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遍路宿のトイレ事情

(須崎市、民宿なずな)

遍路宿の話の続きである。

3年前に比べて、遍路宿の何が変ったかといって、気付いたことはシャワー式トイレが一段と普及したことである。

歩き遍路にとって、宿に入って辛いのは和式トイレにしゃがむことである。和式トイレが普通であった時代を長く経験している我々の年代だけれども、毎日毎日30キロ近く歩いて、夕方には足に大変ダメージを受けている。宿に入って一度身体が冷えると、2階への階段さえ上り降りが苦痛になるほどである。だから、中腰にしゃがむ和式トイレが大変苦になる。洋式のトイレがあるとほっとする。3年前にはまだまだ和式しかない遍路宿も珍しくなかった。そんな中ながら、シャワー式トイレが思った以上に普及していることに、認識を新たにしたものである。おそらく、3割くらいはシャワー式だったのではないかと思う。

3年経って、今回は数えたわけではないが、7割くらいはシャワー式になっていたと思う。自分と同年輩のお遍路さんでも、予約のときに必ずシャワー式かどうか確認してから予約すると話していた人もいた。宿もシャワー式であることを宣伝文句にする宿もある。これはおそらく日本の宿で共通している普及率だろうと思う。田舎の民宿に至るまで、こんなに普及しているのは、おそらく日本だけだと思う。

我々の世代は和式で育ち、水洗ではないトイレも経験しており、どんなトイレでも驚かないけれども、最初からシャワー式トイレで育った若者たちは、カルチャーショックでトイレに行くのを我慢してしまう者もいると聞く。今の若者は一昔前の若者のように海外へ出て行かないといわれている。その原因の一つにこんな理由があるのだとすれば、考えさせられることである。

若者たちにはぜひ山小屋泊まりの登山を勧めたい。水が大変貴重な山小屋へ泊まれば、色々なトイレが経験できる。どんなトイレにも驚かない経験をあえてしておくことが、大切なことだと思う。山小屋泊まりで経験できるもう一つのことは、どんな環境の中でも寝ることが出来る訓練が出来ることである。耳元で他人の大いびきを聞きながらでも、寝て置かないと明日に響く。自分はその経験でどんなところでも寝られるようになった。

若い人には、閉塞感のある日本から飛び出して、世界で活躍するような人間になってもらいたいと思う。

シャワートイレが、家族が使う一ヶ所しかない民宿で、それを使いたい人は言って下さい、案内しますと言われたことがある。そこまでしてシャワートイレを使わなくてもと思いながら、夜に案内を乞うていた。
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2回の遍路で95泊、遍路宿で感じたこと

(建治寺宿坊)

今回のお遍路では四国四県で53泊した。連泊した宿が、「はるのの湯」「松楽旅館」「ビジネス旅館小松」の3ヶ所あるから、50の宿を見てきたことになる。前回は42泊して、連泊及び同じ宿が「民宿岡田(土佐清水市)」と「ビジネスホテルタウン駅前店」の2ヶ所だから、40の宿を見てきた。前回と今回で、同じ宿に泊まったのは意外と少なくて、「龍山荘」「弘陽荘」「岩本寺宿坊」「桃李庵」「ビジネス旅館小松」「民宿岡田(三好市)」「若松屋別館」の7箇所である。それを差し引いて、2回のお遍路で、83の宿を見てきた。

これだけの宿を見てきたから、遍路宿の評論家にもなれそうである。遍路宿ごとに、星を付けてランク分けしたり、ネット上には色々な宿の評価が出ているという。そこまでやらないが、自分なりに総じて感じた印象を書いてみたいと思う。

83の宿を色分けしてみると、ビジネスホテル、宿坊、民宿、旅館、温泉ホテルなどに分けられる。

「ビジネスホテル」 お遍路さんの中にはビジネスホテルが気が楽でよいと、電車などで大きな町に行って泊まっている人もいた。確かに気楽だけれども、食事、風呂、洗濯など、自分ですべてやらねばならない。一日歩いて疲れた身にはそれが辛い。自分はビジネスホテルをだんだん避けるようになっていた。

「宿坊」 昔と違い、今の宿坊は設備も他の宿と比べ遜色なく、新しいところも多い。混んでいないときは個室にしてくれる。大きな部屋にぽつんと一人という場合もあって、それは少し辛いけれども、食事も悪くないから、泊まることを勧めたい。但し部屋にテレビがない場合が多く、朝のお勤めがあって、それが嫌で泊まらない人もいた。なお、宿坊表示があっても、個人客は泊めてくれない宿坊もあるから注意を要する。

「民宿」 お遍路専用の民宿は色々な情報が宿と同宿のお遍路さんから得られるので、自分は好んで泊まった。ただし、中には3部屋しかないといった小規模の民宿もあるので、泊まるつもりが満室と断られるケースもあった。注意を要する。

「旅館」 民宿との違いがもう一つ理解出来ないが、中には料理が少し良いだけで、宿泊料が割高のところもあるので、料金は確認した方がよい。田舎の旅館は料金も設備も民宿と変わらないところも多い。仕事の客が主になっている旅館や、暇な旅館に当ると、話し相手が居らず、寂しい思いをすることもある。

自分が結果的に好んで泊まったのは、民宿と旅館であった。外に、温泉付のホテルや、日帰り温泉に付属した宿泊施設などにも泊まった。料金は少し嵩むが、時々はそういう宿に泊まって、温泉にゆっくり入ると、身体の疲れが取れる。

お遍路さんたちの声を聞いていると、宿泊施設の悪評がよく聞こえてくる。「宿修行」さんが覚悟して泊まった、久万に入る途中のT旅館は、後日「宿修行」さんから報告があったところでは、最悪の設備、最悪の食事で修行になったという。宿は手入れもろくにされていない古い建物で、トイレは今では珍しいぼっとんトイレ、風呂場に大きなムカデが這っていたという。この旅館だけはどれだけ疲れていても泊まるのは避けた方がよい。泊まった人が声をそろえてそう話す。「同行二人」の地図にはいい加減な宿は紹介されていないはずであるが、ここだけは例外で、早々に地図から外さないと信用に関わると思う。

概して、そこに泊まるしか、選択の余地のない宿は、その地位に胡坐をかいて、評判を落としている場合が多い。ただし雲辺寺手前の民宿岡田はその例外で、歩き遍路はそこに泊まらざるを得ないけれども、宿の評判はすこぶるよい。
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遍路の足跡の整理がようやく出来た

(第10番切幡寺大塔)

今回の53泊53日のお遍路の実績がようやく整理できた。53日で歩いた距離が1424キロ。一日平均26.9キロ。歩数の合計が226万歩。平均の歩幅は63.0センチ。これをどう評価すべきなのだろう。そんなものかで済ませるには少し惜しい。

ちなみに前回は、総歩行距離が1095キロ、総歩数が181万歩、平均歩幅が60.5センチだった。今回の実績の距離数には前回計算に入れなかった、迷ったり、遠回りしたり、余分なところに立寄ったりという距離も、記憶している分を入れた。その分、歩行距離は増え、歩幅も増えたことは想像できる。

自分の歩幅で計測して日本地図を作った伊能忠敬について、井上ひさしは「4千万歩の男」という小説を書いた。つまり伊能忠敬が歩幅の計測で4000万歩歩いたのだとすれば、その17.7分の1の歩数を歩いたことになる。

毎日の歩幅を計算してみると、最小は初日の43.2センチだが、これはどうやら電車に乗っているときから歩数の計測を始めてしまったための異常値である。50センチ台が8日あるが、焼山寺、鶴林寺と太龍寺、神峯寺、松尾峠、金山出石寺、岩屋寺、横峰寺と、いずれも山登りや峠越えである。一つだけ古岩屋荘から桃李庵までの13.4キロが50センチ台であるが、大きな山登りはないけれども、小さい登りがいくつもあり、距離が短かったために平均歩幅に影響したと考えている。つまり、山登りになると歩幅を狭くして登っていることが判る。

最大は70.7センチで70センチを越す日が2日ある。70センチを越した二日は、室戸岬に向かい、雨の平らな道をひたすら歩いた一日と、民宿日の出から四万十川を渡り安宿へ向けてひたすら歩いた一日、このコースもほぼ平坦だった。

歩幅の広い日は概してお寺が無くてひたすら歩いた日が多い。逆に狭い日はたくさんのお寺に立寄って、寺の中での移動が多い日である。寺の中の移動は距離に計測していないから、歩幅が狭く計算されるようだ。

それらを総合的に判断すると、平均歩幅は65センチぐらいが妥当と考えられる。とすれば、65センチの226万歩で1469キロとなり、寺の中での歩いた距離まで加えると、45キロほど増える計算になる。これを108の霊場で割れば、一つのお寺の中で平均416メートル歩いている計算になる。この数字が多いのか、少ないのか。その他にも80近い霊場にも詣でているから、妥当なところかもしれない。
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通しで1400キロ歩くと、身体はどうなるのか

(4月7日、第八番熊谷寺多宝塔)

お遍路で1400キロを53泊して歩いた。歩いた日数は54日、但し途中に一日休養日があるから53日である。一日平均で26.4km。前回同様、2回に区切っているとはいえ、前回は春、秋の2回であったのが、今回はゴールデンウィークを含めた10日間だけ自宅に帰っただけで、ほぼ通して歩いたのに近い。

端から見れば過酷な旅をしてきたわけだが、本人は至って快適に、毎日がハイキングの気分で歩いてきた。しかし、身体は正直でその難行を正直に受け止めてきた。お遍路の前には71キロとメタボと認定されていた体重は62キロとなり、9キロも減った。ザックの重さが8キロから9キロの間だったと思うから、ほぼ背中の荷物分の贅肉が減ったともいえる。

それならば空荷で歩くように身体が楽になったかといえば、そこは身のうちと荷物では全く違って、荷物は最後まで重く、空荷で歩ければ嘘のように楽になることは変わらなかった。それでも前半に比べれば、後半は楽に歩けたように思えるのは、体重減が無関係だとはいえないだろう。

自分の足を見れば、ずいぶん細くなったと思う。特に腿から余分な肉が落ちて、ほっそりしたのに気付き、驚いた記憶がある。贅肉が落ちて筋肉に変わったはずだが、ムキムキマンのように筋肉が付いたわけではない。必要最低限の筋肉が付いた程度である。

お腹周りは確実に余分な肉が落ちた。ベルトの穴が三つばかり細くなり、穴が足らないほどであったから10センチ近くは減ったことになる。メタボからは軽く脱出した。気になったのは胸の肉も落ちて、あばら骨が触るようになった。そこまで来るとやつれたといわれるかもしれない。顔がほっそりして人相まで変わって見えただろう。

若くても、すべて野宿して巡るお遍路は、一回りすると身体がぼろぼろになると聞いた。毎日宿に泊まって歩いていれば、そんなひどいことにはならない。毎日きっちりと食事を取り、風呂に入ってふとんに寝る。これが出来ていれば、身体は休まり、一日の疲れを取ることが出来る。野宿を続けると疲れが十分に取れないで、どんどん溜まっていくのであろう。

宿に泊まって、理想的には10日に一日、休養日を取ることが出来れば、完璧にリフレッシュが出来る。嵐の日、休養日を一日取っただけで、翌日は嘘のように元気がみなぎった覚えがある。

或るお遍路は毎年春に一回りするのを、健康のためだと家人を納得させて出てくると話していた。おそらく、家人も毎年健康になって帰ってくるから、安心して見ておれるのであろうと思った。

お遍路は投薬なしのホスピタルだといわれる。気の病、様々な生活習慣病などが知らないうちに直ってしまう。それに加えて好きなものを好きなだけ食べて、しかもダイエットが出来る。もっともそのためには通して歩かないと、区切り打ちによっては、体重が増えて戻る人もいるようである。

戻って3週間経つが、体重の戻りは今のところ2キロほどで済んでいる。
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欠席した5月の解読古文書 - 掛川古文書講座

(4月7日、第七番札所十楽寺山門、
写るお遍路は「小にぎり」さん)

掛川の古文書講座は5月から始まっていた。お遍路中で欠席したけれども、資料は頂き解読した。5月21日に紹介した文書と関連する文書である。似ている文書だが、前書は嘆願書であり、この文書は覚書である。

前書の嘆願書を書く目的で、28年前の朝鮮通信使が来朝した際の実績と、その後に助郷のしくみが改定された経緯を書き上げた覚書を作ったものであろう。以下に文書を書き下して示す。5月21日に紹介した文書と比較してみると面白い。

 享保四亥年
朝鮮人来朝帰国の節人馬勤方書上げ帳
 延享四卯の年六月
          遠州佐野郡
              上垂木村

        覚
一 高七百五拾五石八斗九合
  但し高百石に付、金三分銀五匁づつ
右は享保四亥年朝鮮人来朝の節、懸河宿より藤枝宿まで、帰国の節は懸川宿より濱松宿まで送り、人馬請負に相成り、右賃銭割合に仰せ付けられ、相勤め申し候、もっともその節は懸河宿大助村にて御座候に付、右の賃銭仰せ付けられ候

一 懸川宿定助、高五千七百石余、その節は自餘御通し御役相勤め候に付、朝鮮人御役相勤不申さず候
 ※ 自餘 -それ以外。そのほか。

一 享保九辰年、東海道宿々人馬勤め方、御吟味として、長谷川庄五郎様御通り遊ばされ、懸河宿定助、大助、高合わせて壱万六千六百六拾石、打ち込み、半高をもって隔年に相勤め候様、御定め仰せ付けられ候ゆえ、半高は自餘御通し役相勤め候に付、この度、朝鮮人御役半高は相勤め申さず候、先格に存じ奉り候、以上
 ※ 先格 - 前からのしきたり。

一 見附宿、昼休み御賄所へ村役にて何にても一切差出し申さず候

一 天龍川舟橋へ村役にて何にても一切差出し申さず候

一 大井川河越し人足、一切差出し申さず候

その外、何にても一切差出し申さず候

右書面の通り、相違御座なく候、以上
  延享四卯年     上垂木村
     六月        組頭 作右衛門
                 同  七左衛門
                 同  平兵衛
                 同  与右衛門
                庄屋 傳右衛門
                 同  藤七郎

来る辰年朝鮮人来朝に付、
太田摂津守様御領分の節書き上げ帳

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“ 濁れる水の流れつつ澄む ” 山頭火

(山頭火「人生即遍路」の碑 - 「網掛石」にて)

今朝、読売新聞を見ていて、日曜版に「濁れる水の流れつつ澄む」という山頭火最晩年の句が紹介されていた。山頭火についての本は何冊か読んでいるけれども、この句を見るのは初めての気がする。あるいは興味が向いていなくて、読み飛ばしていたのかもしれない。

行乞の旅を死ぬまで続けた山頭火は、遍路道にたくさん句碑を残している。山頭火の最期の地、松山の一草庵にはこの句碑があるという。前回立寄ったときには「鉄鉢の中へも霰」という句碑には気付いていたけれども、この句碑には気付かなかった。今度のお遍路ではコースを変えたので、一草庵には寄らなかった。

山頭火はお遍路の胸に響くような句をたくさん残している。少し拾ってみてもお遍路の共感を呼ぶ句がずらりと並ぶ。

    うしろすがたのしぐれてゆくか
    どうしようもない私が歩いている
    分け入つても分け入つても青い山
    鈴をふりふりお四国の土になるべく
    すべつてころんで山がひつそり
    山へ空へ摩訶般若波羅密多心経
    水音の絶えずして御仏とあり


「濁れる水の流れつつ澄む」の句も、毎日お遍路をした身には思い当たる節がある。「濁れる遍路の心の歩きつつ澄む」と言葉を変えて納得するのである。

毎日毎日歩いて、身体は疲れのピークにありながら、心は空になって澄み切っていると感じるときがある。今思い返してみると、三角寺と仙龍寺を打って下ってきて、椿堂へ向かう日差しの強い下り道であったり、雲辺寺を越え、観音寺へ向かう道中であったり、五色山から降りてきて香西寺を打ち、国分寺へ向けてひたすら国道を歩いているときであったり、大滝寺で別格20寺を結願し、最後の大窪寺へ向かって歩いているときであったり、それらは遍路の後半で、その日の午後であることが多い。

道には迷いがなく、雨の心配もない。足が勝手に、右、左、右、左、と動いている。金剛杖が地を打つ音が聞こえるだけで、頭の中は空っぽで、世の中のことはもちろん、お遍路のことすら何も考えていない。そんな自分に長い時間気付きもしないで歩いている。そして何かの刺激でふと気付く。

それは疲れてぼうっとしていただけで、「澄む」というのとは違うといわれそうだが、そんなくり返しがだんだんと菩提、涅槃へと導いてくれるのかも知れない。

話は山頭火に戻る。あれだけ世の人々へ面倒を掛けっぱなしであった山頭火は最後は酒を飲んで寝たまま、朝には亡くなっていた。何とも幸せな死に方である。「究極の歩き遍路」さんが望み、お不動さんに日夜御願いしている死に方を、いとも簡単に実現したのである。不幸が重なり、人生を捨てた山頭火が最期だけは理想的に逝った。
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5月31日、弘法大師生誕地訴訟と別格18番海岸寺

(遠望する海岸寺奥之院の二重塔)

海岸寺奥之院の坊さんには、本堂を指して、ここが弘法大師の産屋があったところだと聞いた。一方、善通寺御影堂で行われた朝行では、善通寺管主は、弘法大師はこの御影堂の奥で生まれたと、小学生の前でもはっきりと話した。弘法大師が生まれたのは善通寺なのか、海岸寺なのか、昔から論争になっている。江戸時代には訴訟となって、丸亀藩が乗り出し、一度は善通寺に軍配を上げた。しかし、その後もそれぞれが誕生寺を名乗っている状態が続いている。

生まれた地が屏風浦であるとの記録があって、善通寺では海から離れていて合わない。それを、昔は善通寺辺りまで海であったとする説や、「浦」は「裏」の意味もあり、山の裏であったかもしれないと、善通寺側の理屈には少し無理があるように思う。

ところが、江戸時代から、善通寺と海岸寺では寺格が余りに違いすぎて、喧嘩にならないほどで、丸亀藩としても善通寺に軍配を上げないわけにはいかなかったと思われる。翌日、捨身ヶ嶽禅定でいろいろ話してくれたおじさんは、そんな風に説明してくれた。

海岸寺は母方の里、阿刀氏の領地であり、善通寺は父方の佐伯氏の領地で、どちらも弘法大師とは関係が深かった。その当時は通い婚が通例で、母は阿刀氏方に居て、父親が通ってきていたと思われる。したがって、そのまま母方の里で弘法大師は生まれたという説の方が自然である。その方が現在では説得力がありそうに思える。どちらにしても、何ヶ月かの違いで、弘法大師(幼名真魚)は善通寺に移り、佐伯真魚として育てられるようになる。

論争において、海岸寺の必死さは解るけれども、善通寺側が誕生寺の名にそこまでこだわる理由がいま一つ解らない。野次馬としては誕生寺が二つあって、主張しあっている状態は面白い。

遠くからも見えた海岸寺奥之院の塔は、てっきり三重塔だと思い、尋ねると二重塔であった。三重塔として建て始め、二重で工事が中断するといういきさつがあったようだ。


(別格18番海岸寺の山門)

海岸寺奥之院から10分ほどの海岸沿いに海岸寺はあった。山門の仁王像の代わりにお相撲さんの立像が安置されていた。架空の力士かと思ったら、どちらも近年の相撲取りであった。いずれも地元出身の懐かしい力士で、右が琴ヶ浜、左が大豪である。大関琴ヶ浜は内掛けが得意技であった。また大豪は若三杉という時代もあった。大器といわれた割には脇が甘く、最高位は関脇だった。所属した花籠部屋が勢いを持っていた時代だった。琴ヶ浜は昭和56年に54歳で、大豪は昭和58年に46歳でそれぞれ早死にしている。太く短い人生だったようだ。
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5月24日、日切大師、実報寺、興隆寺、久妙寺、生木地蔵

(日切大師はクスノキの下にあった)


(興隆寺の杉の根株)


(生木地蔵のクスノキの幹)

5月24日の午前中は、日切大師、実報寺、別格10番興隆寺、久妙寺、別格11番生木地蔵と、88の札所ではない寺々を巡った。

宿の敷島旅館からそれほど離れていない日切大師は細間を入った奥と聞き、いろいろ迷ってしまったが、最後は住宅の上にクスノキが見える場所だろうと見当をつけて、入って行くと、まさしくクスノキの下にお堂があった。初めからクスノキを目印にすれば早かった。

自宅の近くにも日限地蔵さんがある。おそらく日切大師も日を限ってお願い事をすると叶えてもらえるのであろう。日を限ると頼まれる方もかなりのプレッシャーに違いない。日本人は神様、仏様にけっこうシビアである。これだけたくさんのお寺に参っていながら、自分は一切願い事をしていない。しかし、言わなくても察してくれるだろうとの思いは無くはない。

お参りに来たおばさんに次の実報寺の道を聞くと、境内脇の水路に沿った道を進めばよいと教わる。今日もメインの遍路道から外れた、遍路シールが極めて少ない遍路道を歩く。しばらく車の多い、歩道の無い道を歩き、脇へ逸れて実報寺へ向かう。実報寺の一樹桜はこの辺りでは有名な桜らしい。一茶も訪れて、「遠山と見し是也花一木」という句を作った。しかしもう花の季節ではない。

別格10番の興隆寺は実報寺より8.2km、里道を延々と歩き、標高275メートルの山中にあった。急坂を登った先に城のような石垣を築いて境内がある。駐車場からでもかなり登らなければならない。本堂と大師堂で勤行を済ませて納経所へ行く。このお寺は城跡か何かに建てたのかと聞くと、係りの女性は、城跡ではないが、城のように石垣が積まれたと聞いているという。

興隆寺は紅葉の名所として有名らしいが、これも季節ではない。三重塔があるけれども、紅葉の若葉に囲まれて全容を見ることが出来なかった。納経所の女性の話では、本堂脇に杉の巨木が2本あったが、数年前の台風で倒れて、現在は根株だけが残っている。杉の根元からこんこんと湧き出している清水は、昔と変わらず涌き出ているという。ご利益のある水だから飲んで行くように勧められる。

元来杉は水を好む樹木で、杉の根元から清水が出ているのは良く見る。杉が水を呼んだというが、水があるところに杉が育ったと言う方が正しいかもしれない。飲んでみたが、ご利益は別にして、確かにおいしい水だった。

久妙寺は興隆寺から2.3キロ下って来た里の溜池のそばにあった。さらに1.5キロ先に別格11番生木地蔵がある。かつてはクスノキの巨樹の洞の中に弘法大師が一夜にして刻んだと伝わる地蔵菩薩像があり、人々の尊崇を集めていた。ところが昭和29年の洞爺丸台風で倒れてしまい、地蔵菩薩像は無傷で転がり出て来たので、現在は本堂に祀られている。倒れたクスノキの幹が屋根を被せられて残っていた。
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5月23日、世田薬師、臼井御来迎など

(霊跡 臼井御来迎)

5月23日、国分寺の後、宿に入る前に世田薬師(栴檀寺)と臼井御来迎へ立寄った。世田薬師の手前で今治小松自動車道の側道を歩いてみた。あちこちで側道がお遍路として指定されているが、歩くのは初めてだと思う。結果、出来るだけ側道には入らない方が良いというのが自分の感想である。確かに交通量は少なくてよいけれども、上り下りが多くて、まるでジェットコースターのようで、少々距離が短くても、お遍路は余分な体力を使ってしまう。

小さな峠を越すと、右手に世田薬師(栴檀寺)があった。大変立派な伽藍に気が引けて、勤行を簡単に済ませ、納経印も貰わずに出て来た。世田薬師のような一般参拝客が多くて繁栄しているお寺は一番苦手である。

遍路道は緩やかに下っていく。向うの山並みまで平野が広がっている。あの山々のどこかに横峰寺があり、その向うの山脈は石鎚山系であろう。明日にかけてこの平野のあちこちに散らばるお寺を打って歩くことになる。

学校帰りの小学生が大きな声であいさつをしてくれる。「こんにちは」ではなく「さようなら」と。彼らの午後のあいさつは「さようなら」なのだと知った。自分も「こんにちわ、さようなら」と挨拶する。変なあいさつといった顔でこちらを見る。

下って来た橋のたもとの休憩所で一休みする。宿に入ってから気付いたのだが、この休憩所で首に巻いて歩いていた緑の手ぬぐいを落としたらしい。お茶屋さんから頂いて気に入った手ぬぐいであった。

JR予讃線の踏み切りを渡ったすぐの左側低地に、霊跡臼井御来迎があった。弘法大師が掘られた泉で、御加治水として尊ばれていた。湧き水は石臼状の石枠の中から湧き出ていて、弘法大師が加治すると五色の光(虹か?)を影じたといわれる。その光の中に諸仏のご来迎が見られたと伝わり、臼井御来迎と呼ばれるようになった。踏切りの手前に道安寺というお寺があり、弘法大師が道安寺に逗留されたときの話として伝わる。

今夜の宿、敷島旅館の客は自分一人だった。宿の女将さんは気がつくようで、抜けているようで、何とも判断に迷う人である。宿へ入るとお風呂は今準備しているから少し待てという。洗濯物があるなら洗うという有難い申し出だったが、すぐに出すようにいう。お風呂に入ったときに着替えるからというが、それでは遅いとおっしゃる。今洗えば外に干して夕方までには乾くからという言い分は判らないでもないのだが、仕方なくお風呂の前に下着まで替えた。

5時過ぎには食事が出来たと呼ぶ。早すぎるから少ししてから行くというと、それでは冷えてしまうとのたまう。仕方なく腰を上げた。食事が用意された部屋には誰もいない。勝手に食べろということかと、御飯をよそうが、ポットがない。呼ぶけれども返事がないので、仕方なく部屋から湯沸しポットを持ってきて入れた。孤食というのは実につまらない。おかげで夜の時間が十分に取れて、しっかり寝ることは出来たのであるが。
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朝鮮通信使来朝御役について - 掛川古文書解読講座

(長命杉と桜 - 第2番極楽寺、
しばらくは、お遍路で撮った写真から載せる。)

昨日、掛川の古文書講座へ出席した。もう4年目になる。5月にあった第1回には参加できず、昨日は第2回目であった。扱った文書は朝鮮通信使が東海道を通るに際し、人馬の御役について過去の実績を述べ、各村々の平等な割付を求めた文書である。(但し、提出元の控え)さっそく、解読した読み下し文を示す。

恐れながら書付をもって願い上げ奉り候御事

一 来たる辰年、朝鮮人来朝に付、村々庄屋ども浜松宿へ罷り出で候様に、先だって、仰せ付けられ畏まり奉り候、然るところに近年助郷村々困窮に及び、
馬数御座なく高百石に壱疋までも所持仕らず罷り在り候、万一正徳年中の通り、御割付の人馬、仰せ付けられ候ては、不足馬雇い立て候儀も、相調いかね申すべく存じ奉り候、殊に御大切なる御役の儀、恐れ入り奉り候、助郷村方の儀は平日往還御役相勤め、難儀仕り罷りあり候、これにより朝鮮人御役の儀、国中に相勤めざる村方も御座あるべく存じ奉り候あいだ、御吟味の上、仰せ付けられ下し置かれ候わば、有難く存じ奉り候御事

一 享保四亥年、朝鮮人来朝の節は通し人馬御請負に仰せ付けられ候、この度の儀も御請負の者御座候わば、右享保年中の通り、通し人馬にて相勤め候様に、仰せ付けられ下し置かれ候わば、助郷一同御救いの筋と有難く存じ奉るべく候御事

一 享保九辰年、長谷川庄五郎様東海道筋人馬勤め方御吟味のため、御通り遊ばされ候節、定助大助打込み、隔年に御定め仰せ付かれ、右辰年以来、隔年に相勤め候、これによりこの度、朝鮮人御役の儀、右助郷村々半高をもって相勤め候ように、恐れながら存じ奉り候、この段、聞こし召し分けさせられ、下し置かれ候ように、願い上げ奉り候御事

右願い上げ奉り候趣、聞こし召し分けさせられ、恐れながら御慈悲の御意仰ぎ奉り候、以上
  延享四丁卯年六月 先年大助郷二十八ヶ村
              庄屋名印


東海道の周りの村々には、東海道の通行を補助するために人馬を出す助郷という御役が課せられた。助郷には常時お役に就く定助(郷)と大きな通行があったときのみ臨時でお役に就く大助(郷)があったが、御役が割り付けられない村もあったり、その割付について度々不公平の是正を求める嘆願書が出された。

享保九年、長谷川庄五郎という役人が来て、掛川宿の実情を調査した。当時、定助が20ヶ村、5,604石、大助が28ヶ村、11,607石であった。定助、大助の区別を無くし、すべてを一緒にして(打込)「助郷」1本にまとめ、46ヶ村、16,771石で、隔年の御役ととするように、負担の公平を図り、負担の重い村の軽減を行った。(2村減ったのは、五明と栃沢が掛川宿から日坂宿の御役に移されたため)今回の朝鮮通信使の通行は、その改定後初めてのものだったと思われる。

村役人が役所へ提出する書類をたくさん見ていると、表現こそへりくだったものであるが、村側の主張をしっかりと述べていることに気付く。長いものには巻かれよという、諦めた態度は全く見えない。駄目元でも言ってみるという、図太さがあって面白い。
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