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磨墨伝説の福養の滝を見る

(福養の滝、上の段)

(昨日のつづき)
「縁側カフェ」の砂さんに、元大学教授の御宅のツリーハウスカフェを教えてもらい、茶畑の斜面を横切る道を少し登って立寄った。階段を昇ったツリーハウスに、砂さんの縁側でも顔を合わせた、掛川から来た女性二人が先客でいた。コーヒーはセルフサービスと書かれている。


(ツリーハウスカフェからの景色)

声を聞きつけて、御亭主の小桜元教授が昇ってきた。三年前の静大の講座でお話を聞いて一度来たいと思っていたと話しかけると、皆んな年寄りだから年々少なくなって、今はここを含めて5軒になってしまった。しかも、その内1軒はおばあちゃんが弱くなって休んでいると話す。コーヒーは暖めてあるから、ケーキも今朝自分で焼いたものだから、自由に取って食べるように話して、そそくさと降りて行ってしまった。山村生活のお話でも少し聞けるかと思ったが、残念であった。

帰りに、大間の集落のすぐ上にある「福養の滝」に寄った。県道を3分ほど登ると、閉鎖されている「駿墨庵」の建物の横に、福養の滝の駐車場があり、それより200メートルほど遊歩道を歩いた先に「福養の滝」はあった。


(福養の滝、下の段)

遊歩道の入口に「熊出没注意!」の看板があり、瞬間緊張する。遊歩道の最後で、沢のレベルまで下ったところが滝見の場所であった。高さ100メートルの上から急斜面の岩を這うように水が落ちてくる。良く見ると滝は二段または三段になっているようで、すべてを同時に視界に入れることは出来ないようだ。紅葉にはもうしばらく掛かると思うが、周囲の緑の具合では、紅葉の景色も見てみたいと思った。

案内板によると、昔、この滝に毎年5月5日の午後10時頃、一頭の馬が滝つぼにつかり毛並みを整えていた。この馬は後に米沢家で飼われ、宇治川の先陣を争った駿馬「磨墨(するすみ)」となった。その謂れからこの滝は「お馬が滝」と呼ばれていたが、明治43年、当時の安倍郡長、田沢義輔が郡内踏査に来た折り、岐阜県の養老の滝に似ていることから「福養の滝」と名付けたという。

「宇治川の先陣争い」とは、寿永3年(1184)、木曽義仲と源義経が宇治川で相対したとき、義経方の佐々木高綱と梶原景季が、源頼朝から与えられた名馬、いけずき(池月)対、するすみ(磨墨)で、先陣を争った故事である。

帰りの車で、女房が思い出して笑う。砂さんでツリーハウスカフェではコーヒーとマドレーヌが出ると聞いて、皆んなが聞いているところで「マドレーヌとは何だ」と自分が尋ねたことが滑稽だという。お菓子の名前だとは思ったが、そんなカタカナを言われても解らない。だから聞いたのだが、黙っていれば恥を掻かなくてすむのに、大恥を掻いたのだそうだ。今もって何が大恥だったのか、解らない。

女房は購入したラッキョウ漬と梅干漬がそれぞれ150円だったことにえらく感激していた。自分は、何につけても、浮世離れした雰囲気が心地よかったので、縁側カフェにはもう一度来ても良いかなと思った。帰りに湯ノ島の玄国茶屋でお蕎麦を食べて家路に着いた。
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愛知県の滝、「鮎滝」と「牛の滝」

(一瀑の「鮎滝」)

久し振りに滝を見に、息子と車を走らせた。滝を数えるときの単位は何と言えばよいのか、ハテ?と考えた。思い浮かんだのは、本、と筋。1本、2本では味気ないし、一筋、二筋は力強さに掛ける。ネットで検索してみると、たくさんの滝好きがやはり疑問を呈している。答えがあった。「本」「筋」以外に「条」とか「瀑」という数え方もあるようだ。ワン、ツーだけで済む英語に比べて、何とも日本語はやっかいであるが、それだけに知る楽しみがある。今日の感覚としては二つの滝を「瀑」と「条」に使い分けて置く。多分に感覚的な座りの良さだけである。


(「鮎滝」全景、上部の導水溝のラインが気になる)

「鮎滝」は愛知県新城市出沢にある。国道257号線の旧道、豊川の右岸(左岸に新道が出来ている)に花の木公園という釣堀センターがあるが、その向い側に大瀑布の観を呈している。何と言ったらよいのか、これって天然の滝といえるのだろうか。上流にダムが出来て豊川の左岸に沿って長篠発電所への導水溝が出来、100メートルほどある導水溝の一方の側からあふれた水が瀑布となって岩肌を跳ね落ちている。今日は水量が多いから見ごたえがある。昔から辺りは岩を削った渓谷となって、滝も幾つかあったのだろうが、今の滝は明らかに人工的に作られたものと感じてしまう。それでもなかなか迫力があるから良いとしよう。

「長篠」という地名から、戦国時代に詳しい息子に長篠の戦いは誰と誰の戦いだったかと聞くと、武田信玄の死後、息子勝頼と信長が戦ったもので、武田騎馬軍団が信長の鉄砲軍に敗れた。日本の戦に銃が戦術として使われた最初であるという。そういえばそんな絵を教科書で見た。

鮎滝は長篠の古戦場からも遠くなく、往時はその上に猿橋という橋が架かっていた。長篠の戦いに敗走する武田軍にあって、武田家旗本笠井肥後守満秀は主君に自分の乗馬を譲り、自らは我こそは勝頼と名乗り、織田方の瀧川源右衛門助義と組打ち、差違えて戦死した。その橋詰での出来事が案内板に記してあった。

「牛の滝」はそれより20分ほど走った、豊川市東上町にある。豊川の支流、境川をJR飯田線東上駅のほうから上流に向けて進もうとしたら道が無くなった。ほとんど廃道のようになったハイキングコースらしきものはあるが、歩けそうな道ではなかった。一度は遊歩道として整備したものであろう。上から攻めようと、県道21号線に出たすぐのところに「牛の滝」の看板と駐車場があった。


(一条の「牛の滝」)

滝壷への遊歩道は倒木、落石の危険があるため立入禁止になっていたが、自己責任で行ける所まで行ってみた。まだ葉っぱに青さが残った倒木があり、わずかに土砂崩れの後もあったが、遊歩道までは及んでいなかった。おそらくこの夏に崩れたものだろう。滝にも倒木が1本掛かっていた。案内書とは滝の落口が右に動いたようで、かつては2段に見えたものが、今は一筋に落ちていた。高さ10メートルといい、滝口のすぐ上を県道が通り、樹木の向こうに車が通るのが見えた。

この滝は雄滝で、下流に落差4メートルの雌滝もあるというが、遊歩道が立入禁止で、行けなかった。「牛の滝」は別名「常竜滝」「黄牛滝」ともいわれる。境川の名の通り、宝飯郡と設楽郡の境になっていて、渇水期には水争いが絶えなかった。そんな事情が背景にある、淵から黄牛が湧出したという伝説が残っている。「牛の滝」の名前の由来である。
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嬉野温泉の轟の滝

(嬉野の轟の滝)

今朝、新幹線と特急を乗り継いで、また嬉野温泉に来た。もちろん仕事である。今日の仕事は早く終わって、いつものビジネスホテルに入った。夕方は静岡より一時間近く日が長いから、まだ陽が高かった。地元の人に2時間ほど散歩をしたいが、嬉野ではどこが見所だろうかと聞いた。おおむね川の遊歩道を遡って轟の滝まで歩くのがよいという。そのコースは10年も前だったか、嬉野に一泊することがあって、そのとき散歩したように記憶している。ホテルで町内の地図をもらい出かけた。

嬉野の町は北から国道34号線バイパス、旧国道、塩田川がほぼ並列して東西に走っている。町の途中から塩田川端の遊歩道に下りりた。川の両側に遊歩道が作られている。塩田川の流れは両岸に温泉のホテルなどが建ち並び、それらの生活排水も流れ込んでいるようで清らかな流れとはいかない。両岸に多く見られる桜もほとんど散って、残花は僅かになり、花びらがたくさん川に流れ込んでいる。あぶくかと思ったら全て花びらで、それが連なると花筏(はないかだ)という。花が連なって流れ行くさまを花の筏と見立てた、日本語の美しい表現である。


(堆積岩層が露出する川底)

さらに遡るとマガモが何羽も泳いでいる。人を怖がらず、すぐそばまで近づいてくる。飛び立たないところをみると羽根を切ってあるのだろうか。滝の手前の川底には地層が90度傾いて、地層の筋が流れと斜めに方向に露出している。本流が地層の筋に横へ広がって浅く流れて、特異な風景をつくっている。その先に滝つぼがあって、轟の滝が落ちていた。

案内板によれば、
轟の滝は、約二千五百万年前の畑津頁岩層という堆積岩が広がる台地の上に、数百年前頃から始まった火山活動によって出来た。堆積岩を貫いた溶岩流により段差を生じたり、川の浸食によりやわらかい堆積岩は削り取られたりして、滝の景観を作り出した。滝の高さ11メートル、滝をつくる岩は溶岩が冷えたもので滝の上流に広く露出し、滝下の川底には削られた堆積岩が広く分布している。

八世紀に編纂された肥前国風土記には「川の源に淵あり、深さは二丈(約4メートル)ばかりなり、岩壁嶮峻(さか)しくして垣のごとくめぐれり。年魚(あゆ)多(さわ)にあり」と記され、奈良時代にはすでにこの滝が知られていたことがうかがえる。」
(一部文を縮めた)

轟の滝は、かって静岡で見た、富士溶岩流が造った「五竜の滝」「鮎壷の滝」と同じように、溶岩流の先端が冷えて固まって、形成された段差に出来た滝である。
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かつて裏見の滝だった「萬城の滝」

(萬城の滝)

(滝見物の続き)
案内書では伊豆市にもう一つ「萬城の滝」が出ていた。場所は旧町名では中伊豆町になる。写真を見るとなかなかダイナミックな滝のようだ。まだ夕刻には時間があったので「五竜の滝」のあと向かった。戻り道に、湯ヶ島温泉から右折して山道を上った。国士越という峠を越すと筏場に下る。筏場の大見川の谷間は一面にわさび田が棚田を見るように続いている。わさびの一大産地になっていた。「萬城の滝」は大見川の支流、地蔵堂川の上流にある。

地蔵堂から橋を渡って地蔵堂川の右岸に出て、1キロメートル弱で「萬城の滝キャンプ場」に至る。駐車場のすぐ西側の谷に下っていくと「萬城の滝」が見えてくる。高さ20メートル、巾6メートル(多分増水時)の迫力のある滝である。落ち口がオーバーハング状に迫り出して、地蔵堂川本流を一点に集め、滝壷に直接落ちているからである。


(紅葉と萬城の滝)

轟く水音は案内板によると、「赤牛に乗った赤姫が、機を織る音が水の音と合して牛の鳴き声に似ているので、滝の主は赤牛である」という赤牛伝説が残っているという。この伝説は長いものを縮めて書いたためであろう、文脈をつかみにくい。最初の赤牛と滝の主の赤牛は同じ牛なのだろうか。滝の音が牛の鳴き声に似ていると感じた人がいて、赤牛伝説が出来たのだろうが、どう聞いてものんびりした牛の鳴き声には聞こえなかった。

かつて「萬城の滝」は滝の裏側を歩ける遊歩道が出来ていて、別名「裏見の滝」とも呼ばれていた。現在は一部崩壊して遊歩道は通行止めになっていた。草の生え方から通行止めになってからずいぶん経つようであった。

この滝の壁にも柱状節理が見られ、ジョウレンシダらしいシダが見られた。あまりにも観光化された浄蓮の滝と違って、観光客は我々だけであった。「裏見の滝」に復旧できれば、もう少し観瀑に訪れる人が増えるのだろうが。

案内板の脇に佐藤溪月作として漢詩が出ていた。
     萬城滝       読み
  緑陰深處瀑泉懸    緑陰深き処瀑泉(ばくせん)懸(かか)る    
  飛沫滔々濛水烟    飛沫滔々水烟(すいえん)濛(もう)たり
  廻岩臨裏万雷響    岩を廻りて裏に臨(のぞ)めば万雷の響き
  涼氣滌煩断俗縁    涼氣煩(はん)を滌(あら)いて俗縁を断つ


帰りにキャンプ場の管理棟の売店に寄って、「わさびが添えてある」という表示に少し引っかかりながら、わさびソフトクリームを注文した。見ているといきなりわさびをおろし板ですり出した。わさびを混ぜたソフトクリームではなくて、ソフトクリームの肩にすりたてのわさびを添えて出てきた。それも客がいないので気合が入ったのか、わさびがどっさりのっている。予想外の展開であった。舌を差すような辛味に恐怖を感じながら、それでもけっこう喜んで食べてしまった。
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安山岩の渓流瀑、「五竜の滝」

(渓流瀑「五竜の滝」)

やはり今日は快晴ながら凍えるように寒い。今朝未明に名古屋の娘夫婦が帰ってきた。今朝は掛川の娘がまーくんを連れてやって来て、我が家は大変にぎやかな日となった。午後は手によりをかけてカレーライスを作った。豚肉の肩ロースと海鮮ミックス(エビ、イカ、アサリなど)を買ってきた。いつもと違うのはリンゴ一個を摺って入れたことである。結果はなかなか好評で、工夫した甲斐があった。大人が六人で食べると、沢山作ったつもりが気持ちよく減った。

(滝見物の続き)
「浄蓮の滝」の次に向かったのが「五竜の滝」である。

滝を見て回りながら、水の流れがどうなれば「滝」というのか、滝の定義をまだ調べてみたことがなかった。それで辞書を引いてみた。まず、第一に「高いがけの上から流れ落ちる水の流れ。瀑布」、第二に「川の流れの急な所。急流」と書かれていた。

滝の形体による区分は次の六つに分けることが出来るようだ。
  「直瀑」  - 落ち口から滝壷まで一気に落下する滝
  「分岐瀑」- 落ち口から幾重にも分岐して流れを作る滝
  「段瀑」  - 二段~三段、またはそれ以上の階層がある滝
  「潜流瀑」- 地下水が崖より直接落ちる滝
  「渓流瀑」- 傾斜した岩肌などの上を滑るようにして流れる滝
  「海岸瀑」- 海岸の崖の上に滝口があり、海に直接落ちる滝


さて、この区分によれば、これから見に行く「五竜の滝」は「川の流れの急な所。急流」で、「渓流瀑」と呼ばれる滝なのだろうと思う。「浄蓮の滝」から、さらに南下して、道の駅「天城越え」の先で、「滑沢渓谷」のバス停から右の土道へ分かれて、少し行くと広い駐車場がある。車を停めて渓谷沿いの道を歩く。この道は伊豆一番のスギ、「太郎杉」へ行く道である。やがて右下の沢に滝音が聞こえて、樹間に滝らしきものが見下ろせる。車も通れる道は幾つか歩道を分けるが、橋を渡って大きくUターンするように沢の向こう側に出る。やがて右側の沢へ降りる踏み跡があるから、滝のすぐそばまで下りることができる。水量はたっぷりだが、落差が2メートルほどで、たしかに滝というよりも急流で落差のあるところと言った方がよいかもしれない。


(柱状節理のウロコが見える)

滑川渓谷は安山岩の一枚岩といわれ、玄武岩ほどではないが、河床にかすかな柱状節理が見られる。その岩の形を竜のウロコと見立てて、沢の流れ全体を竜が臥すさまに見て、もとは「臥竜の滝」と呼んでいたが、「臥竜」が変じて「五竜の滝」となったと考えられているようだ。自分は小さな滝が五つ数えられるのかと思い、探してみていた。同じ「五竜の滝」が裾野市にもある。
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女郎蜘蛛伝説の「浄蓮の滝」

(浄蓮の滝)

昼間雷が鳴り、大荒れの天気となった。しかしそれも夕方には上がり、西の山際に夕焼けが見えた。夜はソフト会社の忘年会に出た。駅前のセラピスというお店で、S氏の実弟が経営している無国籍料理の店である。帰って、自宅前で見た夜空が澄み渡って星がきれいに見えた。明朝は冷えるだろう。

(滝見物の続き)
「鮎壷の滝」のあと、伊豆半島に入る。昼食を取った後、伊豆市で3つの滝を見ようと予定した。最初は「青葉の滝」である。国道414号線(通称下田街道)から分かれて、国道136号線で土肥へ越える道に入る。前回滝見物に来たとき、土肥から戻ってくるのに走ったみちである。案内書には、船原温泉の少し先の採石場近くに車を停めて、そこから10分ほど歩くとあった。しかし何も道標がなく聞いてみる人影もない。それらしい地形も感じられなかった。採石場に行って聞けばいいのだろうが、それも気が引けて今回は断念した。ネットなどでもう少し詳しく調べてから改めて訪れようと思った。

下田街道に戻って南下し、湯ヶ島を通り過ぎて少し行くと「浄蓮の滝」に出る。ここは見紛うことはない、一大観光スポットである。何度かバス旅行などで訪れたことがある。降り口の脇に「伊豆の踊り子」の学生と踊り子の銅像があった。もっとも「伊豆の踊り子」の中には「浄蓮の滝」らしい記述は一切ない。

遊歩道を下っていくと谷の底がワサビ田になっていた。そういえばこのあたりはワサビの産地である。遊歩道の先に、柱状節理を成した玄武岩の岩壁を落差25メートルのまっすぐな滝が落ちていた。「日本の滝100選」に選ばれた名瀑である。

「浄蓮の滝」には「女郎蜘蛛伝説」が残っている。

その昔、湯ヶ島の与一という農夫が滝壷のそばを通り過ぎようとしたとき、蜘蛛の糸が足に幾重のも絡まり身動きできなくなった。やっとの思いでその糸を近くの切り株に巻きつけ立ち去ろうとすると、切り株が空中に舞い、滝壷に吸い込まれていった。そして、滝壷から「今日の出来事を一切他人に話してはならぬ!」と、女の声が聞こえた。与一は他言せずに、真面目に働き名主までなった。さらには、あたりの樹木の伐採を禁じて、平穏な暮らしを送った。

数十代のちの子孫の与左衛門は、掟を破って滝上の木を切ろうとして、手を滑らし大切な斧を滝壺に落としてしまった。斧を探して滝壺へ飛び込むと、美しい女が現れ「斧は返すが、今日のことは他言はならぬ!」と言い残し姿を消した。与左衛門は、その美女こそ滝の主の女郎蜘蛛だと恐怖し、酒に溺れる生活を送るようになった。

そんなある日、突然雷鳴が轟き、火柱が家を真二つに引き裂いて、中から目をらんらんと輝かせた大蜘蛛が現れた。与左衛門は後日冷たい屍となって滝壺から浮かび上ったという。
(案内板より要約)


(ジョウレンシダ-滝の左側の岩壁)

滝の周りの岩壁には、県指定天然記念物のジョウレンシダ(別名ハイコモチシダ)が群生している。中国南部から台湾、ヒマラヤにかけて分布しているが、日本ではこの浄蓮の滝近辺で初めて発見された。伊豆半島のほか、九州南部にも見られる。写真では滝の左手の岩壁に大きく垂れ下がって見えるシダがジョウレンシダである。
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富士溶岩流が作った「鮎壷の滝」

(黄瀬川と鮎壷の滝)

明日から天気が荒れて、少し寒くなるという予報に、今週は今日が出かける絶好の日だと、朝から滝を見に出掛けた。見ていない滝が多く残っているのは伊豆半島である。今回も前回伊豆に出掛けた同じコースで伊豆半島を目指した。

それまでに見残した滝で、長泉町に「鮎壷の滝」があった。調べてみると、沼津インターを降りて、国道1号線へつなぐ国道246号線からそう遠くないところにその滝があることが判った。伊豆に行く前に「鮎壷の滝」を見て行こうと思った。「岡一色」の交差点を左折し、門池公園を左手に見ながら道なりに進んで行くと、1kmほどで黄瀬川を渡る。「鮎壷の滝」は黄瀬川本流の、その橋から200メートルほど下流にある。

橋に出れば下流に滝が落ちていることは雰囲気ですぐにわかるのだが、右岸からも左岸からも、どう近付いていいのか判りにくい。周りは無計画な住宅地が建て込んで、まず、駐車場が全くない。右岸の小さな神社の境内に駐車させてもらい、迷いながら川縁に進んだ。川に沿って大きなマンションが工事中で、余計に判りにくくなっていた。何とか川縁に出ると川縁だけがわずかに公園緑地になっていて、人が渡るための吊り橋が架かっていた。周囲には滝を取り囲むようにビルや住宅が建て混んでいた。街中の滝だから、ぎりぎりまで宅地化されているのである。

「鮎壷の滝」は同じ黄瀬川の数キロメートル上流の裾野市にある「五竜の滝」と同じように出来た。富士山から流れ出た溶岩流が、堆積する「愛鷹ローム層」に乗り上げて止まり、固まった部分の段差に、川が流れて滝になっているものである。

案内板によると、滝つぼ付近がオーバーハングしているのは、下層の「愛鷹ローム層」が浸食されたためだという。滝の東側には直径1メートル、高さ7メートルの「溶岩樹形」が見られ、滝の上流部には浸食によって生じた「ポットボール(甌穴)」が数多くあるという。溶岩流の特徴をよく観察できるところから、県の天然記念物に指定されている。
※ 溶岩樹形 ― 溶岩中に残された樹木の形。溶岩流が地表を流動中に樹木をとりこみ、その形が残った空洞。
※ ポットボール(甌穴)― 河床の岩盤にできる円筒形の穴。岩のくぼみや割れ目に小石が入り込み、流れに回転して深く削られたもの。



(鮎壷の滝-渇水期で一筋のみ)

川は水量が少なくて一ヶ所だけから滝が落ちていた。滝の高さは8メートル、増水時には落ち口が2ヶ所、3ヶ所と増えていくようだ。現在建設中のマンションは窓から滝が見えることが売りになるのであろうが、せっかく天然記念物に指定を受けながら、周囲の環境を風致地区として保存できなかったのは町として大変残念なことである。
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奥大井、大樽沢の大樽と不動の滝

(岩瀧不動の滝)

24日朝、明日小学校の時の先生を連れて行きたいから、奥大井の紅葉の下見に行きたいと女房が言うので付き合った。午前中はお天気は持ち、雨になるのは2時ごろからで、ちなみに明日は良い天気になると、女房はこの頃はインターネットで細かく検討している。

練習だからと、運転は女房がすることになる。はじめに向かったのは寸又峡である。途中何ヶ所か片側交通に規制されていた。行き違いに時間を掛けるよりも、交互に通行を止める方がはるかに早く走れる。紅葉の時期の休日にはこんなサービスが有り難い。観光バスとすれ違いを思うとうんざりする。女房は明日も規制があるかどうか、ずいぶん気にしていた。もちろん規制があって欲しいのである。寸又峡にはたくさん車が入って賑わっていた。下見だったから、紅葉の様子を見て、そこでUターンして戻った。紅葉はかなり進んでいるように見えた。


(大樽沢の大樽)

次に向かったのは接阻峡である。長島ダムを前方にして大井川の左岸に渡ると、右前方に長島ダムを見て、左手頭上の高架をアプト式の井川線が通っている。その左側の岩壁を滝が落ちていた。気付いて、車を少し先に停めて見物に戻った。人影に驚いたのか、滝の落ちる岩壁の灌木を揺らしながら、サルの群れが鳴き声を上げて登っていく。およそ20匹ばかりの群れのように思えた。

この沢を大樽沢と云い、ダムに堰止めされて水量の無い大井川にそのまま注いでいる。この滝の名前は付いていないようだ。大樽沢だから「大樽」といえばよいのか。ちなみに「樽(たる)」は「垂」で、「垂水」の省略形で、つまり「滝」のことである。落差30メートルで二段になっている。バスで通れば見える滝だから正式にネーミングすればいいと思う。


(岩瀧不動堂)

そこから接阻峡に向かう途中に道路を挟んで巨木とお堂と滝がセットになっている。この巨木は針葉樹であることは判るが樹種が判らない。お堂は「岩瀧不動堂」といい、真新しい由緒の案内板があった。由緒を要約すると、「文久(1861年頃)のはじめ、犬間村に疫病が流行し、日正坊と名乗る修験僧が疫病退散を祈祷した。そして疫病が鎮まったら川の上流に不動明王の宿る石があるから滝のそばに運んで供養するように告げた。やがて疫病が治まり、村人はその石を滝のそばにお迎えした」という。

滝の落ちる沢を不動沢と呼ぶ。この滝は「不動の滝」と名付けられた。他の不動の滝と区別して、「岩瀧不動の滝」と呼ぼう。落差が20メートル滝つぼ近くまでコンクリートの階段があり、見上げる位置まで降りられる。まっすぐの滝だが良い滝である。

帰りも女房が運転して帰り、明けて今日、朝から本番に出掛け、迷うことなく帰って来た。
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戸田から土肥へ4滝を見る

 
(左「よしの滝」、右「はかま滝」)

(昨日の続き)
雄飛滝を見たあと、土肥の二つの滝を見ようと思って、運転手の息子に先へ進んで海へ出ようと話した。てっきり伊豆西海岸の戸田に出ると思った所、案に反して、出たところは沼津の内海、内浦湾だった。戸田へは海岸沿いの曲がりくねった道を大瀬崎を越えて西海岸に出なければならない。車を走らせていると、やがて「戸田」の道路標識が出ていた。取ったのは山越えの道であった。山越えの方が短時間で行けるのだろう。この峠越えなら、知らない滝に出会うかもしれないと話しながら行った。

真城峠を越えた先に「よしの滝」という看板を見つけた。駐車して小さな流れに沿った遊歩道をわずかに入った所に「よしの滝」があった。落差3メートルぐらいだろうか。滝の前に岩が崩れて積み重なって景観を損ねている。遊歩道を作った頃はまだ崩れは無かったのかもしれない。

その先で戸田の町へ下る少し手前で、「はかま滝オートキャンプ場」という看板を見つけた。道を逸れ谷に沿って入った、オートキャンプ場は季節外れのためか閉鎖されていた。オートキャンプ場の先で、谷へ鉄骨造りの展望所が突き出して、透明なプラスチック板の柵で囲われ、下に「はかま滝」が展望出来た。プラスチック板越しに滝が見える仕掛けなのだろうが、メンテナンスも出来ない山中に、プラスチック板を設置しても、すぐに汚れてみすぼらしくなってしまう。今となっては展望所の存在が景観を害し、滝を見え辛くしており、即刻撤去して、もっと自然を生かした公園造りをすべきだと思った。

「はかま滝」は二段に分れ、下の段の末広がりに拡がった滝の形がはかまに見えるのだろうと思った。滝の下まで寄れるようにすれば、迫力ある滝が見られると思った。

戸田で食事後、土肥の「おかる滝」と「不動滝」を目指した。案内書では土肥の先、恋人岬の近くらしい。恋人岬郵便局の先から海岸に降りていくとあったので、恋人岬郵便局で滝の場所を聞いた。

 
(左「おかる滝」、右「不動滝」)

郵便局の100メートルほど先から、海辺の米崎という集落へ下る、ようやく車一台の細い道を5分ほど行くと小橋の上から「おかる滝」が見えた。岩壁に刻まれた細い溝を伝って落ちる小さな水流が「おかる滝」であった。落差20メートルほど、むかし “おかる” という女性がこの滝に身を投げたという。しかし身を投げるほどの水が無く、上から身を投げれば、水死でなくて墜落死になる。滝名を示すものは何も無く、そばにある白い石の馬頭観音が唯一の目印である。

さらに細い道を5分ほど下っていくと「不動滝」がある。滝右側が墓地で、「不動滝」はやや水量が多く、落差35メートル、滝の直下から砂防工事されて、滝の下まで近寄れないのが残念であった。

二つの滝は米崎という集落にあって、案内書に紹介されているが、それらしい案内標識も滝表示も無く、荒れるに任せてあるようで、大変残念に思われた。

以上でこの日の滝見物は6つの滝を見て終えた。雨不足が滝の姿を寂しくしていた。
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修善寺の旭滝と雄飛滝

(修善寺の旭滝)

昨日に続き今日も快晴であった。滝を見に伊豆へ出掛けた。目標にしたのは修善寺の旭滝である。

自分の子供の頃にはごくたまに見かけたような気がするものに虚無僧がある。近頃は全く見かけることは無いが、黒い装束に袈裟を掛け、籠状の天蓋(編笠)を被って顔を隠し、胸に「明暗」と書かれた箱を掛けて、尺八を吹きながら、門付けして諸国を行脚する。異様な風体であるが、江戸時代、虚無僧であれば関所の通過が自由に出来た。その虚無僧を出す宗派は臨済宗の一派で普化宗といった。明治になって普化宗そのものが廃宗となり、一国一寺といわれた普化宗のお寺もすべて廃却された。

伊豆には龍源寺が普化宗としては一ヶ寺だけあった。お寺は今は無いが裏の「旭滝」が今も往時のまま残っている。尺八の名曲「滝落ちの曲」はこの旭滝を前にして作られたといわれている。

修善寺道路を終点まで行き、国道136号線に出て、南下してすぐに大平という地区に「旭滝入口」の看板があった。右折して突き当たった山に「旭滝」はあった。大平神社の前に車を停めて遊歩道を進む間もなく、前方の山の斜面に滝が流れ落ちていた。この滝の斜面が石垣を敷き詰めたように見えた。遊歩道をたどって滝の中頃まで登ってよく見ると、石垣と見えたのは自然の岩で玄武岩に見る柱状節理の六角形の切り口が露出したものであった。上から下まで滝の斜面は同じ岩である。玄武岩であれば硬い岩だから滝水に浸食されることも少ないだろう。

案内板によると、全長105メートル、6段になって斜面を流れ落ちている。滝は真東を向いており、朝日を受けたときが最も美しいという。今は滝の最上部のみ日が当たっていた。それにしても滝水が少なくて迫力には欠けた。雨後に来るべきであった。

遊歩道の脇に七基の卵塔が並んでいた。案内板によると、これは虚無僧の墓標で、修験宗と同様に、普化宗では葬式をしなかったが、菩提寺である金龍院で葬式をして、龍源寺境内に埋葬されたものという。廃寺となった龍源寺の名残としては、この墓のほかは旭滝下の境内の跡くらいである。


(修善寺の雄飛滝)

修善寺ではもう一つ滝を見た。「雄飛滝」である。正しくは「飛」にはさんずい偏が付くらしい。「雄飛滝」は「夕日滝」と呼ばれたものだろう。とすれば修禅寺に朝日と夕日がそろう。

修善寺最北部の山田地区の奥にあった。車道から少し降りた谷に「雄飛滝」はニ段に落ちていた。この壁面も柱状節理を成していて、旭滝と同質の岩に見えた。その凸凹に、少ない滝水が階段を落ちるように流れていた。落差30メートル、上段が20メートル、下段が10メートルである。周りの紅葉が始まるにはもう少しといったところであった。
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