平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
盛りの花の日記 11 3月4~6日 高野山、吉野山
竹村尚規さん一行は急ぐ間にも高野山に詣でることも忘れない。そしていよいよ吉野山にたどり着いた。
四日、岩出の宿りを出て、紀の川を北へ渡る。舟人に吉野の花のことをも、問い聞くとて、
吉野山 咲くらん花の かや問うと 木の川水を 結びてぞ見る
妹背山へは行きても見ず、いと口惜し。
睦ましき 妹背の山を よそに見て 過ぎ越し我は 疎しとや言わん
尚規さんはまだ若いからだろうか。全く女性の影を感じない。妹背の山と聞いても動く心もなさそうである。
今宵は高野山の麓なる花坂の里に宿る。この里の名、吉野に志し行く折りから、おかしう覚ゆ。
咲におう 花坂ならば 嶮しさも 何か厭わむ いざ登り見ん
※ さがし(嶮し)- 険阻であるさま。山や坂が険しい。
夜もすがら、山川の音のいと高く聞こえて、目も合わねば、
旅寐には 慣れても慣れぬ 水の音に 夢も結ばぬ 川つらの宿
五日、高野山へ登る。草々の見も知らぬ木ども、道暗きまで生い繁りつゝ、谷底よりは雲立ち昇りなどして、何とかや心細きに、鴬や、何くれと、数多の鳥どもの、怪しき声して鳴き交わすも、耳慣れぬ心地のみ、せられて、いとも
寂しき山路になん。
高野山 見慣れぬ木々に 鳴く聲も また珍しき 春の鴬
見も知らず 名もまた知らぬ 深山(みやま)木に 鳴く鳥の音(ね)の珍しき鳥
高野山 思えば世々を 古寺も 新たに見えて 栄えけるかな
山を下りて、学文路(かぶろ)の里に宿りぬ。
六日、橋本という里を過ぐれば、待乳山もこの辺りならんと、言いつゝ行くほど、暗がり峠なん、という所を越えて、さて真土という里もありてぞ、待乳山は有りける。高き山にはあらざりけり。さて、そこに細き河あるは、紀の国と大和の国との境なりけり。
木の川や 深く契りし たれなれば 今もまつちの 山というらん
旅衣 またも来て見ん 遠つ人 まつちの山と 聞けば懐かし
阿田の里にて、
秋萩の 盛りなりせば 手折り見ん 阿田の大野の 露は散るとも
河つらの道を行くほど、川の中に、さも面白き巌のあるを、筆捨岩となん言いける。さるは狩野某という画師、この巌(いわお)の景色を、写さんとせしに、え物せで筆を捨てけるよりしか、名付け来たりとなん、里人語りける。
川浪の かゝる景色を 写しかね さこそは人の 筆捨ての岩
六田の里にて、吉野川を東へ渡る。こゝは柳の名所なるに、今はいかになりぬらん。いと小さきの、二もと(本)、三もと(本)ばかりぞ有りけるに、
六田川 水の緑を 名残りにて 絶え絶えになる 青柳の糸
さて、この里より行く道なん、年々に思い起こせたる、吉野の山口というなりける。長峰というを一里ばかり行きて、吉野の里なりけり。このほど、桜の並木とか言いて、道の右にも左にも、隙間もなく咲き続きたる。まことに言わん方無く、面白し。かく折りよくも来つるぞよと、まず嬉しくて見もて行くに、日も暮れぬれば、この里の八田屋というに、至り着きて宿りぬ。
春ごとに 心にかけし 白雲を 今日み吉野の 山桜花
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二本ヶ谷積石塚古墳を見に行く
今月の「駿遠の考古学と歴史」講座で、駿遠地方に残る古墳について、興味ある考察を聞いた。その最後に、古墳の意匠の流れとは異質の古墳があるという話を聞いた。静岡県では、唯一発掘された、二本ヶ谷積石塚古墳である。日本の古墳の系譜には繋がらない古墳で、渡来人たちの埋葬地と考えられている。
今朝、思い立って、新車アクアの試運転を兼ねて、息子と二本ヶ谷積石塚古墳群を見に行った。場所は浜松市浜北区染地台である。三方ヶ原の東縁を開発して、染地台と内野台の二つの住宅団地が開発されているが、その真っ只中にある。三方ヶ原が小さな川に浸食されて出来た浅い二本の谷に沿って、二本ヶ谷積石塚古墳群はあった。確認されただけで28基あったが、その多くが開発されて、埋め立てられてしまった。団地の赤門川調整池となっている緑地に、うち6基だけが残されて、保存・公開されている。
さて、この古墳は10~50センチの径の丸石を積み上げて作られている。その多くが一辺3~9メートルの方墳で、墳丘の高さは0.5~1メートルと、他の古墳と比べるとごく小規模な古墳である。中央に棺の大きさの竪穴を掘り、棺を納めたものと思われる。浸食などで保存状態が悪く、上部の構造が良く解らないが、棺を直接石で覆っていたと推測される。現在公開されているものは、復元された石積で、本来の積石塚はそれぞれの直下に埋め戻されているという。
(赤門川調整池)
車を停めて、赤門川調整池をぐるりと巡って、積石塚群を見学した。積石塚と似た古墳は、九州北部、四国東部、甲信地方、群馬県などに多く見られ、また、構造が朝鮮半島の積石塚と似ていることや、出土物に朝鮮半島と関係する遺物が見られることから、朝鮮半島から日本にやって来た渡来人の墓と推測されている。この二本ヶ谷積石塚古墳群は、その意匠とともに、通常、古墳を作らない谷筋にある点も、渡来人の墓の根拠とされた。
積石塚古墳見学のあと、近くの北から南へ伸びた尾根筋にある、内野上古墳群を巡った。南から赤門上古墳、山の神古墳、稲荷山古墳が並んでいる。元々一つの尾根に点在した古墳であったが、周囲の宅地化進んで、それぞれ離れ小島のような緑地となって残されていた。
(赤門上古墳)
(山の神古墳)
(稲荷山古墳)
南から巡って、赤門上古墳は、「ひょっこりひょうたんじま」のような、前方後円墳の形状がしっかり残っていた。この古墳からは、卑弥呼が魏から100枚もらった銅鏡だといわれる、三角縁神獣鏡が出て来て、中央政権との強い結びつきが推定されている。次の、山の神古墳は円墳で山の神を祀った祠があったというが、現在はその屋根だけが置かれていた。三つ目の稲荷山古墳は山の神古墳より、一回り大きい円墳で稲荷神社の背後にあった。
この後、愛知県の茶臼山近くまでドライブした。注目の燃費は、リッター25、2キロ、250キロほど走ったから10リットルほど使用した勘定になる。ほぼ、予想した通りであった。
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盛りの花の日記 10 3月2~3日 和歌の浦、和歌山
そろそろ平地では花が咲き始めた様子に、竹村尚規さん一行もいよいよ気が急いてきた。
二日、蟻通明神に詣づ。行き/\ては、木の国の名草郡なり。
※ 蟻通明神(ありどおしみょうじん)- 大阪府泉佐野市長滝にある神社。祭神は大名持命(おおなむちのみこと)。枕草子に、その由来がみえる。蟻通神社。
今日の山路は、所々に花の咲きたるに、皆人吉野の事、急ぎ出でゝ、
吉野山 咲くらむ花を いかがぞと 日数数えて 急ぐ旅人
小野山というを越ゆるほどより、雨降り出でたり。
旅衣 木路のしげ山 篠にふる 雨に濡れつゝ たどるわびしさ
伊勢の鈴屋の大人、このころ、紀の殿の召しにて、和歌山におわします由、過ぎし二月十六日、松坂の御もとにて、うけ給わりしかば、今日こゝに来て、中の庄という町、塩田養的という人の家に訪ね行きて、大人にあいまみえむと思いたるに、早く過ぎし二十三日頃、出で立ち、帰り給いぬと、大坂にて聞きつるゆえに、養的の許に訪ね行かず、その夜はこの和歌山に、かけづくりという町に宿りぬ。
※ 塩田養的(しおだようてき)- 和歌山城下、中の庄の鍼医。その裏座敷を本居宣長が宿舎とした。
※ かけづくり - 和歌山市嘉家作丁。
分け来つゝ 思えば遠く 紀の国や 百重の山の あとの白雲(しらくも)
こゝでようやく、伊勢の鈴屋の大人、つまり本居宣長が、紀州の殿様に招かれて、和歌山に滞在していることが明かされる。伊勢参宮の途中で、その情報を得ていた。だから一行は時間が空いたとき、和歌山まで足を延す気になったのである。けれども、本居宣長は和歌山を立ち、帰路にかかっていることを大坂で知る。和歌山に滞在する本居宣長に、現地で逢うという目論見は外れた。
三日、和歌の浦見んとて出で立つ。海づらの松原より、手にとるように、島二つ近こう見えたる。地の島、沖の島となん言いける。浦の初島というは、この前の島の事なりとて、すべて兼ねてより聞きつるに違わず。いと/\面白き景色なりけり。されど昨日の名残りの雨雲、晴れやらぬげにや。今日は浦風、さしも寒くて、え久しくも逍遥せで、いと飽かずなん。
※ 飽かず - 満足せず。もの足りなく。
嬉しくも 和歌の浦浪 立ち出でて 心に掛けし みるめをぞ刈る
言の葉の 玉拾わねば 和歌の浦 何をみるめの 家つとにせん
※ 海松布(みるめ)- 海藻のミルのこと。海岸の岩礁に生え、昔は食用にした。「見る目」との掛詞。
※ 家つと - 家への土産
玉津島
※ 玉津島 - 和歌の浦にある島。現在は妹背山と呼ばれている。三断橋で陸地と結ばれている。歌枕。
旅衣 狭(せば)き袖には 玉津島 包みて行かん 言の葉もなし
名草山というは、紀三井寺の山なりとぞ。この山よりは、遥かに浦々の一目に見渡されて、似るべき所もなし。殊更に塩浜なんとのもの、あわれに覚えられて、いづくにも勝れる見所なりけり。景色面白しとは、世の常の事をこそいえ、
草枕 憂さも忘れて 紀の国や 今日は名草の 海山を見つ
そも/\この和歌の浦見んことは、もとより図りしにはあらで、初瀬より俄に思い立ちたりしを、はからずも、かゝる名ある所を見たるは、いかなる幸いにかあらん。すべて何事も、かねて思い設けし事よりも、ゆくりなく出来つるこそ、一きわ奥もあるものなりけれ。かくに秋月という里に行きて、日前宮に詣づ。名高き御社にしおわしませば、心留めてぞ、拝み奉る。
※ ゆくりなく - 思いがけなく。突然に。
※ 日前宮(ひのくまのみや)- 和歌山市秋月、日前神社(紀伊国一宮)。
尊きや 神世思えば 限りなく さも久方の 日のくまの宮
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「白雲の彼方へ-異聞・橘耕斎」 - 掛川文学鑑賞講座 1
この日曜日、掛川市立中央図書館主催の「文学鑑賞講座」の第1回に参加した。講師は大学講師の和久田雅之氏である。この文学講座は、始まって5、6年続いているという。主に掛川ゆかりの文学の鑑賞をする講座のようだ。たまたま図書館の情報を見て、主に木曜日に、年6回の講座で、空いている曜日なので、申込んでみた。40人の募集に30人ほどの参加であった。市外在住でも参加はOKであった。
幕末、安政の大地震の津波を受けて、プチャーチンが率いるロシアの軍艦ディアナ号が、伊豆近海で遭難し、乗組員が上陸後、沈没した。その話は有名である。500人の乗組員は、色々な船便を使って帰国したが、中に戸田で建造した船で帰った乗組員もいる。掛川藩の若き藩士、増田甲才(後の橘耕斎)は掛川藩を脱藩し、帰国する乗組員に混じり密航して、ロシアへ渡った。そんな話は初めて聞く。
その橘耕斎を発掘して、歴史小説に書いた人がいる。靜岡市出身、千葉在住の、山上籐吾という作家である。その「白雲の彼方へ」という小説が、今日の文学鑑賞の課題である。
文学鑑賞講座どんな段取りで進んで行くのか、興味津々で聞いていた。小説から抜粋した文を読み進めながら、舞台が掛川藩となり、出てくる地名を、受講者に聞いて確認しながら、講義が進んで行く。「逆川の右岸は城内で武家屋敷が並んでいる」という記述では、逆川の流れの方向や、城内が確かに右岸であることを確認をしたり、小泉楼という料亭が出てくると、昔は外に山口楼、富田楼の3軒あった話をしたり、文学の鑑賞というよりも、解説が主になっている。
途中から、文学鑑賞とは何なのだろう。文学鑑賞講座を受講していながら、そんな疑問を浮かべて聞き流していた。鑑賞講座は講師の読書感想を聞く場なのだろうか。
第一回目の講座を受講して、解ったことは、文学鑑賞講座は我々が読書するための切っ掛けを作ってくれる講座だということであった。
この講座では少なくとも3人の人物が紹介されている。まずは講師の和久田雅之氏、次に作家の山上籐吾氏、3人目に主人公の橘耕斎である。
講師の和久田雅之氏には、「靜岡文学散歩」「山頭火、静岡を行く」「伊東の文学」などの著書がある。作家の山上籐吾氏には、「白雲の彼方へ」「花橘に茶の香り」「豆州測量始末」などの著書がある。また、橘耕斎に付いても何冊か本が出ている。これらを知るだけで、読書人にとっては大きな情報となる。図書館が主催する文学鑑賞講座だから、それで十分目的を達している。
まずは、課題図書の「白雲の彼方へ」を図書館に予約して、本日借りてきた。これから読むつもりである。次月も、橘耕斎の続きで、耕斎の人物像に迫るという。それまでに、この小説は読んでおこうと思う。
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盛りの花の日記 9 2月29日~3月1日 難波潟、住吉、高師の浜、貝塚
竹村尚規さん一行は難波潟から海沿いを南下して行く。難波潟、住吉、堺、浜寺、高師の浜、貝塚などの地名が出てくる。人形浄瑠璃、住吉大社、仁徳天皇陵などは足を運んだが、信田の森へは行かなかった。
二十九日、北堀江の高木屋橋という所に行きて、宇治五十槻の主を訪(とぶら)うに、こは伊勢の山田の人にて、この大坂に旅居して、古学の書ども講釈して、人々教えらるゝなりけり。かくて芝居のあやつりなど、見ありきて、
※ 宇治五十槻(いつき)- 本名、荒木田久老。江戸時代中期から後期にかけての伊勢神宮祠官、国学者。
※ 芝居のあやつり - 人形浄瑠璃
草枕 旅路の憂さも 難波潟 にぎわう里に 心まぎれて
※ 難波潟(なにわがた)-上代、大阪市の上町台地の西側まで来ていた海域の古称。(歌枕)
三月朔日、住吉に至りて、四所の大宮に詣づ。
※ 四所の大宮 - 住吉大社のこと。住吉三神と神功皇后を祀る四宮がある。
住の江や みまくほしさに 今日きしの 松と契りし 人はなけれど
和泉国、堺の町より、東へ行きて、大山陵を拝む。こゝは仁徳天皇の御(おん)にて、いとも/\大きなる陵なりけり。巡りの池もいと深く、山の様もめでたくて、すべての陵のうちにも、かゝるばかりなるは、またあるまじくぞ、思わるゝ。
※ めでたい - 賞美する価値があるさま。みごとである。
さて今日の道は、西の方に播磨の海より淡路島など見渡されて、いみじう面白し。浜寺という処の松原よりは、ことに浦々さも近くて、言わん方なし。須磨の浦、明石の浦も、今見ゆる方なりというに、こは年ごろ、いかでとく行き見まほしく思えば、殊に心留められて、
浦浪の 立ちも寄らむと 恋わたる 須磨も明石も 近しとぞ聞く
※ 恋わたる - 長い年月のあいだ、恋い慕いつづける。
高師の浜もこのあたりにはあらんと思いしに、違(たが)わで、人に聞けば、この松原ぞ、高師の浜なりける。げに面白かりつるも、さりやと思いなりぬ。
声にきく こゝや高師の 浜ならむ 浜の景色も ただならず見ゆ
風の音の 高師の浜の そなれ松 なれて幾代か 波もかゝらん
※ そなれ松(磯馴れ松)- 潮風のために傾いて生えている松。
信田森は行く道の東の方なりと聞けど、程遠しというに、思い越して、え立ち寄らで過ぐとて、
※ 信田森(しのだの森)- 大阪府和泉市、信太山の森。葛(くず)の名所で、安倍保名とちぎった信太森の白狐、葛の葉の伝説で知られる。
※ 思い越す - 先のことをあれこれと思う。前途を考える。
春なれば 名に立つ千枝の 深緑 さぞな信田の 杜にや有らん
急がずば 信田の森は 遠くとも 千枝の一枝も 見ずで過ぎめや
かくて貝塚という里に宿りぬ。
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盛りの花の日記 8 2月26~28日 春日野、西の京、生駒山、大坂
竹村尚規さん一行は猿沢の池のそばに泊まり、朝、春日野から奈良を横切り、生駒山を越えて、大坂に至る。
二十六日、春日野に出て、
めづらしな 花咲き匂う 木の本に 男鹿も遊ぶ 春日野の原
御山のいたく霞めるを見て、
八重霞 立ち覆えども 三笠山 差してし仰ぐ 道は辿らじ
※ あふぐ(仰ぐ)- 上を向く。上方を見る。あおむく。
所々見巡り果てゝ、西の京へ出る。行く道に眉間寺という寺に入りて、聖武天皇の御陵に詣づ。西大寺は柳の歌ある所なれば、今もありやと見巡らすに、池の傍らに、小さき柳の垣結い回してありける。これや古えの跡にもやあるらん。
※ 柳の歌 - 遍照が西大寺のほとりの柳をよめる歌(古今集)、
浅みどり 糸よりかけて 白露を 玉にもぬける 春の柳か
立ち寄りて 見る大寺の 青柳(あおやぎ)の いとゞ昔の 偲ばれぞする
この西の京の辺りは、何となく、昔の名残り覚えて、すべて、すべて、寂しく物あわれになん、見え渡る。かかる所には、何とかや、打ち付けに住ままほしくさえ、思わるゝものなりけり。人目もまれに、あれわたりぬる有様の、好ましゅう覚ゆるは、如何なる心の癖にかあるらん。我ながら、怪しゅうこそ。
※ うちつけに(打ち付けに) - 突然に
※ まほし - ~したい。
※ あれわたり(荒れ渡り)- 一面に荒れる。どこもかしこも荒れる。
現代は観光客で溢れる西ノ京も、往時は一目もまれで、隠棲したくなる様な寂しい所だった。そんな思いを持つ尚規さんは弱冠21歳である。そんな自分を我ながら怪しゅう思うと自嘲する。
さて菅原の里にて、天満宮の御社を拝む。この東に伏見の里はありとぞ。古き歌どもに見慣れつる、里々なれば、知る人などに会えらむようにて、いと懐かしくぞ覚えたる。この南の方に、蓬莱山というは、垂仁天皇の御陵にて、大き
なる池の中にぞ、いと良き形したる山が有りける。そのさま、いと厳かにて、いとも/\尊とし。なお行き/\て、追分という里に宿りぬ。この辺りは添下郡(そえしもごおり)なりけり。
二十七日、宿の庭に梅咲たり。
移すとも やつれし袖は 梅の花 あかぬ色香や 留まり兼ねけん
伊駒山を越ゆるほど、駕籠舁(か)けるおのこ(男)に問うに、西の方は花も数多ある由、言えば、
生駒山 今はありとも 白雲に 人も分け見ぬ 花をしぞ問う
登り果てたる嶺(ね)向こうは、暗がり峠とぞいうなり。こゝよりは、河内
国河内郡なり。ゆき/\て深江村というに至る。こゝはまた津の国の境なり。
※ 津の国 - 摂津の国、現在の大阪府北西部と兵庫県南東部にあたる。摂州。
二十八日、大坂にて高津の宮に詣づ。それより、契沖法師の古跡、東高津の餌差町という所の円珠庵に至りて、墓所に詣づ。寺に入りて庵主に乞いて、書き置かれし書ども、かれこれ見る。いと珍し。去年百年忌なりけりとぞ。春懐旧という号にて、国々の人々の歌ども数多記したり。
今日訪ね 見つの浜松 年久に 恋いわたりつる 跡偲ぶかな
※ 年久に(としひさに)- ながい年月。年久しく。
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盛りの花の日記 7 2月25日 三輪、布留、猿沢の池
先週の金曜日、マイカーのガイアが14年7ヶ月、走行距離170,714キロで退役した。この間、目立った故障も無く、事故も違反も無しに走ってくれた。(駐車違反が1回あった)新しく買った車は、アクアである。大地から海への更新である。燃費がもっともよいいわれるハイブリット車である。何年乗ることになるのか、多分人生最後の車になるかもしれない。
* * * * * * *
竹村尚規さん一行は大和から奈良へ進む。ここでもお寺には興味がなくて、詣でるのはもっぱら神社である。
二十五日、三輪のお社に詣づ。杉の木のいと大きなるが数多立つるは、かのしるしの杉というものにやあらむ。
※ しるしの杉 - 三輪の大神のあらわれた杉、神の坐す杉。しるしとは、示現のことで、かつては、神杉として信仰されていたすべての杉を指した。現在はその一本が根株だけ残り、「しるしの杉」として残されている。
立こめて 山もと遠く かすむ日も しるしはそれと 三輪の神杉
辻村というに、穴師大明神の鳥居立ちたるは、穴師兵主神社にやあらむ。かくて渋谷村と云うにいたりて、崇神天皇の御陵に詣づ。されど、定かに崇神の御(おん)にや、いかがあらむ。これはただし、必ず近きとし、河尻何がしという公の司人、訪ね巡りて、垣結わせ、制札をも立てられたる由、聞くも畏(かしこ)く、いとも/\有難き事になん。きのう忍坂にて詣でつる、舒明の御にも、垣も制札も同じく有りけり。
※ 制札(せいさつ)- 禁令・法規などを箇条書きに記して、道端や寺社の境内などに立てた札。禁札。
御陵を「御」の一字で済ませている。省略したのではなくて、御陵(みささぎ)を口にするのをはばかったのであろう。国学が盛んになると、尊王の思いが高まってくる。幕末の尊皇攘夷へつながる流れである。そして、それまで顧みられることのなかった御陵が見直され、「垣結わせ、制札をも立てられ」ということになる。
歴代の天皇の葬られた場所は、記紀などの記述で解っているから、その地に残る古墳(墓石などはない)を、歴代の天皇に当てはめて、保存整備が進められた。しかし、整備されたのは一部で、はっきりしない御陵もまだ多かったのであろう。「河尻何がしという公の司人」がどういう人なのかは不明。幕末にかけて、国学を学んだ志士たちの間で、御陵巡拝が行われ、尊王の思いを募らせることになる。
さて行く道に、内山永久寺という寺に分け入るに、大寺にて僧坊あまた立ち並べり。糸桜面白かりければ、
うち山や 道遠かれど 立ち寄りて 見る甲斐はある 糸桜かな
布留のお社に詣づ。宮の御前わたりに花の有りけるを、
※ 布留のお社 - 天理市にある石上(いそのかみ)神宮。
※ わたり(辺り)- その付近。その辺一帯。近所。あたり。
さく花も 幾世かふる(布留)の 神垣に 春のたむけと 誰か植えけん
奈良にては、猿沢の池のほとりなる家に宿りぬ。その夜、沢真風主がり訪う。この人は元は江戸の人にて、後、京に住めりけるを、今はこゝに住むなりけり。京に在りしほど、伊勢の鈴屋の大人を修して、神代の道など、尊(とうと)めりし人にて、弟子など多かりつるを、いかなる事にか、京を浮かれさすらい来て、このわたりに勢い衰えて、さすがに学びの道は捨てたるにはあらねど、昔のようにはあらずなん有りける。
※ がり-(「が‐あり」または「か(処)‐あり」の変化した語)代名詞または人を表わす名詞に付き、その人の許(もと)に、その人の所に、の意を表わす。
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盛りの花の日記 6 2月24日 初瀬
竹村尚規さん一行は、国学を学ぶ仲間同士で、お寺へ参るよりも、神社へ詣でることに目が向いている。初瀬でも名立たる長谷寺よりも、その近くの與喜山の天滿宮に詣でることの方がメインのようだ。しかし、「去年の秋もたび/\詣で」というのは、尚規さんは去年もこゝまで来たというのであろうか。
二十四日、所々拝まんとて、出たり。まず、與喜山の天滿宮に詣づ。この御宮は去年の秋もたび/\詣でゝ、おのれには、いとも/\かしこき故由のあれば、殊更に心入れて拝み奉る。折りしも梅の盛りなりければ、
※ 與喜山の天滿宮 - 初瀬の長谷寺の東、興喜山にある天滿宮。
※ 故由(ゆえよし)- いわれ。理由。来歴。
よき(與喜)山や 梅咲く頃は え違わず 辺りの杉も 匂ふ春なり
なお、度々詣づべき志しあれば、
色変えぬ この神垣の 杉むらを 我も常磐に 見るよしもがな
二本の杉というは、いにしえ(古)のにや
※ 二本の杉 - 源氏物語ゆかりの杉。
人ならば 古川の辺の 二(ふた)本の 過ぎ(杉)し昔の 事とはましを
かくて、観音堂の東の方なる、鐘楼に昇りて、鐘を見るに、文亀元年(1501)となん、彫(え)りたりける。こは、古へのは、如何にしたるならん。文亀はさのみ古しとも覚えぬをや。度々寺の焼けぬる事も、物に見ゆれば、それらの禍いに、ようせぬらん。さしも昔より、名高き鐘の音なるものを、いと口惜しくこそ。
※ えり(彫り)- 彫りを刻むこと。
※ さのみ - それほど。さほど。
さて、ところ/\見巡るに、すべて桜は、いまだ咲き染めぬほどなれど、何とかや、立ち帰らんことの、惜しまれて、
おはつせや 飽かぬ名残りの 惜しまれて 山分衣 立ちぞかねつる
※ おはつせ(小泊瀬)- 初瀬の異称。泊瀬。長谷。
※ 山分衣(やまわけごろも)- 山道を歩く時着る衣。山伏などの衣をいう。
元の宿りに帰りて、家主呼び出して、この山の花より、吉野の頃おいなど、詳しゅう問い聞くに、こゝの花は吉野よりは、いつも/\、五日六日も早く咲き侍れば、今年は弥生の三日四日の頃おいなん、咲き侍らんか。さらば、吉野は九日十日ばかりにてぞ侍らんと言えば、かねて思いしよりは、いたく遅き事よと、思いたどらるれど、この初瀬の花も、今しばしが程に、咲き出づべき気配にも見えねば、さも有りなんとぞ、思いなりぬる。
※ ころおい(頃おい)- ころ。その時分。
吉野の花はまだ先だと聞いて、その間に和歌山へ足を延そうと相談して決めた。旅の計画は案外自在に変更されるようだ。伊勢の鈴屋の大人というのは、本居宣長のこと。その宣長が「彼処」と書かれている。宣長が和歌山に出向いて滞在しているということなのだろうか。この先を読んで行けばそんな疑問もはっきりする。
さては、その間の日数の数多余れば、いずくへか、ものせん。よしや、咲かぬ程なりとも、まづ、とく吉野へ行かまし。又は都へ上りて、帰るさに、吉野へは至りやせましなど、とかくに言い合いて、時移るを、紀の国の和歌の浦こそ、誰も/\見まほしく思う所なれ。伊勢の鈴屋の大人も、かしこと聞けば、いざや今より行きてんと、一人が言うに、皆人同じ心に、それいとよかめりとて、木の国にと思い定めぬ。さらば、まづ奈良へものせんとて、未の時のばかり宿りを立ち出づ。
※ さ -(動詞の終止形に付いて)~する時、~する折り
※ 未の時 - 午後3時頃。
さて良きついでなれば、追分という所より、南へ行きて、忍坂村というに分け
入りて、舒明天皇の御陵に詣づ。かくて、また少し南へ行きて、崇峻天皇の御陵にも詣でぬ。されど、この崇峻の御(おん)は里人の教えしまゝに詣でつれば、まことのにや、定かならず。帰るさに、忍坂山口坐神社にも詣でつ。さて、今日来し道には、朝倉宮、列木宮などの跡ありと、かねて聞き置きつれば、尋ね見まほしかりつれど、傾く日足に心急がれて、え見ざりしぞ、口惜しき。はた海柘榴市という処も、金谷村というに、今なおありとぞ。かくて日は早く暮れ果てゝ、いと暗きに、たどる/\三輪に至る。
※ 日足(ひあし)- 太陽が東から西へ移っていく動き。
※ 海柘榴市(つばいち)- 奈良県桜井市金屋にあった古代の市。
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海野弥兵衛信孝日記(24) - 駿河古文書会
昨日に続いて、駿河古文書会の信孝日記である。信孝さんは長逗留の末に、ようやく井川へ戻って行った。井川へ帰ると、お茶摘みの季節である。大海や焙炉紙といった、お茶の生産をしていれば常識である言葉が、古文書会の諸兄には解らないことを知る。これはちょっとした驚きである。しかし、講師が手に入れたと紹介した大海は、和紙で作り、表面に柿渋が塗られて防水されているもので、自分も初めて見る古い時代の大海であった。
廿日
一 供に召し連れ候、利右衛門荷持ち藤助来たる、もっとも早朝
一 百文、糸だて四つ、代土佐屋払い 使い、政吉
※ 糸立て(いとだて)- 糸を入れて補強した渋紙。
一 自分儀、今朝出で立ち、帰り候に付、品々支度いたし候事
一 好斎様へ品々申し談し置き候
但し、今朝出立帰り候に付、いとまごいいたし候事
もっとも御同人様より、こんぺいとう下され候に付、礼申し述べる
一 難波屋、母へ品々申し談し置き候
但し、金弐両預け置き候、もっともこの金子、当月中、三両金に取り
揃え、千代兵蔵様へ返済いたし候の儀、品々申し談し置き候事
一 反もの壱反、代金壱分と四百五十文ほど、
右の品預り候事
一 難波屋御一統へ、いとまごいいたし、それより自分、供の者召し連れ、難波屋出立いたす
一 牛妻、休茶代、四十八文、差し置き候
一 只間、休茶代、百文、差し置き候
一 同所にて、茶一見いたし候
一 同所へ茶の儀、申し付け置き候事
一 同所にて、手拭い壱筋調え候
代、百文払い
一 長熊、休茶代、四十八文、差し置き候
一 柿嶋、休茶代、四十八文、差し置き候
一 上落合、庄左衛門宅泊る、もっとも給いもの持参に付、泊り候なり
一 同所、庄左衛門へ、朝倉方への伝言、得と申し聞き置き候事
但し、紀州様御内、酒井幾之丞殿よりの伝言なり
廿一日
一 上落合、庄左衛門宅、出で立つ
但し、茶代として、銭三百文差し置き候
一 口坂本村、与四兵衛宅へ着く
但し、土産として、手拭壱筋遣し候
一 同所、与四兵衛儀、作場へ参られ候由にて留守に付、呼びに遣わし候様、同所へ申し付け、則ち呼びに遣わし、同人来たり候
但し、与四兵衛へ兼ねて申し談じ置き候、金談の儀など、その外、品々申し談じ置き候事
一 井川へ着く、下屋敷へ立ち寄り候
但し、養父へ面会いたし、一礼相済み、品々相咄し候事
一 久蔵に逢い候事
一 上屋敷着いたし候事
但し、供に召し連れ候、藤助儀、宿へ引き取り候
一 久蔵来たる
但し、品々相咄し候事
一 新藏方より紙とり寄せる、左の通り
一 阿ぶり
※ あぶり - 焙炉(ほいろ)紙
一 大かい(海)紙
一 明日、明後日両日の村代申し付け候事
一 地脇の者、夫々来たり候事
一 鹿袋角弐つ、五郎左衛門方より調え候事
代金、弐朱ト六百文 使い、久蔵
但し、金壱分遣わす、
もっともつり参るはず
一 安部家、家老両人より、龍泉院への書状、過日落手、預かり置き候儀に付、則ち右書状壱封、龍泉院へ七右衛門をもって、持たせ遣わし候、受取書取り置き候事
廿二日
一 数間村代来たる、茶つみ
※ 村代 - 村の代表で、海野家へ労力奉仕に出る人工のことらしいが、確証は得られなかった。今回は茶摘みの作業を行うようだ。
一 橋場、与兵衛村代に来たる、品々支度致させ候
〆
一 龍泉院和尚来たる
但し、自分帰り候歓び、申し寄られ候、その外、品々相咄し候事
一 竹
一 干物肴五枚、下屋敷へ土産として相送り候
使い
一 養父来たる、種々相咄し候
但し、先般安部家への願い書面、その外書類、夫々一覧に入れ候
一 自分留守中の儀、品々承り、相咄し候事
一 大かい(海)、ほいろ(焙炉)紙、養父張りくれ候
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海野弥兵衛信孝日記(23) - 駿河古文書会
ようやく梅雨らしい雨の中、午後、駿河古文書会で靜岡へ行った。先日、Oさんに頂いた「やしゃらん」の鉢を持参して、皆さんに見せた。疑問が解けたと言われ、勧められて、会の冒頭で「やしゃらん」の入手の経緯と、その説明をさせていただいた。
駿河古文書会の課題の方は、引続いて「信孝日記」である。信孝さんが井川に帰る日がいよいよ迫っていた。今までの清算や、色々な頼まれごとなどを果たす日々である。兄一行も伊豆の温泉から帰ってきた。十一日間の湯治の旅であった。余裕があったんだねぇ、という言葉が出た。
九日
一 中ノ店仁右衛門より荷物の儀、申し来らる、その外、井川養父よりの伝言申し来たり候に付、なお又伝言を以って申し遣し候事
一 廿四文、莨
一 ろうそく奉納
代、百文
外に八文小遣ひ 使い、せい
十日
一 認めものいたす
一 羽鳥藤兵衛様、難波屋へ来たる、面会相咄す
一 十八文、半紙
十一日
一 弐百八十六文、乳母、糸染めちん渡す
一 安部家への書状出ず、飛脚屋日野やなり
但し 家老衆へ壱封
賄方三人へ壱封
〆て弐通、壱封にいたし、賄方へ差し向け出し候事
賃銭、弐百文払い 使い、政吉
一 銭八百文、日雇い三人賃銭払い 源次へ 使い、政吉
但し、去月廿四日 紀州様御通行の節、江尻宿まで召し連れ候、供人足賃なり
十二日
一 自分儀、両替町伴野氏宅へ罷り出候
但し、羽鳥好斎様、御病気にて、同所に御出でこれ有るに付、罷り出で
御目にかかり相伺う、品々相咄し候、その外同所にて、夫々方へも、
一と通り挨拶申し述べ置き候事
一 廿四文、莨
十三日
一 銭三百文、由蔵へ遣し候
但し、去月廿四日、紀州様御通行の節、同人江尻まで、供に召し連れ候賃銭なり
一 夜に入り、羽鳥好斎様、難波屋へ御出で成られ候、もっとも暫く御逗留成られ候事に候
但し、御面会いたし、品々相咄し候事
一 草深利右衛門、荷持ちの者来たる
但し、供に召し連れ候儀、相咄し候事、同人明日荷物とりに参るはず
一 十八文、半紙
十四日
一 新米壱俵、難波屋にて借りる、もっとも兼ねて兄へ引き合い置き候
但し四斗
両に
代金
右米、計り立て、四斗壱升三合
※ 計立(はかりたて)- 近世、租米の計算に、出目米を除外しないで、納める時の実際の斗量によって計算すること。
※ 出目米(でめまい)- 江戸時代、年貢の付加税として本来納めるべき年貢米の他に納入させる余分の米。
内
一 米三斗弐升 井川下屋敷へ送る、五月分なり
但し、草深利右衛門、荷持ちの者へ相渡し相送る
一 醤油弐升、唐木屋よりとる
但し井川上屋敷へ相送る、右同人へ相渡し送り候事
一 右弐口、賃銭、この後一同相渡し候積りにて、今度相渡し申さず候
一 かます弐つ、土佐屋よりとる
十五日
一 廿四文、莨
一 十八文、半紙
十六日
一 羽鳥藤兵衛様、難波屋へ来たる、面会いたし候
十七日
一 廿四文、莨
一 好斎様と申し談じ、書面認める
十八日
一 兄その外一同帰る、面会相咄し候、もっとも兄留守中の儀、兄へ相咄し候
一 調えものいたす
一 自分儀、明日出で立ち、井川へ帰り候に付、品々支度いたし候事
但し、川深に付、明日出立、差し延べ候事
十九日
一 金壱両、唐木屋孝二郎殿より預かる
但し、角頼まれ候に付、かくの如し
※ 角(つの)- 鹿の角で、漢方薬になった。
一 弐百五十文 乳母、糸取り賃渡し候
一 五十文 小遣い分
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