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平山温泉龍泉荘

                     (瀬名の郷倉と付属番屋)

この日曜日、午後から天気が回復するからどこかへ行こうと、お昼近くになって女房と家を出る。しかしどこへ行くのかは決めていなかった。車に乗ってから思い付いて、かつて調べておいた日帰り温泉の一覧の中で、まだ行っていない場所を女房に読み上げるように頼む。聞くうちにひらめいて、今日は平山温泉と決めた。平山温泉はたぶん静岡の竜爪山に行く途中の集落だと思った。

静岡バイパスは珍しく渋滞もなく、瀬名ICで降りる。瀬名に静岡市指定文化財の「瀬名の郷倉及び付属番屋」の案内看板があった。女房が寄ってみようというので引返して横丁に入った。瀬名の公民館の横にその建物はあった。中の見学は3日前に申し出よと書かれていたので、外観を見るにとどめた。

郷倉は江戸時代に集落の収穫した年貢米を一時保管しておいたり、飢饉に備えて穀物を備蓄しておいたりする倉である。東海道を歩いたときに見たことがある。郷倉の建物が残っているのは、静岡市内でここだけとあった。天保4年(1833年)に建て替えられたものと伝わる。造りは白壁瓦屋根で、腰の部分がなまこ壁になっている。中には郷土史料として、古農具や古民具が展示されているのが、入り口の格子窓の隙間から見えた。

郷倉に付属した番屋は、火事や盗難に備えて、蔵番が寝泊りしていた。また番屋は村役人が会議をする場所でもあった。

平山温泉龍泉荘は道路から谷へ降りたところにあった。道路端の4台ほどの駐車場はいっぱいで、一度通り過ぎ、引返して女房に見に行かせると一段谷へ下がったところに駐車できた。龍泉荘はそれより急坂を歩いて下った所にあった。

カラオケの声がにぎやかに聞こえる。古い安普請の建物で、場違いな感じがして少し気が引けたが、しばらく躊躇してから玄関で声を掛けた。一人500円払い、お風呂に入る。脱衣所もお風呂も狭い。

脱衣所にいたおじいさんに話しかけると、ここの風呂は出来て8年目に、自分が30代に初めて入って、今75歳だから何年になるかなぁ。(もう50年近くなる)建物はその頃のままだ。温泉もその頃から比べると湯量が少なくなったかなぁ。でもお湯は自分が入った温泉の中で三つの指に入る、いい湯だよ。

湯船は円形が三つに区切られて、真ん中から温泉がちょろちょろ出ていた。出てきたお湯が三つの仕切りを越えて湯船に回るうちにだんだんぬるくなる。つまり仕切りごとに温度が少し下がるのであろう。

身体を洗う石鹸もなくお湯も出ないが、硫黄の臭いのする単純硫黄泉で、おじいさんの言った通り泉質は大変良く、次の日まで身体がぽかぽかしていた。22湯目の温泉である。
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朝顔の松

                   (最近整備された朝顔の松公園)

旧東海道を旅して島田宿にさしかかると、島田には、女性の髪型-「島田髷」、奇祭-「帯祭り」、そして川越しにまつわる伝説-「朝顔の松」と、女性に関わる物や祭りや伝説があり、旅を華やかにしてくれる。その中から先日歩いた時に立ち寄った「朝顔の松」のことを書こう。

島田の川越し遺跡に隣接して朝顔の松公園がある。そこにはかつて「朝顔の松」と呼ばれた松の巨木が立っていた。松は昭和十年代に枯れてしまったが、最近周辺が広く公園として整備された。その公園に立つ案内板から、朝顔の松の由来を要約する。


                   (初代朝顔の松、昭和の初め頃)

安芸の国の娘、深雪は、宮城阿曽次郎と恋仲になる。その後、深雪は、親から駒沢次郎左衛門という武士を婚約者に決めたと聞かされる。その人こそ駒沢家を継いだ阿曽次郎であったが、深雪は知らずに阿曽次郎をたずねて家出し、朝顔という名の門付け(三味線弾き)となって諸国をさ迷う。厳しい旅の中で視力を失った。

島田の宿で流していると、ある座敷から声がかかる。この声の主こそ阿曽次郎であった。朝顔は目が見えないから判らない。彼は主命をおびた急ぎ旅のため、名乗りあえずに別れた。

あとで阿曽次郎と知った朝顔は追いかけて大井川まで来ると川止めになっていた。半狂乱となった朝顔は激流に飛び込もうとする。宿屋の主人戎屋徳右衛門に助けられ、その犠牲的行為により目が見えるようになる。その時、朝顔の目にはじめて映ったのがこの朝顔の松であった。

この物語は江戸後期に書かれ、浄瑠璃として上演されて大評判となった。「生写朝顔話」は今でも上演されているという。

枯れた「朝顔の松」を惜しんだ地元民は、この地にお堂が建て、松を木碑にして奉納した。書かれている題辞は「風松久髣舜歌曲枯髄猶留瞽女魂」で、島田市名誉市民第1号の清水真一氏によるものである。氏は1932年、島田に日本で最初の私設天文台を開設し、行方不明だったダニエル彗星を再発見し、アマチュア天文家の周期彗星検出第一号という世界的快挙の栄を受けた。

題辞は「松風が朝顔のひく三味線の音に似ている。松は枯れてしまったが、ごぜの魂はいまだにその枯髄に宿っている」という意味である。
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裏のミカン園

                (当家のミカン園-まだ取り残している)

当家の裏の畑にミカン類の木が8本ある。家を建てた30年近く前、神座の親戚から苗を分けてもらって植えたもので、塚本系と呼ばれる温州みかんの品種ものが3本、甘夏ミカンが3本、ニューセブンと呼ばれる甘夏が1本、それにハッサクが1本である。

そのうちハッサクは一時ゴイサギがねぐらにして糞をしたことから菌が入ったのであろう、部分的に葉が落ち枝が枯れて元気がなく、この数年まとまった収穫を見なかった。女房が痛んだ枝を落として、枝振りを二周りほど小さくしたところ、今年は花をたくさん過ぎるほど付けている。枯れる前の断末魔の悲鳴なのか、回復の兆しなのか、今後よくウォッチする必要がある。

3本の甘夏は毎年肥料もろくにやらないのに、実をたくさん付ける。根は養分を求めてかなり広がっており、野菜畑にもしばらく土を起こさないとミカンの根が伸びてくる。当然、隣地の茶畑にも根を伸ばしているに違いない。葉を収穫するお茶と、実を収穫するミカンでは肥料が違うが、かなり肥料の養分を盗んできているかもしれない。今のところ証拠はない。

夏みかんは今が収穫時期で4本の木から各150個で600個以上の甘夏が収穫できる。とても自分の家だけで食べきれないので、女房は親戚に送り、友達とかご近所に配っている。家の甘夏は甘いと評判で喜んでいただいているようだ。今年は天候不順で日光を受ける量が少なかった。たくさん成ってはいるが、少し小振りで、甘みがのっていないという。

もう一本、温州みかんの青島があるのを忘れていた。全国緑化運動のポスターのコンクールで、上の娘が高校生の頃、入賞して副賞にもらったミカンの苗が植えてあった。そばの柿の木に日を遮られてか、いっこうに大きくならず、昨年は5個成っただけで、所有者の娘に持って帰らせて、自分の口に入るにいたらなかった。ようやくしっかり根付いたようで、今年はそこそこ花を付けていて期待できそうである。
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2時間ドラマの見方

      (昨日も最後は滝を見下ろすがけの上で-「夜桜お七殺人事件」より)

各テレビ局で夜9時台に放映する2時間ドラマがある。ほとんどが推理ドラマである。2時間で完結する切りの良さも気に入って、けっこう好んで見ている。

この推理ドラマも良く見ているとパターン化されているのに気付く。例えば殺人は実にあっけなく起きる。誰が考えても襲われそうなシチュエーションで不用意に背中を見せる。一発の襲撃で見事に死んでしまう。また、連続殺人では、どんなに名探偵でも解決できるのはすべての殺人が済んでしまったあと、あるいはせいぜい最後の殺人だけ何とか防げる程度である。名探偵ならもっと早く気付けよ。ドラマの最後は何故か崖の上で、関係者全員が集まり、最後の謎解きがされて、崖から飛び込もうとする犯人が説得され、タイミングよく駆けつけた警察に引かれていく。

かつての日本では、日常では起こりえない殺人事件が、推理ドラマでは次々と起こり、人が殺されるのがそんなに好きかと家人に聞かれたこともある。

しかし昨今は、現実社会で毎日のように殺人事件が起き、しかも不可解な事件が多発している。どうしてそんな事件が起こったのか、動機は何か、犯人が捕まっても今までの常識では理解できない事件が多発している。

菊川市で起きた放火殺人事件では、被害者に関係するあちこちに火をつけ、最後には被害者宅に火をつけて放火殺人を犯し、火事の跡に再び火を付けている。この執拗さは理解を越えている。

秋田の事件でも女児が川に落ちて死に、間を置かず、女児の隣家の男児が集団下校から分かれた直後、自宅のすぐそばでさらわれて殺されている。

仙台のマンションで起こった女児転落死事件では、セキュリティと監視カメラでガードされた中で女児では越えられない柵を越えて落ちている。推理ドラマなら密室事件である。

ごく最近起こった事件だけでもそんな事件があり、事件はまだ解決していない。現実がすでに不可解さや凶悪さにおいて、2時間の推理ドラマを越えてしまっている。

いかに奇怪な事件に見えようとも、2時間ドラマでは起承転結がはっきりしていて、2時間後には一点の曇りもなく解決をみる。視聴者はあたかも水戸黄門のドラマを見ているように、安心して視ておれる。これからは視聴者は安心出来る筋書きを求めて2時間ドラマを見、安らぎを求めるようになっていくのかもしれない。
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但馬牛の話

                    (最高級の和牛、但馬牛)

私の故郷は、昔の国名では但馬である。但馬と言えば「但馬牛」。生きている牛を「たじまうし」、肉になったら「たじまぎゅう」と、特許庁が4月に始めた地域団体商標(地域ブランド)の登録に、別々の団体から申請された。

昔、農家では牛は水田の耕作や物の搬送に欠かせない労力であった。だから各農家に必ず飼われていて、家族同様に大切に扱われていた。昔の農家は土間に入ると、左側が住居、土間を隔てた右側を仕切って牛が飼われていた。お袋の実家も農家でそんな造りであった。

明治になって食肉の需要が生じ、また農業の機械化が進んで、労力としての牛が必要なくなって、牛は肉牛の繁殖のために飼われることになった。牛に種付けをして子牛が生まれたら一年育てて競りに出す。食肉業者は子牛を肉牛として育てて、神戸牛、松阪牛、近江牛になっていく。

但馬牛は肉質がすぐれていて、多産で山地の草でよく育ち、遺伝力が大変強い。現在優良な和牛の多くが但馬牛の血を引いていると聞く。

子供の頃、ラジオのローカル番組で牛飼いの農家の話がドラマになった。子牛が生まれるとその世話は子供の役割となる。放牧の面倒、餌の世話、身体を洗ってブラッシングまで、色々やらなければならないが、世話をするうちに子牛と情が通じて、競りに出される別れの日がやってくる。売られていった子牛は成牛まで育てられ、肉牛となる運命にある。農家にとって子牛を売ることは大きな現金収入で、分かれ難い子供の気持に配慮は出来ない。そんなドラマだった。

故郷では肉屋さんに行くと肉のほとんどは牛肉であった。高い肉は買えないから、特別な日でなければ、買ってくるのはほとんどが“こまぎれ”と呼ばれた安い肉である。カレーに入れるにもすき焼きにするにも“こまぎれ”だった。噛み応えがあっていつまでも口に残る。しかしそれでも肉はご馳走であった。

最近は当地のマーケットにも牛肉が並ぶようになったが、来た当時は、肉というとほとんどが豚肉で、どうして牛肉がないのか不思議に思ったものだ。

今考えると、自分は日本が誇る和牛の、中でも最高級の但馬牛の中で育ったのだと思う。‥‥‥  ああぁ、関西風のすき焼きが食いたくなった。
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ゴミムシ、トカゲ、アサギマダラ

                 (アサギマダラをカメラで捕らえる)

ゴミムシ、トカゲ、アサギマダラは、先日湖西連峰を歩いていて見かけた生き物である。ゴミムシは落ち葉の中で見え隠れして何度も見かけた。トカゲは落ち葉を鳴らして隠れるメタリックブルーの尾を何度か見た。アサギマダラはヤマツツジの花にひらひらと寄っていたのを写真に撮った。

昆虫類には昔から慣れている。昆虫採集もよくやったし、手づかみもOKである。しかし爬虫類は苦手であった。ただ今回歩いていて、トカゲが同じ生き物としてかわいらしく見えた。同じ地球に生きている仲間じゃないかと言った心境になってきたのかもしれない。

ゴミムシにはたくさんの種類があり、見え隠れするゴミムシが正確にはどんな名前なのかは判らないが、正式な名前が「ゴミムシ」というのもいる。しかし知らないからよいものの、ゴミムシと名付けられたムシは悲劇である。同じ甲虫類でもコガネムシとかタマムシとかいい名前を付けてもらった虫もいるではないか。

本州に生息するトカゲにはニホントカゲとニホンカナヘビがいる。すばやい動きなのはニホントカゲで、幼体の尾がメタリックブルーで目立っている。地味な褐色で、動きがややのろくて、子供の遊び相手になるのはニホンカナヘビである。子供の頃、兄のポケットからトカゲが出てきてびっくりしたとお袋から聞いたことがある。昔の子供はトカゲ(正式にはカナヘビ)をペットにしていた。

アサギマダラは海を渡る蝶として知られている。台湾から本州に渡ったり、本州から台湾に渡ったりするらしい。もちろんビザも検疫も無しである。ビザ変わりに羽根にマジックで名前を書いて放ち、再度捕らえた人と連絡を取り合う。これで渡りが確認できる。同じ個体が行ったり来たりするわけではなく、台湾から来るものと台湾へ渡るものは世代が変わっているようだ。ふわふわと心もとなげに飛ぶ蝶だが、風に乗って1500kmも旅をするのである。
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水神社の詩碑

                  (水神社の荒波煙翁の詩碑)

先日歩いた島田の向谷の水神社に、荒波煙翁の詩碑がある。大井川の天正の瀬替の結果、川筋が大きく変わり、向谷で盲腸のように出た水神山の森の先端は大井川の本流の流れに洗われるようになった。その様を漢詩に詠った詩人がいた。

その詩人は荒波煙翁。島田出身で、漢詩壇の巨匠として、その名は遠く中国にまで聞こえていたという。しかし、故郷の島田で知っている人は少ない。自分も水神社に建っている詩碑に出会うまでは全く知らなかった。

長い碑文より要約して、煙翁の生涯を書き取ってみる。

荒波煙(えんがい)は明治3年8月島田稲荷島の荒波米蔵氏の四男として生まれた。名は坦、通称は市平、煙又は帰愚と号した。、田園調布の書堂を清遠居、島田の故宅を借竹楼と云った。煙の前半生は速記家として貴族院に入り、在職40年に及んだ。漢籍にも早くから興味を持ち、明治三十七、八年頃、当時漢詩壇の棟梁であった森槐南氏の漢詩講義の速記を行なったのを機縁として漢詩界に入った。昭和に入り「昭和詩文」の編輯を担当し、選評に添削に後進を啓発指導した。誌友は遠く台湾、上海、南京、海南に及び詩壇の開拓向上と日華親善とに尽した功績は大きい。昭和19年2月、大戦を避けて島田に疎開し、昭和25年秋再び居を田園調布に移して漢詩檀で活躍したが、昭和29年病を得て、その11月に85歳で無くなった。

詩碑に刻まれた漢詩の意味を解読してみた。漢詩の素養が無いので言い回しがでたらめかもしれない。

  河伯祠  煙荒波坦      水神社  荒波煙 

   滔々堰水掠巌流      とうとうと堰の水が巌をかすめて流れる

   巌上古祠桜樹稠      巌上に古い社があり桜の樹がしげる

   春色応撩榜人意      春の色がまさに船頭の心を乱さんとする

   落花如霰撲行舟      落花が霰のごとく行く舟をうつ

※「河伯」は水神、川の神。河童のもとになった言葉。「榜人」は船頭、舟人。
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芸能界に復帰した森昌子

                  (「父娘草」を熱唱する森昌子 )

先週のNHKテレビの歌謡コンサートで森昌子が芸能界に復帰した。最初歌ったのが「悲しみ本線日本海」、次が「越冬つばめ」、いずれも大ヒットした歌であった。しかし、森昌子はすっかりおばさんになって、大きな舞台におどおどと歌い、感極まるのか、声が裏返って調子はずれになる。今日に備えて十分すぎるほど練習をしてきただろうに、紅白の司会をしたり、とりを務めたりした彼女でも、20年のブランクは余りにも大きいのであろう。そのあとに歌った手馴れた歌手の演歌が非常に上手に聞こえた。

女房と森昌子の“歳”の話になった。50を越えているのかどうかが話題になった。調べてみると1958年生まれで、自分とは一回り違い、47歳になることが判った。

大学生の頃、毎日のようにつるんでいた友人のM君がファンだったのが森昌子である。「せんせい」が愛唱歌であった。あれから三十数年、M君はM氏となり大学の“先生”をしている。ちなみに対抗して自分がファンだったのは「私の城下町」「瀬戸の花嫁」の小柳ルミ子であった。その後彼女はすっかり化けてしまったが‥‥。

書いていて大きな思い違いをしていることに気付いた。森昌子が「せんせい」でデビューしたのは12歳、1972年であった。我々の大学卒業は1969年であるから、M君がファンだったのも、「先生」が愛唱歌であったのも、大学卒業後の話であった。すると小柳ルミ子の「私の城下町」はいつだったのかと思い調べると、「私の城下町」は1971年、瀬戸の花嫁は1972年だった。

つまりM君との会話は大学卒業後の話だった。想い出の中にはこんな思い違いが多いのだろうと今更ながらに感じた。

テレビでは森昌子が3曲目の「父娘草」を、何とか自分を取り戻して熱唱した。復帰の最初のステージが駆け出しの新人歌手のように、キャンペーンでビールケースの上だったという話はどこかで聞いた。かつては我々のアイドルだった歌手だから、活躍を期待したい。
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神石山から石巻尾根へ

                 (雨やどり岩から湖西連峰南部を望む)
(前半より続く)
神石山山頂で、家から持参したお握りの昼食もそこそこに、縦走路に入った。今日は石巻尾根まで縦走し、石巻山の方へ下ろうと考えていた。木立の中の縦走路では、浜名湖から樹間を通って吹いてくる風が、汗をかいた肌に冷たいほど涼しい。歩いて行くと、草上で帽子を顔に載せて寝ている男性がいた。実に気持ち良さそうであった。

大岩の根元に雨が避けられそうな空間のあった。「雨やどり岩」である。岩上から、歩いてきた尾根が一望に出来た。たどって来た道は照葉樹の豊かな樹林に覆われている。照葉樹は広葉樹より明るいと言った人がいたが、今日の山々は光り輝いて見えた。

中尾根分岐点、多米峠(標高266m)、赤岩尾根分岐点と順調に通過する。しかし、予想したより大分時間が掛かった。今日は時計を見ないで来たが、少し不安でもある。

石巻尾根分岐点に出る手前、鉄塔のそばに「石巻山に到る」という標識があった。あまり使われていない登山道を下り、一度林道に出て、さらに登山道を下る。途中犬を連れた若夫婦が登ってきた。石巻山に行く道に間違いないことを確認した。

若夫婦の車(たぶん)が留まる林道に出て、この林道を下れば良かったのだが、ガードレールが切れたところに山道が見えたので、つい、それを下ってしまった。赤いテープを伝って歩くうちにそのテープも無くなり、道なき道を強引に下ると林道に降りてしまった。石巻尾根の南側の谷へ降りてしまったらしい。

一日、山にはウグイスの声が聞こえていた。石巻尾根に入りホトトギスが鳴きだした。そしてこの谷に降りてサンコウチョウの声を聞いた。自然の中でサンコウチョウの声を聞くのは初めてである。静岡県の県鳥で「月日星(つきひほし)ほいほいほい」と特徴ある声で鳴く。だから「三光鳥」。道を間違えたのはアンラッキーだが、サンコウチョウの声を聞けたのはラッキーだった。

左手に三ツ口池を見て、谷から出た先に金田のバス停を見つけた。時間を見ると3分待ちでバスが来る。ラッキー。しかし、豊橋駅のプラットホームに出て待っていると、電車が遅れる放送があり、やって来た浜松行きが2列車、運転打ち切りになった。やっと理解出来たのは浜名湖でJRの橋げたにボートがぶつかり不通になったらしい。復旧の見込みが立たないというので、新幹線に乗り換えて帰った。アンラッキーであった。本日の歩数は30,293歩。

今回の山行の最後は「人間(じんかん)万事塞翁が馬」であった。人生、一寸先に何が待っているか分からない。
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湖西連峰は久しぶりの快晴

                  (神石山山頂より浜名湖を望む)

昨日の日曜日、先週行けなかった湖西連峰へ独りで出かけた。6回目の山行は久しぶりの快晴となった。

湖西連峰は愛知県と静岡県の県境に北から南へ連なる尾根である。標高300~400mで、バリエーションルート、エスケープルートも多く、絶好のハイキングコースとなっている。

スタートは東海道線の静岡県西端の新所原駅、駅の西はもう愛知県である。渡線橋の上から西の線路脇に、愛知県に属する「立岩」が見える。「立岩」は旧東海道からも見えて道中記にも描かれている岩山である。

梅田登山口から緩やかな幅広の道を登る。昨日の雨の影響で、下が濡れているから慎重に歩を運んだ。まもなく、「右へ嵩山(すやま)、左へ仏岩」の道標の立つ梅田峠へ出た。先に「嵩山」に向かう。最初は平坦路で最後少し登ったら山頂(標高170m)に着いた。数人の登山者がくつろいでいた。南東に眺望が開けて、浜名湖の西側が見渡せた。

「嵩山」という地名は近くにもう一ヶ所ある。かつて本坂道(旧姫街道)で本坂峠から愛知県に下りてきた所に嵩山(すせ)宿という宿場があったのを覚えている。現在の豊橋市嵩山(すせ)町である。「すせ」はおそらく「すせん」が詰まったものであろう。

梅田峠に戻って仏岩方面に向かう。昔登ったころは、この尾根道はまだ木が小さくて明るかった印象があるが、木が大きくなって木漏れ日の中を進む。やがて前方が急斜度になって「仏岩」があった。追いついてきた夫婦者が息を切らせながら、「どこが仏なんだ」とぼやく。仏岩の上からは嵩山が見下ろせた。

湖西連峰は尾根に沿って送電線の鉄塔が立ち並ぶ。縦走路はその巡視路も兼ねている。だから登山道の途中で時々照葉樹の森が開けて鉄塔が立っている。仏岩でぼやいていた男性に、普門寺に降りるのはどの道かと聞かれた。2万5千分の1地図を見せたが、普門寺へ直接下る道は無い。「どちらにしても頂上(神石山)に登ってからですね」と話した。

急坂の行く手に子供たちの声がした。まもなく普門寺へ下る道を別けて、神石山山頂(標高324m)に出た。カブスカウトの子供たちが大人を混えて10数人ほど、普門寺の方へ下って行った。

神石山山頂で、普門寺への道を聞いた夫婦が追いついてきたので、普門寺へ下る道があったことを確認した。
 (後半に続く)
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