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明治22年、五和村の成立

(庭のムラサキシキブの花)

渡辺眞一氏の調査で、少し時間が取れたので図書館に行ってみた。金谷町史の本編によると、明治22年施行の町村制により、金谷では金谷宿、金谷河原町、牧之原村、菊川村、神谷城村が合併して金谷町が出来、一方五和では、横岡、横岡新田、島、牛尾、竹下、番生寺、志戸呂、大代、神尾、福用、高熊の11ヶ村が合併して五和村が出来た。(この金谷町と五和村が合併して、旧金谷町となる)

山内一豊が掛川城主だった時代に、大井川では治水のために天正の瀬替えという土木工事が行われ、大きく蛇行していた川筋が駿河側にまっすぐにされ、度々洪水に見舞われていた島田宿は洪水が大いに減った。また遠州側には広い河原が残り、その後、耕地として開発された。

横岡、大代、志戸呂、神尾、福用、高熊の六ヶ村は山付の元からあった村で、横岡新田、島、牛尾、竹下、番生寺の五ヶ村が天正の瀬替え以降に新田開発されて出来た村だという。「五和(ごか)」はどうやら後者の五ヶ村が共同で事業を行ったときに付けられた名前で、その時は五つの村の集まりであったが、合併するときに六つの村が加わって11の村の合併となった。しかし名前は響きがよいと「五和村」が採用された。

五和村が出来た当時は、村会議員は選挙で選ばれ、村会で村長と助役が選挙で選ばれた。なお村会と助役は県知事の認可が必要であった。村長には司法警察の補助、兵役、戸籍、伝染病予防、河川、道路、小学校など、多くの国、県、郡の行政委任事務が課せられた。

現在の地方自治とは比較にはならないけれども、あえて比較すると、村会議員、村長、助役など原則として名誉職で無給であった。したがって、自治の担い手は名望があり、名誉のため無給で受けられる有資産者に限られた。選挙で選ばれる議員を家業のように代々引き継いでいると批判を受ける現在の地方自治の担い手と、どちらがどうなんだろう。どちらの方が住民本位の地方行政になるかという点が問題であろう。

さて渡辺眞一氏は明治22年6月に五和村初代村長になり、明治26年5月まで4年間村長を務めている。

短い時間の調べだったので、その程度で終った。金谷町史には「初代五和村長渡辺眞一」として写真が出ていた。紋付羽織姿で年齢が40歳ぐらいであろうか。やや面長で、断髪はオールバックにまとめられ、額が大きく出ている。口の幅ほどの口ひげを短く生やし、眼は涼しい。無駄な肉は付いておらず、理知的、思索的な人物に見える。その後、どういう人生を送った人なのだろう。他人の御先祖さんながら大変興味がある。
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憲法違反の判決が出た銃規制

(年中花の絶えない、庭のチロリアンランプ)

アメリカの最高裁判所がシカゴで行っている銃規制を憲法違反との判決を出した。そのニュースに接して、二つのことに驚いた。

一つはアメリカの中でも銃規制をしている都市があったということである。それも、過去にギャングの巣窟のように言われてきたシカゴで実施されていたことである。シカゴでは銃の所持は許可制になっていて、現実には許可が出ることはほとんど無いため、ほぼ所持禁止に近いという。シカゴは銃規制をはじめてから、銃による殺人の数が半減したといわれている。

驚いたことのもう一つは、銃規制が憲法違反だとする裁判所の判決である。アメリカの憲法は武器携帯の権利を認めている。その憲法が州や市の法令よりも優先すると裁判所は判断した。シカゴの銃による犯罪被害者が半減したという実績は全く考慮されることがなかった。現在、銃規制に反対しているのは全米ライフル協会という圧力団体である。その協会がシカゴ市民を動かして訴訟を起こしたという。

憲法は合衆国成立の当時に自己を守る為に銃を持つ権利を認めるという、西部劇の時代の亡霊のようにみえる。現代に聞こえてくるのは、罪も無い学校の生徒などが無差別の銃撃によって何十人も殺されるという悲惨なニュースばかりである。それでも銃を製造販売している協会の力で、銃の規制に踏み切れない。アメリカという国はまったく乱暴な「ならずもの国家」だと言われても反論できないと思う。

無差別の銃撃に対しては自宅に銃を所持していても、役には立たない。もし、自分を守りたいならば、公共の場所には全員銃を持って出かけなければ、銃を持つ意味がないことにはならないだろうか。最大の防御は銃規制を強めて、銃を野放しにしないこと、こんな簡単な理屈を200年前の憲法を持ち出して否定する。アメリカは基本的に恐ろしい国であると考えておかねばなるまい。

しかし最高裁の判決は賛否が5対4だったということに、まだ希望があると思った。ただ銃規制に賛成しているオバマ大統領に、銃規制を進めるパワーが残っているかどうか。注目したい。
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電化以前を知る最後の世代

(庭のアガパンサス)

昨日の記事の修正から書かねばならない。自分のブログは毎日女房に読まれて、チェックされて、間違いがあるとパソコンのキーボードの上にメモがのっている。いつもであれば間違いを前日に戻って直しておくのであるが、今日の間違いは修正ではきかないようなので、追加情報を入れて訂正にする。

まず、オムツの件。娘の話では赤ん坊は布おむつを使って洗濯している。まーくんは大きいので紙おむつにしているという。すべてを紙おむつのように書いたのは間違いであった。女房は新しい洗濯機は乾燥機付だという。乾燥機が別になったものではなくて、洗濯槽の中で乾燥も出来るタイプであるという。ただ、このところ洗濯が多すぎて、乾燥機を使っておれないから、脱水のまま干すことになる。雨の日は縁側に干して、洗濯物の下で除湿機を回すという。

現代は何もかも高性能の電化製品が揃っていて、家事の省力は行き着くところまできていると思う。自分たちの世代は、電化製品が何も無かった時代を知る最後の世代になりそうである。「三丁目の夕日」の時代、電気製品と言えば、電球や蛍光灯とアイロンやラジオくらいであろうか。

故郷の家へ洗濯機が最初に入ったとき、脱水槽は無くて、2本のロールの狭間に洗濯物を挟んで、手でロールを回して絞っていた。それでも飛躍的に家事が楽になったはずである。

冷蔵庫は無いから、町の水道水(町の水道は湧き水から引いていて冷たかった)を高さ1メートル近くある水甕に常時溜めて、トマトやキュウリやスイカを入れて冷やしていた。保存食品は乾物と缶詰くらいで、近所の八百屋や魚屋から毎日必要な分だけ買い求めて食卓にのせる。その他、野菜、魚など毎日門口へ行商のおばさんがやってきていた。それで何も不便は無かった。最初の冷蔵庫は氷を入れるタイプのもので、電気冷蔵庫が入って不要になったものを頂いてきたと記憶している。活躍するのは夏だけで毎日氷が配達されてきて、氷を貫目単位にのこぎりで切って、冷蔵庫へ収めてくれた。中に何を入れていたのか、記憶がない。下戸の親父だからビールが入ることは無かっただろう。

テレビが入ったのは自分が家を出てからである。ラジオがすべてで、夕方には子供向けのラジオドラマなどを聞いた覚えがある。演芸番組などはよく聞いた。浪花節などを理解して聞いていた。

掃除機も無かった。日頃は箒とはたきが活躍する。畳に茶殻を撒いて掃くと埃が立たないで掃除できた。年に一度はご近所も一斉に畳を上げて大掃除をし、畳は日に干した。

御飯はかまどで薪で炊いた。だからおこげが良く出来た。ガス炊飯器が入ってお袋はずいぶん手間が省けたと思う。炊けた御飯はおひつに移した。蓋付の小さい樽と言えば分かるだろうか。御飯が温かいのは夕飯だけで、朝と昼は冷たい御飯をお茶漬けなどにして食べた。

あの時代、皆んな同じように貧しかった。しかし、生活は少しずつ良くなるという実感があった。アレルギー症、うつ病、多重債務者、子供の虐待、いじめ、温暖化など、言葉すらなかった。現代とあの時代を比較出来るのは自分たちの世代だけである。あの時代に戻れば温暖化問題は一気に解決するが、戻れるかどうか、どうだろう。
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つかの間の大家族体験

(ムサシの散歩道のタチアオイ)

今朝、名古屋の娘家族三人が帰って行った。この1週間、狭い我が家に3家族最大で10人がひしめき、大賑わいで過ごした。ムサシを数えるのを忘れていた。実際には10人と1匹である。

下の娘が第2子出産のため、まずまーくんとパパが合流し、そこへ手伝いの名目でかなくん家族が加わった。かなくんのパパと、我が家の息子は土日だけの宿泊である。そこへ下の娘が新生児を連れて退院してきたから、平日8人、土日が10人になった。

昔は10人ぐらいの家族は珍しいことではなかったのだろうが、今は珍しい体験であろう。10人のうち大人が7人、幼児が3人である。

10人いると、三食の食事の準備で女房はフル回転しなければならない。朝が終れば昼、昼が終れば夜、エンドレスで食事の準備に追いまくられる。幼児の食事は娘たちにやらせるとして、買出しにも行かねばならない。洗濯機はこの事態に備えて9kg入るものに買い替えたため、能力は十分なのだが、乾燥機は無いので、この梅雨空に天候を気にしながら干す手間は大仕事である。ただ、オムツは今は紙おむつだから助かると思う。

そんな訳で、食事後の洗い物は出来るだけ自分が手を出すようにし、家にいるときの昼食が麺類ならば自分が作る。家事も余分な仕事と考えると辛いだけだが、趣味だと思えばけっこう面白い。洗い物は水で流して食器洗い器へ並べるだけでよい。自分の食事が終ると間を置かずに洗い始め、食事中の空いた食器を集めて顰蹙を買わない程度に先ヅモしてしまう。10人いると食器洗い器の容量が足らないから、2度に分けて洗わなければならない。麺類もマニュアル通りの時間でやれば、出汁などは市販のものを使って美味しく出来る。

短期間だが大家族で暮らしてみて、昔と何が違うのか考えてみた。まずは家長の権威が全く失われたことであろう。昔の家長は財務と人事を握っていたから強力であった。勘当だといわれればたちまち路頭に迷ってしまう。さらに祭事も司っていたから強いわけである。今の亭主には3つの権限ともいつの間にか消滅したり、よそへ移ったりしてしまった。権力が失墜するわけである。

主婦に権限が移ったかといえば、昔の大家族ならば家事は主婦任せではなく、手伝いの人がいたから、主婦も家事が集中することはなかった。現在は核家族が一般的になって、手伝いの人もいなくなった。だからお盆休みなどにたまたま大家族が再現すると、主婦は疲労困憊してしまい、当然長く大家族を続けるのは無理である。大家族が絶滅してから、すでにそれだけ時間が経ってしまったのである。

まだしばらくは、最大7人の中家族が続く。大変なようでも、孫の顔を見ていると退屈しないし、疲れも取れる。
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我が家近隣の野鳥たち

(大代川のカルガモ親子)

夕方のムサシの散歩を引き受けるようになって、近隣の野鳥を目にする事が多くなった。一昨日も大代川でカルガモの親子が川の草陰を泳ぐのを見つけた。カルガモといえば、皇居のお堀へのカルガモ親子のお引越しとして風物詩になっているが、皇居にだけいるわけではない。どこで育ったのか。今まで気付かなかったのは葦の草陰で育ったのであろう。もうかなり育って水面に連れ立って出れるようになった。

その前日には田んぼで六、七羽群れて田植えの済んだ水田で憩うケリの姿を見た。田植え前の田んぼの中で子育て中のときは、近付こうものならけたたましい声で威嚇していた。カラスでも近付くと身体ははるかに小さいにも係わらず、威嚇の声とともに果敢にカラスを追いかけ、追っ払ってしまう。あの気性の激しいケリが今日は近付くと一斉に飛び立ち、険しい声で威嚇することも無く、静かに群れて飛び立って行った。もう子育ても終わり、おそらく群れの中には今年巣立ったケリも混じっていたのであろうと思った。

先日はコヨシキリの囀りを初めて聞いたと書いた。カワゲラの美しい姿が大代川の水面を飛ぶのを良く見たのはいつ頃だったか。冬場に見たカモ類はもう北へ渡って行ったのであろうか。今は水面をすべるように飛ぶツバメの姿を多く見る。年中見るのは、シラサギ、ゴイサギ、アオサギなどサギ類で狭い水路から夕方突然に飛び出されるとびっくるする。

ゴイサギは昔、我が家のハッサクの木をねぐらにしていた時期があり、木を弱らせてしまい、いまだに実を大きく実らせることがない。裏の当家の果樹に、食べごろを見越して集団で来て余すところ無く食べてしまうのはヒヨドリである。証拠は無いけれど、ヒヨドリの騒がしさを何度も裏の畑で聞いている。

大きく群れて田んぼの落穂拾いをする姿が見慣れていたスズメは、人の住環境が変わって子育てがしにくくなったせいか、見るのが随分減った。変わって収穫の終った田んぼでよく見るのはムクドリである。揚げヒバリがせわしく鳴くのは春の日差しの中であった。庭の木にモズの贄(にえ)にもよくお目にかかるから、きっと来ている。ハトは良く来ていて人をほとんど恐がらない。ウグイス、ホトトギス、フクロウなどは姿を見ることは無いが、声でいることが判りやすい。

良く目にするのはセキレイ、トビ、カラスである。セキレイはセグロセキレイと呼ばれるものが多い。

さて、ここまで数えて19種類の野鳥を数えた。この他にも、名前を知らない小鳥たちも多いと思うけれども、鳥をそれと確認するのは大変難しい。
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日本決勝トーナメント出場決定

(庭の白花のデルフィニウム)

昨夜、テレビの前に枕を持ってきて、テレビ番組を合わせて点けたまま寝た。今朝三時に目が覚めた。日本対デンマーク戦の開始30分前である。これだけわくわくしてサッカーのテレビ観戦するのは久し振りである。

日本が引き分け以上で決勝トーナメントの出場が決定する。大変有利ではあるが、その分デンマークは前掛りで来ることは必至である。試合当初、日本はデンマークに押され気味で、トマソンへのガードが甘くなり、フリーにしてしまって、危機一髪のピンチが何度かあった。

ようやく最初の攻撃をかわし、守備体制も整ってきた、前半17分、日本はフリーキックを得て、本田が距離のあるフリーキックを決めた。あっけないゴールであった。さらに前半30分、今度は遠藤が守備陣の逆を突いてゴール右、ギリギリのところにフリーキックを決めた。この大会は高地条件やボールの質の影響か、フリーキックは決まったのは今まで1ゴールだけで、ノータッチで見事な弧を描いたゴールはおそらくこの二本だけだという。

後半にはPKの跳ね返りをトマソンが決め、途中出場の岡崎が本田のアシストを受けて止めのゴールを放り込んだ。結果、3対1のスコアで日本は完勝した。

直前のテストマッチに4連敗し、予選突破はやはり無理かと、それほど注目していなかったサムライジャパンであったが、戦ってみれば、2勝1敗勝ち点6で堂々と予選を突破した。テストマッチ4連敗以後、大きな戦術転換があったと聞く。

攻撃的なチームから自陣に下がって失点のリスクを減らす守備的な布陣に変えたという。戦術的なことはよく理解できないが、自分の印象で、負け続けていた時と何が変ったかを考えると、テクニックよりも当り負けしない強い選手に入れ替えたという印象が強い。当然、海外で揉まれた選手が主力に置かれた。本田、松井、長谷部と並べるとその特徴が見える。一方で岡崎、内田、中村などが外れることになった。4連敗していた頃に感じた、パス回しは上手いが、ゴールに切り込まないじれったさは、ワールドカップに入ってほとんど感じることがなかった。

明るいニュースが少ない下を向いて歩く日本人。ワールドカップで日本が勝つと、みんなの顔がぱっと明るくなった。スポーツの力はすごいものがあると思う。

サッカーに比べて、大相撲の体たらくが残念でならない。相撲取りが野球賭博をしていてどうするのだろう。相撲よりも野球の結果の方が気になる相撲取りが良い相撲の取れる訳がない。問題が頻出する大相撲。ファンは一度大相撲を見放すべきだと思う。国技などという称号は外せばよい。大相撲はもう一度ゼロから始めて、胸を張って国技と言えるようになったら戻せばよいと思う。

カラスが群れになってスカイホースを落とした。フリーキック二発が致命傷であった。次は、決勝トーナメント初戦、ストマックワームが相手だ。
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かなくん頑張れ、まーくんに負けるな

(ローズアリーナの裏手)

本日も孫自慢の話だから、割引して聞いて頂きたい。

会社の出勤日ではないので、朝寝を決め込んでいたら、孫たちが周りで煩くて、10時前には起き出してしまった。かなくんママが子供のホットケーキやハンバーグを焼いていて、島田市総合スポーツセンター(ローズアリーナ)にまーくんとかなくんを連れて遊びに行くから一緒に来いという。

まーくんママは赤ん坊と退院して来たばかりだから、ゆっくり休ませるために、子供たちを表に連れ出す計画なのだ。朝食後、車を運転して出かけた。ローズアリーナは駐車場がいっぱいになるほど盛況であった。

天気も良かったので、しばらく外の砂場や滑り台で遊ばせた。砂場は昨日の雨で濡れていて遊べなかったので、すべり台で遊んだ。幼児には段が高い鉄梯子を、まーくんは手すりを持ってよじ登り、かなくんは鉄梯子に手を掛けて登る。心配な親が後ろからカバーするが、登る方は何とか登れた。まーくんは腕の力が付いて来て、手すりを持ってしっかり三点確保である。

滑り台は、まーくんは最初こそ手足でブレーキを利かせて、おっかなびっくりだったが、二度三度すべるうちに慣れた。かなくんは、最初はママと滑り降り、次に一人にされるとすべるのが怖くて手で滑り台の縁を持つので、腹ばいになって足からかっこう悪くずり落ちていった。しかし何度かすべるうちに様になってきた。

満2歳のまーくんと満1歳4ヶ月のかなくん、小学校へは同級生で上がるのだが、今の時点の8ヶ月の違いは大きい。その上、すばしっこいまーくんとおっとりしたかなくんだから、差があるのは仕方がない。もう半月ほど一緒に生活していて、かなくんも頼もしくなってきた。玩具を取られっぱなしだったのが、取り返してくるようになった。

11時半になって、アリーナの休憩コーナーに入って、持参の昼食をとった。メインアリーナで軽運動会のような催しをしていたお年寄りたちが昼食でどっと出てきた。休憩コーナーもお年寄りで埋まった。隣りの席のおばあさんたちに、可愛いともっぱら言われたのはかなくんである。まーくんはすでに顔つきがいたずらっ子になっている。

先日、産院のママと赤ちゃんを見舞ったとき、赤ん坊の管理室でガラス越しに見ていると、他の赤ん坊を見に来た若い娘が、かなくんを見て「かわいい、かわいい」と赤ん坊をそっちのけで、かなくんをかまいたがった。かなくんは動きはまーくんには負けるが、女性にはどうやらもてそうだ。その点では、まーくんに勝っている。まだまだレースは始まったばかり。走れ、まーくん、負けるな、かなくん。

食事を終ってかなくんが眠くなったので、家へ帰った。車が着いても、二人とも目を大きく開けていたので、もう一回り童子沢までドライブして、戻ったときには二人ともぐっすり寝ていた。
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五和村戸長渡辺真一氏の話

(豪雨の後の飛行機雲)

神奈川県のTさんから書き込みがあって、50年ほど前に亡くなられたお祖父様の残された文章に、Tさんの御先祖について、「先祖ノ出タル所 現在子孫アリ 静岡懸榛原郡五和村字横岡 渡辺眞一殿」とあったといい、それを手掛かりに御先祖探しをされているという。

Tさんとメールをやり取りして、追加の情報があった。Tさんのお父様の書かれたものに、「三人兄弟にて江戸に入り、一人(兄)は帰りたる由、江戸に居つきし二人の内の一人、それの子孫と思う」御先祖と思われる方が渡辺善太郎といい、洋菓子店を営まれていたという。一人帰りたる兄が渡辺眞一氏ではないかと推測されている。メールでは当方で少し調べてみるから時間をくれるように書いた。

横岡が地元の女房に聞くと、渡辺姓の家は何軒かあるが、当地では有力者が多いという。有力者であれば、町史に名前が出ている可能性もあるから、島田市に合併する前の「金谷町史」を見た。手元にあったのは近現代の資料編だった。

靜岡縣が出来たのはもちろん明治になってからで、明治になってしばらくは町村に大区、小区制が引かれて、いわば町村の背番号制であった。余りの評判の悪さに元の町村制に戻したが、手元の資料でははっきりしないが、おそらくその時に五和村が出来たはずである。五つの村が合併して五和村となったと聞いている。

だから「静岡懸榛原郡五和村」の住所であれば、明治もしばらく経ってからだろうと見当をつけ、資料をめくった。その最初に「渡辺真一」の名前が飛び込んできた。居た。「区会入費調」と題した古文書の中に、第廿五小区の副議長として名を連ねていた。さらに見ていくと、明治22年の「五和村戸長・戸長役場印鑑届」という古文書に、五和村戸長として名前を見つけた。戸長は村長と同じ役割であろう。さらに明治11年には第廿五小区の戸長だという古文書もある。

自分の想像であるが、三人兄弟が江戸へ出たのは幕末だったのだろう。その頃20代であれば、戸長を務めたのは30代後半から50代くらいになりそうである。同姓同名でなければ年齢的にも合いそうである。ここまでは手持ちの資料で30分ほどで調べた結果である。ここまで分かれば、図書館に行って調べてくれば、ご子孫がおられるかどうかまで、割合簡単に調べられると思う。(多分、お祖父様はご連絡を取られていたと想像します)

さて、ここからはTさんの意見を聞かねばならない。こちらへ訪問されてご自身で調査されても、比較的容易にたどり着けると思う。もう少し調べることを了解いただければ、図書館で調べてきますが、ルーツ探しの楽しみもありますから、どうされますか。ご返事を書き込みでいただければ幸いです。

ブログでこんなこともあるのだという話題として、断り無く取り上げてしまいましたが、問題になるようでしたら、記事は削除します。
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恐るべし、まーくん満2歳

(ムサシの散歩道の大代川、梅雨の雨で豊かな水が流れている)

以下は孫自慢の話だから、少し割引して聞くほうが良いと思う。

自分と同じ誕生日に2歳になったばかりのまーくん、弟が生れるため、半月ほど前から我が家に寝起きしている。このところの目覚しい成長振りに、じいじは目を見張るばかりである。自分の子供たちの幼児の頃の記憶をたどっても、こんなに早い成長を見た記憶がない。

昨日、まーくんの弟、生れたばかりのあーくんのいる産院に、上の娘とその子かなくん、自分とまーくんの4人で、女房の軽自動車に乗って行った。子供二人は後ろのチャイルドシートに縛られて騒いでいる。ガーガー、バス、おっきい、ちっちゃいなど、窓の外に見える車に反応している。そのうちに、まーくんの声で、「ばーば、ブーブー、じいじ、うんてん」という声がしっかりと聞こえてきた。訳すほどのことはないが、「ばーばの車をじいじが運転している」と言ったのである。誰が教えた訳でもなく、大人のおしゃべりするのをしっかりと聞いていて、口に出してみたのであろう。しかし、それぞれの単語の意味を理解してなければ、こんなに正確に言葉にすることはできない。特に「うんてん」などという言葉は幼児言葉にはない。車を運転しているじいじを見て、それが運転という作業だと判断するのは、2歳になったばかりの子供にはとても無理だと思うが、まーくんはするりとやってのけた。じいじはただただびっくりするばかりである。

夜、食事の後、まーくんが一人遊びするのを、テレビを見ながら、横目で観察していた。キッチンから甘夏が4、5個入った籠をテレビの前に運んできて、甘夏1個を両手に持って、映っているテレビ画面くっつけて、「ピッ!」と口で発して、空の籠に移す。次の1個を持って、「ピッ!」、すべてを移し終えると、甘夏の入った籠を両手で持って消えた。しばらくすると、その籠をまた持ってきて、「ピッ!」を繰り返す。何をしているのだろう。最初は判らなかったが、やがて気付いた。マーケットのレジのマネをしているのである。「ピッ!」は勿論バーコードを読む時の機械音である。教えたわけではない。マーケットに連れて行ってもらい、じっと観察していたのであろう。それを在り合せの物を使ってやって見たのだろう。映っているテレビはパソコンの画面のつもりであろう。

恐るべし。満2歳のまーくんの知恵の回り方である。大人は彼らの前でめったなことは口へ出せないし、大人のすることはすべて真似されると思った方がよい。
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日本対オランダ戦を考える

(庭のガクアジサイは雨でいよいよ元気に)

早くも丸二日経ったが、ワールドカップの日本対オランダ戦のことを書こうと思う。結果は0対1で惜敗した。両チームの試合意運びは、応援する側からすると少しはぐらかされた感が否めない。はるか格下の日本としては、よく健闘したと称えられて良いのだろうが。

前半はオランダが8割方ボールを支配していた。しかし厳しく攻めて来なかったように思う。それだけ日本がガッチリと守備体型を決めていたともいえるのだが、オランダは日本に勝利さえすれば決勝トーナメント進出がほぼ決まる。前半オランダは危険を冒すことなく安全に流し、日本側が守り疲れる後半に一気に勝負に出る作戦に見えた。日本もあえてボールを取りに行って消耗するのを避けているように見えた。前半健闘しながら後半に失速する試合が日本には過去に何試合か見られた。その反省からなのだろうが、前半から攻めたカメルーン戦とは明らかに戦い方が違った。

後半になってオランダが攻勢に出た。日本はじりじりと下がった。ラインを上げることが出来ずに、まずいと思った次の瞬間、ロングシュートがキーパーの手をはじいて、ボールがゴールネットを揺らした。1点取られて、日本は目覚めたように攻めに転じた。オランダはやや守勢になった。決して攻められないほど力に差がある訳ではないことが良く判った。しかし何度か惜しい場面もあったが、ゴールを割ることが出来ずに笛が鳴った。オランダは彼らの思惑通りに最終戦を待たずに勝ち抜けた。

日本に勝機は無かったのだろうかと、今、考えている。勝ち目があったとすれば、後半、オランダが攻勢に出る前に日本が攻勢に出られれば、あのようにラインを下げずに戦えて、オランダのゴールは無かったかもしれない。あるいは息切れして終わりがけに複数得点を取られ、最悪の状態になったのかもしれないけれども。1点取られるまで自重して力を蓄えて置く。そして最後に勝負をするという方法も、予選だからありなのかも知れないけれども、ファンとしては悔しさが残る。

ともあれ、予選最後のデンマーク戦で、引き分け以上で予選を勝ち抜くことが出来るところまできた。下馬評からするとよくここまでこぎつけたと思う。デンマークは点を取らなければ勝ち抜けないから、オランダよりも前がかりでやって来ると思う。守ってばかりで守りきれるものではない。何とか早いうちに攻勢に出て、1点先取できれば予選通過がうんと近付いてくると思う。

オラウータンはカラスより少し賢かったか。スカイホースはどうだろう。身体能力は少し劣るけれども、頭の良さで負けることは無いと思うが。ガンバレ日本。
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