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かさぶたぶたぶ

(昨日、朝の雲)

台風一過で秋らしくなったと思ったのは、昨日の朝であった。朝は肌寒いほどの陽気で、会社の駐車場から見た空には秋を思わせる雲を見た。ところが、昼食を終えた帰りには、気温はもう30℃を越えて、見上げる空の雲も夏の雲に変わっていた。しかし朝晩の涼しさはもう夏のものではない。


(昨日、昼の雲)

今朝は快晴。通勤途中、ラジオを点けたところ、今ちまたで流行りつつある「かさぶたぶたぶ」という歌の話をしていて、その曲が流れた。会社の駐車場についてから、曲の終わりまでしばらく聞いてから車を降りた。BUMP OF CHICKENというグループの歌う軽快なメロディの歌であった。

   僕はかさぶた 君の膝小僧 擦りむいたトコから 生まれた

で始まる歌詞は、著作権のこともあるので紹介できないが、ケンカして出来た「かさぶた」と男の子の、傷が直るまでの短い付き合いを、かさぶたの言葉で描いた歌である。かさぶたが取れて傷が治るように、ケンカした相手ともきっと仲直りできると励まし、また逢いたいけれども、その時はまた傷ついたときだから、二度と逢わない方がよいと、ちょっと泣かせる言葉が続く。(歌詞はこちらで)

「山口さんちのつとむくん」に始まり、「およげ、たいやきくん」や「おしりかじりむし」などのように、ヒットする歌になるだろうか。ともあれ、勝手に「かさぶた日録」のテーマソングだと思うことにしよう。

「かさぶた日録」を始めて、5年半になる。検索が一発で出来て、人に紹介しやすいようにと思い、他の人が決して選ばない言葉をあえて選んでブログ名を付けた。目論みは大成功で、現在でも「かさぶた日録」で検索すれば、このブログに一発で至ることが出来る。ところが「かさぶたぶたぶ」という歌が流行ると、もしかして検索に手間取るようになったりするかもしれない。ちょっと心配でもある。

夕方、近所の方から、大代川の土手に穴があいていると、気になる話が入ってきた。先の台風で増水してかなり上まで水位が上がった。たとえ小さな穴でも土手が崩壊する原因になる。そうなれば我が班だけの問題では収まらず、区全体の話にもなるので、明朝、現場を確認して、早速自治会長に相談しよう。真面目にやると班長もけっこう忙しい。
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旅と酒の歌人、若山牧水

(庭のサザンカ)

午後、島田図書館文学講座、第3回に女房と出席した。本日のテーマは「旅と酒の歌人、若山牧水」である。

若山牧水といえば、教科書にも出てくる、次のような短歌は余りにも有名である。

  白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
  幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく


格調高い旅の名歌が有名であるが、一方で酒の歌も数多く詠んでいる。講師はその酒の歌を107首抜き出して紹介してくれた。20代-恋の苦しみを忘れるための酒の歌、30代-酒の味を知り酒を心から愛した歌、晩年の酒を止められた愚痴と怒りの歌と、牧水の人生は44歳で酒の飲み過ぎの肝硬変であっけなく終る。

食傷するほどたくさんの酒の歌、下戸の自分には理解が遠い世界である。晩年の酒の歌を読んで、講師は「これはもうアル中一歩手前の状態ですね」と評したが、自分から見れば歌を詠まなければ、アル中のおやじと何も変わらない。朝酒、昼酒、晩酌、深夜の酒、アルコールが抜けるときがない。

牧水の随筆「酒の讃と苦笑」の中に酒の歌が28首出てくる。その中から何首か紹介してみよう。

  それほどにうまきかとひとの問ひたらば何と答へむこの酒の味
  白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり
  汝(な)が顔の酔ひしよろしみ飲め飲めと強(し)ふるこの酒などかは飲まぬ
  時をおき老樹(おいき)のしづく落つるごと静けき酒は朝にこそあれ
  ひしと戸をさし固むべき時の来て夜半(よは)を楽しくとりいだす酒
  酔ひぬればさめゆく時の寂しさに追はれ追はれて飲めるならじか
  酒やめてかはりに何か楽しめといふ医者の面(つら)に鼻あぐらかけり
  人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ


こんな調子で107首並べば、下戸でなくても嫌になるだろう。

講師は、今回、この講座のために牧水の酒の歌を抜き出したが、牧水には生涯6900首ほどの短歌があり、例えば富士山を詠った歌も100首ほどあるというし、旅の歌、恋の歌などを自分で抜き出して読んでみるのも面白い。このように、「自分の好み、小さいテーマで拾い読みをする」、そんな読み方を「つまみ食い読書」と名付けて、講師は楽しんでいるという。そんな読書法をお見せしたかったと講師は結んで、全3回の講義は終った。

今日の講義を聞いて、牧水を初めて知った人は、あの酔っ払いの歌人かと思ってしまいそうで、今度は是非とも牧水の旅の歌をまとめて学びたいと思った。
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いのちをめぐる倫理(後)-死生感と臨終行儀

(山越阿弥陀図)

(昨日の続き)
かつての日本人には豊かな死生観があった。死は身近なものであった。江戸時代までは仏教や儒教に基づいた「来世」や「天」に裏打ちされた死生観を持っていた。明治になって、廃仏毀釈運動でそれらは否定され、天皇と国家が絶対的な価値となった。国を挙げて「死の準備教育」が行われた。「お国のために死ぬ」「靖国で会おう」と、ある意味で死生観は明確であった。戦後、この死生観も否定された。現代は死生観が空白の時代と言える。

ロンドンのホスピスを訪問した日本の医師がイギリスの医学生への「死の準備教育」について質問したところ、キリスト教徒には十字架があり、日常の祈りの中にも死のことがあり、幼いころから生と死について学んでいるから、そんな基本的なことは教える必要がないと答えた。日本では死についての教育はされることがなく、ある日突然に死に直面する。だから恐れうろたえる。

日本のターミナル・ケア、看取り文化の原点に「臨終行儀」がある。仏陀の最期に倣ったもので、唐時代初期に原形が整備され、日本に伝来した。平安時代の中頃より、浄土系で重視された。江戸時代に広く庶民に普及し、看病から臨終、死後の葬送までの連続的なケアをした。臨終において、仏教の正しい道理を教えて導いてくれる善知識が介在した。

臨終行儀の舞台装置として、源信の往生要集によると、臨終のための別所として無常院で、金箔の仏像を西方に向け、像の右手を挙げ、左手に五色の幡をつける。病者は像の後ろに、左手に五色の幡の足を取り、仏を通して浄土を思う。看護者は香を焚き、華を散らして病者を荘厳し、屎尿・吐唾を随時取り除く。

永観堂禅林寺所蔵の山越阿弥陀図について、山折哲雄の「受苦と苦滅の分水嶺-山越阿弥陀図の画因をめぐって」の中で、山を越えて現世に降りてくる「山越え」ではなく「山越し」の阿弥陀像である。山の稜線は穢土と浄土を裁断する宇宙論的分割線で、光背は太陽ではなく満月、清浄な月は澄み切った心を象徴、清らかな心で死に近付く。西方十億万土の浄土、彼岸。手の届くところにある山の彼方に、あの世が広がる。古来より山は死者の亡骸を葬る場所であると解説する。

その山越阿弥陀図も臨終行儀の舞台装置として、病者のそばに立てられた。阿弥陀像の額の白毫(びゃくごう)や指先から垂らされた五色の糸を病者に握らせ、阿弥陀様に導かれて、穏やかに来世への旅立ちを演出する装置であった。

無常院は日本版ホスピスであった。身体ケアとスピリチュアルケアがなされ、死に対する不安や怖れを癒し和らげられた。看取られる者、看取る者が共に死ぬ存在として、看取りの中で死を共有していた。看病、看死、葬送の連続の中で、死は終末ではなくて別の世界への移行であることが演出された。その模擬ショーあるいは実習として、その来迎の様子を演出してみせる「迎講(練供養、迎接会)」と呼ばれる宗教行事がある。

講師は日本的なターミナルケアとして、臨終行儀のような儀式の復活を考えているのであろうか。
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堂ヶ谷遺跡と経塚

(昨夜の大雨、一転して秋晴れとなった、夕暮れのタケ山)

昨日の「島田金谷の考古学と歴史」の続きである。

牧ノ原台地の一角、島田市と牧之原市の境、坂部原台地の牧之原市側に、「富士山靜岡空港」の建設に伴う発掘調査で、平安時代後期~室町時代中頃までの寺跡で、3基の経塚が発掘された。

平安時代、戦乱や天変地異が続き、世の中に「末法思想」が広がり、人々の間に不安が広がっていた。仏教では時代を1000年単位で区切る考えがあった。釈迦が亡くなってから1000年を教えが正しく行なわれる「正法」、次の1000年が教えがだんだん正しく行なわれなくなる「像法」、その後は「末法」の時代に入り釈迦の教えが行なわれずに滅んでゆく時代になるという考えである。

永承7年(1052)から末法の時代が始まる年といわれた。人々は信仰に救いを求め、釈迦の教えが失われないように、経典を地中に埋めて後世に伝えようする「経塚」が各地に作られるようになった。日本独特の仏教遺跡である。経塚の造営は平安時代の末から鎌倉時代の前半にかけて流行し、貴族や武士によって盛んに作られた。

堂ヶ谷遺跡もそのような背景の中で作られた。3基がそれぞれ盛り土をし、その上に人頭大の川原石が積まれていた。1号経塚では焼物の外容器に銅製の経筒が入り、その中の経典は残っていなかったが、経筒が埋められた下層から、16面の鏡、60本以上の短刀、7点の矢じり、中央部で折り曲げられた太刀が出土した。経塚からこれだけ副納品が出土するのは全国でも大変稀な例だという。これらは経典を埋納する場の魔よけの意味があったのだろうと想像される。太刀など初めから折曲げる宗教儀式を想定して、作られたものだと考えられる。

経筒はいわば後世に残したタイムカプセルである。魔よけの宗教儀礼などをしっかり行い、後世に残ることを願って埋納した割には、経典が紙で作られたために、後世に残ったものが少ないのは残念である。この経塚も経筒の中に経典は無く、誰がどんな目的をもって何時作られた経塚であるのかが、一切判らないのは残念である。800年から1000年経つ経塚から、タイムカプセルのように、様々なものが出土してくれば、我々は往時のことをもっと詳しく知ることができるのであるが。

経塚の流行は全国に及び、靜岡県にも特に東海道沿いを中心に30数ヶ所発掘されている。旧金谷町でも、大代の白山神社の経塚はよく知られている。八高山の南に経塚山という山があり、その山頂からも経塚が発掘されたと聞いたことがある。
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食の安全について

(庭のミヤコワスレ)

(昨日の続き)
昨日の「食の安全について」の講義の続きである。人間に害を及ぼすメカニズムを分子レベルまで展開して説明があったが、正直なところ理解するところまで至らなかった。印象に残っているのは亀甲型の並んだ有機化合物の分子式を見ながら、いかにも毒っぽいと、分子式を見るだけで人体に悪いことが判るようで、面白く聞いた。

食の安全を見る上で何を判断材料にすればいいのか、最も聞きたい部分については以下のように話した。講師が話されたことをそのまま認識出来ているかどうかは判らないが、自分なりに認識できたことを書く。

生物は長い進化の過程で一般に自然界にあるものについては、毒になる部分は体内で無毒化出来るように進化し、また、無毒化出来ないものは本能的に毒と認識して体内に入れないように進化してきた。ところが科学技術の進歩によって、様々な新しい物質が作り出されて、生物としての人間が体内で無毒化出来ない物質がたくさん増えて、一方で毒であるとの認識すら十分に出来ないうちに、体内に取り込んでしまい、その結果、人体に悪い影響を与えてしまっているのが現状である。

我々が出来る予防は、かつて自然界では無かったものはすべて疑うことである。例えば放牧している牛ならば全く問題なかったものを、牛の成長をうながすために羊の骨粉を飼料に加えて食べさせて、BSE(狂牛病)が発症した。効率重視の育牛が病原を濃縮して発病させてしまった。

例えば健康食品とか、特定保健用食品などで効能を高めるために食品にストレスをかけて効能を引き出すのは、大変危険も同時に孕んでいる。健康エコナなどは人為的に処理した油を工業用ではなく食用油として販売したことに問題がある。人間は今だかつて人工的な油を摂取した歴史はない。そういう食生活の歴史に思いを馳せずに作られた商品は、人間を家畜扱いしようとしたと言われても仕方がない。

因数分解した食品は気を付けねばならない。例えば、カテキンを増量した緑茶だとか、エキスを抽出したような食品は安全かどうか疑ってみる必要がある。言われてみれば、緑茶で薬効があるといわれる成分を抽出して薬を作ろうとしても、副作用が強くてものにならないといった話はよく聞く。緑茶はお茶として飲むから薬効があるのである。

講師に言わせれば、遺伝子組換え食品などはもっての外である。大学でも若い研究者は遺伝子組換えを研究テーマにしていて、意見が平行線になるが、講師は全否定した。自然に淘汰される形で遺伝子が組み変わって種が生れるのは認めるが、今、研究者がやっている遺伝子組換えは自然界では絶対に起らない組換えである。どんな問題が起きるかは判らないが、問題は思いがけないところに長い期間の後に出てくる。

現代人は先人は持っていた食に対する本能も知識も欠いている。せめて食に関する知識を深めて、タデ喰う虫並みになりたい。

講師は間もなく定年退官になるが、その時は、家庭菜園を始めて、自分で食べるものは出来るだけ自分で作る自給自足の生活をしたいと考えている。体を動かすことは健康にも良いし、惚け防止にもなる。
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土手の桜の花

(土手の桜の花)

今日は、一転して晴れたが、風が冷たかった。留守番二日目、ムサシの散歩の途中に、咲き出した桜の花を写す。

午前中、一年9ヶ月のまーくんのお守を頼まれる。何とか泣かせないで済ませた。

明日は一番の電車で高野山へ報告のお参りに行く。今夜は早く寝なければならないので、ここまで。
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ミョウガ(茗荷)原遺跡

(噴煙、東にたなびく桜島)

宮崎から鹿児島に戻る途中、車中より桜島が見えた。曇天の中、今日の風向きは西風で、噴煙はどうやら大隅半島の方へ流れているようであった。明日午後、再びFDAの飛行機に乗り帰る予定である。

    *    *    *    *    *    *    *

土曜日の「島田金谷の考古学と歴史」講座のつづきである。

島田市湯日ののミョウガ原で、富士山静岡空港の工事に伴い発掘したところ、古代の地方における地鎮祭祀の遺構が発掘された。平安時代から鎌倉時代のものと考えられている。

建物の建築に際して地の神様を鎮める地鎮鎮壇(現在の地鎮祭)が行われたことは「覚禅抄」(覚禅:1143~?の図像集)に書かれていて知られていたが、その遺跡が発見されたのは初めてだという。

発掘されたには、東西南北とその中央に十字に配されて穿たれた5基の土坑である。土坑の底面には円礫が敷かれている。円礫はそれぞれの穴で色を揃えてあった。東の土坑は青玉、西は白玉、南は赤玉、北も赤玉、中央は赤白青の混在であった。5つの土坑の内、3ヶ所からは灰色陶器の長頸瓶が土師器の蓋付で引っ繰り返した形で発掘された。

「覚禅抄」を少しだけ読んでみると、
 小野伝に云う。地鎮、壇を築かない以前にこれを行う。この地を請ける諸神地主などを乞う。‥‥‥‥
 口伝に云う。金銅賢瓶一口。五寸、五宝などを入れ蓋を覆す。五色糸を以ってこれを結ぶ。本様有り。
(金銅瓶の形が図示されている)しかる後に地にこれを埋める。埋めるとき大日真言。丼地天真言。本地四方へ五色玉、五穀粥を埋めるべし。‥‥‥‥
 小野説は加えて五色玉を埋め、広沢伝、五色石。云々。
(玉ではなく石でもよいようだ)‥‥‥‥
 天文修蔵に云う。東-青玉二十四個瑠璃、南-赤玉21個琥珀、西-白玉27個白石英、北-黒玉12個黒石英、中-黄玉20個黄石英‥‥‥‥


五色玉が五色石になっており、色も一部合っていないし、金銅瓶が陶器に変っている。しかし引っ繰り返してある点など、地方で「覚禅抄」に書かれた方法を、出来る方法でなぞったことは明らかである。

東西南北中央を五色の色で示す点など、青龍、朱雀、白虎、玄武、黄龍などで方角を示す陰陽道の考え方が色濃く影を落としている。この青朱白玄の色は人生を四季で表す、青春、朱夏、白秋、玄冬などの言葉でも良く知られている。

ミョウガ原遺跡は調査のあと、高床倉庫や住居跡とともに埋め戻されて、現在富士山静岡空港の敷地に埋まっている。
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9.11を忘れない

9.11について、大リーグでも球場に「我々は忘れない」とのステッカーを貼り、アメリカの意志を表したというニュースが流れた。
それで思い出すのは真珠湾攻撃に対するアメリカの反応である。リメンバー・パールハーバーのスローガンは最近まで根強く残っている。9.11に対するアメリカ人の反応はリメンバー・パールハーバーとそっくりである。
一方自爆テロはその発想の原点に神風特攻隊があったと言われている。力のない方が圧倒的な力を持つ敵に対抗するために、自らの命と引き替えにする攻撃がどれだけ敵を震え上がらせ、精神的打撃を与えるかを神風特攻隊から学んでいる。
どうしてそんな戦い方が出来るのか、欧米諸国には決して理解出来ないことである。
神風特攻隊は日本軍が組織した軍隊で、目標は米軍であって、市民に紛れ込んだゲリラ戦ではない。だからまだ米軍も扱いやすく、神風特攻隊の限界もそこにあった。
現在起こっている戦いは、アメリカという超大国と組織すらはっきりしないアルカイダの戦いであり、西部劇の白人と目には目をのイスラムの戦いであり、歴史を遡れば十字軍の戦いでもある。
この戦いは出口のない戦いのように思える。自爆テロリストはイスラムの民の流れる血を見ることで次々に生まれてくる。
この戦いを終わらせるためには、かつてアメリカと戦い破れた経験を持ち、神風特攻隊の無謀な作戦を編み出し、イスラムとは戦った歴史を持たない、キリスト教でもイスラム教でもない仏教国の日本の出番であろう。ただし、今のままでは日本の発言に耳を傾けてはもらえまい。あまりに長く自国にかまけて世界に発言してこなかったから。時間は掛かっても、世界は日本の出番を待っていると思う。
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9.11自分は何をしていたか

テレビで筑紫哲也が「NYテロ5年目の真実」という番組で、今日9月11日という日は世界の人々かその時何をしていたかをはじめて意識した日であると話した。その日、自分はどこにいたのかと考える。記憶によれば福岡県八女のホテルだったと思う。夜のテレビが一斉に臨時番組を始めた。初めは何が起こったのか分からないまま、繰り返し繰り返し、世界貿易ビルに旅客機が突っ込み、炎と煙に包まれる映像を映し続けた。そしてツインビルのもう一棟に旅客機が突っ込んだとき、これはテロだとはっきり認識した。
その後にテレビで次々に報道される事態を興奮を感じながら、その気持ちを誰に伝えることも出来ず、見続けていた。
今日また福岡県筑後市のホテルで携帯で書き込んでいる。筑後市は八女市の隣町である。
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温泉付ビジネスホテル (鹿児島)

                    (Tビジネスホテルの温泉)

一昨日は頴娃から鹿児島、昨日は大隅から宮崎へ回った。ホテルは鹿児島市谷山のTホテル。ビジネスホテルで温泉があることが気に入って常宿にしている。

一昨夜、気が付いたのだが、ここの温泉、「掛け流し」であるとの表示があった。今まで循環湯とばかり思っていたから意外であった。

最近変わったようだ。そう思って入ると、湯ぶねからわずかだが、お湯があふれているような気がする。また、お湯の質が濃厚になったようにも感じる。

このホテルで気に入らない点が一つある。ホテル内の食堂で日替わり定食が食べられるが、その飯のまずさには閉口させられる。たぶん朝食に出した残りをチンして出しているようだ。表面が乾し飯状態になっていて悲惨である。

不味ければ外へ食べに出ればよさそうなものを、またまた食べてしまった。
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