食事の意味はないが、ここでは食事を配って食する場所と考えられる。したがって、「御賦」は配られた食事のことであろう。


御賦(た)べ仕廻(しまい)候頃、又兵衛歩行にて参られ、申し聞けられ候は、只今途中にて御馬乗に逢い申され候間、又兵衛馬を御馬乗に乗り申し候。浜川へ相返され、右御馬乗、自分馬を直ちに乗り切り候て参り候積り、申し談じられ候間、その心得にて、いよいよ御早乗の方、心得申すべき旨、申し聞けられ候間、六郷へ参り候ての勤方、承り合い置く。

程なく諸向御賦も相済み候旨、御徒目付申し聞け候に付、直ちに又兵衛、引下がられ候やと申し談じ候処、自分馬参り候事も先ず計り難きに付、自分引き候て御小休の方へ下り申すべき旨、もっとも途中にて馬に逢い候わば、直ちに乗り戻し申すべき段、又兵衛は先ず和中散にて、待ち合いて居り候て、自分義返り申さず候わば、又兵衛、御間に合い兼ね候までも、歩行にて六郷へ参るべく候由にて、御賦所引出で、拾町程も引下がり候頃、途中にて自分馬に御馬乗、乗り候て罷り越し候間、これより自分も乗り代り、御早乗の方へ参り候段、申し達す。

直ちに乗り、惣御供は御徒目付計りにて引下る。その節、御馬乗申し聞け候は、自分馬未だ御小休まで引上げこれ無く候に付、品川同勢場まで参り候に付、手間取り候旨、申し聞き候。それより六郷の方へ乗り返し、段々参り候処、中の和中散に又兵衛控え居られ候に付、馬参り候間、直ちに六郷へ参り候旨、申し達す。

かれこれ手間取り候事、もはや六郷へ御乗り返しにて、途中にて、御前にて御行き違い申し候わば、いかが致すべきやと承り候処、左候わば下馬致し、馬を牽き居り候事ゆえ、平伏は相成りまじく候間、居敷き申さず、御時宜(おじぎ)仕るべき旨、もっとも左候わば御支配方御側衆、乗々通り候跡より、直ちに乗り返し、御早乗御供仕り、六郷まで参り候に及ばざる旨、申し聞けられ候。何れにも差し急ぎ参り候様、申し聞けられ候。
(続く)
※ 居敷(いしく)- かしこまった姿勢ですわる。
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法事に帰郷 - 懐石料亭 とゞ兵理玖

(トドの親子の剥製)

昨日、故郷の来迎寺で法事を終え、会食は在所の近所の「懐石料亭 とゞ兵理玖」で行った。

かつて、とゞ兵は町でも一、二を争う高級料亭であった。円山川の川沿い(河川改修で廃川となる)にあって、川を見下ろす料亭であった。子供の頃、その石垣の下で、よく釣りをして、鯉、鮒、鯰などを釣った、と兄たちが話す。自分にも鮒釣りの思い出がある。夕方滑って護岸の岩の角で左掌を切り、血だらけになって家へ帰ったことがある。医者など行かずに済ましたが、その時の傷跡が今でもうっすらと残っている。

風景の中には存在したが、そんな料亭に入ることなど、今まで考えたこともなかった。だから、今日は、初体験である。表に海獣の親子の剥製がガラスの中に飾られている。ずいぶん古くなって体毛の色が褪せてしまっている。店名「とゞ兵」の由来が記してあった。明治の初年、山陰沖合にて捕獲した三メートルにも及ぶ胡獱(とど)という怪魚(北海道産アシカ科)を、初代兵助が求めて店頭に囲ったところ、その珍しさに日々多くの見物人が集り、いつの程にか「とゞ兵」の渾名を得て、以来屋号として今日に至る、と書かれていた。

とど兵は、江戸末期の弘化四年(1847)に創業で、建物は築80年というから、昭和初期の頃のものだという。近年になって、高級料亭ではやって行けなくなったのであろう。経営主体が変わって、リーズナブルになった。その頃に、現店名に変更されたようだ。つけ加わった「理玖(りく)」については、赤穂浪士の大石内蔵助の妻りくが豊岡藩の家老の娘から嫁いで、内蔵助の妻となった。そのりくはとゞ兵から200メートルほどのご近所で生れている。町ではりくを顕彰して観光資源としているが、それに因んで、店名に加えたもののようだ。

懐石料理らしく、料理の初めに抹茶が立てられ、全員に饗せられた。法事の跡だから、床の間には観音像が祀られ、最初に線香が焚かれ、いっぷくの抹茶が亡き人に供えられた。お袋は自らお茶を立てたから、何よりのお供えだったと思う。店の気遣いに感謝した。食前酒は「香住鶴」、隣りの母方の従兄弟は「香住鶴」は評判の御酒だと誉める。それでいて、今日は車で来たからと、ノンアルコールビールを飲んでいた。


(ノドクロの黒い喉)

「のどくろの焼物」と聞いて、喉を覗くと確かに黒い。昔、こんな魚は食卓に載ることはなかった。昔であれば雑魚だったのだろう。今はそんな魚たちが立派な料理として出てくる。

特別に高級食材が使ってあるわけではないけれども、懐石料理として、料理方法を工夫して、口を飽きさせないのはさすがである。その辺りが料理人の腕の見せ所なのであろう。こういう料理でいつも思うのは、最後の方に出てくる料理(今回は天麩羅)は割を食ってしまうことである。手さえつけられないで終わってしまう場合もある。自分は隣りに合わせて、ノンアルコールビールにしたため、最後の料理まで完食できた。


(廃川の風景)

川側に開いた縁側に出ると、下から見上げてきた風景が眼下に見える。しかし、旧円山川(廃川)は道路や建物で川幅を狭められて、川としては見る影もなかった。
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