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今年も諏訪原城講演会を聴講した

(散歩道のイチョウ、夕方に付き、黄葉が黒みを帯びている)

午前中、地区の避難訓練。購入してあった、ヘルメットを初めて着用して参加した。軽くて、頭も蒸れない。今の季節、頭がスース―するくらいだ。共同購入で持っている人も多いと思うが、着用している人は数えるほどしかいなかった。せっかくだから、訓練でも着用を呼び掛けるべきだと思った。

午後、諏訪原城講演会に出席する。同名の講演会が毎年あって、今年で9回目だという。半分くらいは自分も出席している。講師は、歴史軍事ライターの樋口隆晴氏、及びおなじみの城郭研究家、加藤理文氏であった。

樋口氏の武田の戦いについて、興味深い話があった。信玄が浜松城の家康を攻め、三方ヶ原で戦ったのは、通説的には上洛の行き掛けに家康を叩いたといわれる。しかし樋口氏の話では、東海道筋に、尾張-岡崎-吉田-浜松ー掛川と続く、東海道筋に沿った織田・徳川の支配地域を、北から南へ侵入して、分断するのが目的でだったとする。

分断が成功して軍事的空白地帯が出来れば、家康に従いながら、それぞれの地域を支配していた国主たちが総崩れになり、遠江を一気に武田方に変えることが出来る。そういう狙いがあったのだと聞いた。あたかもオセロゲームで一気に石の色を変えてしまうようなものだなと思った。三方ヶ原の戦いに勝利した信玄は、狙い通りになったけれども、病いが信玄を襲って、作戦は中途で潰えた。

一方、勝頼は正攻法で大井川を越え、諏訪原城を築き、高天神城を落城させ、それぞれ戦果を上げて行ったが、遠州を制することが出来ないまま、長篠の戦いに敗れて、高天神、諏訪原を落され、遠州、駿河からも撤退していくことになった。

諏訪原城跡に、来年の春には「薬師門」が再建されるという。加藤氏の話の中で、この薬師門があると、長い鑓を立てたまま出入できないから、戦いのためには、じゃま以外の何物でもない。それでも建てたのは、おそらく城主として、今川氏真を迎えるために、儀礼上必要だったからではないかという、興味深い説が述べられた。

今川氏真が降伏して掛川城より落ち延びたとき、家康がいずれ氏真を駿河の城の城主として迎えるという約束をした。その約束を、諏訪原城の城主として迎え入れることで、形式的にであれ、果した。

丸馬出しで有名な諏訪原城は、土の城跡としては全国で十指に入る名城跡だという。馬を出すわけでもないのに、なぜ馬出しと言うのかという質問があった。江戸時代の兵書では、兵のことを馬と言ったと説明があった。

「馬出し」は、籠城防御戦から一転して出撃する拠点として造られた虎口で、それより一気に人馬を出撃させたから、そういう虎口のことを、馬に代表させて「馬出し」と普通名詞化したのであろう。江戸時代であっても、兵のことを「馬」と呼ぶようなことはなかったはずである。
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家康四天王、井伊家の故地を尋ねる。

(井伊谷城跡)

朝、息子に運転を頼んで、「高天神記」の取材に出かけた。目的は浜松市北区の井伊谷城跡、堀川城跡、刑部城跡の3ヶ所の取材である。新東名で引佐まで、30分ほどで着く。近くなったものである。

先週、木曜日(18日)の掛川文学講座で、紹介され、興味を持った本が2冊あった。さっそく図書館で借りて、今手元にあって読んでいる。諸田玲子著「月を吐く」と、梓澤要著「女(おなご)にこそあれ次郎法師」である。何れも静岡県出身の女性作家が、戦国から江戸時代の静岡出身の女性を描いている。「月を吐く」は家康の正室で、非業の死を遂げた築山御前。「女にこそあれ次郎法師」は、女ながら名門井伊家の再興を計り、養子井伊直政を家康の四天王の一人にまで育て上げた次郎法師。それぞれ、歴史では不当に扱われ、あるいは注目されることのなかった女性たちに光を当てた歴史小説である。

その中の一冊、「女に~」の舞台となった井伊谷(いいのや)城跡を、まずは訪れた。小山の上の城跡へは歩いて登るしかなかった。城山公園になっている城跡までに、うっすらと汗をかいた。その昔、後醍醐天皇の皇子、宗良親王がこの城を本拠地に駿河、甲斐、信濃、越中、越後、上野へ転戦され、亡くなるまでの50年間に亘ったという。南北朝時代の南朝側の話である。城跡の一段高い所が、宗良親王の御所で、御所丸と呼ばれている。この城跡から井伊谷が一望に出来る。


(井伊氏祖共保公出生の井)

城跡を下ってから、宗良親王の祭られた井伊谷宮を訪れた。本殿の背後に宗良親王のお墓があるという。息子はツイッターで、井伊谷城跡、井伊谷宮などを写真とともにツイートしている。すると、すぐにその反応があり、「次は三岳山ですね」とツイートがあった。行く予定ではなかったが、足を延ばすことにした。その前に、200メートル程歩いて、龍潭寺の向いの田の中にある「井伊氏祖 共保公出生の井」を見に行った。立派な塀に囲まれた一画に井戸があった。


(三岳城跡)

北東の方角に5キロほど車で登った所に三岳神社がある。そこから標高467メートルの三岳山まで標高差100メートルほどの山登りとなった。心の準備なしの、20分ほどの山登りは、想像以上にきつかった。三岳城跡はその山頂にあった。井伊谷城は井伊氏の山城でいくさの時はこの山城に籠った。三岳城は今川氏の朝比奈勢に敗れて落城した。

三岳山からの眺望は素晴らしく、西は浜名湖から、浜松市市街地全域、天竜川から磐田原、小笠山最も東に粟ヶ岳辺りまでが見渡せた。掛川城から朝比奈の軍勢が攻め来たるのは、ここからは見えていたはずである。しばし見とれて、山登りの苦しさを忘れた。(つづく)
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久野城址に寄り道

(久野城址本丸跡)

先週の木曜日、可睡ゆりの園の帰りに、「久野城址」の標識を見て、ハンドルを切って寄り道した。

久野城址には平成5年4月18日に一度来ている。日まで覚えているのは、当時職場の先輩と遠江三十三観音霊場を歩いて巡って、その途中で立寄り、記録が残っているからである。その記録に次のように書いている。

東名のガードを潜ると前方に小高い岡の久野城址が見えた。室町時代末期に戦国史を彩った久野氏の居城跡である。畦道を最短距離で麓まで近づき登る。公園として特別な手の入れ方がなされておらず、自然の儘の小道と草地が気持ちのよい城跡である。石垣も無く、唯一頂上近くに深く掘られた井戸が残り、危険防止のためネットで囲われていた。
頂上の桜吹雪の中でお茶とお菓子を頂く。桜も若木で見晴らしを遮らないので、辺りを一望に出来る。付近に「マムシに注意」の看板があったが、マムシの出そうな雰囲気はなかった。夏にはもっと草が生えて危なくなるのかもしれない。


久野城址の周辺は公園整備が進んで、遊歩道が縦横に出来ていた。この17年間で発掘もだいぶ進んだようで、判ってきたことも多いのだと思う。樹木も大きくなって、城址の印象がずいぶん違う。本丸跡まで当時の印象よりもずいぶん登ったように感じられた。あの当時は何もない丘の上に立った印象であったが、今見ると、周りが崖になった、なかなかどうして立派な山城跡である。往時は四方に堀もめぐらしてあって、「藩翰譜」に「当国第一の要害にして、たとい何万騎を差し向けても、落つべきも見えず」と書かれているのも判る気がした。小さく低い山城だけれども攻めるにはなかなか難しい城であった。

自分の記録にあった「マムシに注意」の看板が、駐車場のそばに昔のように立っていたし、本丸直下には深い井戸もあり、かつてネットであったものが、今はしっかりした防護鉄柵で囲われていた。

駐車場脇の案内板によれば、久野城は今川氏が遠江へ侵攻する拠点として、明応年間(1492~1501)に、当地域の在地領主久野宗隆(むねたか)によって築城された。孫の宗能(むねよし)は永禄11年(1568)に徳川家康の旗下に入り、掛川城・高天神城の攻撃や、小牧長久手の戦いなどに戦功を立てている。その後、久野宗能は家康の関東転封に伴い、下総に移封され、久野城は城主を何度か変えたが、正保元年(1644)に廃城になった。
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田沼意次と松平定信

(庭のクリスマスローズ)

「田沼候開城記」を読んでいると、老中松平定信が行った田沼意次の処分が、何もここまでしなくてもという、凄まじい処分の仕方で驚くばかりである。この事件を相良側から見て記した「開城記」は、私情を交えずに淡々と記されているが、言外に相良藩の面々に対する同情と、そこまでやらなくてもという批判の気持ちが流れているように思う。

相良城は明け渡しを受けた後、近郷の村々から、人足を、500人、1000人と集め、20日間も掛けて徹底的に破壊し尽している。御城、矢倉、御門、御番所、塀、石橋、御殿、御蔵、御屋敷、侍長屋、およそ相良藩に関わるすべての建物という建物を毀し、戸障子、茅、竹、材木などの材料に戻して、近郷の村々に入札させて売り払っている。相良に田沼色が一切残らないように徹底したのだろう。このように、明渡された城をすべて破壊するような処分は、お取潰しになった藩でも通常は行われず、後に入封する大名がそのまま使うのが普通の処置である。

さらには、打ち毀しの差配の一人に、田沼意次の娘婿の遠州横須賀城主の西尾隠岐守を加えているのも意図を持ったことに思える。

このような常軌を逸した厳しい処置は、田沼意次と松平定信の間に、単に政敵というだけでなく、深い遺恨があったのではないかと疑われている。白河松平家に養子に出されなければ、田安家を継いで、いずれは将軍になれていたのかもしれないという松平定信の怨みが、時の老中田沼意次に向けられたのではないかという話である。松平定信の仕打ちを読んでいると、そういう事情もあったのだろうと納得できる。

江戸においても、幽閉され病を得た意次を、監視し病状を報告させるとともに、医師の往診をわざと控えさせて、死期を早めたという話まである。

今から考えれば、田沼意次の悪名も松平定信などがでっち上げた風評であり、意次は当時の役人にしては珍しく、民活を奨励した老中であった。様々な矛盾はあったけれども、田沼時代に江戸は栄えて、定信の時代になって江戸の火は消えた。

   落首3首
 田や沼や 汚れた御世を 改めて 清くすすめる 白河の水
 世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし 文武文武と 夜も眠れず
 白河の 流れに魚も 住みかねて 元の濁りの 田沼恋しき


田沼意次の失敗は、最後まで江戸幕府の有能な官僚で、御三家、御三卿や大名家などが彼の視野になかったことである。それが反感を買って失脚することになった。

松平定信が寛政の改革に失敗して失脚すると、陸奥下村藩に移封されていた意次の孫の意明が相良藩に戻されたことからも、田沼意次への処置が当時でさえも異常に映っていたことが知れる。
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「二本杉峠」から「高根城跡」

(高根城跡 本曲輪「井楼櫓」)

滝を見終えて水窪に向かう。すぐに二本杉峠に至る。車を停めてみた。

昭和30年、佐久間ダム建設にともない国鉄飯田線が谷一つ東へ移設され、「相月」「城西」「向市場」「水窪」の4駅が新たに誕生した。それまでは、水窪や城西から佐久間へ抜ける道は、ホウジ(北条)峠(二本杉峠の北の峠)および二本杉峠を越えて行った。これらの峠は北遠の「野麦峠」とも言われ、かつて水窪や城西から豊橋の紡績工場などに働きに行く子女たちが、桜の花の散る頃に、これらの峠で家族と別れて旅立って行った。代わりの草鞋を腰に吊しての山旅であったという。

武田信玄など戦国武将たちも、軍勢を率いてこの峠を越えて、戦いに明け暮れしたのであろう。二本杉峠には案内板が立っていて、昔話が記されていた。略記してみる。

昔、戦国武将がこの峠にさしかかり、弁当を食べようとしたが箸がない。近くの杉の小枝を切って食べ終わった後、二本の箸を地面にさして言った。「わたしが出世したら、お前も大きく育て」と。その杉は明治十年頃切られたが、木のまわりが二十メートル、高さ五十メートルもあったという。

箸をさしたら大木に育ったという話は巨木の伝説には多く見られる。いずれも植樹したものだと思う。この二本杉も峠の目印に植えられたものだったのだろう。樹齢500年足らずとすると、二十メートルは幹周りではなくて根回りを測ったものだろう。それにしても昔に戻って二本杉を見てみたいものだ。

水窪に降りて、向市場駅のところで右折し、「高根城跡」に登って行った。かつて雨が篠降る中、女房と車で側まで来たが、城跡に登るのは断念したことがあった。様子が判っていたから、駐車場を過ぎて階段の始まる所まで車を入れた。そばで農作業をしていたおばさんに駐車の許可を得て、見学者は多いのかと聞くと、「毎日たくさんの人が登るよ」という。その割には今日は誰も登っている様子がない。もっとも午後3時を過ぎているから、見学者も帰ったあとなのだろう。

高根城は遠江最北端に位置する山城で、標高は420メートル、北遠江と南信濃を結ぶ主要街道を見下ろす位置にあって、信濃遠江の国境の警備を目的とする城である。15世紀前半、地元領主奥山氏が築いた。当初今川配下にいたが、今川氏の没落と、武田氏・徳川氏の台頭に翻弄され、内部分裂が起きて没落した。その後武田氏によって再建され、武田氏の滅亡とともに廃城になった。




(高根城跡 上-大手口 下-二の曲輪)

階段になった遊歩道を登ること10分ほどで、山頂部に達した。狭い山頂部は発掘されて、一部往時の城の一端が再現されていた。本曲輪は狭い山頂部が土塁と簡単な塀で固められ、大手口に小さな門があった。井楼櫓が再現されていた。物見櫓の役割を果たすのだろう。搦手口から下ると二の曲輪、三の曲輪と独立して続き、間をつなぐ城内道も発掘で明らかにされている。今日は本曲輪を見ただけで戻ることにした。
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諏訪原城跡再訪

(諏訪原城本丸天主台地-天守閣ではなく櫓があった)

「島田金谷の考古学と歴史」で諏訪原城の話を聞いて、講座が終った足で諏訪原城跡を見学に行った。最近再発掘も進んで、諏訪原城跡をどのような形で後世に残すか検討されていると、講師も話していた。講座の会場からは車で数分のところである。諏訪原城跡に行くのは3回目位で、最後に訪れてからもう十年も経っているように思う。

諏訪原城跡を語る上で忘れてはならないのは、靜岡在住だった清水勝太郎氏の個人の手になる調査研究であると講師の話にあった。昭和50年に出版された「諏訪原城史」に添付された城跡の地図は現在でも研究者が基本としている地図だという。その地図を見ながら城跡を巡った。

見学路は土の道であったが、かつてより随分広くなっていた。植え替えしたばかりの茶畑の中央に「武田方当城主 今福浄閑戦死墓塚」の石碑が立っていた。勝頼が修復して、置いた城主が今福丹波守であった。そこは大手曲輪のあった場所である。1575年、家康に搦手から攻められて、大手曲輪に退避し、そこで戦死したのであろう。

4号堀に沿って進む。左手の山林に馬場跡とか乾曲輪の標識が立っていた。4号堀と2号堀の間の土橋を渡る。左手の二の丸跡は現在発掘中で進入禁止となっていた。5号堀と6号堀の間の土橋を渡ると本丸(本曲輪)に入った。天主台地と標識があり、ススキが覆っていた。天主台地と言っても天守閣があった訳ではない。櫓が立っていたと推測される。本丸の北東隅が搦手口である。搦手口から下をのぞくと急な斜面で人が登るにはきついと思われたが、家康はこちらから城を攻めて落城に追い込んでいる。現在も何とか人が登れる山道が付いているようだ。本丸の南西隅からは木立の間から金谷の町が見えた。往時は木は切られていただろうから、搦手から金谷方面の様子は手に取るように見えたことであろう。それが油断を生んだのだろうか。

見学路は6号堀の続きの小さな谷へ降りた。降りたところに壁に丸石を積み上げた「カンカン井戸」があった。この谷を70mほど下ったところに城の水源があり、現在も簡易水道の水源となっている。谷を登り返した所が三の丸である。かつては茶畑であったが、茶の木は無く一面にシダ類が生えた台地になっていた。4号堀と9号堀の間の土橋を通って諏訪神社の境内に出た。


(6号堀)

講師は空堀が深いから、落ちたら上がって来れない。諏訪原城跡で遭難したなど洒落にもならないから十分注意して見学するようにと言った。深さは3、4メートルはあろうか。落ちたら上がって来れないというのは大げさではない。かつてはその空堀に杉や檜が植わっていて、一度堀を明確にするためか、かなり伐採されたのだが、その後、雑木や草が生えて埋めていた。この当りをどう保存するのか、講師も気にしているようであった。草まできれいに刈ると堀の浸食を進めてしまいそうで、かといって芝を張るわけにもいかないと話していた。
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諏訪原城と高天神城

(諏訪原城跡-諏訪神社)

午後、金谷宿大学の「島田金谷の考古学と歴史」の第5回講座に出席した。先月は出張と重なって欠席したから久しぶりであった。今日のテーマは「諏訪原城と高天神城 -徳川・武田両氏大井川境をめぐって」であった。以下は講義内容の一部である。

時は戦国時代、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれたあと、今川氏が急速に衰えた。新たに駿府遠州を支配したのは武田信玄と徳川家康である。両雄は大井川をはさんで、東の武田信玄と西の徳川家康が勢力を分け合った。1968年には大井川を境として分け合う密約を結んだといわれている。それにも関わらず、その後、大井川流域は武田・徳川の激しい抗争の舞台となった。

密約してまだ間が無い1569年に、早くも武田信玄は大井川を渡った金谷坂の上に、築城奉行馬場美濃守信房を派遣して金谷城を築城した。遠州地域に勢力を伸ばす要である高天神城を攻める足場とするためであった。高天神城は徳川方の小笠原長忠が城主をしていた。

1571年、武田信玄は二万余騎を要して高天神城に来攻したが、落城できず、武田方は退却した。

1572年、三方原の戦いがあり、家康は大敗北をきっするが、信玄の病死に武田軍は甲州に引き上げて行った。

1573年、信玄の息子の武田勝頼は、高天神城攻略の拠点として、金谷城を修復し、鎮守として諏訪明神を祀って、以来、諏訪原城と呼んだ。城主には今福丹波守を置いた。

1574年、武田勝頼は二万五千騎を要して高天神城を攻めた。城主小笠原長忠は1ヶ月籠城に耐えたが、家康の援軍が到着せず、落城して高天神城は武田方の城となった。

1575年、徳川家康は7000余騎で、武田方1200余騎が守備する諏訪原城を攻めた。大手側からは攻められず、大井川側の搦め手から、安倍大蔵元真と安倍の金堀リ人夫を要して攻め、城主今福丹波守は討ち取られ、諏訪原城は落城した。徳川は城の名を牧野城あるいは牧野原城と改めた。

1580年、徳川家康は高天神城を攻め、翌年に高天神城は落城した。1581年には諏訪原城改め牧野原城、及び高天神城は廃城になった。1582年には織田信長の侵攻(武田征伐)により、武田勝頼は天目山で自殺に追い込まれ、武田氏は滅亡した。

諏訪原城は小規模ながら近世のお城のお手本といわれる城跡である。林の中に築城当時の形がそのまま残っているといわれ、深い空堀がそのまま見られ、武田の築城特有の三日月堀もある。昔から大井川の渡渉地で、東海道の交通の要所にあって、常に高天神城攻略の拠点としての役割を負ってきた。しかし、築城から12年で廃城になった。
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旧細川刑部邸

(旧細川刑部邸大玄関)

熊本城の見学を終えた後、本丸御殿とセットで入場券を購入していた、旧細川刑部邸の見学に回った。頬当御門を出て、右手に歩いて、清正を祀った加藤神社の脇を通り、二の丸広場の方に歩いた。この広場は前回も夕方歩いて横切ったが気持のよい公園である。二の丸公園の外側に旧細川刑部邸はあった。

細川刑部家(別名長岡刑部家)は細川3代(肥後藩初代)忠利公の弟、刑部少輔興孝が正保三年(1646年)に二万五千石を与えられ興した。

旧細川刑部邸はもとは城外の子飼に造られた細川刑部家の下屋敷であった。明治になって武家屋敷は城外へ移るようにという令が出たために、その下屋敷を本邸とした。平成になって旧細川刑部邸は三の丸の現在地に移築復元された。全国有数の上級武家屋敷としての格式を持ち、熊本県の重要文化財の指定を受けている。

門を入ると、長屋門まで長いアプローチは石畳の通路以外は細かい砂利が敷かれ、箒の目がきれいに付けられていた。通路から砂利の上に足を落とすのはけっこう勇気が要りそうである。長屋門に受付があった。次の「しろめぐりん」バスが来るまでに三十分弱の時間がある。バス停は旧細川刑部邸の前にあった。受付の女性に見学時間を聞くと、15分もあれば見学できるという。


(座敷に回された縁側)

長屋門を入ると唐破風の付いた大玄関があった。そこで靴を脱ぎ屋敷内を見学した。縁側で回された、細かく分かれた和室が幾つもあり、それぞれが懐かしく居心地の良さそうな部屋が幾つもあった。御殿の広すぎるがゆえに居心地の悪さを見てきたあとで、こんな部屋ならしばらく下宿してもいいなあと、Y氏に話した。


(旧細川刑部邸台所)

当主の私室には書見台が置かれていた。かつて、本を読むのは書見台に向かって姿勢を正して読んでいた。軽い本でも寝転がって読むことは無かったのだろう。風呂場は石畳の上に木製の湯舟が置かれていた。湯を足すのが大変だが、こんな湯舟なら入っても気持ちよいだろう。台所には洗い場のそばに大きな水甕が置かれていた。故郷の家にも水道の蛇口の下に水甕があった。家の中で蛇口はそこ一ヶ所で、水は水甕から柄杓ですくって使った。水道が無い時代では井戸から汲んできた水を水甕に入れて使ったのであろう。台所には商家にあるような箱階段があった。台所の二階には男衆女衆が起居したという。

決して贅沢な屋敷ではないが、住み心地は意外と良かったのかもしれない。10分ほどで出てきてしまったので、Y氏はもう一度しっかりと見たいと入り直して行った。
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熊本城本丸御殿再訪

(熊本城本丸御殿「昭君之間」)

土曜日午前中、荷物はホテルに預けて、Y氏と熊本城の本丸御殿を見学に行った。本丸御殿は3ヶ月前に見学していて、今日が2度目である。前回は路面電車で行ったが、今回は「しろめぐりん」という熊本城周遊バスを利用した。300円で一日乗り放題であった。バスは路面電車よりもお城に近い二の丸駐車場まで入ってくれるから便利である。

一度目はまだ一般公開から2ヶ月経っていない時期で、公開のやり方もまだ試行錯誤の段階だったのだろうと思う。係員の対応がこの3ヶ月の間に少しずつ変っていた。


(「若松之間」の天井絵)

前回、最も気になったのは写真撮影の可否であった。3ヶ月前の書込みにも書いたが、本丸御殿の目玉である障壁画の描かれた「若松之間」と「昭君之間」は写真撮影禁止になっていた。ところが今回はすべての写真撮影がフリーとなっていた。ただし、被写体がやける怖れもあるので、フラッシュ使用は一部不可とされている。3ヶ月前に来たときは写真撮影が不可となっていたが、と係りの人に話すと、入殿者の評判が悪かったので、お客様の要望に合わせて写真撮影フリーとしたという。何カットか、「若松之間」と「昭君之間」の写真を撮った。デジカメでバシャバシャ撮っていた同行のY氏もこれなら納得だという。

「若松之間」と「昭君之間」の障壁画も、窓ではなくて、広い出入口から見せて貰えるようになり、中をより広い視野で見学出来るようになった。これも入殿者の不満に応えたのであろう。案内の女性は人が集まると後ろからマニュアル通りの案内口上を繰り返すだけになった。前回は見学者の前で、かなりアドリブで説明してくれた。「昭君之間」は「将軍之間」で、将軍秀頼を迎えるために造られたという説明はなかった。あまり根拠のない与太話だったのかもしれない。

「若松之間」から「桐之間」「櫻之間」「梅之間」「鶴之間」と部屋が続き、家臣を集めるときには間の襖を取り払えば大広間になる。「桐之間」以下の部屋の襖は白いままで何も描かれていない。前回も気になっていたので係りの女性に聞いてみた。かつてはそれぞれに襖絵が描かれていた。部屋の名前は襖絵にちなんで付けられている。ただ「昭君の間」と「若松の間」以外は絵の内容がどんなものであったかという記録がなかったので、襖絵を描くことが許されなかったと説明してくれた。襖絵を描くに誰の許しが必要なのかわからない。おそらく予算が許さなかったというのが真相だろうと思ったが、口には出さなかった。
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K・MIXの「嗚呼!NIPPONの城」

(黒が基調の熊本城)

土曜日の夕方、金谷宿大学の「島田金谷の考古学と歴史」の学生代表のM氏から電話があり、学生へ電話の言い継ぎを依頼された。

先日の講義の際、曽根辰雄先生よりFM放送のK・MIXに一時間出演して、日本のお城の話をするから時間があったら聞いて欲しいという話があった。言い継ぎはその日時の変更の話であった。放送が明日の午後7時から8時の一時間だという。最近お城巡りをしてきたばかりであったから、どんな話をするのか興味津々で聴かねばと思っていた。ところがうっかりして、気付いたときにはもう7時半になっていた。K・MIXに合わせると聞きなれた曽根講師の話し声が流れてきた。番組パーソナリティが聞き役で、話が進んでいる。

番組のタイトルは「SUNDAY SPECIAL ~ロクジノロック夏休み補習授業~嗚呼!NIPPONの城」という。内容は「城を見に行く時の意外と知られていない注目点」といった内容で、その場にいた息子と残りの30分だけだったが聞き耳を立てた。

先日の講義の中で、番組を紹介したとき、その内容の一部を話してくれた。お殿様はどこへ住んでいたか。天守閣には住んでいなかった。天守閣は戦の砦で、人の住めるところではなかった。掛川城に残っているような御殿に住んでいた。御殿建築で残っているのはわずかに掛川と埼玉の川越の2ヶ所だけである。御殿に住んでいたから「お殿様」と呼ぶのである。昨年のNHK大河ドラマの武田信玄は館に住んでいたから「お館様」と呼ばれていた。

そんな薀蓄を前半に話していたのであろう。聞き始めてから、全国に残る城でお勧めの城を話しているようであった。お城は五層が限度であり、それより高くすると屋根瓦の重さで潰れてしまう。家康は江戸城を作るときに屋根を軽くするために、瓦の代わりに鉛と錫の合金で葺いたという。(鉛と錫の合金といえば“はんだ”である。加工はし易いが、屋根に葺くほど産出されたのだろうか)出来た城は白壁と合わさって白く照り輝いていた。その姿は雪を頂いた富士の姿と重なって見えたという。最初の江戸城もすぐに焼けてしまった。(けっこう火には弱そうだ。だからであろうか、その後同じように再建されることはなかった。金属ではお金も掛かる)秀吉の大阪城が黒い城だったから、対抗して白い城を作ろうと考えたのかもしれない。(カッコ内は自分の独り言)

熊本城は加藤清正が大阪城を見習って黒い城を建てた。一方、姫路城は池田輝政が江戸城を見習って白い城を建てた。そのように、時代が古い城は黒を基調にした城が多く、江戸時代になって建った城は白を基調にした城が多い。

お勧めの城として西から熊本城、高知城、松江城、姫路城、弘前城を挙げていた。また、出来たら堀の中に入って(空堀で無ければ無理だが)敵を防ぐことが出来たかどうか思いを巡らすのもいい。また、天守閣の地下がどうなっているかを覗くと、地下は地震対策のため、空洞になり芯柱が遊ばせてあることが分かる。

残りの30分だったが、そんな薀蓄が語られた。
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