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高山辰雄展-資生堂アートハウス

(資生堂アートハウス)

今朝から雨で随分涼しくなった。何週間ぶりかで女房と出かける。雨のときは美術館などに出かけるのが良い。時間を気にしないでゆっくり観賞出来る。最近、新聞で掛川の資生堂アートハウスで高山辰雄展があると出ていたことを覚えていた。新聞記事を探したが見つからなかった。確か、最近亡くなり、遺作展のようであったと記憶していた。11時過ぎに家を出て、第一にそこへ行くことにした。

掛川の駅南に出て、5分ほど西へ進んだ右手に、資生堂の工場があり、その一郭に資生堂アートハウスもある。車を駐車場に停め、雨の止んだ緑地の中をアートハウスに進んだ。アートハウスを訪れるのは初めてであった。入場無料というのが嬉しい。

高山辰雄画伯については、今年9月14日、肺炎により95歳で亡くなったばかりの、日本画壇の最高峰と言われた画家である。新聞でチラッと読んで、その程度しか知識が無かった。この展覧会は高山画伯が協力して準備されてきたようで、亡くなって半月、最初の遺作展になってしまった。もちろん、高山辰雄展のパンフレットにも画伯が亡くなったことは書かれておらず、後で購入した図版集には死去の報が別刷りで貼られていた。

絵の前に立って、この人の絵は見たことがあると思った。1987年から1999年まで13年間、文藝春秋の表紙の絵を担当されていたと知り、それを見ていたのだろうと思った。

館内は鑑賞に邪魔にならない程度の入りで心地よい。展示室に置かれた椅子に坐ってお休みの男性もいた。余りの心地よさに寝込んでしまったという風であった。特に最近描かれたと思われる絵には、鑑賞者をやわらかく包み込み、眠りを誘うようなところがあった。


(高山辰雄展)

自分が気に入った絵が二枚並んでいた。いずれも大作で、一枚は「音」という作品で、画面いっぱいに里から続く荒々しい雪山が描かれた白基調の絵で、良く見ると中央の下の雪の小道に、雪まみれになった画家の分身と思われる人が一人、雪山に向かっている。どこへ行こうとするのか、行く手には雪と山だけで、人家の影すらない。もう一枚は「夜の風景」という作品で、闇の街角、並んだ暗い街灯に建物がぼんやりと続いている。空と建物、建物と道路の境さえもはっきりしない。道路の中央に洋犬が一匹たたずみ視線を道に落としている。犬はどこへ行こうとしているのか。こちらに来れば飼い主が居り、向こうへ行けばたちまち闇の中に紛れてしまいそうである。

ゆっくり回ってくる女房を待ちながら、その2枚の絵の見える椅子に長く坐っていた。ああ、眠気が襲ってくる。
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かさのふた峠

(久し振りのムサシ)

故郷の「電気屋さん」から書き込みを頂いた。故郷の兄の知り合いでこのブログのことを聞いたらしい。律儀に最初のページから見ていただいたようである。その中で、故郷に「かさのふた峠」というのが存在しているらしい。知らなかった。

さっそくネットで検索してみた。一件だけ「かさのふた峠」に触れたホームページにたどり着いた。「但馬往来見聞録」という「国土交通省近畿地方整備局 豊岡河川国道事務所」のホームページである。そこで紹介されているのは「かさのふた峠」という民話であった。そのまま転載するのは気が引けるので、内容を紹介してみる。

豊岡市日高町八代から日高町河江に行く間に「かさのふた峠」がある。河江は大岡山にいたる途中の集落である。大岡山は、今はどうか判らないが、市の真ん中にある、母校、豊岡小学校からも西の方角にその平らな稜線が見えていた。今は車も通れる道になっているようだが、昔は山を越える細い峠道があり、奥の集落と八代をつなぐ唯一の道だった。

昔、後鳥羽上皇第三皇子の雅成親王が但馬の国へお移リになった時、重い“できもの”が出来て、大岡山のふもとの大岡寺という古いお寺に、快癒を願って十七日間のお籠もりをした。しかし、満願の日になっても快癒ならず、山を下り峠まで来て、大岡寺のご本尊の方を向いて、「お薬師さまに病気回復のお願いをしましたがだめでした。病気のわが身よりも仏さまの名声に傷がつきはしないかと、そのことが気かりです」という歌を詠んだところ、山の方から、

  「村雨は ただひとときの ものぞかし おのが身のかさ そこにぬぎおけ」

「村雨は、ひとしきり降っては止む雨です。あなたが身につけているかさ(「かさ」は笠とかさぶたを掛けた掛詞)をそこにぬぎなさい」とお薬師さまの返歌があり、たちまち、親王の“できもの”のかさぷたが落ち、病気が直った。それから後、この峠を「かさのふた峠」と呼ぶようになったという。


雅成親王はお薬師さんを遠回しに脅している。お薬師さんは病気が治らないのは自分のせいではない。雅成親王が病気をつかんでいて離さないからだと言っている。この民話は多分宗教説話から出ているのであろうが、裏読みすると面白い。

このブログの「かさぶた」に予期しなかった意味が一つ加わった。「電気屋さん」ヒントをありがとうございました。
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M製作所の倒産

(ご近所から頂いたアケビ)

27日の午後、激震が走った。浜松の青果物選別プラントのメーカー、M製作所が地裁に民事再生法の適用を申請し、事実上倒産した。興信所からのファックスでそのニュースを知った。

同じ農業関連プラントメーカーとして、また常に先を行く会社として、目標にもし、何度か経営について教えを乞いに出向いたこともあった。常に気にしていたメーカーであった。

以前からけっこう受注の波が大きくて、いつの頃からか、経営者を銀行から迎えたというような噂も伝わっていた。売上もそこそこあり、少ないながら利益を上げていたから、まさかそこまで追い込まれていたとは考えてもいなかった。

いつの間にか、ジャスダックにも上場していた。負債総額123億円か、えっ、「在庫処理44億円」って何? 在庫処分ではなくて在庫処理? 売上高100億円の会社で在庫処理44億円はいかにも大きすぎる。55億円の在庫のうち、44億円が不良在庫だという。経営規模に比べて在庫の大きさを考えると気が遠くなるような量である。社長は気が付かなかったというが、いくらなんでもそれだけ不良在庫があれば気が付かないはずがない。

資料を持ち合わせていないから正確な話ではないが、何となく、粉飾決算の構図が見えてきた。例えば、子会社との間に売り買いを繰り返せば売上はいくらでも増やせるし、利益の確保も容易である。しかし、その結果は棚卸の評価額がドンドン上がり、売掛金も増大していく。だから、見る人が決算書を見れば一目瞭然だろう。内部で財務内容の検証を進めた過程で判ったと夕刊には出ていたが、会社の会計を扱っていれば、検証しなければわからないような内容ではない。

経営が苦しい時、経営者は粉飾決算の誘惑に駆られる。しかし粉飾に手を染めれば、あとは坂道を転がり落ちるようなものである。本来ならば、大幅なリストラをやらなければ持たない状態でも、粉飾して利益が出していればリストラも出来ない。粉飾決算の怖いところである。労働組合がなかったことも、重要なチェック機能を欠いていた結果になった。

M製作所の倒産は他人事ではない。他山の石として肝に銘じなければならない。
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能登の段駄羅通り

(桜ヶ池でもナガサキアゲハを発見)

昨日、帰りのカーラジオで能登の輪島の段駄羅通りの話を聞いた。

今年の3月に発生した能登半島地震で、能登の観光地では風評被害によって観光客が激減した。やっと戻りかけた7月、さらに中越沖地震に追い討ちされて、なかなか観光客が戻らない状態が続いている。何とか観光客を呼び戻したいと、輪島で「段駄羅」と呼ばれるの作品を標札にして掲げた、「段駄羅通り」が出来たという話題であった。

段駄羅(だんだら)と聞いても、何なのか理解できなかったが、放送を聴いていて何となく判った。「だら」というのは能登では「バカ」のことであるが、どちらかというと優しい言い方で、「バカ言って」というようなニアンスである。

段駄羅は輪島に伝わる言葉遊びであった。五七五の中七に発音が同じもしくは似ている二つの意味を持つ言葉を置き、上の句が一方の意味とつながり、下の句がもう一方の意味につながるという雑俳の一種である。いわば少し高級な駄洒落の句といったところか。

「段駄羅」は江戸時代中期に俳句が変形し、1日坐り手仕事をしている輪島漆器職人の間で流行り、今日に伝えられているという。

ラジオで紹介があった秀逸を2句を読んで見ると「段駄羅」が何たるかが良くわかる。  

   愛してる 私と居てよ/渡しといてよ 請求書
   能登地震 予期しなかった/良き品買った 朝市で
 

上と下とは全く関係のないことでもいいのだが、いい作品は上と下とが何となくつながりを持っているような作品がいい作品のようだ。

「段駄羅通り」は輪島市内の中心部、約2キロの間に、標札130点に市民たちの段駄羅作品が書かれて掲示されているという。

駄洒落の得意なお父さん達はチャレンジして見る価値がありそうだ。かく言う自分も先ほどから作品を一句ものにしようと考えているのだが、駄洒落ならボンボン出るけれども、段駄羅にまとめるとなるとけっこう難しい。

何とか一句、二句(自作であるが、類似句がありそうだ)、

   喘息は 苦し、痰あり/キリシタンあり 天主堂
   待望の ゴール決まった/強力待った 山の小屋


輪島では投句も出来るようだ。
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なぶら館で “まぐろづくし”

(まぐろづくし)

日曜日、おひつ納めの後、同じ御前崎市の「なぶら館」に行く。目的は少し遅い昼食を食べるためである。ちなみにこの「なぶら」は漁師の言葉で「カツオの群れ」のことだという。車中で御前崎のSホテルの話が出た。下の娘は亭主と灯台に遊びに行った時、廃業したようで、更地になっていたという。女房はおしまい頃に行ったら、バイキングといってもろくなものが出なかったと話す。Sホテルは有名な幽霊スポットだったという話を聞いた。潮流の関係か、Sホテルのすぐ前に死体が漂着することが一度ならずあったという。この世に思いを残した死者たちが出て来たのだろう。そんな話をしたが、信用されなかった。

なぶら館には今日も客が「群れ」ていた。下の娘のリクエストでお寿司屋さんに入った。「まぐろづくし」と味噌汁を注文した。見本では「おべっこう」が8個並んで美味そうに見えた。静岡県中部地区ではにぎりやちらしに使うマグロの薄切りの切り身のことを「おべっこう」と呼ぶ。この地方だけの言い方のようだ。静岡に来てはじめて知った。

出てきたら、魚の大きさはまずまずだが、シャリが少し透けて見える。そんなに薄く切ったようには見えなかったが女房は見本と違うという。シャリも少ないというがシャリの少ないのは魚を味わってもらうためだろう。自分は値段なりに美味しいと思ったが、女房は不満のようであった。マグロも値上がりし、今までのようには食べられない時代が来る。贅沢言っちゃいけない。

味噌汁の具はその時々で違うらしく、店員に聞いてくれと書かれていた。聞くこともしなかったが、何か得体の知れないものとして食べた。後で魚屋さんに並んでいるのを見て、多分「サケの白子」だと思った。一盛、300余円と安い。女房は次は別の店で食べようとまだこだわっていた。見本がきっと出来すぎで、きっと美味そうに見えたのであろう。
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桜ヶ池の奇祭「おひつ納め」(後半)

(おひつ納めの行列)

(前半から続く)
拡声器で、12時半に宮司さんの家から行列がやってくるという。道路に出て待っていると、先頭に制服の消防団員二人が、細い竹を路面上で振りながら露払いをして、行列がやってくる。ドン、ドン、ドンの太鼓の音に合わせて、珍妙なテンポで宮司さんをはじめ、30人余りの白装束に烏帽子の行列がやってきた。旗や五色の吹流しが色を添え、中程に高下駄を履いた天狗が一人、金糸の装束をまとっている。行列の最後に、御櫃納めを奉納する若者が10人ほど、簡略な白装束に身を包んで続いた。

行列はそのまま池宮神社の本殿に上がり神事があった。祭神がお御輿に降りて、お御輿の行列が池を見下ろせるお旅所に進んで行った。行列とは別に白い六尺褌姿の若者たちが池の端に進む。頭は茶髪ながら泳ぎを鍛えた男たちの身体は褐色で緩みがない。まず小舟に五色の吹流しを立てて、二人の若者がゆっくりと櫓を漕いで池の中央に出る。後を追うように一人また一人と間隔を空けてゆっくりと岸辺から泳ぎ始めた。真っ直ぐ池を横断して、放送では「奥池」と言っていたが、向こう岸の照葉樹林の陰に隠れて行く。


(おひつ納め-遠くてよく写っていない)

間もなく、同じ場所から、一人づつ間隔を空けて現れる。今度は顔の前に浮かべたおひつと一緒に、池に中央へ泳いで来る。おひつを水上で回すのを合図に、両手をおひつに掛けて一気におひつを沈める。中に赤飯の入っているからおひつはそのまま沈んでいく。同時に岸辺の旗が上がり、鐘楼の鐘がゴーンとなる。観客席から小さく拍手が起きた。沈めたら元の対岸に泳ぎ戻って、次のおひつを持って来る繰り返しである。本日のおひつ納めは何と90個もあり、奉納した人々の名前が紹介される。

観客が目に見えて減ってきた。あまりに単調な繰り返しに観客が飽きてきた。そばの子供たちが縁日で買ってきた麩(ふ)菓子を池に投げ入れる。大きく育った鯉の群れが麩菓子を水音を立てて取り合うのが面白いらしい。ついついそちらに目が奪われてしまう。赤飯を食べ尽くして、空のおひつを水面に戻して寄越す犯人は、この鯉たちだろうと思った。

一時間たって、我々も池の畔を後にした。還る道すがら両側に並んだ縁日の店に沢山の子供連れが群がっていた。池の畔から居なくなった人たちがこんなところに滞っていた。
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桜ヶ池の奇祭「おひつ納め」(前半)

(おひつ納め直前の桜ヶ池)

御前崎市の桜ヶ池に「おひつ納め」と言う奇祭がある。テレビなどではよく見ているのだが、実際に見たことはなかった。一度は現地におもむき、この目で見てみたいと思っていた。今年はぜひ行ってみようと女房と話し、たまたま遊びに来た下の娘を誘って3人で出かけた。

桜ヶ池に入る道は通行止めになっていて、道路沿いに有料駐車場があった。規制をしている警備員に聞くと、少し離れた所に無料駐車場があって、シャトルバスが通っているという。案内通りに車を進め、無料駐車場に車を停めた。シャトルバスに乗り込むと、待っていたように我々3人だけ乗せてマイクロバスが出た。池に一番近いところまで入ってくれる。相良の草競馬や岡部の龍勢でも出ていたバスで大変便利である。


(水向けの杓)

まだ始まるまでに一時間半ほどある。神社の鳥居の元に、かんなくずを丸めて細い柄を通した底のないひしゃく状のものが大量に作られ、一本20円で売られていた。「水向けの杓(ひしゃく)」といわれ、底がないといわれる桜ヶ池に由来し、お彼岸にご先祖への供養に水向けするためのものである。多分おひつを作ったときに出たヒノキのかんなくずなのかもしれない。池のそばには水を手向ける場所が作られていた。水辺にはシートを敷いた団体名の入った指定席と、一般席もあった。話が尽きない女房と下の娘を一般席の場所取りに残して、池の畔をうろうろした。

域内の公園にあった案内板によると、
桜ヶ池は約二万年前に出来た砂丘堰止湖です。県立自然公園の一環にあり、静岡県の自然百選の森にも選ばれた神秘な原生林に囲まれた県指定名勝地です。
桜ヶ池のほとりにある池宮神社の祭りに、五穀豊穣を祈るため、秋の彼岸の中日に行なわれる「おひつ納め」(県指定無形民俗文化財)がある。
平安末期、比叡山の名僧皇円阿闍梨(あじゃり)が衆生救済の為、龍蛇と化して入定され池の主神となられた。この霊を高弟の浄土宗開祖法然上人が供養の為に檜づくりのおひつに赤飯をつめ、一つは池宮神社に、一つは師の皇円阿闍梨にと池心に沈めたことから始まり、以来今日まで続いている。奇祭で遠州七不思議の一つにあげられている。


「おひつ納め」のあと何日かして、空になったおひつがポッコリと浮かび上がるといわれ、竜神が食した証拠だとされる。またそのおひつが竜神伝説の残る諏訪湖に浮くとも言われ、桜ヶ池が諏訪湖と地底でつながっている証拠だとされる。「おひつ納め」が「遠州七不思議」の一つに数えられる由縁である。(後半に続く)
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飲酒運転厳罰化に一言

(Oさんから頂いた菊の鉢)

19日から飲酒運転の厳罰化がさらに強化された道路交通法の改正があった。酒酔い運転は「3年以下の懲役又は50万円以下の罰金」から「5年以下の懲役又は100万円以下の罰金」に、酒気帯び運転は「1年以下の懲役又は30万円以下の罰金」から「3年以下の懲役又は50万円以下の罰金」に強化された。さらには飲酒検査拒否やひき逃げなどの罰則が強化された。そして、運転者だけではなく、飲酒運転を知りながら車を貸した者、飲酒運転のおそれのある者に酒類を提供した者、飲酒運転に同乗した者などに新たに罰則が出来た。

飲酒運転で大事故が起こり、幼い命が亡くなった。何とかしなければという世論が起こり、それに乗る形で罰則が強化されたのはそんな昔のことではない。もちろん罰則が強化されて事故は減ったが、無くなったわけではなかった。しかし、だからといって矢継ぎ早やの今回の罰則強化には疑問を呈したくなる。

自分はお酒も飲まないし、酒酔い運転の可能性は全く無い。だから罰則が強化されても関係は無いのだが、マスコミの報道を聞いていると、賛成の論調ばかりで、罰則強化に批判の声を聞かない。

警察力の低下を罰則の強化でカバーしようという考え方は安易だと思う。それでは経済犯でも場合によっては公開死刑にし、見せしめにしている中国の発想と同じである。中国では13億の人口に管理が届かなくて、見せしめに頼らざるを得ない事情がある。

罰金が払えない人はサラ金に走るか、いっそのこと破産してしまうかしかない。一方、罰金を払えるような人は社会的にそれ以上の制裁を受けてしまう。先日、浜松市の職員がバイクの飲酒運転で捕まり、新しい規則で免職になった初例だと言っていた。どちらにしても、罪の無い家族まで路頭に迷うことになりかねない。それでは別の社会問題まで興しかねない。事故を起こしてしまった人はやむを得ないが、違反者にそこまで大きな鉄槌を加えることが本当に社会正義なのだろうか。

どう言っても、出来てしまった法律はどうしようもない。少なくともこの法律が乱用されないことを望む。酒類の提供や飲酒運転への同乗など、別件逮捕の格好の理由になりそうだ。

最後に一つ提案がある。本当に事故被害者のことを考えての法改正なら、強化した罰金の一部を被害者救済の基金にしてはどうであろう。こんなことを書くと、出来ない理由が五萬と出て来ると思う。しかし、出来ない最大の理由は、今回の法改正に被害者救済の発想など、これっぽちもないことではないのか。
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キムタクが豪邸を建てた大岩町

(城北公園の日本庭園)

昨日、静岡の不動産屋さんと話す機会があった。話が最近の地価の動きに話になって、商業地は値上がりに転じているが、住宅地も値下がりの幅が小さくなったというニュースの話をしたところ、静岡では西草深、東草深辺りの住宅地の地価がずいぶん高い。あの辺りは昔からお屋敷町で雰囲気が好まれるのか、静岡ではあの辺りに住みたいという要求が多いという。昔から駿府城勤務の武家屋敷があった地域なのだろう。静岡ではあの辺りは山の手で、反対に安倍川に寄った地域が職人などが住んだ下町になる。

学生時代、あの当りをうろうろしていて、緑のある落ち着いた住宅地だと思った。しかしそれぞれの家は小振りで、そんなに屋敷が広くて豪華な住宅があったようには記憶していない。あの辺りに住む友人の家に招かれて、関東風の割り下を使ったすき焼きをよばれ、これはすき焼きじゃない!と思った記憶がある。昭和の質素な典型的な民家だったような気がする。

自分は草深とは隣りの大岩町に昔4年間住んでいたと話したところ、不動産屋さんが、最近、あのキムタクが大岩町に豪邸を建てたという話をした。キムタクは子供が身体が弱くて、あの近くの静岡こども病院に通うために家を建てたのだという。あれほどの時代の寵児にも人に知れない苦労があるのだと思った。不動産屋さんの話はそれだけに終らなかった。そのせいではないのだろうが、今、大岩町に住みたいとアパートやマンションを大岩町に探す人が大変多いのだという。静岡大学の跡地がそっくり城北公園として、広くて大きな木々が立ち並ぶ緑地になっていた。中には日本庭園もあり、背後の賤機山も含めて環境が大変良い町になっている。そんなことも人気の理由かもしれない。

先日、何の会合だったか、パーティで浜松の大学へ通うアルバイトのコンパニオン嬢と話をした。大学を卒業したら静岡に住みたくて、静岡に就職を探していると話していた。浜松もいい町だろうと聞いたが、やっぱり静岡だという。彼女もいずれ大岩町居住希望の一人になるのかもしれない。往時、むさくるしい学生がうろうろしていた大岩町がそんな人気になるとは隔世の感がある。
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健康診断を受けた

(女房が近所の路傍で見つけたナンバンギセル)

今朝、会社の健康診断を受けた。毎年受診していて、まだ人間ドックには行ったことがない。勧められもするが、出来たら病院には行きたくない。聞いてみると健康診断の検査項目と人間ドックの検査項目はほとんど変わらないから、そんなに必要を感じない。どうして人間ドックに行かないのかと強いて聞かれれば、病院が嫌いだと言うことにしている。

病院は病気を治すところだが、反面病気を作るところという偏見を持っている。あるお医者さんが年に一回の定期検診に元気に病院に行ったが、どうしたわけかそのまま入院となり、寝たきりの結果亡くなったという話も聞く。検診の時にタイミング悪く発症して、寝たきりになってしまった、と思うほど自分は人は良くはない。採血だけならいいが、注射が信用できない。体内に直接何かを入れられるのは、たとえ造影剤と判っていても遠慮したい。

そういえば昨日のNHKの「その時歴史は動いた」という番組で、昭和30年代の後期、岩手県の村長さんの話を取り上げていた。高度成長が始まったころ、都市部では豊かな暮らしが始まっていたが、岩手県の山村では赤ん坊がたやすく死ぬ状態が続いていた。乳幼児死亡率が全国でも最悪であった。岩手県沢内村の深沢村長が立ち上がった。何としても「乳児死亡率をゼロ」にする。様々な取り組みの中でも乳児医療費の無料化では法律違反を覚悟の政策だった。

「国民健康保険法に違反するかもしれないが、憲法違反にはなりませんよ。憲法が保障している健康で文化的な生活すらできない国民がたくさんいる。訴えるならそれも結構、最高裁まで争います。」

そして。昭和38年1月1日午前0時、ついに沢内村が乳児死亡率ゼロを実現した瞬間であった。日本が世界一の長寿国へ登って行く最初の第一歩が沢内村にあったともいえる快挙であった。やがて同じ取り組みが県内の各市町村、岩手県、そして全国へと広がって行った。

金権政治や箱物行政、次の選挙に勝つことしか考えていない地方行政の長が目立つ中に、深沢元村長のように、わが郷土の人々のために文字通り命を賭している地方行政の長がたくさんいると思う。メディアももっと積極的にそんな人たちを紹介し応援すべきである。
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