平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
「竹下村誌稿」を読む 268 駅路 39
午前中、金谷公民館ミンクルの掃除に出る。午後より台風24号がこちらに向かってきて、11時現在で名古屋辺りに達し、当地は風雨ともピークになった。あと2時間も経てば、静かになるものと思われる。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。紀行文の項を続ける。
その後、何れの時代まで鎌塚を経たるか、詳らかならずといえども、金谷の名を始めて見えたるは、文明十二年(1480)、太田道灌平安紀行に、岡部の次に、
かなやの驛にて、
思うかな 八重山こえて 梓弓 はるけき旅の 行末の空
とあるを始めとす。これと同じ頃なる宗祇方角抄にも、「小夜の中山のかたに金谷という宿あり。川の間一里あり。河の西は遠江なり。東向いは駿河、島田という宿あり」とあれば、この頃より金谷は驛となりて、菊川、金谷、島田と通行したるものならん。
その後、大永七年(1527)、宗長手記にも、小夜の中山の麓、金谷という里一宿と見えたり。されど永禄元年(1558)、実暁記に、「菊川、一里、鎌塚、五十丁、島田」とあれば、この頃までは菊川より鎌塚を経て島田に渡りしものゝ如し。
されば文明の頃より、永禄の初めまでは、或るは鎌塚を経、或るは金谷を過ぎ、便宜島田に越したるものと見えたり。また永禄十年(1567)、紹巴富士見道記に、「菊川という、名も匂い浅からざるを過ぎて、金谷という宿にて大井川を渡り、島田という所にとまる」とあれば、この頃は専ら金谷より島田に移りたるものなるべし。されど金谷河原の全く現状となりしは、天正中、牛尾山開鑿後のことに属し、慶長以後において、町地となりしものにして、これより東海道金谷以東、初めて今の如く直線となれり。小嶋蕉園の詩に、
駅路、東に連なり、直(す)ぐ糸の如し。
江城、馬に鞭す、これ何時。
豈(あに)堪西、潴川水を渡らん。
遥か黄金谷裡に向い馳す。
と見え、また元文五年(1740)、代官手付山本平次郎頼輝懐中日記に、
金谷宿の儀、天正年中(1573~1593)に切り開き候様に申し伝え候。慶長の頃(1596~1615)、御代官浅原喜蔵様、その後彦坂九兵衛様御支配の節、御年貢は見取にて上納仕来り候由、申し伝え候。御伝馬三十六匹相勤め、屋敷地子引き高三石六斗、仰せ付けられ候由、彦坂小刑部様、大久保十兵衛様、伊奈備前守様,御証文下し置かれ候。
河原町切起しの儀は百四十八年以前、慶長八癸卯(1603)、御代官浅原喜蔵様、その後彦坂九兵衛様御支配の節、歩行役百二十軒、一軒に付三畝歩ずつ、地子御引き下され、御年貢年々見取御上納仕来り候由、申し伝え候。その後百二十年以前、元和十巳(1624)、御代官中野七蔵様の節、歩行役六軒半退転仕り、百姓三軒半へ地子三町四反十五歩、分米三十四石五斗下し置かれ候。
右は古来の儀、御尋ねに付、申上げ候処、書面の通り相違御座なく候、以上
元文二年巳(1737)十月 金谷宿河原町 名主組頭中
とあれば、開拓の時代も略々想像し得らるゝに似たり。
読書:「げんげ 新酔いどれ小籐次」 佐伯泰英 著
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「竹下村誌稿」を読む 267 駅路 38
台風24号が奄美大島近くに居て、北東に進んでいる。このままで行けば、またまた日本列島縦断の勢いである。聞けば、故郷豊岡市が水没した、平成16年の台風23号に似たコースとかで、心配である。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。紀行文の項を続ける。
また同時に随行の、飛鳥井雅世の富士紀行に、
永享第四の年(1432)、長月(旧暦9月の異称)十日、公方様富士御覧のために東国へ御下向あり(中略)
東 下
十七日、この国の府中(遠江国見付)を立ち侍るほどに、かけ川と申す所にて、雨降り侍りしかば、
旅衣 袖に涙を 掛川や ぬれていとわぬ 今日の雨かな
中山を越し侍るとて、
なおざりに 越ゆべきものか 我が君の 恵みも高き さやの中山
菊川と申す所にて、
汲みて見る 君が八千代も 末とおき 名にきく川の 花の下水
こままがはらとかや申す所にて、御詠を拝見し奉りて、
類いなく あす見よとてや 秋の雨に 今日先ふじの かき曇るらん
かくて、駿河国藤枝と申す所に御つきあり。(中略)
西 上
廿一日、また藤枝の御泊りに着き侍りて、
秋の露も わかむらさきの 色に出よ 松にかゝりし 藤枝の里
廿二日、夜をこめて立ち侍るに、せと山とかや申す所にて、
都にと 又こそ急げ 追い風も 船路にはあらぬ せとの山越え
島田川と申す所にて、
島田川 はし打ちわたす 駒の足も 早瀬の波の 音ぞ聞こゆる
大井川と申す所にて、
思わするよ 都の西の 大井川 東路かけて 流れこんとは
また小夜の中山にて、御詠を拝見して、
君よりも 君をや慕とう 今日さらに 又あらわるゝ 富士の高根は
右二書(覧富士記・富士紀行)の記事によれば、当時往来せし道路は、往復とも同一の順路にして、即ち掛川より小夜中山、菊川を経て、鎌塚にて大井川を越し、島田に出て瀬戸山を通り、藤枝にかゝりし事明らかなりとす。応仁年間(1467~1468)の宿次にも、菊川、鎌塚、島田とあれば、この頃までは鎌塚を経たるものなるべし。
※ 宿次(しゅくつぎ)-「宿継」とも。人や荷物などを、宿場から宿場へ、人馬をかえながら次々に送りつぐこと。
この鎌塚は金谷の南にあり、初倉駅の廃して、金谷の興る過渡期に於ける渡し場なりしが、大井川の瀬変わりによりて川となり、今は馬道と伝称する道路の面影を存するのみ。
されど梅花無尽蔵に、
文明十七年(1485)、遠(州)の鎌塚より船路二十里、一日の中、遂に駿(州)の小川に達す。船上富士見ゆ。
など見えたり。果たして斯かる事実のありしや否やは、素より知り能うべきにあらずといえども、なおその頃まで、この地は船路の要津なりしが如し。
※ 要津(ようしん)- 交通・商業上の重要な港。
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「竹下村誌稿」を読む 266 駅路 37
午後、五回目、最後の「天澤寺殿三百年記録」解読講座に出る。最後は、この法要の支出の報告である。量的には少なく、残った時間で江戸時代のお金の話をした。と言っても、金、銀、銭、疋など複雑で、江戸の庶民はそれをよく使い分けていたものである。庶民が使っていたお金はどのようなものか、という質問があった。庶民は銭でほぼ生活が出来ていたはずで、支払う方も、下層の庶民へは銭で支払ったようである。支払方に、金、銀、銭、疋と入り混じっているのは、支払額と相手を勘案して、使用貨幣を使い別けていたからであろう。
会場のセンター四階からは富士山が見えるとは聞いていたが、5回目にして初めて、その姿を見ることが出来た。静岡の景色には富士山が良く似合う。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。紀行文の項を続ける。
却説(さて)その後、遠江より駿河に移る駅路は、この中山より菊川を経、初倉にて大井川を渡りたるのみならず、鎌塚にて大井川を渡り、島田に通ぜしことあり。駿河雑記に、
菊川より諏訪の原にかゝり、鎌塚を経て大井川を渉り、島田に上り藤枝に到る。
とありて、その通過せし年代詳らかならずといえども、元弘の役(元弘元年、1331)、俊基東下の際には、菊川より大井川を過ぎ、島田、藤枝に懸り、と太平記にあれど、その径路は基より定かならざれど、菊川より島田に移るには、地勢上初倉を経べきとも思われず。またこの頃は金谷の宿も成らざる前なれば、質侶の渡しを越すに非ざるよりは、鎌塚を通過せしことは、推定し難きに非ずといえども、鎌倉の中頃より室町の中世に至る、凡そ二百年間、この地における海道の有様を、知るに足るべき史乗伝わらず。
※ 史乗(しじょう)- 歴史上の事実の記録。歴史書。
されど永享壬子(永享四年、1432)の菊月(旧暦9月)、室町六代将軍(足利義教)東国下向の時には、鎌塚にて大井川を渡りしことは、将軍に随行せし堯孝法印の書ける「覧富士記」に、鎌塚の題詠あるを以って明らかなりとす。
東 下
十七日、さやの中山にて出され侍りし御歌
名にしおえば 昼越えてだに 富士も見ず 秋雨暗き さよの中山
同、御和し、 堯孝法師
秋の雨も 晴るゝばかりの 言の葉を 富士の根よりも 高くこそみれ
同じ所にて 同(堯孝法師)
雨雲の よそにへだてゝ 富士の根は さやにも見えぬ さやの中山
十八日、藤枝の御とまり(見付の府より十一里)を立ちて、宇都の山越え侍れば(中略)
西 上
廿二日、せと山と申す所にて、同(堯孝法師)
うらがるゝ お花の浪に かえるなり しおじ(潮路)は遠き せとの山風
※ うらがるる - 秋の末に、草木のこずえや葉末が色づいて枯れる。
かまつかと申す渡りにて、同(堯孝法師)
駒とめよ 草かるおのこ 手もたゆく とる鎌つかも この渡りとて
※ たゆし - 疲れて力がない。だるい。
さやの中山にて、富士の根ほのかに見え侍りしに、歌詠ませられしとき御歌
富士の根も 面影ばかり ほのぼのと 雪より白む さよの中山
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「竹下村誌稿」を読む 265 駅路 36
明日は晴れるが、明後日以降、またまた台風がやってくるらしい。その明日、静岡南部生涯学習センターに「天澤寺殿三百年記録」解読の講座に出掛ける。5回の講座の最終回である。
先日、島田博物館講座で、声を掛けられた。その方から「南部センターの古文書解読の先生ですね」と云われた。受講者でありながら、顔も名前も憶えのない人で、愕然とした。今回の南部センターの講座は、全く周囲に気を配る余裕もない講座で終わる。それだけ、難しく量のある講座であった。最終回の明日は、少しは余裕が出来そうだから、受講者の皆さんの顔をじっくりと見て終ろうと思う。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。紀行文の項を続ける。
寛永二十年(1643)、同(林羅山)癸未紀行
昔、菊川の駅有り、今、茅店場と為る。
西行、年を経て過ぎ、東使、輿に駕して忙し。
遠州四郡(よこおり)臥し、佐夜一山長し。
誰か巨霊が手を倩(やと)いて、肯(あえ)て甲陽を見ることを得ん。
因って云う、菊川より小夜中山に登る所に横折橋あり。東海道名所図絵によこほり橋は久遠寺の東にあり。当国榛原、城東、佐野、山名の四郡の境なりとぞ云々とあり。この詩にも、遠州四郡臥とあれば、古き俗説の伝わりしものと見えたり。されど榛原と山名とは毫も郡堺を接せず、地名辞書にこの橋より直ちに南へ折れて佐夜の中山に上るなれば、橫折橋と称するか、そもそもまた、古今集の歌によこほりふせる小夜の中山とある歌の辞に取りしかと云えり。
林春斎
佐夜の中山、坂路脩(なが)く、
再び来たりて、今、清き憲(のり)を想い遊ぶ。
山霊の借間、熟眠を否(こば)む。
臥して、甲斐に枕し、遠州に横たう。
この小夜の中山には、仇討のこと見えたり。続太平記、永享四年(1432)、室町六代将軍富士見帰路の条に、
昔小夜姫と云える女、ここにて山賊のために害せられ、時に胎内にありける七月(ななつき)の子生まれて、この山に棄てられしを、近き辺りの人、これを不便(ふびん)のことにして養育せしかば、従来いみじき素性にてや侍りけん。この子自ら智恵深く、才最も高く、十三才と申しける年に出家しけるが、母の横死を悼み、復讐の念やみ難く、遂に様を変え、身もこの山の盗賊の群れに入り、殺生に心を尽くしけるが、遂には思いの如く本意を達せしとなり。
※ いみじき - はなはだしい。並々でない。たいそうな。
※ 横死(おうし)- 不慮の死。非業の死。
とあれど定かならず。考うべきなり。この他に、怪鳥退治、夜啼き石、無間の鐘などの俗説伝うれども、信僞(真偽)もとより定め難し。具眼家の取捨に任するのみ。
※ 具眼(ぐがん)- 物事の本質を見抜き、是非・真偽などを判断する見識をもっていること。
(紀行文の項、つづく)
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「竹下村誌稿」を読む 264 駅路 35
午前中、ムサシを獣医へ連れて行く。この頃は夫婦して、獣医さんへ連れていくようになった。どこへ連れて行かれるのか、不安なのだろうか。往復ともに、車の中で悲しそうに繰り返し啼いた。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。紀行文の項を続ける。
されどこの寺(久遠寺)の名も、或るは今の如くならざりし時も、ありし如く見えたり。
この寺の あるじも今は 夏草の 露のあとゝう 佐夜の中山
の歌あり。こは住侶の身まかりし時の事なるべけれども、或るは、あるじもなくて寂しく過ぎにし様をも詠み合わせたるものゝ如し。
※ 住侶(じゅうりょ)- その寺に住む僧侶。住僧。
貞享三年(1686)、風瀑丙寅紀行 佐夜の山淋し。芭蕉翁一昨年(おととし)予に餞(はなむけ)して、
※ 風瀑(ふうばく)- 江戸時代前期-中期の俳人。伊勢神宮の年寄師職家で、江戸の出店をあずかる。松尾芭蕉、榎本其角、芳賀一晶らと交遊。
忘れずば 佐夜の中山 にて涼め
それは水無月のころ、今日は若葉の弥生、
朝霞 馬にむせばん さ夜の山
※ むせぶ(咽ぶ)- むせる。(胸などに)つかえる。
芭蕉 二十日あまり、月かすかに見えて山の根際、いとくらきに馬上に鞭をたれて数里、いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて、たちまち驚く。
馬にねて 残夢月遠し 茶の煙り
同 小夜の中山にて、夏の日あつかりければ、
命なり わづかの笠の 下涼み
蘭香 けゝれなく よこほりふせて 時鳥(ほととぎす)
元和二年(1616)、林羅山丙辰紀行
坂道昇り降り、早天(早朝)
夢残る馬上、眠り成らず。
この山、限りなき西行の寿。
能く詠歌を千古(永遠)に伝えしむ。
※ 寿(じゅ)- とし。年齢。
同
婆焦がし呼び、婦烘(あぶ)り喚(よ)ぶ。
人停り、鄙食途中に在り。
誰に馮(よ)り救い得(え)し、西山の餓(うえ)。
馬道に吹き来たる、餅飴風。
※ 鄙食(ひしょく)- 田舎の食事。
※ 餅飴(もちあめ)- 小夜の中山は子育て飴が名物。
因って云う、往時、海道宿駅には、至る所、名産名物なるものありて、これを店舗に露(あら)わして、旅人に販(ひさ)ぐ。所謂(いわゆる)、掛川の葛布、日坂のわらび餅、小夜中山の飴の餅、などの如し。馬道吹来の結句これなり。また以って江戸時代に於ける宿駅繁盛の俤を窺うに足るものあり。夫木集、海道宿次百首、参議為相の歌に、
これもまた 所ならいと 門毎に 葛てふ(ちょう)布を 懸川の里
※ 所ならい(ところならい)- 所の慣わし、習慣、しきたり。
※ てふ(ちょう)- ~という。
などあれば、名物を店舗に露わせしことも、古き習わしありしと見えたり。
(紀行文の項、つづく)
読書:「影の守護者 警視庁犯罪被害者支援課5」 堂場瞬一 著
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「竹下村誌稿」を読む 263 駅路 34
アオスジアゲハは翅をばたつかせていたので、ピンボケになってしまった。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。紀行文の項を続ける。
また居士(宗長)は駿河島田の人、有名の刀工、五代目五条義助の弟なり。寛正四年(1463)、年十六にして始めて宗祇法師に謁(えつ)し、連歌を学び、十八才にして薙髪し、業を醍醐普捨院の駿河宰相に受け、また紫野に来往して、一休に参禅す。明応四年(1495)、宗祇、勅を奉じ、新筑波集を撰ぶに当り、(新筑波)集中、居士の吟二十八句を収むと云う。
※ 薙髪(ちはつ)- 髪をそり落とすこと。剃髪。
※ 来往(らいおう)- 行ったり来たりすること。ゆきき。
天文十三年十二月、宗牧東国紀行 十六日、急ぎ行くまゝに佐夜の中山も近し、日坂と云う茶屋に休みて、跡なる荷物など待つほど、この山の名物なりとて、蕨もちいと云うものしすまして出したり。一年もさ有りけんなど賞翫も一入(ひとしお)、只(何もせず)にはいかゞとて、
※ 宗牧(そうぼく)- 戦国時代の連歌師。
※ 蕨もちい(わらびもちい)- 蕨餅のこと。
※ ものす(物す)- 作る。
※ 賞翫(しょうがん)- 味のよさを楽しむこと。 賞味すること。
年たけて また喰うべしと 思いきや 蕨もちいも 命なりけり
※ 年たけて~ - 西行の「~命なりけり」の歌のパロディ。
この歌に愛(め)で、皆数もしらず待ちつれて、越え行くほどに、かいがね(甲斐が嶺)の方に心付けよ、など、宮内卿友軌などに云えども、蕨のかねに目留めしほどはあらず。横なる雲晴れやらで、さやかにも見えず。今宵過ごさず、大井川を渡るべしとて、あなたの麓にて駒かわせける。いくせ白波とか見渡されしに替りて水も浅し。数日雨にもあわぬ、しるしなるべし。暮れ果て島田と云う所に着きたり。
※ 数もしらず - 数えきれないほど多い。限りなく多い。
永禄十年五月、紹巴富士見道記 九日、日坂に至りぬ。商山の古蕨をもちゐ、やゝ小夜の長山に上りぬ。雪斎大原和尚開基の一宇影前に立ち寄り独酌盃面に狂句うかべるを壁に書き付ける。
けけれなき 山も打みじ 越えてなお 甲斐がね見えぬ 五月雨の空
麓に菊川という、名も匂いあさからざるを過ぎて、金谷と云う宿にて、大井川を渡す人を語らいて顧みるに、小夜の長山と書けるもさもこそは、二、三里がほどのいたゞき一文字にして、佐保山の俤(おもかげ)はさらなり。貫之の土佐日記に、よこほりふせる男山を川尻より見て書けるも理なり。島田という所に、まだ暮れやらぬ空ながら、宗長出世の地と聞きて泊り、宇都山に到りぬ。
※ 佐保山(さほやま)- 奈良市北部、佐保川の北側にある丘陵。京都府との境をなす。
※ 出世(しゅっせ)- この世に生まれ出ること。
因って云う、雪斎和尚開基の一宇とあるは、今の久遠寺の事ならん。名所図絵に、本尊正観音は行基僧正の作とす。例の夜啼石仇討物語に因縁して子育観音の名高しと、金谷志稿に弁ぜり。
(紀行文の項、つづく)
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「竹下村誌稿」を読む 262 駅路 33
午前中、女房の実家のお墓詣り。
午後、島田博物館の講演会「牧之原開拓秘話」に出席する。講師の塚本昭一氏、元市会議員で、かなり高齢にも拘わらず、講演は手慣れているように感じた。しかし、受講者は、テーマに沿った話を聞けると思って来ているのだから、もっと「開拓秘話」が聞きたかった。多分、どんなテーマでも、今自分の一番の関心事を話されるのだろうと感じた。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。紀行文の項を続ける。
大永六年(1526)二月、宗長居士手記 二十日、小夜の中山の麓、金谷と云う里一宿。
幾たびも また越えんとぞ 祈るなり 君を寝覚めに 小夜の中山
廿一日、山を越え、西行上人東国道の記に、「中山を越え侍るに、年なかばたけたる男の行きつれて、ゆく/\語りけん。昔この山はさ夜の長山と申す。ふるき歌にも有りとやらん。頬ゆがめて語りける」となん。さては、若しくは(あるいは)、「命なりけりさ夜の中山」も長山にてやとぞ覚ゆる。山中の道三里ばかり、長々と松の木の本に続きたる道なり。旅衣なぞぬぎて旅けるとかの記にあり。菊川と云う川もこの山の中なり。里あり、甲斐の白根はるかに見えて、「さやにも見しがけゝれなく、横ほりふせる」山なるべし。この山半ば越えて日坂と云う。ここを二里ばかり過ぎて懸川(下略)
※ さやにも見しが~ - はっきりと見たいものだが、思いやりが無く横たわれるなり。
それより近畿地方を歴巡し、年を経て五月皈路に、
※ 皈路(きろ)- 帰り道。
掛川二日逗留。小夜の中山途中、杉浦伊賀守上洛。かたみに言の葉もなくて立ち別れぬ。その夜、金谷一宿、それより懸川の旅宿に伝えて、
※ かたみに - 互いに。
夢なれや さ夜の中山 なか/\に あい見ずばとぞ 立ち別れつる
※ あい見ずば - 対面しなければ。
粮物など、ゆめ/\しき贈り物なるべし。金谷に泊りて、
※ 粮物(ろうもつ)- 食糧。糧食。かて。
※ ゆめゆめし(夢々し) - はなはだ少しである。
幾たびか またやは越ゆと 越えて又 今日は八十路の さ夜の中山
大井川を見渡り、藤枝を過ぎて、宇都山丸子の閑居に至り、さても思えば、去年(こぞ)七十九を限りと門出せしに、また越えきぬる蔦の細道(下略)
※ 閑居(かんきょ)- 世俗を逃れて心静かに暮らすこと。また、その住まい。
因って云う。蔦の細道は岡部と丸子の間なる宇都山にある嶮悪なる山路にして、往昔、在原業平の伊勢物語に、
駿河なる 宇津の山辺の うつゝにも 夢にも人の あわぬなりけり
と詠みたる歌の話の見えしより、その名もっとも高く、爾後(じご)幾多の歌人がこの山を詠じ、この地方を通行したる墨客の紀行文にも、宇津山蔦の細道の文字を省けるものほとんどなしと云う程の、著名なる東海道名所の一とはなりしなり。また海道の一名物たる十団子もこの地なりき。
※ 墨客(ぼっかく)- 詩文・書画などの風雅の道にたずさわる人。
※ 十団子(とうだんご)- 昔、駿河の宇津ノ谷峠の麓で売っていた名物団子。黄・白・赤に染めた小さな団子を十個ずつ麻糸や竹ぐしに貫いたもの。
(紀行文の項、つづく)
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「竹下村誌稿」を読む 261 駅路 32
いわし雲は、鱗雲とよばれ、正式名は巻積雲。薄い雲で地上に影を落とさない。秋の象徴的な雲といわれる。こんなところはネットで調べられる。久し振りに気持ちよく晴れて、さっそく秋の雲を見せてくれた。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
以下紀行文の一、二を掲げて、当時の実况を伝うべし。
建仁三年(1203)阿仏尼十六夜日記 十月廿四日、昼になりて、さやの中山越ゆる。ことのまゝとかや、いう社のほど、もみじいと盛りに、おもしろし。山かげにて、嵐も及ばぬなめり。深く入るままに、おちこちの、峰続きこと山に似ず、心ぼそくあわれなり。ふもとの里に、菊川と云う所に留まる。
※ ことのまま - 掛川市八坂にある事任(ことのまま)八幡宮。
※ こと山(異山)- 外の山。
越えくらす ふもとの里の 夕闇に 松風おくる さやの中山
関東海道記、藤原雅世 佐夜の中山、同夜の寝覚めに、曩祖雅経卿歌に、
※ 曩祖(のうそ)- 先祖。祖先。
古郷を 見はてぬ夢の かなしきは ふすほどもなき さやの中山
と続古今集に入り侍りしことを思いて、
かくやありし 見はてぬ夢と よめりしを 思い寝覚めの 佐夜の中山
観応中(1350~1352)、釋宗久、都の苞 さやの中山にもなりぬ。かの西行が、まや越ゆべしと思いきやと詠めるも、哀れに思い合わせられぬ。さやの中山、さよの長山と云う説もあるにや。中納言師仲、当国の任にて下られけるに、土民、小夜の長山と申し侍りけるとて、中古の先達なども、さように詠まれて侍るにや。撰集の中にも見及ぶ心地し侍りし。源三位頼政は長山とぞ申しける。このたび一人の老翁のありしに尋ね侍りしかば、異様(ことよう)もなく、さやの中山と答え侍りき。
※ 異様(ことよう)- 普通と違っていること。また、そのさま。
ここはまた いづくと問えば 山びこの 答うる声も 小夜の中山
富士歴覧記、飛鳥井雅康 明応八年(1499)六月九日、小夜の中山にて、富士を一見のほどに、雲のみかかり、定かに見え侍らねば、はるゝを待ちて、一日泊りける間に十首読み侍る。(中略)十三日、引馬を立ちてのぼりけるに、吉美の妙立寺にて、あけぼのゝ富士、有明の月に定かに見え侍るに、
※ 引馬(ひくま)- 浜松市曳馬町。引馬城(浜松城の前身)のあったことで有名。
※ 妙立寺(みょうりゅうじ)- 静岡県湖西市吉美にある、日蓮宗の寺。
横雲の 引馬の里を へだて来て 又たぐいなき 富士のあけぼの
(紀行文の項、つづく)
読書:「漱石センセと私」 出久根達郎 著
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「竹下村誌稿」を読む 260 駅路 31
来月、駿河古文書会の当番が回ってくるため、「茶一件」の資料を探していた。宮本勉氏監修の「茶一件裁判の記録」という本を見付けて、図書館の横断検索を掛けた所、所蔵する一番近い図書館は藤枝市立図書館であった。午前中、藤枝駅南の図書館に出掛けた。目的の本を探してもらい、市外の島田市在住だが借りられるかと聞くと、手続きをすればOKだと聞いた。早速、手続きをすると、10年前に利用者カードが作られているという。全く打ち忘れて、カードもどこへ行ったか解らない。100円払って再発行を頼んで借りて来た。
自分が在住する島田市では、「島田市緑茶化計画」という、緑茶による町おこしを、かなり力を入れてやっている。ところが、緑茶に関する各種資料は、島田市の図書館ではほとんど見ることが出来なくて、隣りの掛川市、藤枝市、静岡市まで足をのばさなくてはならない、お寒い状態である。言うなれば、活動の足元が決まっていない状態である。是非、緑茶に関する書籍、資料などを積極的に集めて、充実させてもらいたい。予算が無くても、お茶に関する書籍、資料の寄付を市民に募れば、歴史あるお茶どころなのだから、たちまち集まってくると思うのだが。
明後日は、島田博物館の講演会「牧之原開拓秘話」を聞きに行く。どんな話が聞けるか、楽しみである。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。「小夜の中山の題詠」を続ける。
月清集 後京極摂政
明方の さよの中山 露おちて 枕の西に 月を見るかな
同
雲は寝屋 月は灯(ともしび) 隠しても 明かせば明かる さよの中山
※ 明かす - 眠らず夜を過ごして、朝を迎える。
海道記 源親行
わけ登る 小夜の中山 なか/\に こえて名残りぞ 苦しかりける
東関紀行 源光行
踏みかよう 峰のかけはし 途絶えして 雲にあと問う 小夜の中山
富士歴覧記 中納言雅康
日の坂は ただ暮れぬ間の 名なりけり 道踏み迷う 佐夜の中山
あづまの道の記 尊海僧正
立ちかえり いつか越えなん とばかりと 頼めをきける 小夜の中山
袖比べて 香川景樹
あづま路の 花の盛りを 見つゝ来て みぞれにあいぬ 佐夜の中山
寄名所巒 栗田土満
※ 寄名所巒- 名所(などころ)の巒(みね)に寄せる
安波ゝ山 あわぬあやしも 佐夜の山 さやかに目には 見ゆるものかな
※ 安波ゝ山(あわわやま)-(次の「安波ゝが嶽」も同じ)掛川市にある粟ヶ岳(532m)のこと。山腹の茶の字で有名。
有雪 同
夕されば 佐夜の中山 風さえて 安波ゝが嶽に 積もる白雪
佐夜の中山 石川依平
峰の雲 ふもとの烟 夕暮れの あわれたち添う さやの中山
同 成嶋柳北
つたかづら 露をしぐれの 心地して もみじを急ぐ 小夜の中山
万代集
旅衣 たちし日数を 数うれば さやの中山 はや越えぬらん
佐夜の中山 編者
白妙の 富士の高嶺も はれ/\と 甲斐ヶ嶺も見ゆ 小夜の中山
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「竹下村誌稿」を読む 259 駅路 30
滝ともいえない小さなものだが、黙っておれば、意外に大きな滝に見えないだろうか。
お昼、静岡南部生涯学習センターに、来週の最終講座のための資料を届ける。その後、駿河古文書会に出席した。今日、当番のTT氏は大変勉強家で、解読意外にたくさんのことを調べて来られ、それを限られた時間内で発表したいと思う気持ちが溢れて、しばしば講座が重くなる。発表は調べた一割ぐらいに止めれば、聞きやすい発表になると思うのだが。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。「小夜の中山の題詠」を続ける。
六百番歌合(うたあわせ) 有家朝臣
行く年の 名残りの空も 更けぬれば 年や越しなん さよの中山
夫木抄 大納言師時
嵐吹く 小暮れの雪を 打ち払い 今日越えくるや さよの中山
同 五社百首 皇太后宮太夫俊成
まろふしの 芝の敷き寝に 霜ぞ置き 夜や更(ふけ)ぬらん さよの中山
※ まろふし(転ろ臥し) - ころがり臥すこと。ごろ寝。
※ 敷き寝(しきね)- 下に敷いて寝ること。
同 柿本影向百首 後京極内大臣
鳥の音も 今しばしあらば 霞なん また深からじ さよの中山
同 御集旅宿霜を 鎌倉右大臣(源実朝)
袖さぐり 霜置く床の 苔の上に 明かすばかりの さよの中山
同 嘉禄二年(1226)百首 民部卿為家
行きくらす 道の芝草 打ちかけて かた敷明かす 小夜の中山
同 岩清水三首歌合旅宿風 寂運法師
面かげは 都ながらの うたゝねに 松風ぞ吹く さやの中山
同 正治二年(1200)百首 富秋門院丹後
岩が根の 枕に落つる 松風に 夢路絶えぬる さやの中山
同 従二位頼氏
松が根の 枕にむすぶ 白露の さよの中山 あだに寝にけり
※ あだ(徒)- 一時的ではかないさま。かりそめ。
同 嘉元二年(1304)百首 従三位為隆
露しげき 麓の小篠 分けそめて 深く入りぬる さよの中山
同 海道宿次百首 参議為相
名に高き さやの中山 あかなくに 坂越えやらで かえり見るかな
※ あかなくに - あきたりないのに。まだ名残り惜しいのに。
同 貞永二年(1233)百首 光明寺入道摂政
さゝの葉の さやの中山 ながき夜も かりねの夢の 結びかねつゝ
同 正三位知家
臥し侘びぬ 旅寝の袖を まきの葉に ふるや霰の さやの中山
同 藤原康光
今日もまた さやの中山 越し暮れて 知らぬ庵(いおり)に 月を待つかな
(「小夜の中山の題詠」つづく)
読書:「脅迫者 警視庁追跡捜査係」 堂場瞬一 著
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