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ネットで「四国遍路日記」を読む

(HP「四国遍路日記」)

朝から雨、昼前にまーくん、あっくん、とママが来る。雨で支援センターにも行けなくて、来ていいかと電話があり、やってきた。午後、昼寝の前にアパートに帰る段になって、まーくん大泣き、もっと遊んでいたいのに帰るとママが言い出し、帰らないと言い張っては見るも、それでは居なさいとママとばーばに言われて進退窮まり、泣くしかないのである。ようやく一家が去って、静けさが戻った。

今日は午前中に少し歩きに出ようと思っていたが、この雨では動きが取れなかった。それで、先日ネットで見つけて読み始めていた、「四国遍路日記」というHPを午後パソコン画面で読んだ。自分の息子の世代の男性が、仕事の合間に長期の休暇を取って、5回に分けて区切り打ちした記録である。歩きながら考えたことが、たんたんと書かれている。自分のお遍路と比べながら読み進めたが、細かい地名などが書き込まれておらず、自分のお遍路と繋がらない部分も多かった。けれども、泊まった宿が同じだった日もあり、お遍路の日々を思い出す場面も多くあった。

この男性は若いだけあって、食べることに興味が行って、食事のメニューなども詳しく書かれている。一方、お寺そのものにはあまり頓着はなく、お寺の由緒とか伝説などの記述は全く出てこない。善通寺がどういうお寺なのか、宿坊に泊まってはじめて知ったという。食べ物にあまりこだわっていなかった一方、道中に残る伝説などに興味が引かれた自分と比較すると、遍路スタイルの違いを感じた。しかし、先々のことを全く調べないで、はじめて出会う驚きを大切にする姿勢などは自分と共通していると思った。

自分ももっと多くの人とお話をすればよかったと反省しているが、彼は遍路仲間との会話が自分よりも少ないように思った。宿泊について、当初は先まで予約し過ぎて、キャンセルが割合多かったが、慣れてくるに連れて、歩ける距離を見据えながら予約をするようになり、キャンセルも無くなった。自分は最初から行き当たりばったりを旨として、早々と予約はしなかったが、彼も慣れてくるとそんな風になった。

自分は地図と遍路シールを常にチェックして歩いたから、迷うことは最小限に済んだが、彼の遍路は迷うことが多くて、何度も今自分がどこにいるかを見失っている。他の人の記録でも大いに迷っている記述を読むに付け、迷うことが少なかった自分の遍路が特別だったように感じてしまう。遍路シールをたどれば間違わないはずだと思うのだが。

彼も2度目のお遍路を思い浮かべて、自分と同じように2度目は20ヶ寺ある番外の札所を含めて巡ろうかと考えているようで、同じようなことを考えるものだと感じた。

自分のお遍路に比べれば、よく雨に降られて納経帳まで塗らしてしまったと書いている。自分は雨には数えるほどしか降られていない。自分のお遍路が本当に天候に恵まれていたのだと改めて感じた。

人の遍路記録を読みながら、結局は自分のお遍路を思い返していた半日であった。
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最近の夜はこんなもの

(ムサシにイタズラ、ムサシが走る)

子供たちが巣立って行けばいずれこうなることは判っていたのであるが、女房と二人だけの生活が続いている。夜、テレビも安易なバラエティ番組ばかりで、近ごろは見る気にならない。見るのはNHKか、スポーツ中継、推理ドラマぐらいである。景気が低迷してスポンサーが集まらないから、テレビ局もお金を掛けられないことは判るが、それにしても酷い。

だから、最近は夜、本を読むことにしている。図書館から借りてくるから本代はかからない。そんなに難しい本は少なく、作家に狙いをつけて気に入った作家を集中して読んでいる。今週は、今野敏、島田荘司の本である。今夜も、読んでいるうちについついうたた寝してしまい、気が付けばテレビが付いたまま、隣で女房も宵寝をしていた。目が覚めて自分で風呂を入れて入った。

パソコンの前に座っても書き込むテーマが何も浮かばない。しばらくは、この金曜日に行く駿河古文書会の資料を出して予習をした。課題の古文書は今まで読んでいたものよりも難しくて、すらすら読めるというわけには行かない。読めないところは保留にして、全体の意味をとらえようとする。借金證文であることは判っているが、読めない部分が多くて文脈がなかなか追えない。

古文書の解読に辞書はあるけれども、どういう文字であるか、あるいはどういう読みであるのか、それが想像できないと辞書が引けない。文脈からこういう字のはずと想像し辞書を引いて、同じ形の崩し字に当ればしめたものである。やさしい古文書ではそれが可能だが、ここまで難しいとお手上げである。

だから古文書解読の勉強は独学で行うのは大変難しい。古文書の講座にたくさん参加して、多くの古文書に接して、慣れる以外に上達の方法はないと、どの講師も話す。

ブログ用に花の写真を撮ってきて、その名前を調べる作業をしばしば行う。名前の判らない花をどうやって調べるのか。それは古文書の解読と良く似た作業である。花の場合は、ネット上の花図鑑で、花の色、形、季節などいくつかの特徴を検索し、ネット上の写真とひたすら照合することになる。これだろうと思われる写真に出会えば、その花の名前で検索して、撮ってきた花の写真と、細部を比較検討して、名前を確定する。8割くらいはこれで名前が判る。

ところが崩された文字では、花図鑑のような便利なものはネットに存在しない(と思う)。だから花の名前のようにはネットが使えない。存在しないのなら、自分で作ってみるのも意義があるかもしれないと、考えることがよくある。幸い時間はあるが、ネットのテクニカルな部分について協力してくれる人がいない。その前に、自分自身がもっと古文書を勉強することだと、今は考えている。

このようにして、今日も明日になってしまい、書き込みも予定量に達した。書いている間に、女房は起きだして、寝室に行って寝てしまった。
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今朝の大雨は尋常ではなかった

(すっかり秋の空になって、日が西原に沈む)

今朝、少し遅れて出社した。出かける時にすでに雨が強く降っていたが、通勤に要する15分の間に、雨の降り方が尋常でなく烈しくなってきた。駐車場までたどり着いたが、すぐには車から出られなくて、事務所に昼食注文の電話をして、車の中でしばらく小降りになるのを待った。ラジオは浜松ではすでに青空が見えていると報じていたから、止むのも時間の問題だと思った。この降り方は時間雨量にして50ミリぐらいになるだろうか。車の屋根を叩くような雨である。

5分も待つうちに、少し静かになり、フロントガラスを打つ雨も弱くなった。今のうちに事務所に行こうと決断し車を出た。雨脚は弱くなっていたが、アスファルトの駐車場は、雨量に水はけが間に合わなくて、全体が3、4センチの水溜りのようになり、事務所にたどり着くまでに靴の中に水が入って来た。

昔で言えば豪雨であるが、近ごろは珍しくなくて、良くお目にかかるようになった。温暖化の影響だといってしまえばそれまでだが、我々は地球規模の気候変動のうねりの中に、入っているのかもしれない。

「ノアの箱舟」の伝説を我々は作り話のように感じていた。あれほどの大洪水が起きるはずがない。雲が降らせるには余りにも大量の雨で、信じがたいと自分も思っていた。しかし、箱舟を思わせる考古学的発見もあり、世界規模とはいえなくも、一地方にノアの洪水に近い大洪水があったことをうかがわせる。

「湿舌」という言葉を知って、海より次々に水を雲という形で運んできて、長い時間大雨を降らし続ける気象現象があることを認識した。しかも、供給されるのは海の水だから無尽蔵である。例えば時間50ミリで、伝説通り、40日40夜続けば、単純計算で48メートルというとんでもない雨量になる。水はけが悪ければ、長い時間、陸地が海になっても不思議はない。

戦争の世紀といわれた20世紀と比べて、我々は子供の頃から、21世紀はバラ色の時代になると想像していた。すでに10年が過ぎて判ったことは、我々の期待が様々な分野で大きく裏切られていることである。生活は年を追って厳しくなり、住みにくい地球になっている。

朝の大雨も10時ごろには上がり、午後は良いお天気となった。日没の位置は先頃まで「たけ山」あたりに沈んでいたが、大きく南へ動いて、西原に没するようになった。気が付けば、夕暮れの空はすっかり秋雲である。いよいよ秋本番になってきた。
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再びS氏を見舞う

(庭のヤブラン)

ちょうど1週間前、S氏を見舞い、その様子をブログに書いた。本人のブログに入院したところまでは書いてあったが、その後どうなったのかの書き込みは、気力が無くてしていないという。心配している人も多かろうから、様子を知らせたいと思い、ブログに書いた。S氏を知らない人には誰の話か判らないと思うが、知っている人には十分伝わると思った。

2度目はY氏と一緒に見舞うことになった。エレベーターから降りると廊下の突き当たりに点滴スタンドを転がすS氏のパジャマ姿が見えた。S氏の部屋は6人部屋で、個室からそちらへ引越したようであった。顔色や生気は一週間前よりもずいぶん良くなっていた。

病室は手狭だから談話コーナーに移ってお話をした。この一週間に数人見舞いに来てくれたと話す。ここが良く判ったねえというと、本人のブログを見て何事かと思ったものの、見舞いに行って良いものやら判断しかねていたところ、自分のブログを見てくれて、見舞いに行く気になったらしい。どうやらS氏も先週月曜日の書き込みを読んだらしく、2ヶ所間違いがあると指摘した。

一つは、S氏自身も勘違いしていたが、「定年退職後2年」は、正しくはまだ1年しか経っていないという。彼の活動を聞いていて、とても1年の活動とは思えなかったから、迷わずに2年と書いてしまった。訂正しておく。いま一つは、再手術と聞いたとき、「このまま終わりかと恐怖感が起きた」のは間違いで、不思議と心は騒がず、ただこのまま目が覚めずに終るのだろうと、事実を冷静に受け止めている自分がいたという。こんなふうに書けば、まだ違うといわれそうだが、その感覚は経験したものでなければ計り知れないのかもしれない。

ともあれ、本人の思いは別にして、生還を果たしたわけで、流動物を少しずつ食べ初めているという。口から食べられるようになれば、今は高カロリーの流動食もあって、体力が落ちることを防ぐことができる。入院前、手術に備えて62kgから64kgに増やしておいた体重が、現在59kg、減ったには減ったがその辺で留まっているという。

まだ2度目の手術の痕は内部の疵がしっかり癒えるまで閉じてないが、もう疵の両側からくっ付きはじめている。先生はそんな疵はすぐにくっ付くから問題ないと言っているといい、腹を開いて疵を見せてくれようとする。自分はそういう場面を見るのが苦手で、見せなくて良いと言ったが、Y氏かしっかりと確認したようであった。

内部の疵が癒えて、開腹部を閉じ、流動食がしっかり食べれるようになって、点滴が外れれば退院になるようだ。あと1、2週間かかるであろうか。ここまで来たら焦らずにしっかりと療養して欲しい。

奥さんも見えて、一時間ほど経ったのでお暇をした。
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秋と孫たちとムサシと

(土手のキバナコスモス)

このところ、めっきり秋らしくなって、一週間ほど前までの、あの暑さは何だったのだろうと思うこの頃の気候である。

2歳のまーくんに「まーくん、寒くなったねぇ」と声を掛けたら、「涼しくなったねぇ」と答えられて、ギャフンとなったと聞いた。また、家に来ていて、見ている目の前で、ソファーからジャンプして降りた勢いを借りて、前転をしてしまった。誰が教えるわけでもないのだが、頭も身体も日に日に目覚しく成長している。爺さんの欲目かもしれないが、成長が早すぎはしないだろうか。来るたびに目を見張ることばかりである。

あっくんは3ヶ月少々にして、母乳だけですでに7.6kg、女房など抱くと腕がだるい、腰が痛いと託っている。検診で、ミルクをくれていれば肥りすぎと注意されるところだが、母乳だけで問題ないといわれたようだ。

ムサシの散歩で、大代川の橋を渡ると、このところの雨で少し水嵩を戻した水面に針を落としている小学生がいた。何が釣れるのだい、と聞けば、ハヤですと答える。バケツに10数センチほどのハヤが数匹釣れていた。冬の渇水期には涸れてしまう大代川だが、水が戻れば確実に魚も戻ってくる。

ムサシと散歩していて、どんなに話しかけても、ムサシはしゃべるわけはなく、黙々と歩き、嗅ぎ、臭い付けのおしっこをするのに懸命である。ムサシの意思はリードを引っ張ったり、緩めたりで伝わってくるだけである。最近の散歩時間は約40分。空を見上げたり、花を観賞したり、キョロキョロしているが、何とも退屈になるから、ムサシに色々イタズラを仕掛ける。

最近のイタズラはリードを緩めて鼻の上にひょいと掛ける。突然目の前にかかって視界をさえぎるリードが邪魔で、振り落とそうとしてムサシは駆け出す。こちらも追いかけるから、リードが落ちない。しばらくそんな追っ掛けっこをして遊ぶ。下を向けばリードは落ちて外れるのだが、気付かないのか、遊んでいるのか。最初は降ってわいた災難のように、外そうと懸命だが、何度も繰り返すと、こっちが仕掛けていることが判っているよと言わんばかりにチラッとこちらを見る。それを合図に遊びは終る。

ムサシが歩いていて必ず避けるものに水溜りがある。足が濡れるのをひどく嫌がるみたいで、小さいものは飛び越し、大きいものは縁を回って避ける。もう一つ、細かい格子になった、鉄製の水路蓋は必ず避ける。人より足が小さいから格子の間に挟まったことでもあるのだろうか。水路が道路を横切っている場合など、大きく飛び越す。ムサシは人間よりも身に受けた危険は良く覚えていて、必ずその危険は避けようとする。条件反射の一種で、頭で考えた行動ではないのだろう。それが小さい脳であっても生きて行く方法なのだ。
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「外桜田一件風聞書」の続き

(土手のイヌキクイモの花)

午後、金谷宿大学「古文書に親しむ」の第4回講座へ出席した。講師の都合で1週間遅れの講座であった。

講座前、学生が集まるまでの雑談で、学生の中に「四国お遍路まんだら」を図書館で借りて読んだという人がいて、歩くのは大変だったでしょうと、講師も交えて少し話をした。図書館で見てくれた人がいたことが確認できて、贈呈しておいて良かったと思う。

今回は「外桜田一件風聞書」の続きである。講師も吉村昭著の「桜田門外の変」を読んだと言い、その小説が桜田門外の変を具体的に詳しく描いているから、興味のある人は読んでみてはどうかと勧める。我意を得たりと思った。

今日読んだ部分は、桜田門外の変のあと、井伊家が復讐に水戸家と私戦に打って出るのではないかと危惧して、騒動を起さないように、井伊家に送った家臣どもを慰撫する書状である。雪の降る登城時に刀が濡れないように袋で覆うなど、行列に油断があって、蹂躙を許してしまった。井伊家は昔より武門の盛んな藩で、家康の家来の中でも、井伊の赤備えと呼ばれ、勇猛な軍勢として恐れられていたほどだから、藩主の首級をとられてこのまま済ませる筈がない。仇を討つとして騒然としていた。以下に、書き下した文を示す。


今度、掃部頭不慮の義これ有り候に付いては、重臣ども末々までも心配いたし候よし、相聞きもっともの義に候えども、万一家動揺いたし候ようの義これ有り候うては、もって外の義に付き、諸事公儀御所置に任せ置き、右様の義これ無きよう致さるべく候、跡々の義は厚き思し召しも在らせられ候義に付き、末々に至るまで一同安心致し罷り在り候よう、家来呼び出し達すべく候こと
右、内藤紀伊守殿宅へ家来呼び出し書付相渡し候
     三月三日
       この御書付二度め五日に御達のよし

   掃部頭へ御下げの趣
この度不慮の次第、家来末々まで如何計り残念に存ずべきと、この上無く御心労遊ばされ候、乱暴に及び候者どもは、御大法これ有り、急速詮議に及ばれ候ことに候条、万一家来ども騒ぎ立て候ようの義、これ有り候うては、天下の動乱にも及ぶべく、その方家の義は格別の訳柄、殊に当時御役をも相勤め、格段誠忠を尽くし、御為一途に相心得候義は、兼々御力にも思し召し候ほどの儀につき、家来末々まで心得違いの者はこれ有るまじく候えども、万一麁怒(そぬ)の族(やから)これ有り候うては、家柄と申し、実以て御為には換え難く候義は、末々に至るまで忍び難きを相忍び、動揺致さぬ様、幾重にも取り鎮め置き、御下知相待ち候様、これを伝えられ候


藩主が首級を取られることなど、前代未聞のことで、武門に有るまじきこととして、お家は取り潰しになるのが当然であった。ここでは「跡々の義は厚き思し召しも在らせられ候」と、取つぶしにはしないことを保証して、騒動を起さぬように慰撫している。

実際には井伊家は動かず、藩主は怪我療養中とし、将軍からは何度か見舞いの品も届き、後継者を決めた後に死亡したものと取り繕い、井伊家は存続できた。怒りの持って行き場のない井伊家の家来衆が、死亡した浪士の死体を切り刻んだという凄惨な話も残っている。
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お遍路仲間の便り二つ

(ヒガンバナが満開)

朝、遅めに起きてくると、郵便が来ていた。お遍路で「頑張りさん」とニックネームをつけた、掛川のSさんから、遍路記録「おじさん独り 38日間 四国遍路歩記」が送られて来た。A4版56ページのアウトプットをファイルしたものであった。午後、さっそく読み始め、およそ3時間ほどで読み終えた。

「頑張りさん」は、後半秋に高知から歩き始めた自分と前後になって歩き、しばらく同行したりしたが、朝誰よりも早く宿を出て、足の痛いのも何のその、懸命に歩く姿から、「頑張りさん」とあだ名を付けた。氏の遍路記録の中にも、頑張りすぎてしまう自分のことが書いてあったから、あだ名もまんざらいい加減な印象では無いことが確認できた。

「頑張りさん」は、足の痛みが危惧していた痛風かと思って、持参の薬を増やしたりしてみたが、結局痛風ではなくて、軽登山靴に足を痛めたようで、湿布などの治療で克服できたのだという。お遍路はスニーカーで十分で、軽登山靴では足を痛めると思う。自分は足先に余裕のある軽く柔らかいスニーカーで、靴紐は足先の方はしっかり締めないように履いたのが良くて、マメもほとんど出来ないで歩けた。

高知から先では、自分とは後になったり先になったり、同行したりで、最終的には二日ほど先行して結願された。自分よりもはるかにたくさんの人と交流を持ち、八王子の男性や、浜松の女性など、後日自分が追い付いて言葉を交わした人とおそらく同じ人だと思った。その外、自分にはお馴染みのお遍路仲間が少しずつ場面が変わって出てきて大変楽しい。自分と少しコースが変わると、全く知らない道中になり、そんなところもあったのかと興味深く思った。

お遍路仲間から自分のお遍路の姿を書かれて、不思議な気持がした。周囲のあらゆるものに注意を払って記録もしてきたが、一番近くにあって描けていなかったのは、お遍路をする自分の姿であった。それを他者に描かれて、悪いものではないなと思った。散々にお遍路仲間のことを書いて、どうかと思ったが、たとえ悪口でも、自分の姿の一面なのだから、怒る気にはならないものだと感じ、少し安心をした。

「頑張りさん」はお酒好きで、追加のお酒を頼んで、何度かお遍路さんはそんなに飲んでは明日に差し支えると、ストップを掛けられている。下戸の自分としてはお酒の雰囲気でコミニケーションを取る姿を読んで、お酒が飲めるのも悪くないなあと思った。

一息に読んでしまって楽しかった。「頑張りさん」は外へは出さないと書かれていたけれども、リクエストすればプリントして送って頂けるのではないかと思う。

佳境に入っている頃、電話があった。名乗られて、一瞬だれ?と思ったが、昨日、梨を送っていただいたと書いたTさんの奥さんだった。「のんき夫婦」とやや失礼なニックネームを付けた、千葉のご夫婦である。頼んであったのが、送った後で連絡をもらい、前もってハガキも出す間も無く、突然で失礼しましたという。ご夫婦はこの春に第39番延光寺から続きを歩き始めた。しかし途中で奥さんが足の筋を痛めてしまい、途中になったが、ようやく疵も癒えて、10月か11月に残りを歩く予定で、この夏、朝4時半に起きて、涼しいうちに歩く訓練を少しずつしているという。今度出かける時には「四国お遍路まんだら」を持って、参照しながら歩くと話してくれた。結願したら、連絡をくれるように話して電話を終えた。

この日に偶然にもお遍路仲間の二人から便りがあって、一日お遍路のことをいろいろと思い出していた。
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暑さ寒さも彼岸まで

(いただいた「しろいの梨」)

朝晩はやや涼しくなってはいたが、昨日まで猛暑の夏が続いていた。この夏は日本国中で数々の暑さの記録を塗り替えてきた。今日は彼岸の中日、秋分の日である。昔から「暑さ寒さも彼岸まで」といわれてきた。だからというわけでもないのだろうが、今日は一日雲に覆われ、時々雨の天気で、気温もぐっと下がった。もうこれ以後は猛暑という日は無いであろう。午前中に、雨の合間をぬって、女房の実家のお墓参りに息子を伴って出かけた。

午後は今はまっている、今野敏の「隠蔽捜査3 疑心」を一気に読んだ。警察小説というのだろうか、大変面白い。部下の署員に上司からすると箸にも棒にも掛からない巡査部長が出てくる。この男、獲物を追う猟犬のように捜査能力は高いが、組織におさまらず、勝手な捜査をして、上司を馬鹿にするような態度を露骨に見せる。この男と同じような人材が会社にもいたのを思い出し、どのように使っていくのか、興味津々で読んで行った。結局、この男が主人公の危機を救う活躍をするのであるが、自分の経験と共通点を見出して、納得しながら読んだ。

先程まで俳優の仲代達也の「赤秋」というドキュメンタリー番組を見ていた。多分再放送で、最初の放映の時の記憶が残っていた。奥さんを亡くして9年、演出家、脚本家の奥さんとは、無名塾という俳優養成塾を、まさに二人三脚でやってきた。仕事の上でも最愛のパートナーを失って、にじり寄る老いに、もうかつてのように台詞がすんなり入ってこない中で、「ドライビング・ミス・デイジー」という演劇に取り組む。(今調べていて、「ドライビング‥‥‥」は2005年上演というから、この番組も5年前の番組であった)

「赤秋」とは青春、朱夏、白秋、玄冬という、人生を四季に例えた言葉のうち、「白秋」を言い換えた、仲代達也の奥さんの造語だという。老年を白秋などと達観した季節ではなくて、秋の紅葉のように鮮やかな生き様をめざした言葉である。

自らを省みて、60代は人生で最も良い年代だと話した遍路宿の主人の言葉ではないが、様々なしがらみから次々に解き放たれて、今までやりたくて出来なかった色々なことに挑戦できる、人生において最高の年代であると思っている。そういう意味では青春ならぬ「赤秋」を謳歌しているといえる。しかし、最近、入院・手術をした友人を見舞って、この赤秋の世代にも、突然の寒さの朝があって、鮮やかに山を彩った紅葉を一日にして散らしてしまう、落とし穴があると実感した。

お遍路で知り合ったTさんから「しろいの梨」という、初めて見る大きな梨を送っていただいた。その大きさから「土佐文旦」を思い出した。Tさんに感謝である。早速礼状を送らねばならない。
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あってはならない検察庁の犯罪

(実りの上に中秋の名月)

昨日の夜、ニュース速報のテロップで、大阪地検特捜部の主任検事の逮捕のニュースが流れた。容疑は証拠改ざんである。検事が犯罪に手を染め逮捕されることは無いことではない。検事といえども人間だから、そういう検事が出ても検察官の制度が云々されることはない。しかし、検事が証拠の改ざんをするような犯罪は決してあってはならない。検察官制度を根底から揺るがす犯罪である。検事が証拠を改ざんしたのでは、どんな罪も捏造できてしまう。

前代未聞というが、今回の発覚は氷山の一角という表現もあるかもしれない。警察が犯罪を捜査し送検する場合は、起訴までに検察を通りチェックされるから、まだ少しは安心と思うが、検察庁の特捜部が直接捜査する案件では二重チェックがないから余計に怖い。

佐藤優著「国家の罠」で、「国策捜査」という言葉を知った。著者は検察官から「国策捜査」に引っ掛かったものは、どんなに抗っても逃れることは出来ないといわれたと書いている。どんなに抗っても、検察官が書いたシナリオ通りに証拠を整えていくと言われたという。

特捜部の検察官は国家国民のために巨悪と戦っているとの自負心が暴走して、何でも許されると勘違いしているのではないだろうか。検察官の権力は強力である。政治家の権力は一応有権者が選挙で選んで与えた権力である。しかし、検察官の権力は国民が選んで与えた覚えはない。悪と闘い正義を実現してくれると思えばこそ、その権力を容認しているのである。

この主任検事は、証拠改ざんについて、触っていたら間違って更新日付が変わってしまったと弁解している。確かにフロッピーディスクの最終更新の日付はフロッピーをパソコンで読み出して、保存すれば更新されてしまう。しかし、その場合、更新された日付はパソコンが保持しているその日の日付であって、「2004年6月1日」の日付が「2004年6月8日」になるというような更新日付にはならない。「2004年6月8日」に更新日付を変えるには、パソコンの現在の日付を「2004年6月8日」に変えておいて更新するという細工をしなければならない。フロッピーの押収までには何年か経っているはずで、間違ってその日付になることはありえない。

改ざんをした時点で村木氏の関与が無かったことははっきり確認したはずで、それ以降の検察の作業はすべてでっち上げのための作業だったことになる。そんな仕事をしていて何も疑問を感じないとすれば、我々は一般人の感覚とはずいぶん離れた歪な感覚の人に権力を与えてしまっていることになる。これは恐ろしいことである。

逮捕された主任検事は今回の事件で中心になって指導する立場にいた。検察庁特捜部のエースといわれ、今回の村木氏の事件も起訴に持ち込んだ当人である。国民はこの事件を検察庁の犯罪として認識してしまった。だから検察庁はたとえ手柄を焦った一検事の犯罪と片付けようとしても、それでは済まないと思う。

もしかしたら、先頃、刑が確定し議員バッチを剥奪された鈴木宗男氏も、本人が主張するように、検察がでっち上げた冤罪だったのかもしれない。もしそうなら、検察は国民が選んだ罪の無い議員を引き摺り下ろす大罪を犯したことになる。
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猛暑の夏、冷茶から考える(下)

(葛の葉下に咲く葛の花-大代川の土手)

(一昨日から続く)
熱湯で出しても苦くならないお茶が欲しいと書いた。素人が何を言うかと、お咎めを受けるのを覚悟して、書いてみようと思う。これ以後の話は科学的根拠が何も無い話である。

目標は熱湯で出しても苦くならないお茶である。苦味の成分はタンニンやカテキンである。この成分が少ないお茶を作ればよいわけである。お茶になるすべての工程でそういうお茶を作る努力が出来ると思う。つまり品種改良-栽培方法-製造過程-仕上過程の各工程で考えられる。

まず第一に品種改良について考えてみる。何年前であったか、熱湯で入れても苦くならないお茶が発売された。「マリシ」という名前であったかと思う。量が少ないこともあって高い値が付いたにも関わらず、飛ぶように売れたと記憶している。靜岡の山奥でひそかに作られたお茶で、自分も飲んでみた記憶がある。作っていた人が亡くなって、茶園の場所が判らず、幻のお茶になってしまった。その茶園が最近見つかって、その穂が採られ、増やす試みがされていると聞いた。その茶の樹が量産が出来る平地に植えられて、なおその性質を保つならば、そのまま朗報に繋がるかもしれない。

少し観点を変えて、苦味の成分をどうして茶の樹が持つようになったのかを、考えてみれば、茶樹はその葉を動物や害虫に食べられないように、自己防衛のために苦味成分を持つように進化したのだと思う。茶樹の進化の過程で苦味成分の少ないものもあったはずで、それらは動物や害虫に葉を食べられて、淘汰されてきたのだと思う。茶樹の品種改良の中でも、苦味成分の少ないお茶は害虫などに弱いものとして、品種改良では排除されたと想像できる。苦味成分の少ない品種を得るためには真逆の品種改良をすればよい。

栽培方法では白葉茶の栽培方法が一つの方向性を示している。被覆をする栽培はすでに広くなされている。肥培管理にも工夫が出来るかもしれない。玉露は一つの到達点かもしれないが、大量生産と大衆化という点で課題が残る。

製造過程では様々な工夫がされているが、熱湯で出すことが出来るというハードルは越えられていない。製造過程で苦味成分を分離することが出来れば面白いのだが、煮出して抽出では意味がない。何か新技術が欲しい。紅茶のように発酵によって性質を変えてしまえばよいが、それでは緑茶ではなくなり、緑茶が持つ旨味成分も損なわれる。

仕上過程では色々と工夫がされている。焙煎もその一つだし、水出し冷茶などもその一商品かもしれない。しかし、熱湯で入れても美味しく飲めるお茶にはまだ至っていない。

茶業界で一つの目標を示して、コンテストとしてそれぞれの工程で工夫が始まれば、色々面白い商品が出来てくると思うのだが。それは急須と湯飲みで湯冷ましして飲むことを啓蒙するよりも、ダイナミックで大きな可能性を秘めていると思う。
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