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鴎外の文学とその影響 - 島田文学講座

(小さな株にたくさんのビオラの花)

島田文学講座も今日で3回目、最終回を迎えた。今日のテーマは「鴎外の文学とその影響」である。鴎外の文学は次代の青年たちに大きな影響を与えた。講師は以下5項目を挙げる。

1.「舞姫」や「即興詩人」のロマンチシズムは多くの読者や若い作家に強い印象を与えた。
2.「舞姫論争」や「没理想論争」など、正面から論争して、論敵を徹底的に攻撃した。文学論争とは何かを実践で示したといえる。
3.「歴史離れ」の小説「山椒大夫」、「歴史そのまま」を徹底した史伝物の世界(代表作「渋江抽斎」)と、歴史小説の二つのあり方を示した。
4.明白な主題を持つ「高瀬舟」などは、芥川龍之介や菊池寛のテーマ小説の先駆けとなった。
5.「渋江抽斎」などに見られる徹底した考証主義は現代の作家たちにも手本となり、強い影響を与えてきた。

一方の旗手、漱石が多くの弟子を持ち、弟子たちが漱石のもとに入り浸りで、仕事にならないと、週に木曜日だけを解放(「木曜会」と呼ばれる)するように限ったといわれるほどであったのに対して、鴎外は直接的な弟子は全く持たなかった。漱石の日常のエピソードは多くは弟子たちによって書き残されているのに対して、鴎外の姿は弟子がいない分、一族の出世頭として、多くの文学的素養のある係累によって書き残された。言い方を変えれば、鴎外はそれらの題材となって、多くの親族を没後も営々と養ってきたともいえる。以下へ親族たちによって書き残されたものの幾つかを示す。

1.実弟、森潤三郎編「鴎外遺珠と思い出」(1933昭和書房)
      同  著「鴎外森林太郎」(1983森北出版)
2.実妹、小金井喜美子著「鴎外の思い出」(1956八木書店)
      同    著「森鴎外の系族」(1983日本図書センター)
3.後妻、森しげ著「あだ花」「波瀾」(1983筑摩書房、明治女流文学集2所収)
4.長男、森於菟著「父親としての森鴎外」(1969筑摩書房)
5.長女、森茉莉著「父の帽子」(1991講談社文芸文庫)
      同 著「記憶の絵」(1992ちくま文庫、「全集」8巻筑摩)
6.次女、小森杏奴著「晩年の父」(1981岩波書店)
      同  著「朽葉色のショオル」(1977春秋社)
      同  著「不遇の人鴎外」(1982求龍堂)
7.三男、森類著「鴎外の子供たち」(1995ちくま文庫)

上記は、鴎外の兄弟、妻、子供に限ったが、それ以外にも傍系などを含めるとまだまだたくさんの鴎外を描いた本がある。

鴎外の最初の妻、登志子は、この明細にはない。登志子は海軍中将男爵赤松則良の長女という名門の出であったが、長男於菟を産んで程なく離別されている。文学的な熱気にあった森家の中で、良家の子女として嫁いだ登志子は、一人浮いていたのであろう。家風に合わない嫁をはじき出してしまう、森一族の結束の固さを改めて感じるエピソードである。
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いよいよ眠い春がやってくる

(次々咲くクリスマスローズ)

午前中に雨も止んで、午後は晴れ間も出て来た。急に暖かくなり、春も近しを思わせる陽気になった。午後、幼稚園バスの停留所へ、まーくんを迎えに行く。10分ほど早く着いて、外はスギ花粉が舞っているから、車内で待機していた。先程から眠気を催していたので、ほんの少しと思い目を瞑った。

窓をトントンと叩く音に目を覚ました。ここはどこだと、瞬間思ったが、すぐにまーくんだと気がついた。目の前に園バスが着いて、園児を父兄に引き渡している。この何日か、迎えに来て、お祝いを言われたりして、まーくんのおじいちゃんと分かっていたので、父兄の一人が起こしてくれたのであった。そのままだと、まーくんは迎えがないものとして、幼稚園まで戻ってしまうところであった。

このところ、朝は8時前に起きて幼稚園に送って行き、午後2時半には迎えに行くことが続いていた。夜が遅い習慣は直らず、寝たりない分、午後イチ位に少し寝るようにしていたが、今日は読書の気が乗って、寝ないまま、まーくんを迎えに行った。午後一番の最も眠くなる時間帯で、この陽気である。少しの油断で寝過ごした。春眠暁を覚えず、夜型の自分にはつらい季節の始まりである。

それでなくても、花粉症の症状が出ると、気分もすぐれない。花粉の飛び方が「多い」くらいなら、目に花粉対策眼鏡をし、ベニフウキを飲んでおれば、何とか症状も出ないで済むのだが、「非常に多い」となると、ベニフウキだけではくしゃみ、鼻水など鼻の症状は止まらなくなってしまう。マスクで花粉を吸い込む量を減らせば、屋外に出ても、何とか鼻の症状は出ないように出来ることは実験済みなのだが、マスクをすると吐く息で花粉対策眼鏡が曇って、前が見えなくなるから、何とも厄介である。今のところ完璧な対策も見つからず、試行錯誤している状態である。

話しは変わるが、1ヶ月余り前に、ブルーレイディスクレコーダーを購入した。もっぱら、2時間推理ドラマを録画して見ている。見ることが出来る時間帯の番組も、録画してみている。再生してみれば、コマーシャル部分をとばして見られるから、2時間ドラマを1時間45分ほどで見終わることが出来る。

最近、録画してみる新たな効用を発見した。録画再生を寝転がって見ながら、ついつい居眠りをしてしまうことが多い。目を覚ますと、ドラマの筋は先へ進んでいて、訳が分からなくなる。そんな時には居眠りし始めたところまで戻って見直せばよいことに気付いた。そんな方法に気付いた結果、行ったり来たりで、2時間ドラマを2時間半ほどかけて見ることにもなる。

3月になれば春が一足飛びにやってくる。つまり眠い日々が続くことになる。女房は早寝早起きを言うが、夜型の生活は改まる気配がない。
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光回線で、「かさぶた日録」を再開

(咲き始めたクリスマスローズ)

光回線が繋がったので、今日から「かさぶた日録」を再開する。

島田市の大井川右岸(西岸)、旧金谷町エリアにも、この春にようやく光回線が引かれて、我が家も光回線に移行した。その手続の中で、プロバイダーの回線変更を忘れていたために、土、日、月と3日間、プロバイダーとの接続が遅れて、ブログも休むことになった。今日、プロバイダーから通知が来て、夕方設定を終え、夜から繋がるようになった。

休んでいた三日間にも、かさぶた日録を覗いてくれた方が、それぞれ196人、151人、197人と、それまでとさほど変わらずにあって、それらの方々には申し訳なかったと思う。書き込む必要が無かった三日間、想像したほどには楽になったという感覚はなかった。それだけ、ブログを書き込むことが日常化していて、身に付いてしまっているのだと、改めて感じた。だから再開にも、抵抗はほとんどなく、今夜もすらすらと書いている。

光回線になった実感はまだ湧かない。ネットへつなぐ速度が少し速くなったと思う程度で、ゲームとか動画を使わない限り、そんなに速くなるものでもなさそうである。夜、息子が帰ってきて、試したところ、20分から30分掛かっていた、10メガバイトほどのデーターが10秒ほどで終わったと、その速さにびっくりしていた。私が使うパソコンが古くて能力がないから、そんなには速くならないのではないかという。いよいよパソコンも新しくする必要があるのかもしれない。

4人目の孫が生まれて、我が家へ来てからはや一週間になる。急に8人家族プラス犬一匹になって、大忙しである。女房は1日飛び回っている。自分もまーくんの幼稚園の送り迎えに、朝夕1時間づつかかり、ムサシの散歩に1時間を加えると、昼間の3時間は費やされてしまう。これはけっこう大変である。お宮参りまで、あと3週間ほど、この状態は続くようだ。

4人目にして、初めての女の孫で、名前の腹積もりはあるらしいが、正式にはまだお披露目がない。午後、かなくんの島田のジイジ、バアバが、お祝いを持ってきてくれ、顔を見て帰った。先日、かなくんの誕生日に名古屋へ出かけたときの写真をたくさん見せていただいた。

まーくんママと女房の4人で話が弾んでいるのを、脇で聞いていると、かなくんの赤ん坊のときの顔によく似ているという話の成り行きで、まーくんママと女房の言い方が、可愛いかなくんに似ていて良かったと言わんばかりの話しになっている。かなくんの島田のジイジとバアバに向けての言葉なんだろうが、かなくんも、まーくんやあっくんと同じ自分の孫なんだから、言い方が少し違うのではないかと思った。
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鴎外の歴史小説 - 島田文学講座

(会場は島田図書館のある、オビリア4階こども館の多目的室、
小さく、子供館の音楽が聞こえていた)

明日より、我が家の回線がようやく光回線に切り替わります。ところが手続きが遅れたために、ネットへ接続までに数日を要することが判明しました。このブログもその間休載となります。ご了解下さい。

島田文学講座の続きである。

明治45年に鴎外は「かのように」という小説を書く。主人公が歴史学者で、日本という伝統や特殊な国家思想や神話が温存されている国において、歴史を研究するものの苦衷を述べている。この頃から鴎外は歴史に取材した小説を志向したと思われる。大正元年、鴎外の歴史小説の第一作は「興津弥五右衛門の遺書」で、明治天皇に殉死した乃木希典夫妻の事件を予見したような作品であった。作品は事件の前に脱稿されていたといわれる。さらに翌年、同じく武士の殉死を扱った「阿部一族」を書いた。「忠興公以来御三代殉死の面々」と題する細川藩に伝わる古文書がもとになっている。

大正5年に書かれた「渋江抽斎」に代表される史伝群を、54歳から5年ほどの間に、新聞に連載した。「津下四郎左衛門」「椙原品」「寿阿弥の手紙」「伊沢蘭軒」「都甲太兵衛」「鈴木藤吉郎」「細木香以」「小嶋宝素」「北条霞亭」がそれである。

それらの作品群について、鴎外は「歴史其儘と歴史離れ」と題して、次のように書いている。

私が近頃書いた、歴史上の人物を取り扱った作品は、小説だとか、小説でないとか云って、友人間にも議論がある。(中略)小説には、事実を自由に取捨して、纏まりを付けたあとがある習いであるに、あの類いの作品にはそれがないからである。(中略)こういう手段を、わたくしは近頃小説を書く時、全く斥けているのである。なぜそうしたかと云うと、その動機は簡単である。わたくしは史料を調べて見て、その中に窺われる「自然」を尊重する念を発した。そしてそれをみだりに変更するのが厭になった。これが一つである。わたくしは又現存の人が自家の生活をありの儘に書くのを見て、現在がありの儘に書いて好いなら、過去も書いて好い筈だと思った。これが二つである。

これは、当時、大いに流行った、自然主義文学を頭に置いて書かれている。そう来たか、といった感じである。鴎外のこの考え方は、ある意味で納得できるけれども、人の人生は何も起きないで淡々と進むのが常で、そのまま書かれては、読むにつらい作品となる。鴎外はさらに続けている。

わたくしは歴史の「自然」を変更することを嫌って、知らず識らず歴史に縛られた。わたくしはこの縛の下に喘ぎ苦しんだ。そしてこれを脱せようと思った。

こうして、歴史から離れて書いた作品が「山椒大夫」で、鴎外は「山椒大夫」の舞台裏を詳しく書いている。安楽死を扱った「高瀬舟」も、同じ系統の小説であろう。
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鴎外の「舞姫」を読む - 島田文学講座

(文学講座会場、島田図書館)

午後、島田文学講座の第2回へ出席した。先週に続いて、「舞姫」を読んでいく。

幕末から明治に掛けて、日本へやって来た欧米人と日本の女性との恋は、「蝶々夫人」や「唐人お吉」に代表されるように、多くの物語を産んできた。「舞姫」はこれらの物語とは逆に、日本から西欧に留学した明治のエリートと、西欧の女性との物語である。明治のエリートたちは西欧へ留学などで出向き、その多くは西欧の女性を現地妻にしていたという。鴎外もその例外ではなかった。同じ留学をしながら、漱石にはそのような影が無かった。しかし、その分、ロンドンで気鬱の病に捕らわれていた。

先週に引続き、「舞姫」のモデル探しが続けられた。作品鑑賞のポイントがそのモデル探しであるといわんばかりの講義内容で、少し違うように思ったが、興味は引かれる。「舞姫」の主人公、太田豊太郎は鴎外自身に間違いないけれども、多くの点で鴎外の人生との違いがある。

その家族構成は多くの点で実人生と変えている。早く失ったとする父はまだ息災であり、一人っ子というが実際は3人兄弟であった。母の死も鴎外が55歳の時で、まだまだ先の話しである。ドイツの恋人エリスはエリス・ワイゲルトという実在の女性で、日本へ帰る鴎外を追いかけて、来日している。但し、エリスの妊娠や発狂などは鴎外の創作である。病状の描写などは医者としての鴎外の面目躍如といったところである。

「舞姫」は帰国途中のサイゴンの港に停泊中の船中で書いたことになっているから、エリスの来日のことは後日談なのだが、来日したエリスに鴎外が会ったかどうかは明白ではなく、解っていることは、鴎外の兄弟たちがエリスに会い、納得させて、問題を起こすことなく、帰国させていることである。

鴎外は一族にとっては出世頭、希望の星であり、スキャンダルで失脚させるわけには行かなかった。封建的な家族制度の名残りをたっぷりと残した明治時代にあって、近代的な自我に目覚めた鴎外も、一族や国家の期待である立身出世を投げ打つことは出来なかった。これは鴎外にとっては、一種の挫折であり、それこそ「舞姫」の創作動機になったものだと思われる。

「舞姫」の主人公は、友人相沢謙吉の諫言と活躍によって、修羅場から抜け出し、復権して帰国の途に着くことが出来た。「舞姫」は最後に次の一文で終わる。

嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり。

鴎外はこのあと、続けて「うたかたの記」「文づかい」という、ドイツを背景とする小説を発表し、「舞姫」と合わせて、ドイツ記念三部作といわれる。
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あっくんの「これ何?」攻撃

(まーくんが通う幼稚園)

本日は、車で掛川へ3往復した。幼稚園までまーくんを送って1回、今日は午前中で帰ると聞いて、11時半には園バスの停留所まで迎えに1回、午後、まーくん、あっくん、女房と4人で、クリニックへ赤ん坊に面会のため1回である。実際には朝、まーくんがマスクを忘れて女房が幼稚園まで軽で追いかけてきたから、我が家としては4往復であった。6度のドライブに、いずれも、あっくんが同行した。

後部座席の幼児用安全座席に座っているから、ずっと顔を見ているわけではないけれども、待ち時間に安全ベルトを外してやると、助手席までやって来た。2歳半で何事にも興味津々の時期で、さっそく、車のパネルを指差して「これ何?」と始めた。「カーラジオ」「これ何?」「クーラー」「これ何?」「灰皿」「これ何?」‥‥‥。これ何と指差されて、とっさに名称が出てこないから、一瞬空いて答える。名前を知る目的から、いつか答えさせるゲームになって、間を置かずに、機関銃のように「これ何?」攻撃が続く。段々、うるさくなって反対にカーラジオを指さして、「あっくん、これ何?」と逆に質問を返したら、ようやく質問攻撃が止んだ。あっくん、狡猾な大人の知恵を侮ってはいけないよ。

まーくんは話すのが早くて、言葉を丸のまま覚えて、適時に再現することに長けて、はじめから大人と会話が出来ていたように記憶する。今から思うと、言葉を主に右脳を使って音楽を覚えるように、一瞬に記憶していたのではないかと思う。

ところが、あっくんはまーくんに比べると言葉をしゃべるのが遅くて、2歳近くなってからようやくしゃべりだした。それも、短い単語を発することからはじまって、ここへ来てずいぶんおしゃべり出来るようになった。しかし、同じ言葉を何度も使うことが目立つ。どうやら、左脳で単語を理解し記憶することから始めて、会話も一つ使って、大人たちの反応から、意味を理解し、記憶として留める、そんな作業を地道に行っているのではないかと思った。

兄弟だけれども、言葉の覚え方が全く違う。スピードはまーくんの方がはるかに速いけれども、言葉の理解という面では、あっくんの方が深いのかもしれない。今後の二人の成長を見て行けば分かるような気がする。

次男のあっくんは、言葉が遅かった分、大人の言葉や所作をしっかり観察していて、必要な場面にティッシュを持ってきて感心されたり、気配りがすごいという。何もしなくても、目立って注目される長男と違って、次男は長男の影で目立たない。注目を集めるにどうあるべきかと、日々大人を観察し、大人が何を求めているか判断し、行動するということが自然と身に付いてくる。この特徴は、世の中の次男が持っている特徴だとも言える。
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まーくんを幼稚園に送る

(赤ん坊のいるクリニック)

今朝、車で30分掛けて、まーくんの通う幼稚園まで、送って行く。幼稚園バスの乗り口まで送ることも出来るが、その方が朝早くなるから、距離的に変わらない幼稚園まで送ることにした。

父兄証明カードが幼稚園より出ていて、それを持参しないといけないらしいが、持たずに出かけてしまった。間違って知らない人に子供を渡さないための、証明カードであるから、送って行く分には問題ないだろうと判断した。

幼児用の補助座席は、まーくんはもう必要なくなった。しかし、子供用の安全ベルトがあるらしく、パパの車には付いているが、付け替えて置かなかった。仕方なく、あっくん用に取り付けておいた補助座席に無理やり乗せた。腰のベルトは何とか回せたが、両肩へ掛けるベルトがもう回らなくなっていた。仕方なく、腰のベルトだけでよしとした。まーくんは文句も言わずに神妙にしている。知らないうちに確実に成長している。

幼稚園が付属しているお寺の駐車場に車を停めて、差した傘に入れて、先に歩かせる。背中には大きなリュックを背負っている。それほど重いものが入っているわけではないだろうが、小さな身体に比べてリュックが大きくて、リュックが歩いているようだ。首には水筒が掛かり、両手にも何やら持っている。今日はお弁当の日だと女房が言っていたから、大きく作りすぎたというおにぎりが入っているのであろう。ふと、家康の言葉を思い出した。「人の一生は重き荷を負うて遠き路を行くが如し」だったか。

幼稚園の門前には、雨の中に園長先生が立っていて、挨拶を頂いた。子供は教室の前まで連れて行き、先生に直接渡すのが決まりだという。なかなかセキュリティが厳しい。昇降口に先生がいて、まーくんの名前を呼んだので、了解を頂いてまーくんを引き渡した。

午後は2時42分に幼稚園バスの降り口まで、あっくんと女房の三人で迎えに行った。子供用の安全ベルトは必ず使う決まりはなくて、大人のシートベルトは小さい子供の首に掛かるので、座布団で座席を高くすればよいと女房が聞いてきて、ふた折りにした座布団2枚の上に座らせてシートベルトを掛けた。

父兄証明カードが見つからないので、それを持たないことを女房が心配する。お産のことは話してあるだろうから、まーくんがおばあちゃんだと言えば問題ないだろう。女房は困ったらあっくんを見せるという。それがどう証明になるのか分からないが。一緒に子供を待つ人におめでとうと言われたという。まーくんは問題なく引き渡された。引き取り手が間に合わないと、そのまま幼稚園まで連れて帰ってくれるという。もちろん、下して終わりというわけには行かないのである。

クリニックはすぐそばだったので、皆んなで赤ん坊を見に行った。あっくんの関心はママがいつ帰ってくるのかという点で、再三、質問をする。答えは、あと三つ寝たらと、昨日より一つ減った。
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4人目の孫誕生、初めての女の子!

(クリニックの新生児室)

昨夜からのことを書く。

昨夜から、掛川の娘が3人目のお産で、1ヶ月、まーくん一家4人(途中から5人に増える)が我が家へ来ることになり、昨夜、お風呂も食事を済ませて、一家4人、たくさんの荷物とともに、7時過ぎにやって来た。息子が買ってきたショートケーキと紅茶で、皆んなで挨拶を済ませたところに、さっそく娘の陣痛が始まってしまった。一週間前から来る予定でいたが、負担を減らそうと1日伸ばしに今日まで頑張ってきたのであろう。3人目で様子が分かっているから出来たことである。早速クリニックに連絡を取り、諸準備をして、10時前に掛川のクリニックに夫婦で出掛けた。

女房がまーくん、あっくんを寝かしつけて、ブログを書いたりしながら連絡を待った。11時前に、一度、固定電話に連絡が来て、まだ待機中だという。携帯の電源が切れているから、入れておくようにと言ってきた。自分の携帯を探したら、リュックに入って、電池切れになっていた。リュックにあったということは、1月末に地蔵巡りをしてから、ずっと入っていたことになる。自分のことながら信じられない。

日が変わって、2時になっても音沙汰がなかった。少し長引いているのだろうと女房と話して、メールを打ってみるという女房を残し、自分は寝床に行った。少し本を読み、眠ろうとしていると、女房が生れたとメールが来たと言ってきた。聞けば12時過ぎに生れたようで、我が家へはすぐに息子にメールで知らせたというが、息子は朝まで寝込んでいて、メールには気がつかなかったようだ。

午後、冬の雨が降る中、まーくん、あっくんを連れて、赤ん坊を見に行った。ガラス張りの新生児室は8人の新生児でいっぱいだった。今だけは少子化の日本の現状を忘れる。男の子にはライトブルーの小さい毛布、女の子には淡いピンク毛布が掛かっていた。男女は4人づつであった。ひと際目立つのが、まーくん、かなくんの妹(名前はまだ無い)である。今未明、0時49分に生まれ、体重は3322グラムであった。

娘の話では、分娩室に入って、出そうなのを、分娩室の準備がまだ整わないからと、少し我慢させられて、一息みで出てしまった、この上ない安産だったと話す。ともあれ、こういう時は、母子ともに健康であることを、まずは喜ぶものである。おめでとう。妹が出来た、まーくん4歳半、あっくん2歳半は、可愛いでしょうと聞かれて、頷くだけで、実感はまだまだ先になるのだろう。

自分にとっては、まーくん、かなくん、あっくんに続いて4人目の孫である。4人目にして初めての女の子であった。これから1ヶ月、まーくんの幼稚園の送り迎えが自分の仕事になるらしい。今日はまーくんパパが休みを取って送り迎えをしてくれたから、明日からの仕事である。
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「徳さんのお遍路さん」と「杏が歩く!恋する東海道」

(庭の沈丁花のつぼみ)

いずれもBSの番組で、「徳さんのお遍路さん」(BSTBS)と「杏が歩く!恋する東海道」(BSJAPAN)という番組が昨日、今日と放映された。

「徳さんのお遍路さん」は運だけでアナウンサー業を渡り歩いてきたと自ら話す、徳光和夫さんが、四国遍路をするという、10月から始まった毎週日曜朝30分の番組である。アナウンサーの中で、もっともお遍路には遠いと思われる徳さんが、ビシッと遍路衣装に決めて、お遍路をする。そのミスマッチが面白くて、毎週録画して見ている。

一見、すべてを歩いて回っているように見えるが、遍路経験者から見ると、ほとんどを車で回っているのが分かる。先週、鶴林寺で次の太龍寺に向かうと言って下山し始めたのは駐車場への道で、遍路道はお寺からすぐに険しい下りの山道となる。今日はロープウェイに乗っている映像があったから、すべてを歩いているわけではないことは判ったが、言葉の端々に歩いて回っているらしく見せているのは、覚悟が悪い。もちろん、お遍路はどんな形でもよいと言われるから、それにはそれほど目くじらを立てるわけではない。

地元の方と立ち話するシーンが多く出てくるが、会話がどこかぎこちない。徳さんにお遍路の自覚がまだないからだろうか。あれだけお遍路姿にビシッと決めていながら、今御遍路で回っているという説明はいらない。お遍路姿を見れば判る。日頃身に付いたバラエティ的な悪ふざけを、サービス精神からか、会話の端々に入れる。相手がタレントであれば、突っ込みも貰えるが、一般の人ではするりと滑る。言葉が馬鹿丁寧なのは、一般の人には、親しみが持てない。その点、鶴べえさんの家族に乾杯は、一見乱暴な言葉遣いに感じるが、見事に一般人の心をとらえている。

「杏が歩く!恋する東海道」は、歴女として知られる女優の杏さんが、念願であった東海道の踏破に挑む番組で、しばらく前に、初回を見ていて、大井川を徒歩渡りするといって、杖一本持って本当に渡ってしまった。これにはびっくりであった。前回が丸子宿から袋井宿まで2泊3日の踏破で、ファッションモデルでもある大股な歩きっぷりには、すべてを歩くという意思が感じられた。

2回目の今回は、吉原宿から丸子宿までである。今回は流れの速い富士川を一人で手漕ぎのボートで渡ってしまった。蒲原宿では古文書を前に目を輝かし、何時間でも居たいと語った。そんな女性を始めてみた。古文書を読む勉強もしているという。「歴女」が流行語大賞でトップテン入りしたときに、その受賞者になったというのも頷ける。ちなみに、尊敬する歴史上の人物が新選組の永倉新八だという。永倉新八は、新撰組の中で、唯一明治まで生き延びて、天寿を全うした男である。彼が残した書物で、敵役でしかなかった新撰組が見直された。しかし、何とも渋い選択である。
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横内川通船一件控え帳 4 - 駿河古文書会

(庭のビオラ、イエロー)

(昨日の続き)
私ども三ヶ村の義は、往古より御城流れ横内川を以って、右地、御田地相養い、滞りなく御年貢御上納仕り、村々永続致し、有り難き仕合わせ存じ奉り候、右養水の義は、四季ともに掛け引き第一の地情にて、別けて冬水不足致し候えば、自然と地劣りに相成り、御上納米も相減じ、百姓ども家業薄く、殊にこの村々の儀は、掘り井戸出来仕らず、百姓ども日用の呑み水に差し支え、一同退転仕るべき基いと、歎かわしく存じ奉り候
※ 退転(たいてん)- 落ちぶれて他の地へ移ること。
※ 基い(もとい)- 原因


かつ又、右川通船の義、往古、権現様御時、御目論見遊ばさせられ候えども、村々御田地用水差し支え、難義の段、申し上げ候えば、仰せ付けさせられず、御止めに相成り申し候記録も御座候、その後、延宝度、安永度、寛政度も願人これ有り、目論見候えども、御田地用水差し障りの廉々申し立て候えば、御止めに相成る、これまで数度の目論見御座候えども、願人御座候に付、村役人相対仕り、御奉行様へ差し障り書差し上げ奉り候えば、御沙汰止みに相成り来たり申し候
※ 廉々(かどかど)- それぞれの箇所。ふしぶし。

然る所、この度の御義は願人これなく、御上様にて御目論見遊ばさせられ候御義に候えば、御見分御役人様方へ、村役人どもより歎願仕り候とも、御取り用いに相成り兼ね申すべきと存じ奉り候間、恐れ多き御儀には御座候えども、御地頭所様方より、その筋に仰せ立てさせられ下し置かれ候て、通船相止め候様願い上げ奉りたく、もっとも通船の義、御上様御規定に御座候て、何方より御田地用水路仰せ付けられ候とも、一旦御堀へ落ち込み、書き上げ奉り候繪図面の通り、御堀水落より御分水仕り候様、厚き御賢慮を以って、仰せ立てさせられ下し置かれたく、願い上げ奉り候

全く養水路悪しく相成り候て、冬水不足致し候えば、次第に地劣り、御取箇筋へ拘わり候は眼前の義に付、右の段、聞こし召し訳けさせられ、村々百姓ども、無難永続仕り候様、御仁恵の御意、願い上げ奉り候
 天保十四卯年六月            沓谷村名主卯兵衛印
                     下足洗村名主彦作
                           甚二郎印
                     当村役人残らず連印
    宮ヶ崎
      御役所
 右の通り、当最寄給々御地頭所へ絵図面添え、六月二日一同差し出し申し候

五日 天気
御勘定様方へ差し出し候願書認め候に付、昼前、彦作様方へ権右衛門、三右衛門、手前参り、御相談申し、昼後より卯兵衛様方へ参り、書付拵え、それより
高橋様へ内見に入れたく、持参致し候処、書付の趣意のみ御聞き成られ候に付、願趣、申し上げ候えば、御延引と申す義は不相成らざる事に申され候に付、願書仕舞申し候故、振替申す積り

六日
願書として書候に付、卯兵衛様方へ、彦作様落ち合い、相談致し、少々直し置き候


横内川を通船路にする御上の意思が固いと考えた、村役人たちの提案は、お堀から横内川へ落ちる場所から用水を取って、川とは別の水路を作ろうとする試みである。横内川に船を通すためには、川を広く深く掘らなければならない。そうなると横内川から水を引くことは困難となる。そのための対案である。この後、続きは来年度に読むことになる。
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