goo

「校合雑記 巻の壱」の解読 13


校合雑記巻の壱 13P

「校合雑記巻の壱」の続き、12P8行目より。

一 勢州桑名能城主、氏家内膳正行廣ハ、氏家と全く二男
※ 全く(まったく)➜ 実に。まことに。
なり。行廣、者しめ秀吉公の近臣多りし時ハ、(禄)王つ可
※ 官禄(かんろく)➜ 官府からもらう俸禄。
壱万石なり。京極修理亮、朽木兵部少輔も内膳と等シき尓
依て、太閤相州小田原江進発の時、右三人同道して関東江
下り介るニ、江州草津の駅尓おゐて、宿の主を召出し酒呑せ、
我ホ三人之内何連なり共、此度殿下能御意尓叶ふへ起もの越、
目きゝして盃越さ須遍しとた王むれし丹、亭主志バらく
辞退せしを、三人志きり尓責希れ者゛、其時亭主行廣可゛
前尓来り。此頃勢州桑名城主な志。貴公必主君の御意ニ叶ひ、
城主尓なり給王んといふて、盃を左須。果して桑名能城ヲ内膳
正尓賜ひ、五万石を加恩せらる。氏家桑名江入部能時、彼の
※ 加恩(かおん)➜ 祿などを増し与えること。加給。
※ 入部(にゅうぶ)➜ 国司や地頭が初めてその任国や領地にはいること。入府。
草津の亭主、桑名来りて入部の賀を述介るニ、内膳正左の
祝(悦)古者゛須゛。並々の引出ものせられし尓依て、近習の登も可゛ら

※ さのみ ➜(あとに打消しの語を伴って用いる)それほど。さほど。
※ 並々(なみなみ)➜ なみひととおりであること。
阿やしく思ひ、草津の亭主尓ハ一廉(ひとかど)の御恩賞可有
※ 一廉(ひとかど)➜ ひときわすぐれていること。ひときわ目立つこと。
尓やと云介れ者、内膳正さ那いひそ。かれ可首途(しゅと)能一言ハ、たま/\
※ さないいそ ➜ そのように言うな。
※ 首途(しゅと)➜ 物事が始まること。また、始めること。かどで。
當日斗り尓て、賞春るニ足ら須。若彼尓恩賞を厚くあ多いる程
なら者(゛)、父兄の時より當家勲功乃輩ニハ、何越本と古して可飽多(あきだ)
※ 飽足る(あきだる)➜ 十分に満足する。
べき。此故軽く賞したり。され共一宿能ちなミ阿るを、むなしく春
※ ちなみ(因み)➜ 関係があること。ゆかり。因縁。
へき事ニ阿ら須。幸ひ草津盤上方ゟ能通路なれ者、いつも我ホ
の宿せ无(む)と申付へし、とい王れしとなり。尤なる事なり。

【 読み下した文】

一 勢州桑名の城主、氏家内膳正行広は、氏家と全く二男
なり。行広、はじめ秀吉公の近臣たりし時は、官禄わずか
壱万石なり。京極修理亮、朽木兵部少輔も内膳と等しきに
依って、太閤相州小田原へ進発の時、右三人同道して関東へ
下りけるに、江州草津の駅において、宿の主を召し出し酒呑ませ、
我ら三人の内何れなりとも、この度殿下の御意に叶うべきものを、
目利きして盃を差すべしと戯れしに、亭主しばらく
辞退せしを、三人しきりに責めければ、その時亭主、行広が
前に来たり。この頃勢州桑名城主なし。貴公必ず主君の御意に叶い、
城主になり給わんと言うて、盃を差す。果して桑名の城を内膳
正に賜い、五万石を加恩せらる。氏家桑名へ入部の時、かの
草津の亭主、桑名来たりて入部の賀を述べけるに、内膳正さの
悦ばず。並々の引出物せられしに依って、近習の輩(ともがら)

怪しく思い、草津の亭主には一廉の御恩賞有るべき
にやと云いければ、内膳正さな言いそ。かれが首途の一言はたま/\
当日ばかりにて、賞ずるに足らず。若し彼に恩賞を厚く与いる程
ならば、父兄の時より当家勲功の輩には何を施(ほどこ)してか飽き足る(あきだる)
べき。これ故軽く賞したり。されども一宿のちなみあるを、むなしくす

べき事にあらず。幸い草津は上方よりの通路なれば、いつも我ら
の宿せむと申し付くべし、と言われしとなり。もっともなる事なり。

(13P9行目途中まで、以下続く)

********************

昼前、名古屋のかなくん母子が帰郷。夜はまーくん家族が合流し、にぎやかな夕食となった。炊飯器目いっぱいの五合炊いた飯が6人の来訪者により、たちまち無くなった。孫四人がいよいよ食べ盛りになったという事である。

プロ野球が開幕して5試合、上の勝敗表を見て何か気付きませんか。春の珍事である。

読書:「わるじい慈剣帖 8 だれだっけ」 風野真知雄 著

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「校合雑記 巻の壱」の解読 12


校合雑記巻の壱 12P

「校合雑記巻の壱」の続き、11P16行目より。

又曰、御城尓て御能見物の時なり。松平但馬守、土岐山城守なと
取扱せら連希ると也。其後正宗能宅ニて兼松と和睦
の時、正宗、兼松江盃越さして返盃之節尓、押へ申須
肴い多左んとて、右の舞を舞王れ希ると也。
※ 肴いたさん(さかないたさん)➜ 酒の肴に自ら舞を舞おうということ。

一 勇将盤若年より格別なるものなり。
家康公、三州長沢尓おゐて、今川氏真と御一戦、本多平八郎
忠勝十五歳尓て初陣なりし可、平八郎ハ叔父本多肥後守、敵
兵を突伏て平八郎其首とれといゝ介る。忠勝聞もあへ春、某(それがし)
※ 聞きも敢えず(ききもあえず)➜ 聞き終わらない。十分に聞きもしない。
人の力を頼ミ高名春る事を覚悟せ須といゝて馳通り、終尓能キ
敵を討希り。是ホ盤勇士の義といふ遍し。

【 読み下した文】

又曰く、御城にて御能見物の時なり。松平但馬守、土岐山城守など
取扱せられけるとなり。その後、正宗の宅にて兼松と和睦
の時、正宗、兼松へ盃を差して返盃の節に、押え申す。
(さかな)致さんとて、右の舞を舞われけるとなり。

一 勇将は若年より格別なるものなり。
家康公、三州長沢において、今川氏真と御一戦、本多平八郎
忠勝、十五歳にて初陣なりしが、平八郎は、叔父本多肥後守、敵
兵を突き伏せて、平八郎その首取れと言いける。忠勝聞きも会え敢えず、某(それがし)
人の力を頼み、高名する事を覚悟せずと言いて馳せ通り、終(つい)によき
敵を討ちけり。これなどは勇士の義と言うべし。

(12P7行目まで、以下続く)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「校合雑記 巻の壱」の解読 11


校合雑記巻の壱 11P

「校合雑記巻の壱」の続き、10P15行目より。

一 陸奥守正宗盤活気能人也。或時江戸御城尓て酒井讃岐守忠
勝尓む可へ、角力一番ま以ろふと有介連ハ、忠勝興なる事ニ
思ひ公用有之御前を退きたり重年て能事ニ仕らんと
※ 重ねて(かさねて)➜ この次。今後。
辞退せられしかとも、正宗承引せ須多ち満知角力を取
※ 承引(しょういん)➜ 承知すること。承諾すること。聞き入れること。
※ たちまち ➜ すぐ。即刻。
諸大名列座能前尓て黄門羽林乃両主勝負をいとむるなれハ
※ 黄門(こうもん)➜ 中納言の唐名。権中納言であった政宗指す。
※ 羽林(うりん)➜ 近衛附の唐名。左近衛権少将であった酒井讃岐守(酒井忠勝)を指す。
晴なら須といふ事なし。時尓伊井掃部頭直孝進ミ出て
毛し讃州負給ひてハ、御譜代の名折ならん。我ホ関相撲
※ 関相撲(せきずもう)➜ 相撲の三役同士、特に、大関同士の取組。
出て、陸奥守殿投希申左ん尓、手間取遍゛可ら須゛と申され
介る可゛、忠勝盤力量阿る人なれ盤゛、正宗越大腰ニか希て投られ
し尓、正宗むくと起返り、御辺盤思ひ能外ニ角力の功者可なと
※ 御辺(ごへん)➜ 二人称の人代名詞。対等又はやや目上の相手に、武士などが用い
た。そなた。 貴公。
褒美(ほうび)せる。御城といへ共、かく心の侭なる振廻(ふるまい)阿るを、兼松又
※ 褒美(ほうび)➜ 人をほめること。
四郎、正宗を不礼の人やと思介ん。或時金森雲州の筆尓て
正宗兼松可肩衣を摺(すり)拂ふて會釈もなく通るらん登
せられしに、兼松(やが)正宗越とゞ免扇を以て志多ゝ可ニ
※ 頓て(やがて)➜ すぐに。ただちに。
多ゝき介る。正宗ちつとも驚春゛、扇をひらき打て、腹をだ尓
いるなら者゛、い可保ど打や犬坊といふ。十番切能舞を舞な可゛ら、
※ 十番切(じゅうばんぎり)➜ 曾我兄弟の十番切に取材した脚本や演劇など。
志づ可尓着座せられし哉と、寔(まこと)尓正宗の相手尓、兼松盤
不足なるべきを、座興尓取りなされ多る。正宗の者つめ以(発明)
※ 発明(はつめい)➜ 賢いこと。また、そのさま。利発。

をかんじ介るとなり。

【 読み下した文】

一 陸奥守正宗は活気の人なり。ある時、江戸御城にて、酒井讃岐守忠
勝に向え、角力一番参ろうと有りければ、忠勝、興なる事に
思い、公用これ有り、御前を退きたり。重ねての事に仕(つかまつ)らんと
辞退せられしかども、正宗承引せず、たちまち角力を取る。
諸大名列座の前にて、黄門羽林の両主、勝負を射止むるなれば、
晴ならずという事なし。時に、伊井(井伊)掃部頭直孝進み出て、
もし讃州負け給いては、御譜代の名折れならん。我ら関相撲
出て、陸奥守殿投げ申さんに、手間取るべからずと申され
けるが、忠勝は力量ある人なれば、正宗を大腰にかけて投げられ
しに、正宗むくと起き返り、御辺は思いの外に角力の功者かなと
褒美せる。御城といえども、かく心の侭なる振廻(ふるま)いあるを、兼松又
四郎、正宗を不礼(無礼)の人やと思いけん。ある時、金森雲州の筆にて、
正宗、兼松が肩衣(かたぎぬ)を摺(すり)払うて、会釈もなく通るらんと
せられしに、兼松、(やが)正宗を留め、扇を以ってしたたかに
叩きける。正宗ちっとも驚かず、扇を開き折って、腹をだに
いるならば、いかほど打つや犬坊、という。十番切の舞(まい)を舞いながら、
静かに着座せられしやと、寔(まこと)に正宗の相手に兼松は
不足なるべきを、座興に取りなされたる。正宗の発明
を感じけるとなり。

(11P15行目まで、以下続く)

********************

区長の仕事もいよいよ終りに近く、今日は決算処理を粗方片づけた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「校合雑記 巻の壱」の解読 10


校合雑記巻の壱 10P

「校合雑記巻の壱」の続き、9P13行目より。

一 同十九年、蒲生飛騨守、伊達正宗両将、御代官として大さき
葛西一揆御退治、其忠功を感せらるゝとて、正宗江弐拾万石能
加恩(かおん)有て、高六拾万石ニ成。
※ 加恩(かおん)➜ 祿などを増し与えること。
一 大津の町人尓十四夜といふ物阿り。 家康公彼レ尓彼の辺御代官を
仰付られ、小野宗右衛門と号須。か連を十四夜と名付し事を
聞ニ、先祖尓壱人の娘有。彼の女和哥尓心越よせて、十四歳能春の
夜、(ねや)へ近く梅花の尓保ひ介る越、
※ 閨(ねや)➜ 夜寝るための部屋。
  人ならバ うき名やたゝん 小夜更て
    王可手まくら尓 かよふ梅可香
※ 浮名(うきな)➜ 恋愛や情事のうわさ。艶聞。
と讀てゟ、時の人其家の名を十四夜と呼ふ。志可れ共数代の商
賣人争(いかでか)武道を覚悟春べき、片腹痛き事也とて、世の人
※ 片腹痛い(かたはらいたい)➜ 他人が実力以上のことを行っているのが、こっけいで苦々しく感じるさま。笑止千万だ。
小野を妬ミ介るに、ある時大津尓て旅人飛とを殺して
(あまつさ)へ市店い古もり志可バ、雑色数輩馳集り、され共旅人の
※ 雑色(ぞうしき)➜ 鎌倉・室町時代,諸家に仕えて雑役に従事した足軽・従者などのこと。
働き尓見古りして、戸越ひらくものな可り介る尓、宗右衛門ハ
※ 見懲り(みごり)➜ 見て懲りること。
此事を下知春べき為尓、者せ来りし可ハ、雑色の豫ㇾ猶
※ 下知(げち)➜ 指図すること。命令。

※ 猶豫(ゆうよ)➜ ぐずぐず引き延ばして、決定・実行しないこと。
春るを見可年て、自分飛入り、手の下尓切伏介れ盤、人皆
※ 手の下(てのした)➜ 容易なこと。
小野可働きをかんじて、眼を付替り介るとなり。或人の
い王く十四夜という事ハ、此町人
神君の御意ニ入、御旅行之節、都合十四夜御止宿阿り介るニかれ可゛
仕合を人々恨らやミて、十四夜との登異名尓申多るよしな里。

【 読み下した文】

一 同十九年、蒲生飛騨守、伊達正宗両将、御代官として大崎、
葛西一揆御退治、その忠功を感ぜらるゝとて、正宗へ弐拾万石の
加恩有りて、高六拾万石に成る。
一 大津の町人に十四夜というものあり。 家康公、彼(かれ)にかの辺り、御代官を
仰せ付けられ、小野宗右衛門と号す。彼を十四夜と名付けし事を
聞くに、先祖に壱人の娘有り。かの女、和歌に心を寄せて、十四歳の春の
夜、(ねや)へ近く梅花の匂いけるを、
人ならば 浮名や立たん 小夜(さよ)(ふ)けて
わが手枕に かよう梅が香
と読みてより、時の人、その家の名を十四夜と呼ぶ。しかれども、数代の商
売人、争(いかでか)、武道を覚悟すべき、片腹痛き事なりとて、世の人
小野を妬(ねた)みけるに、ある時大津にて、旅人、人を殺して
(あまつさ)え、市店(いちだな)居籠りしかば、雑色(ぞうしき)数輩馳せ集まり、されども人の働きに見懲(みご)して、戸を開くものなかりけるに、宗右衛門は
この事を下知すべきために、馳せ来たりしかば、雑色の猶予
するを見兼ねて、自分飛び入り、手の下に切り伏せければ、人皆な

小野が働きを感じて、眼を付け替わりけるとなり。或人の
曰く、十四夜という事は、この町人、
神君の御意に入り、御旅行の節、都合十四夜、御止宿ありけるに、彼が
仕合わせを人々恨らやみて、十四夜殿と異名に申したる由なり。

(10P14行目まで、以下続く)

********************

読書:「片えくぼ 新・知らぬが半兵衛手控帖 5」 藤井邦夫 著

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「校合雑記 巻の壱」の解読 10


校合雑記巻の壱 10P

「校合雑記巻の壱」の続き、9P13行目より。

一 同十九年、蒲生飛騨守、伊達正宗両将、御代官として大さき
葛西一揆御退治、其忠功を感せらるゝとて、正宗江弐拾万石能
加恩(かおん)有て、高六拾万石ニ成。
※ 加恩(かおん)➜ 祿などを増し与えること。
一 大津の町人尓十四夜といふ物阿り。 家康公彼レ尓彼の辺御代官を
仰付られ、小野宗右衛門と号須。か連を十四夜と名付し事を
聞ニ、先祖尓壱人の娘有。彼の女和哥尓心越よせて、十四歳能春の
夜、(ねや)へ近く梅花の尓保ひ介る越、
※ 閨(ねや)➜ 夜寝るための部屋。
  人ならバ うき名やたゝん 小夜更て
    王可手まくら尓 かよふ梅可香
※ 浮名(うきな)➜ 恋愛や情事のうわさ。艶聞。
と讀てゟ、時の人其家の名を十四夜と呼ふ。志可れ共数代の商
賣人争(いかでか)武道を覚悟春べき、片腹痛き事也とて、世の人
※ 片腹痛い(かたはらいたい)➜ 他人が実力以上のことを行っているのが、こっけいで苦々しく感じるさま。笑止千万だ。
小野を妬ミ介るに、ある時大津尓て旅人飛とを殺して
(あまつさ)へ市店い古もり志可バ、雑色数輩馳集り、され共旅人の
※ 雑色(ぞうしき)➜ 鎌倉・室町時代,諸家に仕えて雑役に従事した足軽・従者などのこと。
働き尓見古りして、戸越ひらくものな可り介る尓、宗右衛門ハ
※ 見懲り(みごり)➜ 見て懲りること。
此事を下知春べき為尓、者せ来りし可ハ、雑色の豫ㇾ猶
※ 下知(げち)➜ 指図すること。命令。

※ 猶豫(ゆうよ)➜ ぐずぐず引き延ばして、決定・実行しないこと。
春るを見可年て、自分飛入り、手の下尓切伏介れ盤、人皆
※ 手の下(てのした)➜ 容易なこと。
小野可働きをかんじて、眼を付替り介るとなり。或人の
い王く十四夜という事ハ、此町人
神君の御意ニ入、御旅行之節、都合十四夜御止宿阿り介るニかれ可゛
仕合を人々恨らやミて、十四夜との登異名尓申多るよしな里。

【 読み下した文】

一 同十九年、蒲生飛騨守、伊達正宗両将、御代官として大崎、
葛西一揆御退治、その忠功を感ぜらるゝとて、正宗へ弐拾万石の
加恩有りて、高六拾万石に成る。
一 大津の町人に十四夜というものあり。 家康公、彼(かれ)にかの辺り、御代官を
仰せ付けられ、小野宗右衛門と号す。彼を十四夜と名付けし事を
聞くに、先祖に壱人の娘有り。かの女、和歌に心を寄せて、十四歳の春の
夜、(ねや)へ近く梅花の匂いけるを、
人ならば 浮名や立たん 小夜(さよ)(ふ)けて
わが手枕に かよう梅が香
と読みてより、時の人、その家の名を十四夜と呼ぶ。しかれども、数代の商
売人、争(いかでか)、武道を覚悟すべき、片腹痛き事なりとて、世の人
小野を妬(ねた)みけるに、ある時大津にて、旅人、人を殺して
(あまつさ)え、市店(いちだな)居籠りしかば、雑色(ぞうしき)数輩馳せ集まり、されども人の働きに見懲(みご)して、戸を開くものなかりけるに、宗右衛門は
この事を下知すべきために、馳せ来たりしかば、雑色の猶予
するを見兼ねて、自分飛び入り、手の下に切り伏せければ、人皆な

小野が働きを感じて、眼を付け替わりけるとなり。或人の
曰く、十四夜という事は、この町人、
神君の御意に入り、御旅行の節、都合十四夜、御止宿ありけるに、彼が
仕合わせを人々恨らやみて、十四夜殿と異名に申したる由なり。

(10P14行目まで、以下続く)

********************

読書:「片えくぼ 新・知らぬが半兵衛手控帖 5」 藤井邦夫 著

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「校合雑記 巻の壱」の解読 9


校合雑記巻の壱 9P

「校合雑記巻の壱」の続き、8P15行目より。

一 天正十八年庚寅八月、太閤、陸奥国會津へ御下り、白川より二本
松まて九拾万石を蒲生飛騨守、米沢より伊達宮城迠四拾万石を
伊達正宗尓充行(あてが)者る。正宗其迠ハ會津に有希る。其節米沢江移らる
大崎、葛西盤木村伊勢守に充行(あてが)ハ連、御上洛也。諸大名、都江相詰出仕候。
一 同年冬、木村伊勢守ハ登米尓居、嫡子弥市右衛門盤古川尓居て、
家来尓知行割渡し、家老衆面々、知行所ニあり。岩手山の領主
百姓の子供を小姓尓遣、以(もって)、髪結尓して召しつ可へな可゛ら、其小姓乃
父母尓非分を言掛苦しめ置介り。既尓死罪尓行者れん時、彼小姓
※ 非分(ひぶん)➜ 理にあわないこと。道理にはずれること。不当であること。
例乃ことく主人の髪を結介る可゛、髪越取引返し一刀尓切殺し
申候。此事誰觸るものもなき尓、大崎葛西尓て百姓ホ一揆越
起し、伊勢守父子之家来を其日之内ニ三千余人打殺春。
是ニ依て國中騒き立て弥市右衛門盤登米江と馬ヲ急き
伊勢守盤古川江と馬を飛春中途ニて出合、佐沼の城江親子
引古もり、同十九年春尓都江上られ介る。道中氣遣以有之
大崎侍浪人、北江左馬允、上谷地加賀を證人尓同道有て、岩沼ゟ
可へし申され候よし。

【 読み下した文】

一 天正十八年庚寅八月、太閤、陸奥国会津へ御下(くだ)り、白川より二本
松まで九拾万石を蒲生飛騨守、米沢より伊達宮城まで四拾万石を
伊達正宗に充行(あてが)わる。正宗それまでは会津に有りける。その節、米沢へ移らる。
大崎、葛西は木村伊勢守に充行(あてが)われ、御上洛なり。諸大名、都へ相詰め出仕候。
一 同年冬、木村伊勢守は登米に居り、嫡子弥市右衛門は古川に居て、
家来に知行割り渡し、家老衆面々、知行所にあり。岩手山の領主、
百姓の子供を小姓に遣い、以って髪結いにして召し仕えながら、その小姓の
父母に非分を言い掛け、苦しめ置きけり。既に死罪に行われん時、かの小姓、
例のごとく主人の髪を結いけるが、髪を取り、引き返し、一刀に切り殺し
申し候。この事、誰触れるものもなきに、大崎、葛西にて百姓ら一揆を
起し、伊勢守父子の家来を、その日の内に三千余人打ち殺す。
これに依って、国中騒ぎ立て、弥市右衛門は登米へと馬を急ぎ、
伊勢守は古川へと馬を飛ばす。中途にて出合い、佐沼の城へ親子
引き籠り、同十九年春に都へ上られける。道中気遣いこれ有るを以って、
大崎侍浪人、北江左馬允、上谷地加賀を証人に同道有りて、岩沼より
返し申され候よし。

(9P12行目まで、以下続く)

********************

昨日は金谷宿大学「古文書に親しむ」講座、今年度最後の、初心者、経験者の2講座を終えて、ブログを更新する気力が残っていなかった。

今夜、区長の引継ぎを終えた。あとは決算の処理が残るだけである。

読書:「焦眉」 今野敏 著

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「校合雑記 巻の壱」の解読 8


校合雑記巻の壱 8P

「校合雑記巻の壱」の続き、7P16行目より。

一 設楽甚三郎ハ位尊尓付て後尓御座敷江出ル。西郷乃下ニ直るハ近代の
事也。志可し三河尓て能事なり。大首盤出須。
一 奥平九八郎盤元ハ松平丹波なとゟ下なれ共 神君の聟尓成り
下尓ハ直れ春゛、上尓直る時もあり。席むつ可しき故尓御謡初尓ハ出春。
一 松平内膳ハ安城能家の養子頭尓付、五人衆ゟ断有之、上尓直る。桜井
別心(べっしん)能刻(とき)、松平左近(安城の家老ニ而後尓周防守と号)申春様ハ
桜井と東城とハ同し
家の間、桜井座敷を下され候得と申上申請て、桜井能座敷へ
直り候。桜井隣参の後尓桜井、東城へ断ら春゛して、東城登
座論(ざろん)有。是尓依て両方出春。
※ 別心(べっしん)➜ 相手を裏切るような心。そむこうとする気持。ふたごころ。
※ 座論(ざろん)➜ 座の席順を論じること。
一 右之松平五人衆、七人衆とハ祐金月堂能子をいふ。岩津の養子と
いふ西忠与り安城能家なり。
一 桜井東城盤安城の養子也。東城ハ西忠能男、桜井ハ道関能男登
此記尓有之。
一 御當家三譜代といふ
信光主ゟ長親主迠を岩津譜代といふ。長親主ゟ清康主
まてを安城譜代といふ。清康主此方を岡崎譜代といふ。
      以上

【 読み下した文】

一 設楽甚三郎は位尊(くらいたっと)きに付いて、後に御座敷へ出る。西郷の下に直るは、近代の
事なり。しかし、三河にての事なり。大首は出ず。
一 奥平九八郎は元は、松平丹波などより下なれども、神君の聟に成り
下には直れず、上に直る時もあり。席難しき故に御謡初(うたいはじめ)には出ず。
一 松平内膳は安城の家の養子頭に付、五人衆より断りこれ有り、上に直る。桜井
別心(べっしん)の刻(とき)、松平左近(安城の家老にて、後に周防守と号す)申す様は、
桜井と東城とは同じ
家の間、桜井座敷を下され候えと申し上げ、申し請けて、桜井の座敷へ
直り候。桜井隣参の後に、桜井、東城へ断らずして、東城と
座論(ざろん)有り。これに依って両方出ず。
一 右の松平五人衆、七人衆とは、祐金月堂の子をいう。岩津の養子と
いう西忠より安城の家なり。
一 桜井、東城は安城の養子なり。東城は西忠の男(むすこ)、桜井は道関の男と、
この記にこれ有り。
一 御当家三譜代という、
信光主より長親主(ぬし)までを、岩津譜代という。長親主より清康主
までを、安城譜代という。清康主この方を、岡崎譜代という。
      以上

(8P13行目まで、以下続く)

********************

金谷宿大学「古文書に親しむ」講座、明日今年度最終の講座のため、一日準備をした。

読書:「ゼロ」 堂場瞬一 著

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「校合雑記 巻の壱」の解読 7


校合雑記巻の壱 7P

「校合雑記巻の壱」の続き、6P16行目より。

一 御座敷尓無之、本松平衆
    松平次郎右衛門  忠右衛門とも
    松平右衛門    八郎右衛門弟
    松平助十     岩津の庶子     岩津の内衆
    松平出雲     亀井坊主      大給の庶子
    松平喜蔵
    松平弥右衛門   喜蔵弟
    松平伊豆     桜井の養子
    松平蔵人     安城の庶子
    松平加賀右衛門  大給の庶子
    松平右京     三郎九郎      安城の養子
    松平三左衛門
    松平三蔵     三左衛門弟
    松平権左衛門
    松平宮内
アキハ 松平右近
    松平善兵衛    弾正左衛門弟
    松平左馬允

【 読み下した文】

一 御座敷にこれ無き本松平衆
    松平次郎右衛門  忠右衛門とも
    松平右衛門    八郎右衛門弟
    松平助十     岩津の庶子     岩津の内衆
    松平出雲     亀井坊主      大給の庶子
    松平喜蔵
    松平弥右衛門   喜蔵弟
    松平伊豆     桜井の養子
    松平蔵人     安城の庶子
    松平加賀右衛門  大給の庶子
    松平右京     三郎九郎      安城の養子
    松平三左衛門
    松平三蔵     三左衛門弟
    松平権左衛門
    松平宮内
アキハ 松平右近
    松平善兵衛    弾正左衛門弟
    松平左馬允

(7P15行目まで、以下続く)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「校合雑記 巻の壱」の解読 6


校合雑記巻の壱 6P

「校合雑記巻の壱」の続き、5P6行目より。

一 三州尓て正月御礼極め
    元日近習衆       二日國衆
    同心盤両日の外尓罷出る。
  毎年正月二日國衆能御同名衆御礼之次第
    壱番    シモ(下郷)   鵜殿八郎三郎
    弐番    西郷     西郷孫九郎
    三番    形原     松平紀伊守
    四番    大給     松平和泉守
    五番    桜井     松平内膳
    六番    長沢     松平上野
     本来上野ハ玄蕃、外記より下なれ共両人衆の上ニ直る。其訳志れ春゛。
    七番    竹谷     松平玄蕃
    八番    五井     松平外記
    九番    不高須(ふこうず)(深溝)松平主殿
     此餘盤次第不同尓出る。

一 同二日御謡初席

  右之外座上下、毎年定り候。此外尓座敷へ直られ候大格左尓記春。

  右、昔盤此分也。此外ハ壱人もなし。近代数多出るなり。

【 読み下した文】

一 三州にて正月御礼極(き)
元日、近習衆       二日、国衆
同心は両日の外に罷り出る。
毎年正月二日、国衆の御同名衆、御礼の次第。
壱番    下郷     鵜殿八郎三郎
弐番    西郷     西郷孫九郎
三番    形原     松平紀伊守
四番    大給     松平和泉守
五番    桜井     松平内膳
六番    長沢     松平上野
本来上野は玄蕃、外記より下なれども、両人衆の上に直る。その訳知れず。
七番    竹谷     松平玄蕃
八番    五井     松平外記
九番    深溝(ふこうず)     松平主殿
この余は次第不同に出る。

一 同二日、御謡(うた)い初席

  右の外、座上下、毎年定まり候。この外に座敷へ直られ候大格、左に記す。

  右、昔はこの分なり。この外は壱人もなし。近代、数多(あまた)出るなり。

(6P15行目まで、以下続く)

********************

一日、区の決算仕事。一応、目途が付いた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「校合雑記 巻の壱」の解読 5


校合雑記巻の壱 5P

「校合雑記巻の壱」の続き、4P8行目より。

一 松平五人五衆といふ盤
    岩津太郎   断絶
    形原紀伊守  又七郎  岩津庶子
    安城二郎三郎 御家   同
    大給和泉守  源次郎  同
    岡崎大膳正
或書尓形原伊紀守ハ元二男ニて是なしといへとも岩津の方江
養子能品あつて二男分ニなると云々。大給和泉守ハ御家ゟ
先の方なれとも弟分と云々。岡崎大膳ハ断絶、庶子弾正右衛門
是を継、又 清康主尓譲ると云々。
一 松平七人衆といふ
    竹屋玄蕃   与次郎        岩津庶子
    五井外記   弥三郎共、弥九郎共  同
    長沢上野   源七郎        同
    桜井内膳   与次郎共、与一郎共  安城庶子
一 右七人衆といへとも四人能外志連須。

【 読み下した文】

一 松平五人衆というは、
    岩津太郎   断絶
    形原紀伊守  又七郎  岩津庶子
    安城二郎三郎 御家   同
    大給和泉守  源次郎  同
    岡崎大膳正
或る書に、形原紀伊守はもと二男にて是なしといえども、岩津の方へ
養子の品あって、二男分になる、と云々。大給和泉守は御家より
先の方なれども、弟分と、云々。岡崎大膳は断絶、庶子弾正右衛門
これを継ぎ、また、清康主に譲る、と云々。
一 松平七人衆という、
    竹屋玄蕃   与次郎         岩津庶子
    五井外記   弥三郎とも弥九郎とも  同
    長沢上野   源七郎         同
    桜井内膳   与次郎とも与一郎とも  安城庶子
一 右七人衆といへども、四人の外、知れず。

(5P行5目まで、以下続く)

********************

一日、区の決算仕事。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ