goo

第七番 十楽寺 ~ 第八番 熊谷寺


(十楽寺本堂・大師堂)

5月8日、十楽寺の宿坊の朝、6時30分から朝の勤行に出る。手ぶらでよいと言われたからそのまま行く。実際には念珠だけは持ってきた方が良かったと思った。勤行のあと、住職から勤行のマナーについてアドバイスを頂いた。念珠の持ち方、お線香は真ん中から差すのが礼儀、ロウソクは上の段から差す。一杯になっていたら、火が付いていても下へ落として、自分のロウソクを立てて問題ない。(ロウソク立ての底には水が張ってある) 納め札に書く住所は正確に書かなくても町の名前を書くくらいで十分である、など注意事項を話してくれた。納め札の住所のことは、売店のおばさんも同じ話をしていた。しっかり住所を書いても、お寺では使い道はないし、納め札が納札箱から抜かれて、悪用されることがあったのかもしれない。


(十楽寺竜宮門、右の建物が宿坊)

昨日の雨はすっかり上がり、気持ちよく晴れた。8時に十楽寺の宿坊を出る。すでに境内には多くのお遍路さんが参詣に来ている。第七番札所 光明山 十楽寺、本堂と大師堂の勤行の後、竜宮門を出る。昨日も潜ったはずなのだが、山門が十楽寺も安楽寺同様、竜宮門だったことに気付かなかった。

十楽寺から4.2キロメートル、第八番札所 普明山 熊谷寺へは県道139号線の歩道を歩いた。団体バスツアーのお遍路さんが県道を熊谷寺へ向かったので、つられて県道を来てしまったが、地図によると熊谷寺付近まで200メートルほど南の旧道を歩くことになっていた。途中で気付いたが、今更戻る気にもなれず、団体さんの後を歩いた。歩調が合わず、途中で団体さんを追い抜いた。前方を見ると旧道から夫婦者が県道に合流してきた。旦那が先を歩き、奥さんが後を歩くが、少し視線を外しているうちに夫婦の差が100メートルほどついた。夫婦で歩いても歩調が違うとほとんど別行動になってしまうらしい。所々で旦那が奥さんを待つのであろう。


(熊谷寺多宝塔)

熊谷寺の参道脇に多宝塔があった。安永3年(1774)建立で、四国最古のものと案内板にあった。上重の組物から軒裏にかけて極彩色に彩色したあとが残っていた。


(熊谷寺本堂・大師堂)

山門を潜りさらに石段を登ると正面に本堂、左の急な石段を登った先に大師堂があった。団体さんは歩くのは熊谷寺までで、そこからバスに乗り込むようであった。


(熊谷寺仁王門)

熊谷寺を出て南に150メートルほど下った田の中に熊谷寺仁王門があった。県指定の文化財となっている。かつてはそこまで熊谷寺の寺域だったのであろう。遍路道は吉野川の広い河段丘を南へ下っていく。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

琴ヶ浜のお龍・君枝姉妹像

(琴ヶ浜のお龍・君枝姉妹像)

お遍路12日目、5月18日、琴ヶ浜を西へ歩いていくと中間を過ぎた辺りに、海水健康プールや野外劇場などの施設がある。そのすぐ先にお龍・君枝姉妹像が太平洋を望んで立っていた。お龍といえば坂本龍馬の妻であるが、お龍に姉妹がいたことを初めて知った。

案内板によると、お龍は京都の医師檜崎将作の長女で、君枝(起美)はその三女であった。龍馬はお龍の妹君枝を気づかい、海援隊士の菅野覚兵衛とめあわせることを望んでいた。龍馬の没後の慶応四年、菅野覚兵衛と君枝は長崎で結婚した。君枝、十六歳の花嫁であった。

菅野覚兵衛(千屋寅之助)は琴ヶ浜に沿った芸西村和食の庄屋の出で、千屋民五郎の三男として生まれ、土佐勤王党に加盟し、文久2年(1862年)山内容堂を警護する五十人組に参加し上京する。その時、坂本龍馬らともに勝海舟の弟子となる。海舟の進言によって幕府が神戸に設置した神戸海軍操練所にも参加し海軍を学ぶ。その後海援隊に参加する。君枝と結婚後、戊辰戦争に参加し奥羽地方を転戦、戊辰戦争後はアメリカに留学し、帰国後海軍省に入省、海軍少将にまでなったが、西南戦争の前哨戦「弾薬掠奪事件」に関係したため海軍の中では不遇に終わる。退官後、福島県郡山市の安積原野に入植し、開拓事業に参加するも、道半ばにて52歳で死去。

お龍は龍馬を失ったあと、明治元年から一年余り、妹の嫁ぎ先千屋家に身を寄せた。おそらく、その後の自らの身の振り方など悩みもあったに違いない。妹の君枝も千屋家に住んだ時期もあったというが、姉妹がそろってこの琴ヶ浜を散策するようなことが実際にあったのだろうか。芸西村の人たちは、お龍と君枝姉妹の追善をするとともに、義兄弟の龍馬と覚兵衛を記念するために、姉妹の像を建てた。平成5年完成した姉妹像は高さ1.7メートルのブロンズ製で、作者は浜田浩造氏(故人)。日本髪に着物姿の姉妹はお龍27歳、君枝16歳の頃を想定しての作といわれ、桂浜の龍馬像に向かってやさしく手を振る様子を表わしているという。

龍馬と同じ時に刃に倒れた中岡慎太郎は遍路道からは少し離れていたが室戸岬に銅像がある。そして桂浜の龍馬像は室戸岬に立つ中岡慎太郎像と向かい合っているといわれる。その視線の中に、お龍姉妹の視線が割り込んできたようで面白い。こんな想定が出来るのも、高知の海岸線が太平洋に開きながらも大きく弧を描いているからである。その弧状の海岸に沿ってお遍路道は続く。
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )

第五番 地蔵寺 ~ 第六番 安楽寺


(地蔵寺本堂・大師堂)

大日寺から下ってきて2キロメートル、午後1時50分、第五番札所 無尽山 地蔵寺へは高台の奥の院から入るようになった。雨に濡れる地蔵寺の奥の院に人影はなかった。右手に大師堂があったが、入るには正面から拝観料200円を払って入らねばならなかった。何か勝手が違う。入口で受付の老婆に支払って入ると、回廊になった建物に沿って、等身大で、極彩色に彩られた五百羅漢像がずらりと並んでいた。創建は安永五年(1776)だというが、大正時代に一度は焼けた羅漢像を、その後復興したものだとパンフレットにあった。


(奥の院の五百羅漢像)

暗い電灯に浮かんだ五百羅漢像は壮観であったが、ありがたみという点では欠ける。回廊の最後に大師堂があった。堂内で仏前勤行を終えて雨の中に出た。石段から見下ろすと地蔵寺が眼下にあった。ここの大師堂は違ったかもしれないと初めて気付いた。お参りに来ている人がいないのも変だと思った。下へ降りるとそこに本堂、大師堂、納経所が揃っていた。お遍路さんもちらほら見えた。奥の院の大師堂は地蔵寺の大師堂とは別であったようだ。


(地蔵寺の大銀杏)

本堂・大師堂と勤行を終えて振り向くと、境内の中央にイチョウの巨木があった。地蔵寺の大銀杏は別名「たらちね銀杏」と呼ばれる。1991年、環境庁の巨樹・巨木林調査によると、幹周囲5.42メートル、樹高20メートル、枝張り25メートルという。


(安楽寺本堂・大師堂)

地蔵寺から5.3キロメートル歩いて、午後3時40分、第六番札所 温泉山 安楽寺に着いた。途中、番外霊場の大山寺の標識が何ヶ所かあった。「番外」さんはそちらの方へ足を延したはずである。


(安楽寺竜宮門と多宝塔)

安楽寺の山門は竜宮城の門のような様式である。「竜宮門」と呼べばよいらしい。その竜宮門の両側に仁王像が収まる別棟の小さい建物が附属している。こんな建物様式は初めて見た。本堂も彩色されていたが、大師堂は彩色されていなかった。境内には多宝塔があった。赤い柱も鮮やかな平成になってからの建物である。

安楽寺の由来を記した案内板を見ると、山号を温泉山というのは、弘法大師が我が国に温泉療治の利益を伝えた旧跡であることを示している。江戸時代の霊場記にも、鉄サビ色の熱湯が出て諸病に特効があったという記述がある。現在も宿坊ではやさしい泉質の温泉で旅の疲れを癒してくれると記されていた。温泉大好き人間としては、ここへ泊まるのであったと悔しがった。

今日のお遍路は安楽寺で最後にしようと思った。気にしないつもりで歩いたが、この雨はけっこうめげる。天候が回復するであろうから、明日頑張ればよい。宿はあと1.2キロメートル歩いた7番十楽寺の宿坊であるが、十楽寺の参拝も明日の朝一番にすることにした。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

第四番 大日寺


(大日寺本堂・大師堂)

やや小振りになった雨の中、第四番札所 黒巌山 大日寺まで5キロメートルを歩いた。遍路道は山裾に沿うように続いている。金泉寺の山門前で写真のシャッターを頼まれた同年輩のお遍路さん(後に番外霊場も含めて回っていると聞いた。「番外」さんと呼ぼう)と前になり、後になって歩く。


(岡の宮の大クス)

岡上神社(岡の宮)にクスノキの巨樹があった。徳島県の天然記念物に指定されている。「番外」さんも足を止めて、立派なクスノキだと感心しながらデジカメに納めた。1991年、環境庁の巨樹・巨木林調査によると、幹周囲17.66メートル、主幹6.72メートル、樹高25メートル、枝張り34.7メートル、株が3つに分かれている。堂々とした樹相で参道を覆っている。

クスノキの巨樹をきっかけに「番外」さんと少し話をした。歩き遍路は2回目で、今回は番外霊場も含めて周るつもりで計画している。途中、番外霊場の大山寺に行くので道を逸れると話す。泊まりも自分とは違った。

遍路道にはこの後、「大師庵」「振袖地蔵」「金龍山蓮花寺」と小さな仏教施設が続いて現れる。天正十年(1582)、板西城主、赤沢信濃守は土佐の長曾我部元親と中富川の合戦を戦い、敗れて討ち死にした。その時、数多くの寺院が焼き払われた。三番金泉寺もことごとく焼失したと由緒書きにあったし、赤沢氏の菩提寺であった金龍山蓮花寺も焼失した。その後、叢から本尊十一面観音像が掘り出され、小さなお堂の「金龍山蓮花寺」に祀られている。また合戦の折に土佐方に切り殺された、赤沢信濃守の幼い姫カヨを供養するために「振袖地蔵」が建てられた。


(愛染院)

遍路道の通り道に、金鶏山 愛染院という小寺があった。山門には「四国三番奥の院」と書かれていた。金泉寺の奥の院という意味なのだろうか。歩き遍路への無人の湯茶接待所があった。この愛染院は藍染院に通じている。そういえばこの地域は藍染用の藍の古くからの産地である。途中に比較的新しい石碑があった。碑文によると、

岩田ツヤ子の碑(明治三十九年~平成九年没)
第二次世界大戦中、国の方策に依り、藍作りは食料増産の為、禁止作物となった。藍は一年草の為、毎年種を採り続けないと途絶えてしまう。叔父、佐藤平助の依頼を受け、憲兵・警察の目を逃れ、命がけで松谷の山奥で五・六年間種を採り続けた。この努力が基礎となり、戦後一早く佐藤家で藍作りが復活した。



(大日寺山門)

愛染院の先のうどん屋「萌月」でうどんを食べて、山中に入った。途中で参拝を終えた「番外」さんとすれ違う。12時50分、赤に彩色された塗料が剥げ掛かった山門を潜って、大日寺に詣でた。山門は階上が鐘楼になっていた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

第二番 極楽寺 ~ 第三番 金泉寺


(極楽寺本堂・大師堂)

雨の中、霊山寺から1.4キロメートル。時刻は午前8時45分、第二番札所 日照山 極楽寺は霊山寺に比べて嘘のように静かなお寺であった。目の付く境内の中央部に杉の巨木があった。「長命杉」という名前が付き、鳴門市の天然記念物になっていた。第一番と第二番札所は住所が鳴門市になっている。鳴門といえば鳴門の渦を思い出す者からすれば、この内陸部が鳴門だといわれてもピンとこない。


(長命杉)

案内板によると、弘法大師が四国霊場を開創のとき、当山において21日間修法を修せられたた後、当山守護の祈りを込めて、杉の木をお手植えされた。その杉は年月を経て巨樹となり、「長命杉」と呼ばれるようになった。千年の風雪に耐えた霊木で古来より老杉の霊気を受けると家内安全・身体健康を得、長寿を授かるとの言伝えがある。

1991年、環境庁の巨樹・巨木林調査によると、幹周囲4.65メートル、樹高15メートル、枝張り16.5メートルという。杉の生長からすると、樹齢1000年はかなり過大評価で、300年くらいが相当ではないかと思う。弘法大師お手植の杉だとすれば、おそらく2代目か3代目の杉ではないだろうか。初代が枯れて、伝説が2代目、3代目に引き継がれていくことはよくある例である。

長命杉の近くの軒下に熟年の男性お遍路が座り込んで、何やら懸命にメモを取っていた。まだ第二番札所で書くことがそんなにあるのだろうか。記録をまとめる目的をもって、お遍路に出たのであろう。ところで見渡したところ、境内に本堂も大師堂も見当たらない。納経所から出てきた作務衣の男に尋ねると、どちらも奥の石段を登った上にあると教えてくれた。

石段を登っていくとなるほど何人かのお遍路さんが般若心経を詠んでいた。本堂と大師堂でそれぞれ勤行を済ました。般若心経もつっかえつっかえ上げた。リズムをつかむまで相当かかるであろう。


(金泉寺本堂・大師堂)

第三番札所 亀光山 金泉寺は極楽寺から2.6キロメートルのところにある。午前10時30分、金泉寺に参拝する。ここの住所は板野町大寺という。由緒によれば、住所が現すように、この地には聖武天皇の勅願にて、天平年間に鎮護国家のため、金光明寺という大寺が立てられた。その後、お寺は途絶えていたが、ある時、弘法大師が水不足に苦しむこの地に井戸を掘り、住民はその井戸を黄金の泉と称え、弘法大師はこの地に金光明寺を再建し、金泉寺と改めた。


(金泉寺の多宝塔)

本堂の裏手の小高いところに、赤に彩色された多宝塔があった。時代は戦後に建築されたもののようだ。やや小振りの多宝塔であった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

第一番 霊山寺



(霊山寺本堂と大師堂)

もう、二十日ほど四国遍路について書き込んできた。その間、不思議に思われた方もいたかもしれないが、遍路の目的である札所の話を全く書き込んで来なかった。今回巡った30ヶ寺について、後日まとめて書き込もうと思ったからである。その時が来たようだ。

歩き遍路は一番から始めなければならない決りはない。四国の人たちは自宅に一番近い札所から廻り始める。そうすれば終わりがやはり自分の家に近いところで終る。九州の人たちは海を渡った松山の51番石手寺から始めるとも聞く。しかし大半の歩き遍路は一番からスタートする。

誰が意図したのか、お遍路は一番から順番に廻るのに実に都合よく出来ている。11番藤井寺まではお寺とお寺の間の距離が短く、短時間で多くのお寺が廻れる。しかし、お寺をたくさん廻れば廻るほど、参拝に掛かる時間が増えて、歩く時間も距離も限定的になる。参拝を札所のラリーのように考えて、ほとんど納経帳の記帳だけして廻る人は別であるが、一応定められた形式でしっかりと仏前の勤行まで行っている人は、せいぜい10数キロ位しか進めない。歩き始めは、ごく自然に、距離が限定的になる。歩き遍路はこの間に足慣らしが出来るわけである。

第一番札所 竺和山 霊山寺では、お寺の売店でお遍路の身ごしらえのすべてを整えることが出来る。買い揃えたものについてはすでに書き込んだ。身ごしらえを整えると、各札所で行うお遍路の作法と仏前勤行の次第について、売店のおばさんがごく簡単に説明してくれる。ここは出来れば僧侶か先達のような人に、一通り正しい方法を実地に教わる機会が欲しいと思った。大半の初心者は判らないまま見よう見まねで行うことになる。本当にこれで正しいのか疑問を懐いたまま巡っていくことになる。ベテランから見れば随分変な作法と仏前勤行になっているのかもしれない。


(霊山寺多宝塔)

5月7日は雨のスタートだった。午前7時40分、本堂と大師堂の順に仏前勤行を行った。納経帳の記帳はすでに買ったときに記帳済みになっているからここでは必要がない。たくさんの札所を回るから、記憶がごちゃ混ぜになるだろう。札所ごとに何か特徴をチェックしておけば、記憶の整理が出来るように思った。巨木、塔、滝なども、その特徴の一つになるであろう。お遍路でもそれらを積極的に見て歩きたいと思っている。さっそく霊山寺には多宝塔があった。明治15年(1882)の建造である。

上下をゴアテックスの合羽で固めて、ザックカバーを掛け、頭にビニールカバーの付いた菅笠を被り、金剛杖を突いて、霊山寺の門を出た。200メートルほど歩いて、売店のおばさんに、歩き遍路の人はノートに住所と名前を書いて行くように言われたのを思い出した。書くのを忘れてきた。一瞬迷ったが最初が肝心だと思い、戻って売店横で名前を記入し、改めて出発した。雨は大降りではないが一日止む気配はない。
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )

土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線

(土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線)

安芸の町の西の端に高知東部交通本社があり、そばの公園に廃止された鉄道を偲ぶ案内板があった。ところが奈半利の町から西へ鉄道があることは見えていた。遍路道に着かず離れずに新しい高架が続いていて、その上を時々一両か二両連結のジーゼル車が通るのを見ていた。廃止されたはずの鉄道が営業されているのはどういうわけなんだろう。

疑問を抱えながら歩いた。安芸の町の少し先で遍路道と鉄道の高架に挟まれた畑で作業をする男性に疑問をぶっつけてみた。安芸の外れの公園で廃止された鉄道の案内板があったが、廃止された鉄道がどうして動いているのだろうかと。男性は仕事の手を休めて近付き、答えてくれた。鉄道は昭和40年代に一度は廃止されたけれども、今の鉄道は10年ほど前に新たに敷設されたものだという。こんな時代に一度廃止されたローカル線が改めて敷設する形で復活したのである。そんなこともあるのだと思った。

帰ってから詳しく調べてみると、元々、阿波と土佐の海岸線をつなぐ阿佐線が計画されたのは1959年のことである。四国の海岸線を一周する鉄道を作る計画の一環であった。阿波側は1973年海部まで開通し牟岐線として営業された。1980年になって国鉄改革の中でその後の工事は中断された。1988年に阿佐海岸鉄道が設立され、計画を引き継いで、1992年に海部-甲浦間が阿佐海岸鉄道阿佐東線として開業した。

一方、土佐側は1930年から土佐電気鉄道安芸線が安芸まで電車を運行していた。ところが安芸線は1974年(昭和49年)に廃止され、御免以東はしばらく鉄道の無い時代があった。国鉄では阿佐西線の工事が着手されていたが、1981年に国鉄改革の中で中断された。1986年土佐くろしお鉄道が設立され、工事を引き継いで再開し、2002年に後免-奈半利間が開業した。自分が見てきたのは、この土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線なのである。廃止された土佐電気鉄道安芸線のあとは、一部自転車道として利用され、遍路道もそこを通るように設定されていた。


(ごめん・なはり線高架下の道)

高架上の新しい鉄道が敷設されるには以上のような経緯があった。夜須の先で、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線が国道55号線に沿って通るところがあり、遍路道に指定されていた国道を歩く代わりに、しばらく高架の下を歩いた。車の心配はなく、土の道で、しかも日陰になって気分よく歩けた。やがて、遍路道は28番大日寺に向けて、国道55号線からも、ごめん・なはり線からも離れていった。

(5月7日から19日のお遍路中の書込みに写真をUPしました。文も少し加えました。ご覧下さい。)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

お地蔵さんになった寅さん

(伊尾木の「寅さん地蔵」)

お遍路11日目の5月17日、雨の中、国道55号線を安芸に向かって歩いていた。遍路道の印が国道55線から右手に入るように示していた。旧道で安芸市伊尾木の集落を通る道である。車が水をはねるのを気にして国道を歩くより、そちらの方が気持が楽だと思い、足を向けた。

幾らも歩かないところに、妙に派手なお地蔵さんが見えた。何これはと立ち止まってみると「寅さん地蔵」と看板が立っていた。派手に彩色された小さい像が一体、さらに彩色の無い大きい石像が一体。いずれも帽子を被り胡坐をかいて右手一本で拝んでいる。

何でこんなところに寅さんのお地蔵さんがあるのかと、にらめっこしていると、傘を差し背広を着た老人が寄ってきて、寅さんのお地蔵さんだよ、珍しいなあと言って、去っていった。傍らの案内板には「寅さん地蔵」と題を付けて、

この地から始まった寅さん映画のロケ誘致運動で、平成八年に “男はつらいよ” 第49作「寅次郎花へんろ」高知ロケが決定していましたが、渥美清さんが亡くなり幻となりました。多くの人々に愛され笑いをくれた寅さんをたたえここに記念碑として平成九年八月に建立しました。寅さんを土佐に呼ぶ会

と書かれていた。

“男はつらいよ”の第48作目は「寅次郎紅の花」という題で、マドンナに浅丘ルリ子を迎え、1995年12月に公開されている。この時にはすでに次回作が1996年12月公開予定で、「寅次郎花へんろ」という題名で、高知でのロケが決まっていた。マドンナに田中裕子を迎え、その兄役に西田敏行が出演予定だった。妹が中絶した子供の父親が寅さんだと、兄が疑い、その縁で寅さんがこの兄妹の後見人になるといった、あらすじも決まっていたらしい。

1996年8月4に寅さん=渥美清が68歳で亡くなった。その結果、「寅次郎花へんろ」は幻となったのである。山田洋次監督は寅さんシリーズの最終作で、寅次郎が幼稚園の用務員になり、子供たちとかくれんぼをしている最中に息を引き取り、町の人が思い出のために地蔵を作るという構想を早くから持っていたという。この「寅さん地蔵」はその構想を実現したものなのであろう。

    お遍路が 一列に行く 虹の中  風天

という一句が刻まれていた。風天は渥美清の俳号で、「寅次郎花へんろ」を念頭において渥美清が詠んだものであろう。

伊尾木の町をさらに進んだところで、お遍路さんと呼ばれた。今夜の宿は決まっているかい。安芸に予約してあります。そうかいここでも良いのだけれど。見たところ普通の民家に見えた。真意は判らなかったが、泊めてあげると言っているようであった。民宿をやっているのか、まさかお接待に一泊提供するというのではあるまい。素通りしたが、後から真意を確かめればよかったと思った。一泊のお接待を受けるようなことになると、フウテンの寅さんの心境に一歩踏み込むことに成りかねなかった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

横山隆一記念まんが館

(魚々タワー)

安芸の小松旅館であったか、テレビを点けると漫画家横山隆一の最晩年に取材した番組を流していた。多分再放送のものであろう。横山隆一氏は高知出身で、長年新聞の4コマ漫画で「ふくちゃん」を連載していた。ふくちゃんと言えば大学の角帽がトレードマークの男の子であった。最晩年、高知にまんが館を建てる計画が進んでいて、尽力していた。平成13年、92歳で亡くなったが、その翌年、高知にまんが館が開館した。

高知のビジネスホテルには午後2時過ぎに着いた。ホテルでもらった市内地図に横山隆一記念まんが館の表示があった。駅で明日の岡山までの高速バスの乗車券を買ってから、まんが館まで行ってみようと思った。駅前から出ている路面電車の運転手に聞くと、はりまや橋で乗り換えて、菜園場(さえんば)町で降りればすぐだと言う。電車賃は190円、はりまや橋で乗換券をくれる。

横山隆一記念まんが館は高知市文化プラザかるぽーとの3階、4階、5階にあった。最初に迎えてくれるのが吹き抜けに吊り下げた巨大なオブジェ、魚々タワーである。名も知らぬ不思議なさかなたちが横山隆一氏によって描かれて、オブジェに張り付いている。

土佐出身の漫画家が紹介されているコーナーを見ると、土佐がいかに多くの漫画家を輩出したのかが分かる。漫画に詳しくない自分でも、はらたいら、やなせたかし等の名前は知っている。先輩の活躍が後進たちを刺激し、後輩たちを引き立てながら、漫画王国土佐が築かれて来たのである。


(ふくちゃんと仲間たち)

展示品を見ていくと、ふくちゃんの時代の市井の音を拾ったという趣向の音声が流れていた。昭和30年代であろうか。今は失われた子供たちの遊ぶ生き生きした声、物売りの声などが混じり合って、懐かしくて涙が出るほどであった。

横山隆一たちが中心になって活動した漫画家の集まりは、戦前「新漫画派集団」、戦後改名して「漫画集団」となり、漫画家たちの交流を深め、漫画家の地位の確立を図った。今、世界に誇る日本の漫画やアニメの礎はこの漫画集団によって築かれたといっても過言ではなかろう。

最後に横山隆一のコレクションが展示されていた。それ自体何の価値も無い珍コレクションの数々がこのまんが館に寄贈されている。本人が集めたもの以外に、広い交友関係の中でうわさを聞いて集まってきたものもたくさんある。色々な有名人が世界各地で拾ってきた石、川端康成氏の胆石、植村直己氏のかかとのタコ、など700点に上る珍コレクションが残されており、その一部が展示されていた。

時間が許せばもっとゆっくりと見てみたかったが、そうのんびりも出来ずに図録を購入して帰った。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

お遍路の始まり、衛門三郎

(杖杉庵)

お遍路3日目、5月9日、焼山寺を打ち終えて30分ほど下ってきたところに、杖杉庵があった。イチョウの巨木の元に一庵が築かれている。ここは、お遍路の始まりと言われた衛門三郎の終焉の地である。

杖杉庵縁起によれば、伊予の国の長者であった衛門三郎は強欲非道な男であった。貧しい者を虐げて財を築いていた。ある日門前に旅僧が訪れて一椀の食物を乞うた。乞食にやるものはないと下僕に命じて追い払ったが、あくる日も次の日も続くことに腹を立て、旅僧の捧げる鉄鉢を地面に叩き付けた。鉄鉢は八つの花弁のように飛び散った。旅僧の姿は忽然と消えた。

衛門三郎には8人の子供があったが、次の日から八日の間に8人の子供が次々に亡くなった。悲嘆にくれた衛門三郎は自分の悪業の報いだと気付いた。あの旅僧こそ四国八十八ヶ所を開くため遍歴されている空海上人だったかと思い当たり、住み慣れた舘を捨て、無礼を詫びるため、野に山に寝、四国八十八ヶ所の霊場を大師を尋ねて遍路の旅を続けた。大師に出会うことならず、霊場を巡ること二十度に及んだ。二十一度目、この地までたどり着き、行き倒れているところに、大師が現れ、詫びる衛門三郎を大師は許し、命尽きた衛門三郎をこの地に葬り、彼の形見の杉の杖を建てて墓標とした。

この杉の杖は葉を生やして大杉となった。この庵が杖杉庵と呼ばれ、今なお大師の遺跡として残されている由縁である。なお、その杉は享保年間に焼失した。この衛門三郎の巡った道が四国八十八ヶ所のお遍路の始まりといわれている。


(大師に許しを請う衛門三郎)

いま杖杉庵そばには、後に京都御室から贈られた「光明院四行八蓮大居士」の戒名が書かれた立派な墓石が建っている。また脇には衛門三郎が大師から許しを得る場面を写した銅像が建っていた。

イチョウの巨木の下にベンチがあり、木陰は風の通り道になっていた。昼下がりの一時、実に心地よい休憩場所であった。目を瞑っていると、今朝から幾つも越えてきた遍路ころがしと名付けられた山道を思い出した。衛門三郎はこの山道を前に力尽きたのだろうか。あるいは遍路ころがしを越えて来て、この地まで降りてきて力尽きたのだろうか。

縁起によると、二十一度目は逆の道をたどってとあるから、逆打ちであろうから、この山道を前に力尽きたと考えられる。もう一つ縁起では背に負うた黄金の袋が一塊の石となっていた。それを見て立ち上がる気力も失せた、と書かれている。話としては面白いが、衛門三郎が黄金を背負って遍路をしていたと考えるのは無理がある気がした。世の中、お金ではないことを示す逸話として、後世に付け加えられたような気がする。

何時までも留まっていたい気持を振り払って、昼下がりの5月の日差しの中に戻り、その日の宿に歩を進めた。この後、この日に歩いた幾つもの遍路ころがしよりもっと厳しい玉ヶ峠への登り返しが待っていることなど、思いも寄らなかった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ