goo

中国政府が右往左往するわけ

(庭の石竹-原産地は中国、平安時代に日本へ来る)

中国政府が対日本外交について、なぜこんなにも右往左往するのであろうか。それが今日考える命題である。

一言で言ってしまえば、中国の政権基盤がいかに脆弱であるかを示していると思う。世界第2位のGDP、毎年10%アップの軍備費、そんな国の政権がどうして脆弱なのか。彼らが共産党の一党独裁の上に立った政権で、民意によって選ばれた政権ではないからである。革命を起して国を築いた毛沢東世代の指導者には政権を勝ち取った自負もあり、幻想であったとしても人民の支持があると思うことができた。

今の中国政権は共産党という組織の中で勝ち取った地位に過ぎない。そのことを自分たちが一番解っている。権力闘争に負けてその地位を追われた人々がどういう運命になったかもよくわかっている。あの4人組がどうなったか、彼らの記憶には峻烈に残っているはずである。民主化を許したら、彼らは地位を追われるばかりか、命さえも危ないと考えているに違いない。政敵を倒すためにそれだけのことをやってきた。

しかし時代が変わった。全員が平等に貧しくて、世界の情報からも隔絶されていた時代は、一党独裁政権も維持ができた。現代の中国では、桁外れの大金持ちが増える一方、人民は貧窮にあえいでいる。その安い大量の労働力を使って、国際競争力を維持発展してきた。中国富裕層は、言い方を変えれば、人民から搾取して築いた地位である。今では世界では表舞台から姿を消した典型的な資本家である。共産党政権下で、資本家が労働者を搾取する図は、漫画にもならない。中国人民の不満は日に日に高まって、爆発寸前である。天安門事件で彼らは身に染みて学習したはずである。

現政権は否応無くそんな矛盾した体制の上に立脚している。彼らが政権を維持するためには、ひたすら年10%近い高度成長を続けて行くことしかない。高度成長が続く限り、明日は今日より良くなるという幻想の中で、様々な矛盾は埋没されると考えている。

大災害が起きると、温家宝首相が真っ先に駆けつけて、被災者を励ますパフォーマンスが映像で流れる。しかし、災害のほとんどが人災で、失政であることを一番解っているのは首相自身であろう。あの悲しそうな顔はそんな思いが現れているようにみえる。しかし高度成長のために高速道路や新幹線を整備することは出来ても、人民の命を守るために金を使うことは出来ない。彼らは民意を反映している政権ではないから、自らの保身には何も役に立たないからである。

高度成長を続けていくためには、どんなことでもするというのが、中国の現政権であることをよく理解しておかねばならない。尖閣諸島、南沙諸島の問題は海洋地下資源の確保の目的である。彼らが尖閣諸島を固有の領土だという根拠は、台湾が尖閣を領土だと主張している、台湾は中国の領土だ、だから尖閣は中国の領土である、という三段論法である。世界にどんな目で見られようとも、資源確保をしなければ高度成長は続けられない。海外から援助を受ける身でありながら、アフリカ諸国などに金を撒くのもそのためである。元の切り上げに応じないのもそんな理由による。

日本への対応を考えてみよう。中国共産党政権は、人民の不満の捌け口として、戦後外交的に骨抜きになっている日本をターゲットにしてきた。情報を制限する中で徹底した反日教育をやってきた。露骨にはじまったのは天安門事件以降だといわれている。そんな教育を受けた若者たちが日本に来て、教えられた日本人とは全く違う友好的な人々に驚いたという話はよく聞く話である。海外に出る機会などない抑圧された若者たちは、反日デモを起すことで不満の捌け口とする。この目的であればデモも許される。しかしデモで多くの人民が集まると、いつ旗印が反政府に変わってもおかしくない。デモはやらせるが、大きくなることは阻止する。中国政権の苦労が目に見えるようである。

日本に友好的な態度を示すと、政権内の地位が危うくなる。しかし、日本と友好な関係を続けていかないと、高度成長は覚束ない。そんな板ばさみの中で右往左往しているのが、中国の現政権である。日本は何もそれにお付き合いして右往左往する必要はない。けれども、日本の姿勢が一貫してぶれないように頑張っているのは民主党政権下では前原外相だけである。だから、これからも中国政権は、内政干渉も厭わずに、露骨に前原外相下しを画策して来るだろう。民主党政権はせめても、前原外相下しには屈しない、骨を見せて欲しい。「前原頑張れ!」
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

台風14号が南の沖を通る

(ムサシの散歩道のイヌタデ-地味な花もこれだけ集まると見もの)

今朝、台風14号が接近して、強い雨の中、会社へ出かけた。鹿児島の子会社の株主総会が今朝一番で掛川である。それに出席するためである。会社では展示会が昨日今日の2日間行なわれている。しかし、屋外でテントを張って行なわれているから、今朝の台風接近で安全のためテントをたたむことになったようだ。この天候では今日は来る人はいないだろう。ざっと数えても100人以上の社員が合羽を着て作業するので、たちまち片付いてしまうだろう。邪魔になってはいけないので、9時前には帰宅した。

台風は南の海上を通り過ぎて、思ったより風雨もひどくならないうちに、夕方には雨もやんだ。いつもより遅くに薄暗くなった中、ムサシの散歩に出た。

静岡県は太平洋に面していながら、意外と台風の被害は少ない。今回も南西諸島を暴風雨に巻き込んだ後、北東に靜岡県に狙いをつけるように、スピードを速めて進んできた。このところ西高東低の気圧配置になっていたから、これは海側に逸れて上陸は無いだろうと、想像した通りに、近付くにつれて海側に逸れて行った。伊豆諸島ではかなり荒れたところもあるようだが、静岡県は静かに通り過ぎた。

   *    *    *    *    *    *    *

世界では大きな規模の災害が次々に起きている。最近特に増えたのか。世界の隅々まで報道されるようになったから、そう見えるのかもしれない。最近でも、スマトラで地震が起きてまたまた津波の被害を受けているし、インドネシアのムラビ山で大規模噴火が起き、火砕流の発生で大きな被害が出ているという。大地震のあったハイチでは地震後コレラが発生して多数の死者が出ていると報道している。これから暮に近付いて大きな災害が起きなければ良いがと思う。

   *    *    *    *    *    *    *

昨日、ハノイで日中首脳会談が突如中止になった。日中外相会談後の記者会見で、ガス田についての前原外相の発言について、フランス通信に誤報があったというのが、会談中止の理由だというから訳がわからない。(フランス通信は後に誤報を訂正している)中国政府の日本に対する対応は、ころころと日替わりメニューのように変わって、中国政府は何を考えているかさっぱり判らない。

中国政府が右往左往する理由は実は判っている。少し離れてみると、中国首脳の揺れ動く気持がよく見えてくる。中国首脳の日本に対する感情が揺れ動いているのではない。あくまでも中国の国内事情によって揺れ動いているのである。人民の民意によって選ばれたわけではない中国政府首脳の宿命のように見える。そのあたりを少し整理して、後日詳しく書き込んでみようと思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ワールドバレー女子開幕

(木村沙織のバックアタックが決り逆転勝利)

今日から四年に一度の世界バレー(女子)が東京・浜松・大阪・松本の4会場で、世界の各地で予選を勝ち抜いてきた24チームが集合して、一次ラウンド、2次ラウンド、決勝ラウンドと、それぞれリーグ戦を戦う。日本は今夜、ポーランドと初戦を戦った。

バレーボールは中学のときに9人制のクラブに入り、3年間汗を流した経験があり、東洋の魔女の時代から国際試合が放映されると見てきた。男女ともに強かった昔に比べて、一時はオリンピックに出られるかどうかといった低迷時期を経て、現在は復活の兆しが見えてきた。特に女子は現在世界ランキングが5位まで上がってきて、メダルまでもう一息の感じである。ここまで来て二つランクキングを上げるのは大変厳しいと思うが、ついつい期待して見てしまう。

東京の代々木第一体育館で、世界ランキング8位のポーランドとの日本の開幕戦は行なわれた。日本は怪我から復帰した栗原恵をスターティングメンバーから外していた。復帰後間が無くて、様子を見ているのであろうか。日本は真鍋監督が就任以来、ポーランドとは1勝6敗となかなか勝てずに、苦手にしていた。しかしその1勝をテレビで見ている。フルセットの末、3対2で勝ったと記憶している。

ゲームは1セット目を26-28と大接戦の末落すと、2セット目も取られた。頼みの無回転サーブが最初こそ威力があったが、その後なかなか崩せず、竹下が前衛に回ったとき、栗原とセカンドセッター中道の2枚替えなど、日本が弱くなる時の対策が目新しい戦略であったが、流れを変えることも出来なかった。ポーランドのレシーブは大変良くて、なかなか床に落さなかった。それを高さのあるアタックにつないでくる。なかなか糸口が見えないように思え、負けのスタートになるだろうと思った。

後がない第3セットから、栗原と迫田を投入した。3セット目を取って、日本の逆転勝利があるかもしれないと思った。迫田のバックアタックなどが気持ちよく決った。精彩が無かった木村にエンジンがかかり、井上のブロックもヒットし始めた。レシーブの好守も連発した。第4セット、第5セットと連取して、あれよあれよという間に、逆転勝利してしまった。

第3セットから何が変ったのか。スタミナ切れで、ポーランドのパワーが急速に落ちてきたと思った。わずかのパワーの差がレシーブやブロックに掛かるようになり、ポーランドの焦りからミスを誘発した。それが見えたとき、前回、3対2で勝ったときと同じで、勝てそうな気がしたのである。

これから17日の間に順当に行けば日本は11試合を戦うことになる。しばらく楽しめる。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

株主総会の後で

(自宅前の過酷な環境に頑張る千日紅)

夕方、株主総会を終えて、役員で食事をするというので、車に乗った。

車中での話に、長い間経理畑で仕事をやってきて、何事もない株主総会であるが、終るとようやく年度が終ったとほっとしたものだと話した。現業の人たちは、年度が終れば、次の日から新しい年度が始まり、それぞれの部門で新年度の目標に向かってスタートを切っていて、2ヶ月も経てば昨年度のことはすっかり忘れているけれども、経理部門は今日までずっと引きずって来たのである。

料理屋で隣りになったK氏は、最近退院してきたばかり。自覚症状は無かったが、医者に脅かされて、減塩につとめている。ずっと営業部門の一線にいて、身体を厭うことも無く突っ走って来たが、突然に石に蹴躓いたようなものである。若い仲居さんに減塩の醤油は無いかと聞いている。塩分が半分の醤油があるのだそうだ。板場に聞いてみると言って、しばらくして、減塩の醤油は無かったので作ってきたと、醤油差しを持ってきた。その醤油を隣りからのぞくと色が薄い。K氏は納得したようであった。興味があったので、どのようにして作ったのか聞いてみると、だし汁で割って薄めたという。最近の料理人は美味しい料理を作るだけではなくて、こういう機転も重要になっているのだろうと思った。

仕事を終えて以降、昼間から街を出歩くことが多くなり、会社のOBによく会うという話をした。いつ見ても元気な人、がっくり年を取ってしまった人、などさまざまであるが、概して会社でバリバリ仕事をし、無茶をしたような人は、早く年を取り、この世とのおさらばも早いという話になった。悠々とマイペースで仕事をし、何事もスローペースだった人は、いつまでも元気である。神様は平等だよねぇ。人生の帳尻はきっちり合わせてくれる。こういうのを「天網恢々‥‥」というのだろう。ちょっと違うか。

乾杯のあと、今流行りのノンアルコールビールを頼んだ。アルコールはいらないから、ウーロン茶よりもそれの方が良いだろうと頼んだのだが、わざわざそれだけ土焼きのコップに入れて持ってきた。それは違うだろう。ノンアルコールビールを頼むのは、下戸だけれど、皆んなと違和感がないように同じに見えるから頼んだので、見えなければ、ノンアルコールビールがウーロン茶でもトマトジュースでも同じことである。器を変えるのは間違えないためのマニュアルかもしれないが、ノンアルコールビールを頼む人の気持を、いま一つ理解していない。ノンアルコールビールはまだまだこれからの飲み物なのだろう。頼む方も頼まれる方も、マナーが確立して来るのはもう少し掛かるのかも知れない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

江戸時代の病気-喜三太さんの記録

(ムサシの散歩道のカラスウリ)

掛川の古文書講座で読んできた「喜三太さんの記録」で、講座ではとばすと言われた部分を、今読んでいる。講師は歴史的な意味のある文書は関心があって取り上げるが、ごく個人的な記録は飛ばして先へ進む傾向にある。もちろん、一年間10回の講座では取り上げる量は限られているから、取捨選択することは理解が出来る。しかし、お触れの写しなどは多くの類型的な文書があって、すでに学んだものもある。自分が興味を持っているのは、個人的な内容を書いた部分である。講座では取り上げないから、自分で辞書を引き引き読み解かねばならない。

以下に書き下した文書は、喜三太さんが病気に掛かった話である。病気は最も個人的な話題と言えよう。講座出席者で、このブログを読んでいただいている方もいるようで、少しでも参考になれば幸いである。

退役願い
さる酉年秋の頃より、予、気鬱の病起り、さる亥春以来、病気増々重く候につき、同年九月七日、人々の勧めに随い、在所金谷方へ病気養生かつ心気保養のため罷り越し候、それにつき村役の儀も勤まりかね候につき、同年暮に至り退役御願い申し上げ、御給米二俵、御辞退申し上げ候ところ、退役の儀は中々御聞き済ましこれ無く候につき、御給米二俵の儀は恐れながら殿様へ御冥加として差し上げ奉り候、この春、大井住甚右衛門、御年始拝礼に出府いたし候につき、又々退役の儀、御願い申し上げ候ところ、格別の御慈悲にて、病中休役仰せ付けられ、病気本服次第、帰役致し相勤め申すべく、仰せ伝えられ候
   子年二月

※ 気鬱の病 - 気のふさぐ病気。憂鬱症。鬱病。
※ 冥加(みょうが)- 神仏の加護・恩恵に対するお礼。ここでは領主へのお礼。

喜三太さんは金谷の商家から掛川の大百姓に婿入りしたのだが、すぐに家長となり、財政的に難しい状況にあった家計を立て直しながら、村役(組頭)にも推挙され、慣れない仕事などという暇もなく、日々奔走していた。おそらく真面目一方の人で、現代では珍しくない氣鬱の病(鬱病)になってしまった。さらに、喜三太の身に病が降りかかる。

病難
当家五世相続人喜三太、この三、四年氣鬱の病起り、療治保養のため、去る亥九月七日、金谷の故郷へ住み居り候ところ、気鬱の病いまだ本服致さずに、又々当子の二月初旬の頃より脾癰(ひよう)をわずらい、三月節句前後は病甚しくて膿血(うみち)を吐くこと異様に、およそ四合より五合くらい、咳、時の間も止むこと無ければ、少しも横に寝ること叶わず、二十日ばかりがほどは、少しも眠れず苦痛筆紙に尽し難し、とても本服の儀は叶うまじきと自らも思い定めて居りたりけるが、三月下旬より追々快気に成り候ゆえ、四月中旬に至り、駕籠にて立ち帰り療養いたし居るところ、五月六日より又々瘧(おこり)をわずらう、春以来九死一生の難病にて、身心ともに痩衰しところへ、又々瘧をわずらい、とても行末本服のところ有るまじきと思い定めし候、六月初旬より瘧を忘れ、盆後より脾癰の方も追々快気に趣き、自らを初め、一統悦ひ申し候、さりながらいまだ痰膿治らざれば薬用養生第一と掛川泰輔老申され候
   子八月

※ 脾癰(ひよう)- お腹(脾臓)のはれもの、血を吐いた点では胃潰瘍か?
※ 瘧(おこり)- 間欠的に発熱し、悪感(おかん)や震えを発する病気。主にマラリアの一種、三日熱をさした。

病気のことはよく知らない。まして、江戸時代の病気である。喜三太さんは膿血を大量に吐いた。多分胃潰瘍(?)だったのだろう。神経の使いすぎで起きる病気である。さらには、瘧という熱病に冒された。本人も何回か本復を諦めるほどの病状だった。しかし、喜三太さんは本復した。まだこの世に遣り残したことがあったのだろう。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

札幌は雪、関西では木枯し一番

(放射状の雲)

今年初めての西高東低の気圧配置になって、グッと気温が下がった。テレビでは札幌に降りしきる雪の映像が映っていたし、ニュースは関西で「木枯し一番」が吹いたと報じていた。いよいよ冬の声が聞こえてきた。こんなに酷暑が続いて本当に冬が来るのだろうかと思ったこともあった。けれども、季節は確実に移っている。今年はどうやら寒さが厳しい冬になるらしい。余り信用出来ないが。

午後、会社を出ると西風が強くて、青空に放射状の雲が出ていた。富士山の方角から西の空へ続いている。地震雲ではないだろうなあ。不思議な雲にしばし見とれていた。

昨年お遍路に出たのは11月の頭で、まだ暑いほどの天気であった。もっとも明けて初日には雨に降られた。少なくとも寒くなったと思ったのは11月の20日過ぎだったと記憶している。

夕方、日が西の山に隠れたばかりの時間に、ムサシの散歩に出た。ジャンバーを着て出たが、風が強くて寒かった。吹き払われたように、西には雲が無く、東側の雲が夕焼けに色付いた。そろそろ紅葉の季節に入る。夕焼けではなく、山が焼けるように色付く。今年は紅葉を見に行けるだろうか。

午前中に、退院して間もないS氏が会社に来て話して行った。来年の春に自転車でお遍路に出る話をしていた。彼はやる気満々である。それで自信が付けば再び海外へ旅をしたいという。彼はあと3年と人生を区切っている。

お遍路で歩きながら、よく空を見ていたと記憶している。空の何を見ていたのか。一番の関心事はお天気である。雨は降らないか、天気はあと何時間くらい持つか、などを判断するのに空を見る。四国のどこへ行っても空がある。お大師さんもおそらく空をよく見ていたのだろう。名前を空海と付けたほどだから空には関心があった。山野を歩き続けるには修行は積んでも空模様は関心事だったはずである。

般若心経にいう「色即是空、空即是色」、もちろんこの空は天空の空ではないけれども、お遍路にとってはやっぱり空が気になる。夜明け前の暗い中にその底にほの明るさを見せ始めた空、どこまでも青い快晴の空、青いカンバスに雲の一刷毛が印象的な空、どんよりと今にも降りそうな空。そして明日の天気を約束するような夕焼け空。やはり「色即是空、空即是色」である。しかし戻ってからはそんなに空を見ることはない。ムサシの散歩の時に見るくらいである。お天気を余り気にする生活をしていない。

実は今日は書くことが無かった。思いが流れるままに書いてきた。まるで綿雲が浮かんで流れて行くように。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

遠州横須賀町街道ちっちゃな文化展

(ちっちゃな文化展の横須賀の町並み)

昨日日曜日、掛川市の横須賀に「遠州横須賀町街道ちっちゃな文化展」が行なわれて、女房と出かけた。横須賀の古い町筋に、個人のお店や民家の座敷まで開放して、それぞれ絵画、版画、写真、彫刻、陶器、ガラス工芸、金属工芸、伝統工芸、手芸など、プロ、セミプロ、アマチュアが入り乱れて、一軒当り一人から三人、その作品を展示するミニ美術館が77軒も並んでいる。そこに近郷近在から見物人がやってきて、三々五々その人並みが絶えない。

毎年、今の時期に三日間行なわれ、もう12回を数える、街を上げての文化祭である。記憶では、昔、一度見に来たことがある。5年目も終わりに近付いているブログに書いていないから、5年以上前のことである。女房に言わせると、年に一度とはいえ、自宅を座敷まで開放する町屋の住人たちが立派だと思う。自分にはとても出来ないことだという。

旧役場そばの駐車場に車を停めて、歩き出した。最初に見たのは栗山製麩所で作られている麩菓子だった。麩菓子とは懐かしい。まーくんはなぜか味の無い麩をパクパクと食べる。麩が好きなようだ。喜びそうだから帰りに買おうと話ながら過ぎる。

最初に入ったのは、佐野せいじという見付在住の版画家である。版画の作品が海野光弘を思わせるような風景画で、一枚数万円の値札が付いていた。女房が話すのを聞いていると、子供の新築祝いに面白そうだと話していて、電話番号まで聞いていた。


(栄醤油醸造工場)

古い醤油屋さんの栄醤油で店の裏の古い工場を開放して見学させていた。鰻の寝床のような町屋を抜けると裏に古色蒼然とした醤油醸造工場があった。築どのくらい経つのか見当もつかない、醤油の香りがいっぱいの工場には、柱や壁や梁にいっぱい醤油の麹菌が住み着いていそうだ。だから建て替えなど思いも浮かばないのだろうと思った。天然醸造用の大きな樽がいくつも並び、醤油になるまでに一年半ほど掛かるという。操業が寛政七年(1795)というから、200年以上続いている。


(横須賀凧)

横須賀凧が飾られた店もあった。鮮やかな図柄はおなじみのものである。とにかく、会場ごとに覗いたり上がり込んだり、さすがに後半ではお互いにバテてきて、はしょった部分も多くて残念な思いもあったが、もう十分の気持が勝った。

引返しながら愛宕下羊羹を求め、富士宮焼きそばを買い、天ぷらうどんを食べて、小雨が降ったりやんだりし始めた中を駐車場に戻った。結局、3時間ほど見て回ったことになる。麩菓子は食紅が使ってあるものしか残っていなかったので、止めにして帰った。女房や娘の、孫たちへの食へのこだわりは、気の使い過ぎかもしれない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

機動戦士ガンダムが立つ

(ガンダム像上半身)

(昨日の続き)
機動戦士ガンダム、名前とか姿は知っているが、我々とは世代が違うから漫画も見た記憶がないしテレビもない。我々より若い世代からすれば、知らないなんて信じられないと思うかもしれないが、世代の違いとはそういうものである。

自分たちは、鉄腕アトムであり、鉄人28号である。鉄人28号の実物大の像が出来ると聞けばもっと胸を轟かしたであろう。だから、その世代の人たちの気持も理解出来て、一度は見ておこうと思った。

東靜岡駅前、グランシップの駐車場に車を停めて、目の前にガンダムが立っているとばかり思っていた。キョロキョロ探して、駅北にガンダムを見つけた。見物は静岡市立図書館の帰りにして、電車に乗った。

帰りに駅北へ動く歩道に乗っていく。これは楽である。階段を降りて、まっすぐに靜岡ホビーフェア会場の東静岡広場の中央に屹立している。会場へ入ってそばへ寄り、他の見物者と同じようにカメラを向けた。高さ18メートルの実物大のガンダムと、ネットで見ると書いてあるが、「実物大」というが実物この世にははないわけで、これは言い方がおかしい。それに気付いた報道機関などでは「等身大」と表現している。そんな事はどうでも良いが。


(実物大ガンダム像)

これだけのものを立たせて置くだけでも大変なものだと思った。風が強いと倒れないだろうか心配になる。よく見ていると右手に持ったビームサーベルが地表に着いていて土に差したようにカムフラージュされているが、開いた両足とビームサーベルで三点確保されて、意外と安定しているのだろう。そんなところに注意して見ているのは自分ぐらいであろう。

ともあれ、実物大(?)ガンダムを見物できて、満足して家路に付いた。

   *    *    *    *    *    *    *

今日の夕方、退院したS氏が快気祝いを持って自宅へ来てくれた。立ち話であったが、順調に回復しているようで、腹がよく減って仕方がないという。そうかと言って、食べ過ぎると戻してしまう。そりゃあそうだ。だから何回にも分けて食べるわけで、少しずつ慣らしていくしかないだろう。焦らずにゆっくりと戻していくのが肝要だと思う。ここで無理をして後戻りをしてはつまらないと思う。

退院後、二度ほどブログに書き込みがあった後、一週間書き込みが無かった。自分の周りでは皆んなしてどうかしたのだろうかと心配していた。元気な顔を見られて一安心であった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

印象派とエコール・ド・パリ

(印象派とエコール・ド・パリ展の靜岡市美術館)

靜岡駅北口に出来た葵タワー3階に靜岡市美術館がオープンした。その開館記念展として、「ポーラ美術館コレクション展 - 印象派とエコール・ド・パリ」が開催されていて、女房と出かけた。帰りにガンダムを見たいと思い、車をグランシップの駐車場に停めた。葵タワーは靜岡駅北口に聳える、地上25階、地下2階の紺屋町地区再開発ビルである。2010年4月にオープンしたばかりだという。電車で一駅戻って、地下道を歩き、エレベーターで3階の靜岡市美術館まで行った。

出品作品は印象派のルノワール、モネ、シスレー、ピサロ、セザンヌ、ゴーガン、ゴッホ、スーラ、ルドン、ロートレックなど、エコール・ド・パリ(パリ派)と呼ばれた、ピカソ、ユトリロ、ローランサン、モディリアーニ、藤田嗣治、シャガールなど、それぞれの画家で数点ずつあり、出品作品一覧によると75点もあり、見る方が観賞疲れするほどの量であった。

「印象派」とは、フランスで既成のアカデミーやサロン(官展)に批判的な若手画家たちが、1874年、賞も審査もない展覧会を開いた。その中でモネの作品を揶揄した批評から、印象派と呼ばれるようになった。後に印象派展と呼ばれ、それに参加した画家たちは印象派と呼ばれるようになったという。

また、「エコール・ド・パリ(パリ派)」については、1910年代から1930年代にかけて、パリで活躍した外国人画家と彼らと親しかったフランス人画家たちをそう呼ぶという。

画家の名前だけの作品ではなく、一目見て画家の名前が思い浮かぶ作品が多く見られた。それぞれの画家の特徴が出ている絵である。

モディリアーニの絵の前でふと思った。この人はどうしてこんなに首の長い人物像ばかり描いているのだろうと。首だけではなくて頭や胴も長い。これが彼の絵の特徴で、独創的な描法なのであろう。しかし、特徴とは言え、テクニックだけでこのように描き続けるのは大変なことである。ひょっとして、彼にはすべての人物がそのように見えていたのではないだろうか。何の根拠もないし、すぐに否定できる情報も揃っているのだろうが、そんな風に思った。そんな風に思って見ていくと、ゴッホの最晩年の絵や、ムンクの叫びなどで同じような思いを抱く。

作家は見えているままに描けば良かった。そのように見えていたのは、目のレンズが歪んでいる場合と、それを受ける脳が異常を来たしている場合が考えられる。昔、サイケデリックな絵を薬を使って得た幻覚などでインスピレーションを得て描こうとした作家がいた。そんな手段を用いなくても、生まれながらに独創性を持っている作家を人は天才と呼ぶのだろう。ただ紙一重ではあるが。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

初釜うどんを手に入れた

(初釜うどんを手に入れた)

「四国お遍路まんだら」を読んだ複数の人から、ずいぶんうどん好きなんですねと言われ、わざわざ讃岐うどんを送って来て下さった方もいた。うどんは嫌いではないし、四国は本場だからと思い、昼食はうどんと決めていた。だから、うどん好きと思われたのだろう。何を隠そう、間違いなくうどん好きである。ついでにそばもソーメンも好きで、つまり麺類が好きなのである。

ふるさとに帰ると、毎年のように、うどん(乾麺)を一箱頂いて帰る。これが美味い。うどんの美味さは太くて歯ごたえがあり、喉ごしがよいことだと思っている。讃岐うどんはまさにその筆頭であろう。しかし、あの太さで乾麺にするのは難しい。出来ても茹でるに10分以上かかると、家庭では敬遠されるだろう。頂いた半生のものでも茹で時間が15分くらい掛かったと思う。

いつも頂いてくるのは「はくばくの初釜うどん」で、讃岐うどんほどに太くは無いが、しっかりと歯ごたえが残る。喉ごしもよい。茹でる時間は8分で、その後2分の蒸らしをする。夏のお昼に冷水で洗って付け麺にして食べると、いくらでも食べられる。

一箱もらっても子供たちが来たりすると、たちまち食べてしまう。製麺所を見ると山梨県である。兵庫県まで行って山梨県の産品を頂いて来ていたのであった。同じものを欲しくてマーケットを探したが見つからなかった。実家の亡父は永年米穀会社に勤めていた。多分、今でも兄貴はそこから買っているのだろうと思い、米穀会社なら米屋の系列だろうと思い、先日超散歩の途中に金谷の街の米屋を覗いて見た。ビンゴであった。紅地に白の初釜のロゴに見覚えがあった。

今日、改めて買いに行った。100g3束で一袋、それが5つ入って一箱、それを二タ箱買って帰った。合わせて2700円が高いのかどうか、女房に言わせるといつも買うよりも高いらしい。高くても美味しいから得だという。自分は100g一束で90円ならそんなに高いとは思わなかった。

箱を空けたら一袋不足していた。店頭に並んでいたので、一袋抜いたのを忘れて、寄越したものであろう。電話で足らないと話し、取りに行った。わざわざ車で270円分のうどんを取りに行くのは計算に合わない。自分が店の人ならお詫びに何かを寄越すだろうと、予想して行った。奥さんが恐縮して、お詫びにとそばを一袋頂いた。予想が的中して気を良くし、中々商売が上手だなどと感心し、次にも買いに来る気になって、配達が可能かどうか聞いたりしていた。

さっそく、お昼にはそのうどんを茹でて食べた。やはりうどんは「はくばくの初釜うどん」である。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ