goo

「江戸繁昌記 ニ篇」 78 墨水桜花10

(大代川のアオサギ)

「江戸繁昌記 二編」の解読を続ける。今日で「墨水桜花」の項を読み終える。

江にして別業多し。何に隠居と曰う。何園荘と曰う。園に隣して屠沽(料理屋)多し。何亭と曰う。何楼と曰う。居、或は樹に名あり。園、或は花に名あり。香醪を以って名あり。奇羹を以って名あり。
※ 瀕(ひん)- 水と接した所。みぎわ。岸。
※ 香醪(こうろう)- 香りのよい濁り酒。
※ 奇羹(きかん)- 珍しいあつもの。「羹(あつもの)」は、肉や野菜を入れた汁物の類。とろみがありなかなか温度が下がらない。


木母寺は梅児が名蹟を存し、三囲祠は其角(俳歌人)が名題を留む。長命寺の門、始めて桜餅の名を開き、秋葉社(秋葉神社)、庭は名を楓葉の秋に占む。鯉屋、水晶魚(シラウオ)屋、皆なこの江の名物。白髭叢祠(白鬚神社)、牛頭天殿(素盞雄神社)、並びにこの間の名所なり。
※ 三囲祠(みめぐりし)- 墨田区向島にある三囲神社(みめぐりじんじゃ)のこと。俳人其角の雨乞いの一句、「遊(ゆ)うた地や 田を見めぐりの 神ならば」は有名。
※ 長命寺(ちょうめいじ)- 墨田区にある天台宗の寺院。徳川吉宗ゆかりの桜の名所「墨堤の桜」を抱え、関東風の桜もち発祥の地とされる「長命寺桜もち」は往時より有名であった。


昔は、秦の始皇(帝)の、名を好む。琅琊にして石を立て、得意を明らかにせしより、来(このかた)、石を立て徳を記する。和漢一同、世以って風を為す。一鄙人、予に謂いて曰く、近年在々石塔殊に多しと。一噱に供すべし。石生れて疵無きに、斧斤これを琢し沙石これを磨(ま)し、穿鑿字を鐫(ほ)り、その天真を破りて、吾が得意を勒し、以って名を不朽に存(あらしめ)んとす。
※ 琅琊(ろうや)- 古代に中国山東省にあった地名。
※ 得意(とくい)- 誇らしげなこと。
※ 世以って風を為す - 世の流行りとなる。
※ 鄙人(ひなびと)- 田舎の人。
※ 在々(ざいざい)- そこ、ここの村里。
※ 一噱(いっきゃく)- 一笑。
※ 斧斤(ふきん)- おの。まさかり。
※ 琢す(たくす)- みがく。
※ 沙石(しゃせき)- 砂と石。小石。
※ 穿鑿(せんさく)- 穴をうがち掘ること。
※ 天真(てんしん)- 純粋な性質。自然のままで飾りけのないこと。
※ 勒す(ろくす)- 文章を石に刻みこむ。


(おも)うに、また世の穿鑿、学生に似ざるや、(さに)非ずか。穿鑿、自ら毀(こぼ)つ。復た古えの学者の琢磨、徳を以ってして、その天爵を養うに似ざる(や否や)。居士もまた、大石に得意を記して、一つはこれを富岳の頂上に建て、一つはこれを東海の淵底に投ずを欲す。銭無くして、未だ就(な)せず。嘆くべきかな。然りと雖も、この石や、これ居(お)くや。この楼、この園、これまた繁昌の余波。この浜(川岸)漸するのみ。
※ 学生(がくしょう)- 学識。学問。
※ 天爵(てんしゃく)- 天から授かった爵位。生まれつき備えている徳望。
※ 漸する(ぜんする)- 物事が少しずつ進む。

「墨水桜花」の項、終り。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「江戸繁昌記 ニ篇」 77 墨水桜花9

(庭の紅葉、ヒイラギナンテン)

我が家の庭の数少ない紅葉、ヒイラギナンテンである。紅葉するとタラバガニの足に似ている。食欲の秋でもある。

昼前に、車のディーラーにアクアの6ヶ月点検に行く。
「どこか気になるところはありますか」
「別にないけど、汚れていることぐらいかな」
一瞬に会話が和む。帰り、金ぴかになったアクアで帰った。料金はゼロ。前払いしてあるからだが、得した気分になるから不思議だ。

「江戸繁昌記 二編」の解読を続ける。

勝地(景勝地)、古(いにし)えより、佳作、罕(まれ)なり。録所の数詩、佳作と雖も、また焉(いずくん)ぞ、妙にその勝を云うに、写すと足りん。世間これを言うは、蓋しまた悪詩のみ。花よりこれを言うは、蓋しまた殺景なり。
※ 佳作(かさく)- 文学作品・芸術作品などで、出来栄えのいい作品。ここでは、景勝地を詠んだ漢詩のことを評している。
※ 録所(ろくしょ)- 前述した詩のこと。
※ 殺景(さつけい)- 表現で、好景を台無しにしてしまうこと。


蓋し、然りと雖も、居士、もと詩を作ることを解せざれば、則ち果して悪、果して殺、未だその何如(いかん)を知らず。弟(た)だ、これを借りて、以って予の拙筆、勝を写して写したらず、景を粧(よそお)いて粧い得ず、吾れが果して悪、吾れが果して殺なるものを補わんと欲すればなり。

木母寺に一墳墓有り。世に伝う梅若なる者、某年三月十五日を以って、この所に死す。因って葬る。乃ちこの日雨ふれば、則ち都俗(みやこぶり)でこれを涙雨と謂う。仏朧道人の詩有り、云う、
※ 梅若(うめわか)- 梅若丸。中世・近世の諸文芸に登場する伝説上の少年。京都北白川吉田少将の子で、人買いにさらわれ、武蔵国隅田川畔で病死したという。東京都墨田区向島の木母寺境内に梅若塚がある。謡曲「隅田川」、浄瑠璃などに作品化されている。
※ 涙雨(なみだあめ)- 悲しみの涙が化して降ると思われる雨。


   梅子塚前春欲空    梅子塚前、春空(あけ)んと欲す。
   落花泥滑一堤風    落花泥滑るや、一堤の風。
   流鴬尚似傷當日    流鴬なお当日を傷むに似て、
   數轉声寒涙雨中    数、声は寒し、涙雨の中。

※ 流鴬(りゅうおう)- 鴬の異名。
※ 転(てん)- 音韻または語の意味が変化すること。ここでは鴬の囀りが変化すること。

或いは云う、梅若は公子に非ずして、世に謂う所、云々なるは全く非なりと。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「江戸繁昌記 ニ篇」 76 墨水桜花8

(道端のたくさんのケイトウ)

道端でケイトウの花を刈り取った跡に、種が落ちたのであろう、たくさんのケイトウが芽を出し、大きくなれないままに、健気に花を咲かせていた。

午後晴れて、夕方の散歩に、いっぱい雪虫が飛んでいた。デジカメに撮ろうと、手にとまらせたけれど、ズームするとレンズエラーになり、撮影に失敗した。最近、カメラの調子がどうも良くない。そろそろ買い替え時期に入ったか。ブログを見返してみると、今のデジカメは2012年4月2日に購入している。そうか、2度目のお遍路へ出る直前であった。もう4年半使ったことになる。

「江戸繁昌記 二編」の解読を続ける。

友人文軒、花を観る一に云う、
※ 文軒(ぶんけん)- 山崎雲山。別号に文軒。江戸時代後期の書家、画家。京都にすむ。王羲之の書をまなび、池大雅に私淑し、山水、梅竹画を得意とした。
※ 絶(ぜつ)- 漢詩の一体。絶句のこと。


   玲瓏世界玉乾坤    玲瓏世界、玉乾坤
   千庁銀葩風裏翻    千庁の銀風裏に翻る。
   略記去年寒岸上    略々記す。去年寒岸の上、
   扁舟酔雪倒芳罇    扁舟雪に酔いて芳罇を倒(さかさま)にせしを。

※ 玲瓏(れいろう)- 玉などが透き通るように美しいさま。また、玉のように輝くさま。
※ 乾坤(けんこん)- 天と地。天地。
※ 葩(は)- 花。花びら。
※ 風裏(かざうら)- 風が比較的当らない場所。
※ 扁舟(へんしゅう)- 小さな舟。小舟。
※ 芳罇(ほうそん)- かんばしき酒甕(さかがめ)。


阿漕道人、墨陀(隅田川)の八詠に有り。その月夜に云う、
※ 阿漕(あこぎ)- しつこく、ずうずうしいこと。義理人情に欠けあくどいこと。
※ 道人(どうじん)- 俗事を捨てた人。世捨て人。


   早起上堤難買酔    早起き、堤に上がれば、酔いを買い難く、
   晝行多伴攪吟思    昼行、伴多きは、吟思を攪(みだ)す。
   不如獨夜江天月    独夜、江天の月に、及ぶものはない。
   有酒有詩花始奇    酒あり、詩あり、花始めて奇なり。

※ 吟思(ぎんし)- 詩歌の思い。
※ 不如(れい)- ~に及ばない。


梅庵主人が(木下氏)水神森の(木母寺の後に在り)一に云う、
※ 梅庵主人(ばいあんしゅじん)- 木下梅庵。江戸時代後期の狂詩作者。本業は医師。狂詩とよばれる滑稽洒脱を旨とした漢詩体の詩で名をあげた。別号に方外道人。
※ 律(りつ)-「律詩」の略。漢詩における近体詩の代表的な詩型の一つ。8句から成る。


   獨避長堤塵跡喧    独り長堤、塵跡の喧を避けて、
   社頭籍草坐黄昏    社頭、草を籍(し)きて黄昏に坐す。
   波光遠映垂楊岸    波光遠く、映す垂楊の岸、
   人影遥連古寺門    人影遥かに連なる古寺の門。
   烟抹紅雲雲十里    烟り、紅雲を抹す、雲十里、
   風飄白雪雪千村    風、白雪を飄す、千の村。
   模糊春色難描就    模糊たる春色、描き就き難し、
   欲喚扁舟泝水源    扁舟を喚(よ)び、水源に泝(さかのぼ)らんと欲す。

※ 垂楊(すいよう)- シダレヤナギの別名。
※ 抹す(まつす)- こすりつける 。また、塗りつける。
※ 模糊(もこ)- ぼんやりしているさま。はっきりしないさま。
※ 扁舟(へんしゅう)- 小さな舟。小舟。


読書:「ふたたびの虹」柴田よしき 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「江戸繁昌記 ニ篇」 75 墨水桜花7

(どうだん荘からの眺め)

昨日、どうだん荘から南方の眺めである。手前の紅葉はドウダン。荘の周囲にも、ドウダンはたくさん植えられているが、尾根を15分ほど行くと、どうだん原があり、この季節、その紅葉を見るハイキング客が多いという。ドウダンの紅葉もまだ少しは見られると荘の主人がいう。

「江戸繁昌記 二編」の解読を続ける。

これ屠沽の、日に益々繁昌する所以(ゆえん)滌鯉(アライゴイ)、玉鱠、一日、万盂盤を傾け、墨水(酒名)清醪(清酒)、一刻千樽罍倒にす。花観る料銭、百万これに擲(なげう)つ。居士嘗つて謂う、花をして知ること有らしめば、客数銭、必ずこれが税(うんじょう、運上)をせん。
※ 屠沽(とこ)- 生き物を殺して肉をとる者と、町で酒を売る者。
※ 滌鯉 - 鯉のあらい。鯉を薄くそぎ切りにし、人肌の湯にサッと通し、すぐに冷水で鯉の身をしめたもの。わさび醤油をつけて食べる。
※ 玉鱠(たまなます)- なますの料理。魚肉に調味料を合わせて生食する料理をさす。
※ 盂盤(うばん)- 鉢状の器と皿状の器。
※ 樽罍 - 酒樽と酒壺。
※ 倒にす(とうにす)- 空にする。
※ 檄(げき)- 自分の考えや主張を述べて大衆に行動を促す文書。檄文。


青年妙齢、既に酔うに酒を以ってし、将に更に花に、北里の月に飽かんとし、神速を貴ぶなり。橋場渡銭の二文を筭せず。(花時、五、六文増し)四十八銭故(ことさ)らに渡艇を買う。神逝(ゆ)き、骨顫(ふ)るう。篙師を促(うなが)して云う、日、旦(まさ)に暮んとすと。
※ 妙齢(みょうれい)- 若い年ごろ。主に女性に対して使う言葉だが、ここでは若い男性に使っている。
※ 北里(ほくり)-「ヨシハラ」とルビあり。遊郭吉原のこと。南の品川遊郭に対して。
※ 飽く(あく)- 満足する。満喫する。
※ 神速(しんそく)- 人間わざとは思えないくらい速いこと。
※ 橋場渡銭(はしばとせん)- 橋の渡り銭。
※ 筭す(さんす)- 計算する。
※ 篙師(こうし)- 船をこぐ人。船頭。


一葉の快刀(ハヤフネ)渠(ホリ)に向いて先を争う。人の喜意を動かさざるは無し。喜意の二字、繁華想うべし。嗟(ああ)それ、中将をして今の繁昌地に遊ばしめば、何如(いか)んか。悲意を動かし来たらん。何ぞ来路の遠を覚えん。
※ 喜意(きい)- 喜びの気持ち。喜びの表情。
※ 中将(ちゅうじょう)- ここでは、伊勢物語の在原業平を指す。右近衛権中将であった。

吉原で遊べば、都鳥を詠った業平の憂いも吹き飛んだであろう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「江戸繁昌記 ニ篇」 74 墨水桜花6

(山の会OBの忘年会/島田市千葉山「どうだん荘」)

午前11時集合で、山の会OB会があった。会場は千葉山のドウダン荘、長く営業を中止していたけれども、10年ほど前より、再開されていたようだ。雲一つない快晴の日、ドウダン荘からの見晴らしは抜群で、駿河湾から伊豆半島まで見晴らせる。出席者は12名、懐かしい顔ばかりであるが、それぞれ定年を迎え、あるいは定年にあと何年という人たちばかりであった。昼間だから安心して集れる年齢に、皆んなだんだん近付いている。

席上、Aさんから「近世古文書解読辞典」を頂く。お義父さんが最晩年、買ってきて、通信講座へも申し込み、勉強を始めようとされた矢先に、病いに倒れられ、断念を余儀なくされた。お義父さんの思いの残った遺品なので、大事に活用させてもらおうと思う。

「江戸繁昌記 二編」の解読を続ける。

に云う、国に入れば馳せず。また云う、塵、を出さずと。火に走るに非ざるや。急を報せるに非ざるや。然るに、人をして花を鞍馬間に観せしむ。花をして黄塵裏に没せしむ。甚(ひど)いかな。無情の花、それ、これを何とか謂わん。
※ 礼(らい)- 中国、前漢時代の経書「礼記」のこと。五経の一。
※ 軌(き)- 車の両輪の間の幅。
急を報せるに非ざるや。
※ 鞍馬間に観せしむ - 花見の人群の間に馬が乱入したことを言う。
※ 黄塵(こうじん)- 黄色の土けむり。
※ 裏(り)- 内部。奥。うち。


藩士の爛醉(泥酔)、先生の悪詩、花児絃歌を併せて、並びに、この間の殺風景なり。花児隊々(ゾロ/\)、茶棚循行し、強いて絃歌を鬻(う)り、随(つ)いて来て、落葉を掃くが如し。花を囲みて、花を繞(めぐ)り、茶竈歳に増す。
※ 花児(かじ)-「コジキ」とルビがあるが、「門付け芸人」のことだろう。
※ 絃歌(げんか)- 三味線を弾き鳴らし、歌をうたうこと。弾き歌い。
※ 茶棚(ちゃだな)- 茶店(ちゃみせ)のこと。
※ 循行(じゅんこう)- 順にめぐり歩くこと。
※ 茶竈(ちゃがま)- 茶釜。「茶釜が増す」とは、つまり茶店が増えることを示す。


塩桜花湯は妙に余酲を解き、新製の桜餅は、焼き団粉の古風味を圧倒す。古人もまた言う。団子は花より貴(たっと)しと。(ハナヨリダンゴ)況んや肉をや。況んや酒をや。飢えると銭無きとは、花もまた観るに懶(ものう)し。
※ 塩桜花湯 - 桜湯。塩漬けにしたサクラの花を湯に入れた飲み物。
※ 余酲(よてい)- 酒酔いの残り。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「江戸繁昌記 ニ篇」 73 墨水桜花5

(今年のデコポン)

苗を植えてもうどれくらいになるだろう。今年は植えた2本で40個ぐらい生っているだろうか。もうあと2ヶ月か3ヶ月か、出来が楽しみである。

昨日の寒さの中での雨は止んで、天気は回復した。昨夕から未明にかけての雨は、関東では雪になり、東京でも雪となった。11月に初雪が降るのは、観測史上初めてのことという。この冬は寒さが厳しくなるような予感がする。

「江戸繁昌記 二編」の解読を続ける。

古色の儒人、腰に瓢酒を佩(お)び、冠者の背、行厨(ベントウ)、任(にん)重く、童子六、七、行々(ゆきゆき)、先生の悪詩を詠ず。
※ 瓢酒(ひょうしゅ)- ひょうたんに入れた酒。
※ 冠者(かんじゃ)- 召使いの若者。
※ 童子六、七 - 童子6、7人かと思ったが、6、7歳が正解か。
※ 悪詩(あくし)- 下手な詩。


今様の僧流、身に雨衣(カッパ)を穿(うが)ち(晴天雨衣、台家の通り名)、袈裟は褚して、孌童(ワカシュ)の手に齎(もた)らす。上人頭上、飛花、徒らに黏ず
※ 僧流(そうりゅう)- 僧特有のやり方。
※ 台家(たいけ)- 天台宗の別称。
※ 褚して(ちょして)- 赤くして。
※ 黏ず(ねんず)- 張り付く。


野合娘(カコイモノ)は金夫の遊に従い、田舎爺嬢(ヂヽバヽ)は馬喰坊人に導かれる。一日の、遊々、蓋し百年の性命を延ぶ。子母銭商(カネカシ)もまた、珠盤外の遊を為さざることを得ず。
※ 馬喰坊(ばくろぼう)- 馬喰町。
※ 遨(ごう)- 遊び。
※ 性命(せいめい)- いのち。生命。
※ 子母銭(しぼせん)- 《かげろうの母と子の血を取って、それぞれ別の銭に塗っておくと、一方の銭を使っても、もう一方の銭を慕って飛び帰って来るという故事から》銭 (ぜに) のこと。
※ 珠盤珠外(そろばんだまがい)- 勘定外、または計算外。


(にわ)かに、人群狼狽し、児女滾倒するを見る。一道の黄塵、人(くる)し、花を眯ます鞭珊瑚を揚げ、馬珠玉を噴く。馬乗袴(ウマノリバカマ)、人に跨(またが)り、燕尾披(ブッサキ)空に飄(ひるがえ)る。則ち、何の藩の殺風士輩が狂奔、馬を躍(おど)らすなり。
※ 滾倒(こんとう)- 転がり倒れる。
※ 眯ます(くるます)- 目を細める。
※ 鞭珊瑚を揚げ -唐代の詩人崔国輔の詩に、「遺却珊瑚鞭 白馬驕不行」とある。「珊瑚の鞭を遺却すれば、白馬は驕りて行かず」珊瑚をあしらった鞭は贅沢でおしゃれな鞭である。
※ 殺風(さっぷう)- 興ざめな。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「江戸繁昌記 ニ篇」 72 墨水桜花4

(駿府城公園内のクスノキの巨木)

駿府公園内の南端にあったクスノキの巨木である。もともとあったものではなくて、戦後、公園内に移植されたものと思うが、それからでも50~60年経っている。クスノキなら50年で幹回りが少なくとも50センチは太くなっているだろう。

「江戸繁昌記 二編」の解読を続ける。

児女欣喜戯嬉飢えを忘る。紛々落花と齊(ひとし)く飛び、躚々蝴蝶と共に一様。また見る、宮女の伴を結ぶを。翠袖、霞を披(かぶ)りし、宮髱(シイタケタボ)、雲を簇す
※ 欣喜(きんき)- 非常に喜ぶこと。
※ 戯嬉(ぎき)- うれしそうに遊び戯れること。嬉戯。
※ 紛々(ふんぷん)- 入りまじって乱れるさま。
※ 躚々(せんせん)- ひらひら舞うさま。
※ 一様(いちよう)- 全部同じようすであること。また、そのさま。同様。
※ 翠袖(すいしゅう)- 青緑色の衣袖。
※ 簇す(そうす)- 群がり集まる。集める。


靚粧麗服を競い、を闘わし、各自に窃(ひそ)かに、我れが中老尾上(オノエ)に比す。(某侯女官、隠本鏡山に見ゆ)花を観るの間、肚裏暗に、三外様の男児に撞着せんことを祈る。(優人団十郎、三外と号す)
※ 靚粧(せいしょう)- 化粧して、すっきりと装うさま。
※ 麗服(れいふく)- 美しい衣服を着ること。
※ 冶(や)- なまめかしいさま。
※ 妍(けん)- 美しさ。
※ 中老尾上(ちゅうろうおのえ)- 歌舞伎の演目「鏡山旧錦絵」で、町家上りの中老尾上は、お局岩藤の策略に陥ち、無実の罪を着せられた上、草履で打擲という屈辱を受け自害した。
※ 肚裏(とり)- 腹の中。心のうち。
※ 撞着(どうちゃく)- つきあたること。ぶつかること。
※ 優人(ゆうじん)- 俳優。役者。


また大石義雄に擬する藩士輩(やから)有り。歩々踉蹌、醉いを声妓の肩に扶(たす)けられ、楚声(オクニゴエ)にして歌いて曰う、

   櫻兮櫻兮見詠歌    さくら、さくらと詠歌(うた)われて、
   亂兮亂髪亂如麻    乱るゝ乱髪、乱れて麻の如し。

※ 歩々(ほほ)- 一足一足。一歩一歩。
※ 踉蹌(ろうそう)- ふらふらとよろめくさま。 蹌踉。
※ 声妓(せいぎ)- 歌をうたって酒宴の席をとりもつ女性。うたいめ。
※ 楚声(そせい)-「おくにごえ」とルビあり。地方の藩士だから、お国訛りの入った声の意味であろう。


読書:「継続捜査ゼミ」 今野敏著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

駿府城跡の見学 - 駿河古文書会見学会

(駿府城跡の見学)

昨日、近所の果物屋さんから電話があり、渋柿が入ったがいらないかという。今年は値段も安くて、一箱1200円だという。一箱取っておいてもらい、夕方請取に行った。ちょうど手頃な大きさで43個あった。一個30円なら安い。今朝、半日がかりで干柿に加工して干した。今年はこれで194個加工したことになる。

20日の駿河古文書会見学会の続きである。

「合巻本」の閲覧のあと、静岡県歴史研究会会長の篠原旭氏の案内で、駿府城跡で、日頃誰も注目しない場所を見て回った。


(二の丸堀と本丸堀へ通じる水路入口)

まずは社会福祉会館から二の丸堀端に出たところに、堀がやや広くなったところがあり、内へ通じる水門が開いている。発掘調査によると、その水路はクランク形になっていて、舟は通せないように作られたいた。しかしその先の本丸堀沿いには、駿府城の米倉があったことが解っていて、米を運ぶにはこの水路が使われたことは間違いないと推測され、舟以外の何かを使って運び込んだのだろうと思われる。ただ、現在のところ、その方法は解っていない。


(発掘された本丸堀)

東御門から駿府城跡に入る。東御門とその南の巽櫓は近年再建された。東御門には大きな桝形があり、桝形の出と入に二つの門があるなど、駿府城にとって、大手門より重要視されていた。本丸堀は、南東隅、巽櫓のすぐそばの角の部分が一部発掘されて、石垣の底の部分が出土したままに保存されていた。二の丸堀より内側は、明治29年、陸軍の歩兵第34連隊の誘致に伴い、本丸堀は埋められ、城郭施設は凡て取り壊された。したがって、その時に、この石垣の上部は削られたものである。

二の丸堀の西に架かる橋は、現在は恒久橋だが、往時は刎ね橋だったことが解っている。そのすぐ南に、どの駿府城の絵図面にも描かれている、真っ直ぐな道のようなものがある。東西に三の丸堀、二の丸堀、本丸堀と渡って本丸御殿の庭園まで延びている。これは本丸泉水路で、鯨ヶ池に湧き出した水を聖水としてここまで引いたものと言われている。もともと今川氏の居宅に引かれていたものを、駿府城にもそのまま利用したとされる。これはあまり知られていない事実である。

基本的に、現在の駿府城跡の発掘調査では、家康の駿府城の発掘に留め、その下にあるであろう、今川期の遺構までは発掘はされていない。ただ、一部今川期の遺構も見つかっており、それによると、今川家の居館もほぼ駿府城のあたりにあったらしいこと、また、家康が駿府九十六ヶ町を整備したと言われるが、その町割りの元は今川時代にすでに出来ていたらしいこと、などが解ってきた。

お昼を過ぎて現地で解散になった。会員の方に誘われて、蕎麦屋で昼食をとって帰った。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

合巻本の閲覧 - 駿河古文書会見学会

(庭のシノブの紅葉?)

庭の木陰に何時からあるのか、シノブ(シダ)が石の上に育っている。その石は杣小屋の形に造形されている。シノブがわずかに紅葉しているように見える。

日曜日の駿河古文書会の見学会には、会場の社会福祉会館に30名ほどの会員が集まった。当初、予定していた見学先の都合が悪くなり、急遽決まった見学会で、副会長のN氏が、20代のころ古書店で購入された「合巻本」というジャンルの草双紙を、30冊ほど持参されて、みんなで交換しながら閲覧した。

合巻本というのは、草双紙の一種で、江戸後期、文化年間より明治にかけて流行した、絵入りの大人の読み物である。それまでは、黄表紙と呼ばれた五丁一巻の草双紙で、上、中、下巻など、一篇のものが何巻にもなっていた。それを数冊綴じ合わせて、一冊としたところから、合巻本とよばれるようになった。

黄表紙が読み物化、長編化して、実録・読本・歌舞伎などの影響を受け、挿画にも工夫がこらされて、貸本という形で、庶民に広く読まれたという。閲覧した本も、貸本にされていたもののようで、かなり傷んだものが多かった。

N氏が購入された当時は、そんな値の張るものではなかったという。N氏に、これをみんな読んだのかと聞けば、買ったまま置いてあったものを、今日のために、埃を払い、皺を伸ばして持って来たまでで、まったく読んではいないという。

閲覧しての感想は、字が小さくて、とても寝転んで読めるようなものではない。眼の良い若者たちが読んだのではなかろうか。老眼の眼では、読むに難しそうであった。「合巻本」は、現代でいえば、若い人たちが読む漫画雑誌の劇画のようなものであろうか。

但し、画像を拡大して見れば読めるかもしれないと、中の一冊をネットで画像を検索して、読んでみようと思った。(帰ってから画像が検索出来た「旅硯振袖日記」を、「江戸繁昌記二編」の次に読んでみることに決めた)

見学会で、会員のOさんから「掛川浅間宮」について尋ねられた。記憶の片隅にあったので、自分のブログを探してみると、2014.3.13の記事に、書いていた。社殿が古く、戦前に国宝の制度が出来たとき、その最初に指定されたという、由緒ある建物だった。しかし、戦後になって見直されて、国宝から重文に格下げになったという。参拝した時に興味を引かれたことを覚えている。

読書:「三谷幸喜のありふれた生活 13 仕事の虫」三谷幸喜 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

‟直虎”文学散歩(4) - 掛川文学鑑賞講座

(龍潭寺の前庭のキミノセンリョウ)

‟直虎”文学散歩の続きである。

龍潭寺はずいぶんと賑わっていた。放映まえから、すでに直虎のブームが始まっている。我々のグループに付いた老僧の、本殿前での説明が随分長くて、集中が続かない。どうやら、庭園鑑賞で先が混んでいるので、ここの説明を長くしているのだろうと思った。龍潭寺には何度か来ているので、割愛する。


(井伊家の墓地、左側の5基の五輪塔)

バスは井伊谷宮の駐車場で待っている。順路として、龍潭寺の本殿左手から井伊家の墓地の前を通って、井伊谷宮へ回る道を教わった。井伊家の墓地は、正面に初代井伊共保(右)、22代井伊直盛の墓が並び、左右に5基づつ、五輪塔が並んで、コの字型になっていた。左側の5基の五輪塔は、奥より、直盛夫人、井伊直虎(次郎法師)、23代井伊直親、直親夫人、24代井伊直政の墓だと、案内板にあった。

山道を少し行くと、井伊谷宮の真裏に、宗良親王の墓が土塁に囲まれてあった。宮内庁の管理地で、土塁の中には入れない。


(井伊谷宮)

宗良親王の墓と背を接した形の井伊谷宮に参拝する。御祭神は宗良親王である。由緒によると、宗良親王は後醍醐天皇の第4皇子で、南北朝時代に一品中務卿征東将軍として、この地、井伊谷を本拠に50年余にわたって、吉野朝(南朝)のために活躍した。その間、遠江、駿河、三河、甲斐、信濃、越後、上野、美濃などに軍を進められた。晩年、再びこの地を訪れ、元中2年、75歳で亡くなられた。なお、お墓は一見、山に向いているが、西に向かってたてられたとあり、思いを残す都に向けて墓を作ったものと納得した。

宗良親王は武のみならず和歌に秀で、その一種が歌碑になっていた。

   君が代を 絶えせず照らせ 五十鈴川
     われは水屑(みくず)と 沈み果つとも


井伊谷は来年にかけていよいよ賑わいを見せるであろう。自分が井伊谷を初めて訪れたのは、2年前のことである。同じ文学講座で、「女(おなご)にこそあれ次郎法師」梓澤要著、を紹介されて、読んだあと、息子に同行を頼み、個人的に訪れた。(その帰り、車の中で御嶽山の噴火の速報に接し、驚かされたのは、まだ記憶に新しい。)

2年前には、次郎法師直虎が大河ドラマに扱われるとは、夢にも思わず、それをテーマに選んだ、講師の和久田氏の先見の明には脱帽である。
(‟直虎”文学散歩の項、以上で終り)

読書:「十津川警部 愛と絶望の台湾新幹線」西村京太郎著
「台湾新幹線」に引かれて読んだ。著者も高齢となり、昔のような切れ味が無くなったと思う。台湾をうろうろする十津川警部の行動に、必要性が感じられないし、謎の解明が中途半端で、がっかりさせられる。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ