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甲斐国分寺の七重塔跡

(甲斐国分寺の七重塔跡)

寺本廃寺から引返して、旧一宮町国分の甲斐国分寺跡に行く。甲斐国分寺は小高い緩斜面にある。甲斐国分寺の手前の道端に、発掘も終わり芝生が植えられて公園化している国分尼寺の跡があった。といっても礎石が点々と並んでいるだけのものである。国分尼寺跡が残っているのは全国的にも珍しいという。国分寺跡も含めて国の史跡に指定されている。

500メートルほど進んだ、一昔前は畑だった一郭に、奈良時代に創建された甲斐国分寺の伽藍の跡があった。昔の国分寺の金堂のあった辺りには、最近まで名前も同じ甲斐国分寺という臨済宗のお寺が建っていた。最近、発掘作業のために周辺にあったお墓も含めて300メートルほど離れた地へ解体移設された。発掘の後は公園化するのであろうが、随分思い切ったことをするものである。すでに、発掘が始まっているのか、一帯の地面にブルーシートが張られていた。お寺の庭木や庭石などがまだそのまま残っていて、最近までそこにお寺があったことを示していた。

移転した甲斐国分寺の門辺りから出て左手に50メートルも歩いた所に、甲斐国分寺の七重塔跡があった。塔心礎、四天柱礎石2個、側柱礎石11個がしっかり残っていて、往時の姿を思い起こさせる。甲斐国分寺にはもう一つ塔があったようで、塔心礎が一個残っているというが、探してみたが見つからなかった。

考えてみれば甲斐国分寺が創建された何十年も前に、先刻見てきた「寺本廃寺」の伽藍は出来ていた訳で、往時はこの笛吹市周辺が甲斐国の政治・文化の中心地であったことが想像される。


(移転した甲斐国分寺)

移転した臨済宗の甲斐国分寺に行ってみた。まだ周辺整備の工事中であったが、茶色に塗装された外壁や銅板葺の屋根などお寺の建物というよりも、少し変った地域興しの建築物のように見えた。とても古い建物を移築したようには見えなかった。

   *    *    *    *

以上で22日に一人で出かけた山梨の話は終る。一日のことで書き込みが6回にも及んだ。30日夕方よりソフト会社の二泊三日の旅行で那智勝浦方面に出かける。ブログの書き込みが少し遅れるが、次は多分その旅行に話になるだろう。
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寺本廃寺、三重塔心礎

(寺本廃寺三重塔心礎)

定林寺を後にして、笛吹川を渡り、石和温泉を横切った先に、旧春日居町がある。寺本廃寺の標識に導かれて、車一台やっとの横丁を進めると、住宅の裏側の畑の中に山王神社という村の神社がある。この辺り一帯に、かつて「寺本廃寺」といわれる寺院の伽藍があった。

三回にわたる発掘調査の結果、伽藍の配置や大量の古代瓦などの様式から、今からおよそ千三百年前の白鳳期(7世紀後半)に創建された甲斐国最古の寺院の一つであることが判明した。しかし寺名の手がかりもないので、地名を採って「寺本廃寺」と呼ばれている。考えてみれば「寺本」という地名の中に、過去のお寺があった痕跡を見られる。

三重塔塔心礎は山王神社に出る手前の住宅に隣接する小公園に置かれていた。塔心礎は塔の中心に置かれた土台の石材で、その上に心柱が立った。柱が納まる窪みや仏舎利が納められた穴が穿たれている場合もある。塔跡では上面を出して大部分が地中に埋まっているが、寺本廃寺の塔心礎は掘り出されて地上に置かれている。発掘時の地図によると往時の三重塔も塔心礎の置かれた小公園の位置にあったようだ。

三重塔塔心礎の案内板によると、
寺本廃寺は七世紀後半に創建された法起寺式伽藍配置の寺院である。
塔心礎は長径2.8m、厚さ1.3m以上の安山岩自然石で、上面を平坦にして、中心に白鳳期の特徴である二重の円形の穴を掘っている。心柱の土台の石である。
三重塔は仏舎利等を埋納した建物であり、1981(昭和56)年に発掘調査が実施された。その結果三重塔の平面規模は一辺5.4mの木造建築であり、三重の建物と九輪を加えて全体の高さは約二十四mと推定されている。



(寺本廃寺三重塔復元模型)

案内板には、春日居町郷土館にあるという、縮尺5分の1の三重塔復元模型の写真が出ていた。よく見るとこの復元模型は上層より下層の方が少しずつ大きくなっている。この様式は法起寺の三重塔そっくりである。法起寺の三重塔といえば日本最古の三重塔で、様式は飛鳥様式と呼ばれている。伽藍様式が法起寺式だから三重塔の様式も同じと考えたのだろう。

三重塔心礎の小公園の脇に植えられたリンゴの木に、たわわにリンゴが実っていた。
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二子塚、定林寺の五重塔

(定林寺の五重塔)

先週金曜日の山梨の続きである。

定林寺(じょうりんじ)は甲府市の東隣りの笛吹市にある。笛吹市は2004年に、東八代郡石和町、御坂町、一宮町、八代町、境川村及び東山梨郡春日居町の6市町村が合併して発足した。その後、東八代郡芦川村を編入している。甲府盆地のやや東側に位置して、市内には富士川の上流の笛吹川が流れている。

定林寺は「二子塚 慧光山 定林寺」と呼ばれる。旧八代町の役場近くにあった。案内板によると、

文久年間(1264~74)日蓮聖人御巡錫のみぎり、野中の地蔵堂に泊した夜、東方の塚より昇る鬼火に不審を抱き、翌朝村人から「二子を難産死没した平家の落人の妻子の妄執が鬼火となり悩ましている」との仔細を聞いた日蓮聖人は。三日三晩妙経読誦のうえ、これを済度した。このことから村の豪士、早内左衛門は日蓮聖人に深く帰依し、“日林”の名を授与され、己の屋敷を寺にしたのがはじまりという。

定林寺の五重塔は墓地に接していて、墓地のどこからも見上げる位置にあった。

「塔」を辞書で調べると「卒塔婆」のこと。「卒塔婆」を広辞苑で引くと、仏陀の骨や髪または一般に聖遺物をまつるために土石を椀形に盛り、或いは煉瓦を積んで作った建造物。これが中国から日本へと伝えられて楼閣建築と結びつき、日本では、三重・五重の層塔や多宝塔・根本大塔などになった。下世話に言えばお釈迦さんのお墓である。「卒塔婆」のもう一つの意味は供養追善のため墓に立てる、上部を塔形にした細長い板。梵字・経文・戒名などを記す。板塔婆。この意味の方が一般的である。どちらにしてもお墓の印で、お釈迦さんのものは大きくて立派だというだけである。「卒塔婆」は梵語の「スツーパ」を音写したもので、「スツーパ」は「高く顕れる」という意味だという。

だから、塔がお墓のそばにあるのは当然ともいえる。ご先祖のお墓参りに来て、お墓から高く聳えて見える仏陀のお墓にも手を合わせる。何とも心を豊かにする演出だと思う。

定林寺の五重塔は1981年(昭和56年)に落成、屋根は銅板葺きで、柱や軒下の木組みに塗られた赤い彩色が鮮やかであった。
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真夜中の怪

(赤いランプの点滅する電波時計)

一昨日、帰宅すると女房が「2階の整理をしていて、いい掛け時計を見つけた」と話した。丸い掛け時計で、時刻を自動的に合わせる電波時計である。会社のTさんの結婚式の引出物だった。家の各部屋に掛け時計は掛かっているが、時間がそれぞれいい加減で、進んでいるもの、遅れているもの、30分も遅れている“豪傑”時計もある。その点、電波時計は狂っても補正されて、いつでも正しい時間が保証される。しかし、各部屋の時計は、新築祝いに大工さんに頂いたものや友人に頂いたものなどで、掛け替えるのも悪いからと、女房はまだ掛け時計のない、寝床の和室に付けるべく、とりあえず和室の隅に立て掛けて置いた。

その夜はいつものように、寝床で本を読んだ後、1時過ぎに寝た。夢を見ていたのだろうか、ふと眼が開いた。暗闇に赤と緑のライトが交互に点滅している。瞬間、何が起こっているのか理解出来なかった。点滅は救急車を連想させる。夢と現(うつつ)の間で、とうとう救急車を呼ばれてしまったかと思った。自分は今どこにいるのだろう。病なのか、事故なのか、何か事件なのか。

ようやく、少し様子が違うと気付いた。夢から覚めてきたのである。点滅しているのは真っ暗な寝室の中であった。枕元に手を伸ばして電気スタンドを点けた。点滅は部屋の隅の電波時計だった。しばらくして緑の点滅に変わり、やがてそれも消えた。

翌朝、会社に出てそんな真夜中の怪事件の話しをした。それは電波時計が電波を受信していたのだという。電波を受信するのに、そんなに大げさにする必要は無いと思われるのに、この点滅にどんな理由があるのだろう。人騒がせな電波時計であった。

家に帰って電波時計を手にとってもう一度よく調べた。裏の受信ボタンを押すと秒針が12時の位置へ止まり、文字盤上の小さいランプが点滅をはじめた。はじめは赤の点滅、次に赤と緑の交互の点滅、さらに緑だけの点滅となり、10数分で受信と時間補正を終え、秒針が動き始めた。明るい時は目立たないランプの点滅だが、闇の中では部屋中を照らすと錯覚するほど明るく感じたのであった。

(注)電波時計とは、標準電波(日本ではJJY)を受信して誤差を自動修正する機能を持つ時計のことである。
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高倉健の「あなたに褒められたくて」

(高倉健と田辺聖子の2冊の本)

図書館で、高倉健のエッセイ集「あなたに褒められたくて」という本を偶然見つけて借りて帰り、一気に読んだ。16年前に出た本である。高倉健が書いた本があると知っていたから、躊躇無く手が出た。

高倉健のご先祖に商家のおかみさんがいて、短歌仲間と小僧さんを連れてお伊勢参りに出かけた。その時の記録が残っていて、その記録をもとに、作家の田辺聖子が「姥ざかり花の旅笠―小田宅子の『東路日記』」という本を書いた。その本を読んで、小田宅子が高倉健のご先祖で、そのことを高倉健がエッセイに書いていると知っていた。そのエッセイ集をたまたま見つけたのである。

「姥ざかり花の旅笠」を読むと、交通手段も整っていない江戸時代に、小僧さんを連れているとは言え、おばさん仲間だけでほいほい五ヶ月の旅に出てしまう。その間、危険な目に遭うことも無く、面白おかしく旅をして、しかもけっこう無計画で、はじめはお伊勢参りに行く予定が、ここまで来たらもう少し足を延ばしてと、そのあと、善光寺から日光東照宮、江戸見物から再び善光寺に寄ってようやく岐路に着く。

大阪までは瀬戸内海を船で行くが、あとはすべて徒歩の旅になる。途中でみやげ物をたくさん買っていく。お金は持っていなくても、今で言うトラベラーズチェックのような為替の制度が確立していて、書付を指定された店に持っていくと現金に換えてくれる。買ったお土産はお店に頼めば宅急便のように自宅まで届けてくれる仕組もあった。旅に関しては、江戸時代には、交通手段が限られているだけで、他のありとあらゆるものが揃っていた。しかも、旅の安全は現代以上であった。

「あなたに褒められたくて」にはご先祖の小田宅子のことも書かれているが、けっこう心に残るいい話がたくさん書かれていた。映画俳優の宿命で、高倉健は「高倉健」として生きなければならないわけだが、けっこう地のままなんだと思われた。素の高倉健も、純粋で頑固で、融通が利かなくて、さぞかし生きにくいだろうと思われる性格なことが窺える。そのことに気付いていながら性格は変えられない。高倉健のそんな思いが伝わってくるエッセイ集であった。
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三恵の大ケヤキと定林寺のカヤ

(三恵の大ケヤキ)

巨木2題。先週金曜日の山梨の続きである。

南アルプス市の妙禅寺から、笛吹市の定林寺にカーナビをセットして向かった。カーナビの画面を見ると、通り道から少し入ったところに、「三恵の大ケヤキ」という表示が見えた。瞬間、寄って行こうと思い、ハンドルを切った。畑と住宅地の間に「三恵の大ケヤキ」はあった。巨大な幹が真っ二つに裂ける形で、主幹は失われているが、左右共に樹勢にはまだ勢いがある。このところの寒さでケヤキの紅葉がはじまり、赤と褐色と緑が入り混じってカラフルな葉相であった。


(紅葉をはじめた「三恵の大ケヤキ」)

この地はまだ南アルプス市内で、旧町名は若草町である。今は廃社されたが、元は神社の敷地であったという。推定樹齢は1000年、樹高25メートル、根周り17.28メートル、幹周14.35メートルで国の天然記念物になっている。かつてはケヤキでは日本一と言われた。今でも山梨県一の巨樹だという。

主幹部は長い年月の間に落雷、火災、台風に遭い、朽ちてしまった。近年樹勢が衰えたため、1996(平成8)年から保存会が中心になって、土壌改良、腐朽防止などの樹勢回復策を施した。その効果があったのだと感じた。


(定林寺のカヤ)

次の目的地の定林寺にはカヤの巨木があった。本堂前にあって、手入れがすばらしくて幹など磨き上げられているように美しい。根の張り具合を見ていると惚れ惚れとするカヤの木であった。

「定林寺のカヤ」この木は雌木で、根廻14m、樹高20mと町内にあるカヤの中で一番大きな木である。樹勢は旺盛で、樹齢は約300年といわれている。笛吹市の天然記念物である。そばに案内板が立ち、次のように書かれていた。

「縁結びの榧」この榧(かや)の木に触れながら好きな相手のことを想うと縁が結ばれると言われています。

ここは定林寺という日蓮宗のお寺である。
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浜石岳、第24回社内ハイキング

(浜石岳山頂からの眺望)

快晴のもと、第24回社内ハイキングが行われた。目的地は富士山展望の山として有名な由比の浜石岳である。いい山だが、適当な駐車場がなくアプローチが長い。車で頂上まで30分の所まで行けるがそれではつまらない。社内ハイキングで登るのは2回目である。山頂まで3時間と表記して参加者を募ったところ、20余名の参加者となった。近年にない少ない参加者である。3時間の登山では少しきつ過ぎたのかもしれない。

レンタカーのマイクロバスを由比川河川敷の無料駐車場に停めて、列を作って歩き始めた。海抜はほとんど0メートルから707メートルの山頂まで、標高差700メートルの山行である。一般に一時間で標高差300mというから、少し余裕をみて3時間は妥当な時間である。

登りになって温州ミカンがたわわに実るみかん畑の間の舗装道路を登っていく。そういえば出発前にミカンを取ってはいけないと注意があった。舗装道路は無駄なく高度を上げていくので合理的だが、徒歩で登るには登り一辺倒で辛いものがある。山側にはリンドウが点々と花を咲かせていた。

頂上まであと30分の山中に青少年野外センターがあって、キャンプ場などが備わっている。そこから山頂までは山道になる。適度に登り下りをまじえて高度を稼いでいく山道は歩きやすい。杉林を抜けて明るい尾根に出ると間もなく山頂で、前方に開けた山頂広場が見えた。登るにつれて、山頂広場から月が出るように富士山の山頂が頭を出した。富士山頂の雪はわずかに残っている程度だった。

浜石岳山頂にはたくさんの登山客がいた。風も無く暖かで、富士山から愛鷹山系、駿河湾から伊豆半島まで、くもりなく見渡せた。食事のあと、芝生に寝転がって一時の心地よい昼寝を楽しんだ。顔に乗せた帽子から日差しの暖かさが伝わってくる。間もなく下山となり、つかの間の昼寝タイムも終った。

下山に運動不足の足ががくがくして、臀部、大腿筋、ふくらはぎのすべてが痛んできた。これは明日、明後日が心配である。
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遠江国分寺の七重塔跡

(遠江国分寺七重塔跡-再現された基壇)

午後から、女房には磐田に行こうとだけ話して二人で出かけた。途中で遠江国分寺の七重塔跡を見たいと話した。「旧東海道夫婦旅」の時には立寄っているのだが、七重塔跡は見なかった。静岡県の現存の塔は見尽くして、過去にあった塔の跡が残っている場所を調べていた。そして、国の特別史跡に指定されている遠江国分寺跡に七重塔跡があったことを知った。


(府八幡宮随身門)

遠江国分寺跡の向かいにある府八幡宮の駐車場に車を停めた。まずは府八幡宮にお参りした。七五三のお参りの親子がちらほら見える。最初に建つ随身門は木組みが塔に見るように複雑に組み上げられ、左右の仁王像が収まる空間に衣冠束帯の二神の像が収まっていた。その二神の口も仁王像のように左右で阿吽(あうん)の形をなしていた。

奈良時代、天平13年(741)に、聖武天皇によって、国状不安を鎮撫するため全国に国分寺と国分尼寺を建立する詔(みことのり)が出され、遠江国分寺も建設が計画された。遠江国分寺・国分尼寺を、古代「大之浦」を望む景勝地に、両寺の金堂・講堂の建物の中心線を合わせて、国分寺の北側約200mに国分尼寺を配したという。お参りした府八幡宮も国分寺と同じ頃創建されたと伝わる。以上は案内板による知識である。

遠江国分寺跡は金堂辺りの部分が再発掘されていた。その部分には柵が施され一面にブルーシートで覆われていた。七重塔跡は再発掘現場をぐるりと回った向こう側にあった。15メートル四方の基壇は再現された二段の石垣が築かれ、中央に径が2メートルほどある自然石が置かれ、これが塔の心礎となっている。礎石はもう一つ径が1.5メートルの石が東南の位置に残っている。それ以外の礎石は長い年月に失われている。建築用の素材などに再利用されてしまったものだろう。


(遠江国分寺想像図)

この基壇と礎石の上に高さ66メートルの七重塔が聳え立っていた。現存する巨大な心礎や礎石はそのような巨大な塔を支えるに相応しいと思われた。往時の遠江国分寺の想像図が案内板に描かれていた。1300年後の現代に置いても、その伽藍は壮大な建築であったことが想像される。

府八幡宮と遠江国分寺跡を見学後、掛川の「ならここの湯」に寄って帰った。
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富士山とワンショット、妙善寺の多宝塔

(妙善寺の多宝塔)

「南アルプス市」とはよくも付けたものだ。2003年に山梨県の西部、中巨摩郡の6町村が合併して誕生した市である。ちなみに6町村とは八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町である。


(櫛形山)

妙善寺は南アルプス市の旧白根町にある。お寺としてはそんなに歴史のあるお寺には見えなかった。ただ、周囲に高い建物がなくて、西方には季節に山頂付近にアヤメが咲きほこる櫛形山が横に平な稜線を見せていた。

妙善寺は日蓮宗のお寺で、日蓮上人の銅像が立っていた。銅像の脇に「我日本の柱とならむ 我日本の眼目とならむ 我日本の大船とならむ」と刻まれた石碑が立っていた。「立正安国」とあるから、日蓮が書いた「立正安国論」から採った言葉なのだろう。この強烈な言葉は時の為政者からすればパラノイアのように見えただろう。数々の迫害を受けたのも無理ならぬ個性である。がっしりと大地を踏む銅像もこの石碑の言葉に呼応しているように見えた。

妙善寺の多宝塔は本堂手前の右手に建っていた。というよりも、この多宝塔が見えて妙善寺の場所を知った。多宝塔は平成10年に建立され、9年経ってネットの写真では鮮やかなベンガラ色に塗られていた柱も、早くも色が褪せて茶色になっている。屋根は銅板葺きで、相輪上部の水煙はまだ金色の輝きを失っていなかった。「納牌堂」という扁額が掛かっているから、位牌堂になっているのであろう。


(富士山とワンショット)

本堂側から写真を撮っていて大きな発見をした。下層の軒の下に何と富士山が見えているではないか。横に電線が何本か写り込んでしまうが、紛れもなく雪を頂いた富士山が存在していた。富士山とワンショットにおさまる塔は初めてであるし、そんなにめったにあるとは思えない。しかし、この富士山も建物が一棟建てば失われてしまう風景なのである。
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交通事故現場

(静清バイパスから見える富士山)

昨夜から女房は一晩泊まりで留守、今朝、思い立って山梨へ向かった。出掛けにETCカードが見当たらず、今日は高速道路は使わないと決めた。女房が居ないと何かと不便だ。前回、山梨に行ったとき、塔を幾つか見逃していたから、今日はその落穂拾いである。

静清バイパスの清水の手前で渋滞になった。快晴で富士山が美しい。デジカメを出して富士山を撮ってみた。その時ふと思った。カメラを出したままにしておけば、色々シャッターチャンスがあるかもしれない。


(起きたばかりの交通事故現場)

車で興津を走っていると、渋滞に入った。交通事故だ。前方の交差点にワゴン車が横倒しになって腹を見せていた。対向車は事故車に阻まれてやってこない。早速、デジカメで写真を撮った。事故が起きたばかりで、まだ警察も来ていない。近所の人が車の周りに2、3人、様子をうかがっている。事故車をすり抜けて先へ出ると、何と運転手が横倒しの車の下側になった運転席に、運転する姿勢のまま居た。救急隊を待っている状態なのだろう。

この日、交通事故をもう一つ見た。甲府で小さい交差点の信号で停まった対向車が動き出したところ、その後ろにバイクが倒れていた。急に前の車が止まって、バイクが倒れたように見えた。運転をしていた若い女性は、立ち上がろうとしてどこかを傷めたのかのか、立ち上がれない様子だった。助けなければと思ったが、狭い道の交差点で後に車が続いていて駐車出来ず、気持を残しながら先へ進んでしまった。対向車と何台かすれ違った。対向車はバイクの前でストップするから、女性を助けに降りたはずだと言い訳のように思った。

発生して間がない交通事故を二つも見てしまった。どちらも大きな人身事故にはなっていないだろうと思うが、運転手がまだ救出をされていない生々しいものであった。車で出かけることが多いが、交通事故には注意しなければならない。
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