平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
掛塚、磐田市歴史古文書館を訪問する
昨日の朝、掛塚の名倉慎一郎氏から電話を頂いた。見学会に渡した資料が名倉氏の手に渡ったようで、そのお礼の電話であった。この文書のこともあり、一度、お会いしたいと話して、電話を切った。
名倉氏は現在、磐田市歴史文書館(磐田市竜洋支所内)に勤務されていると聞いた。勤務は週に三日ほど、今日は文書館にいらっしゃるというから、思い付いた時に動いておかないと、機会を失いそうで、さっそく電話をして、午後訪問のアポイントメントを取り、昼食後、出掛けた。
想像に反して、名倉氏は大変ソフトタッチな方で、話しやすくて、ついつい長話をしてしまった。講座をやっていると、二時間という単位が身体に刻み付いているらしく、そろそろと感じた時は、ちょうど二時間経っていた。貴重な時間を使わせてしまって、恐縮して席を立つ。
日本には、たくさんの古文書が旧家などに残っているが、いまその古文書がどんどん失われている。しかし、その古文書をどこかへ預けたくても、受け入れ先がない。教育委員会や図書館などに預けようとしても、受け取ってもらえないか、あるいは、受け取っても担当者が替ると所在が不明となってしまうと、古文書の置かれた現状を話すと、県内の市町村で、文書館は、こゝ磐田市歴史文書館だけだと聞く。
話の中で、「日誌」の解読上の疑問点が幾つか解決できて、自分にとっては大変有意義な面談となった。以下、そのいくつかを挙げると、
「丑浜(うしはま)」という言葉がある。土用の丑の日に、水の気に触れるため、川や海で水浴び(水垢離)すること。遠州地区の風習で、それによって、暑い夏を乗り切ることが出来るのだという。「海水浴」という言葉も出てくるが、「丑浜」のことかもしれない。いわゆる「海水浴」のルーツはこの辺りにあるのかもしれない。
「月を踏む」という表現が出てきた。「踏月」は、月の光が照らしているところを踏んで歩くことだと知った。「日誌」には「丑浜」のあと、夜になって月を踏んで帰ったと記されていた。
「十郎島」これも読めなかった地名であるが、かつて天竜川河口近くに十郎島とよばれた中洲があって、村があったが、天竜川の改修で、天竜川本流になり、退去を余儀なくされた村民は、掛塚に集団で移住した。その地名を、今も十郎島という。
「八丁」という名前が「八丁堤」「八丁塩湯」など、出てくるが、天竜川の最河口の東岸を「八丁」と呼ぶ。掛塚の街中から凡そ八丁離れているからだという。
「講事(こうじ)」は、掛塚では、宗教的な講ではなくて、主に、貯蓄・融資などのための相互扶助の講を云う。現在でもそう呼ばれている。
「日誌」をもう少し読み進んだら、また名倉氏の元を訪ねたいと思う。
読書:「蓮花の契り 出世花」 高田郁 著
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掛塚、津倉家住宅の見学 後
(伊豆石造りの蔵)
(昨日のつづき)
津倉家が建てられた明治22年、東海道線が開通し、掛塚は大きな転機を迎えた。天龍材の運搬を、今まで通り水運に頼るのか、鉄道に切り替えるのかという論争が巻き起こった。論争の末、掛塚は鉄道の優位さに屈し、天龍材の運搬を鉄道に切り替えることに決した。
その結果、掛塚湊の水運は衰退し、掛塚で水運業、材木業を営んでいた人達は、天竜川の対岸を東海道線まで遡った、浜松市材木町に工場や拠点を移し、それぞれ製材業に転業して行き、掛塚から川を渡って材木町まで通勤することになった。日誌に「〇材に行く」と毎日のように記され、天竜川が増水すると、「渡船が通わないので、〇材を欠勤する」とあったのは、そのためかと納得した。
大黒柱の二階の部分に、節が一つあり、小さな大黒様の像がその節に埋め込まれていた。大黒柱に大黒様と、昔の大工は粋な遊び心を持っていた。
(津倉家の大黒柱の大黒天)
欄間に細かい細工の格子が嵌っていたので、この辺りにそんな職人がいたのかと聞けば、掛塚湊には船大工がたくさんいて、舟運がすたれると職を失い、建具職人に転職する人たちも多くいたという。
津倉家住宅の見学を終えて、もう一つの見学場所、石造りの旧掛塚郵便局を見に行った。先程、津倉家住宅を案内していただいた方は、掛塚には伊豆石を使った御蔵などがたくさん見受けられる。大火の多かった掛塚では防火の意識が高く、防火の建物が多く作られた。その建材になったのが伊豆石である。
掛塚湊は、天龍材を江戸へ運ぶ舟運が盛んで、回船問屋もたくさんあった。材木を運んだ帰り船は、空荷が多くて、東京湾から相模湾までは、内海のようなものだから、何とか航行が出来たけれども、遠州灘は外海で、喫水線が浅いと船が安定せず、安全な航行が出来なかった。そこで、伊豆の下田湊で名産の伊豆石を積んで、喫水線を深く、船を安定させ、掛塚湊まで帰った。だから、掛塚では伊豆石が安価で潤沢にあった。伊豆石は加工がしやすいので、蔵などの防火対策のために、多くの伊豆石が使われるようになった、と説明された。
旧掛塚郵便局は前面はモルタル壁で化粧されているが、全体が伊豆石を積み上げた建物であった。その裏にも、立派な伊豆石の蔵があった。
午後、歴史講座があるので、後半は駆け足になってしまったが、突然の声掛けにこれだけの仲間が集まる関係を、これからも大切にして行きたいと思った。
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掛塚、津倉家住宅の見学 前
(一般公開の掛塚の津倉家住宅)
一昨日、静岡新聞の記事で、9日に掛塚の津倉家住宅の一般公開があると知った。今、読み進めている掛塚の材木屋さんの日誌に、「津倉亀作」という名前が出て来て、興味を持った。早速、講座仲間のNTさんに連絡して、昨日、午前中に見学に行くことになり、興味を持ちそうな数人に連絡して、たちまち6人の参加者を得た。急な話なので、声掛けが限定的になった。島田からは5人、浜岡のSN氏とは現地で待ち合わせる。
少し迷いながらも一時間ほどで掛塚に着いた。SN氏の到着を待って、津倉家住宅に入る。すでに、思いの外たくさんの見学者が来ていた。周囲では地元の皆さんによる店も出てお祭りのようだ。今日に備えて、解読出来た日誌の冒頭部分をプリントして来たので、受付で渡しながら、金谷の古文書解読のグループだと話す。これから掛塚の明治時代の文書の解読を始めようと思っていると話すと、「名倉先生が喜ぶわ」と、名刺を請われて出した。
名倉慎一郎氏は地元で古文書解読の講座も持つ郷土史家で、掛西の校長さんも勤めた掛塚の名士のようだ。「名倉」の名前は、日誌にも何人も出てくる。掛塚には多い名字だという。
掛塚は、天竜川の河口にあって、材木業、水運業で栄えた湊町である。そんな掛塚にあって、津倉家住宅は、明治22年の建築で、往時の繁栄を残す、ほとんど唯一の建物だという。部屋数が10ほどあって、それぞれに使われている材木は、さすがに天龍の材木の集積地だけのことがあって、様々な良材がふんだんに用いれている。それをボランチィアガイドのおじさんが一つ一つ説明してくれる。最近まで人が住まわれていて、一部住みやすく新建材で改造されてはいるが、基本の材は明治のものである。
掛塚の町は何度も水害にあって、古文書など古いものはほとんど残っていないと聞いていたが、ガイドによれば、水害はほとんど受けていないが、大きな火災には何度もあっているいう。(つづく)
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島田市(旧金谷町)釜谷集落の散策(2)
夜、金谷宿大学役員会。発表会の打ち合わせ。
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(昨日の続き/1月14日の散策)
お不動さんは釜谷の奥、周囲茶畑の真ん中、斜面を石段で登った上にあった。確かに、神社のシンボルとしての鳥居が無い。拝礼の後、お不動さんを拝観した。平らな自然石に線彫りした、素朴な不動明王が坐しました。
(釜谷の不動明王の線刻)
お堂の右手背後に、石碑を見つけた。「義人金兵衛由来」とある。旧仮名遣いではあるが、平文で刻まれて読みやすい。句読点や新仮名遣いなどに少し手を加えたが、ほぼ碑文のまま、以下へ記す。
(義人金兵衛由来碑)
義人 金兵衛由来
通称畳屋金兵衛と云われ、横岡城下(しろした)四五六番地に住み、畳屋
を業(なりわ)いとす。一女ありしが早世、当時、横岡内山の地積を大代
と争い、上に訴えんと名主に計った処、断わられ、金兵衛自ら代
表者となり、一挙にこれを解決せんと、死を覚悟し、江戸へ行く
途中、沼津の石工に命じ、自分と妻と二個の墓石に、各蓮花一
本ずつを刻ませ家に送り、単身直訴し、捕はれ投獄せらる。幕府
は実情調査の結果、横岡の勝訴となりしが、金兵衛は直訴の
罪で処刑せらる。横山家一統らしく、墓は城下、横山家
墓地内にありしが、誰も祭る者も無き故に、金兵衛の祖先の墓
と共に、この地に移し、義人の霊を祭らんとす。
石碑に並んで墓石らしきものが置かれていた。金兵衛さんには跡継ぎも居らず、墓石も荒れるまゝになっていたのだろう。墓石に蓮の花が刻まれていたのかどうか、確認するのを忘れた。
かつて、金谷の石碑について調べていた時、「義人金兵衛」の石碑があることは、何かで読んだ記憶があるが、それがここにあったとは、知らなかった。
不動明王堂の左奥にも、石碑があった。「内山払受記念」と刻まれている。内山といえば、由来碑で大代と争って、金兵衛さんの直訴で勝訴となった土地である。明治になって一度は上地されたものの、その後、村に払い受けたものだと思った。その辺りの事情は、2017-12-23のブログの上知払下げと同じと考える。
不動明王堂の背後、茶畑を上り詰めた先に、石垣のような人工物が見えた。興味を覚え、登ってみた。登りつめたところ、人工物はコンクリートの貯水漕のようで、山と一体化していて、積み上げた石垣のように見えたのであった。農業用水であろうか。マンホールや太いパイプも確認できた。
その用途はともかく、そこからの見晴らしは、なかなかのものであった。真下には、茶畑の広がる中に、馬の背に乗ったような、釜谷の集落が東に向かって延びている。その先の大井川、さらに島田の街から遠くは駿河湾まで見える。左手には、大井川対岸の山々があって、富士山は見えないものの、しばらく見とれていた。
帰りには、竹下の大井八幡神社に寄った。氏神様への初詣でである。しめ縄などが新しくて気持ちが良い。
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島田市(旧金谷町)釜谷集落の散策(1)
今日は一日パソコンの前で、たまった作業をこなした。近頃、向うから興味ある作業の種が降ってきて、一日で出来る作業は限られているから、幾つも溜まっていく。お金にはならないが、嬉しいことなのだろう。
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(昨日の話)
二万五千分の一地図でみると、島田市釜谷の最奥に鳥居のマークがあった。神社があるなら、詣でなければ、と思った。釜谷は車で通ったことはあるが、歩いたことはなかった。お昼を食べてから、それを目指して歩いた。昨日までの寒さも少し弛み、風が無いのが歩きやすい。釜谷は横岡の八幡さんから城の壇へと続く丘と、小さい谷を隔てた北側の丘である。五和バイパスから車道を西へ登って行く。道の両側へ釜谷の集落が続く。集落以外はほとんど茶畑となっている。
釜谷は丘の上に東西に広がった集落で、東から西へ緩やかな坂になっている。谷川からはかなり高度差があるためか、集落のあちこちにコンクリートの貯水槽が作られていた。日蔭の貯水槽では、指で突いても割れない程度の氷が張っていたから、寒さが緩んだとはいえ、結構寒いのであろう。
途中、右手に、東水山宗源寺というお寺があったので、立ち寄ってみた。コンクリと小砂利で敷き詰められて、妙に清々した境内であった。左手の池の半分をせぎ、何やら工事をする人がいた。工事の様子から、ひょっとして水琴窟を造っているのかと思い、何が出来るのかと尋ねた。池を狭めて、坪庭と花壇を造ると聞いた。
(宗源寺の池/河童が釣りをしている)
大代のお寺の水琴窟の話をすると、よく承知していて、「水琴窟は大きな鉢を、底に穴をあけて、ふせて埋める。底は水が自然浸透になっているが、小鉢を置く人もいる。昔は水鉢などたくさんあったが、今はなかなかなくて、新しく作ると20万円以上かかり、水琴窟は高く付く。ここも案の中には水琴窟があったが、池に常時水が音を立てて流れ落ちていて、音を楽しむ水琴窟には向かない」と問わず語りに話してくれた。
そこへ住職が作業の様子を見に来て、どこから来たのかという話から、しばらく話した。その間に、本堂左隣りのお堂は薬師堂であると聞いた。釜谷の奥に鳥居のマークがあり、神社があるらしいので、これからそちらへ回ろうと思っているというと、「この奥には神社はないよ。それはお不動さんだ」という。国土地理院が情報を取り違えたようだ。
(志戸呂焼の窯)
お寺を出て、少し進むと、志戸呂焼の窯(釜)があった。釜谷という地名は、志戸呂焼の窯があったことに由来するという。「大井川地域 まちかど博物館」の標識が出ていたから、案内を乞えば、説明が聞けるかと思ったが、今日はやめにした。(つづく)
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ジャンボ干支、来年は犬
昨日の書き込みについて、読者からコメントを頂いた。「五和西小学校学び舎の地」の碑は、先年取り壊した五和西小の前にあったものとの指摘であった。また山の上にあったのは、大代小学校だという情報であった。
昨日の書き込みについては、すでに、女房から、五和西小学校は山の下に移ったはずと指摘され、どういうことかと思っていた。納得するとともに、それでは、どうして、五和西小学校の碑が、山の上に移されたのか、新たな疑問が発生した。これでは、自分のように早とちりする人が出て来てしまう。
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今朝、快晴無風。9時半ごろ、7回目の島田市の神社巡りに出掛ける。この朝、大代川で見た野鳥。マガモの番い、アオサギ、ダイサギ、コサギ、セグロセキレイ、カラス、モズ、カワセミ。6回目の大代神社の、さらに奥をたどるべく、大代川を遡って歩く。
最初の目標は「大代ジャンボ干支」であった。来年は戌年だから、造られていたのは犬の像である。雌雄の犬は稲わらで、子犬が杉の葉で造られていた。年を追って作像が上手になっている。テントにいたおじさんと話した。
(見本となった秋田犬の焼き物)
まず、この奥の白山神社のことを尋ねたあと、ジャンボ干支について話を向けると、作り始めて24年、最初は未(ひつじ)だった。計算が合わないのは、初めの頃、やらなかった年もあったからで、犬の像は2度目である。この像の犬種は秋田犬、柴犬も同じようなものだが、見本にしたのが、秋田犬だという。脇の見本にした秋田犬の焼き物が中に飾られていた。確かに柴犬にしては体格が好すぎる。
最近の干支はけっこう手慣れて、洗練されてきたけれども、はじめの頃は素朴で面白かったように思う。いつまでも続けていって欲しいけれども、続けられそうですかねぇ、などと、結構いじわるな質問を向けたが、気を悪くすることもなく、最近は若い人も手伝ってくれているから。といっても40代ぐらいだが。まだまだ続けられるという意気込みが感じられた。もっとも、若い人は仕事があるから、休みの日だけ。製作には、一ヶ月もかかるかと聞けば、主に、六、七人で、十日ほど掛かったという。
遠くから来てくれて、この頃も名古屋の人が、これを見るだけのために、高速を使って来たという。群馬の人も高速を使えばそれほどかからないと話していた。新東名が出来て、随分便利になった。高速を降りて10分とかからない。
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駿府城跡の見学 - 駿河古文書会見学会
昨日、近所の果物屋さんから電話があり、渋柿が入ったがいらないかという。今年は値段も安くて、一箱1200円だという。一箱取っておいてもらい、夕方請取に行った。ちょうど手頃な大きさで43個あった。一個30円なら安い。今朝、半日がかりで干柿に加工して干した。今年はこれで194個加工したことになる。
20日の駿河古文書会見学会の続きである。
「合巻本」の閲覧のあと、静岡県歴史研究会会長の篠原旭氏の案内で、駿府城跡で、日頃誰も注目しない場所を見て回った。
(二の丸堀と本丸堀へ通じる水路入口)
まずは社会福祉会館から二の丸堀端に出たところに、堀がやや広くなったところがあり、内へ通じる水門が開いている。発掘調査によると、その水路はクランク形になっていて、舟は通せないように作られたいた。しかしその先の本丸堀沿いには、駿府城の米倉があったことが解っていて、米を運ぶにはこの水路が使われたことは間違いないと推測され、舟以外の何かを使って運び込んだのだろうと思われる。ただ、現在のところ、その方法は解っていない。
(発掘された本丸堀)
東御門から駿府城跡に入る。東御門とその南の巽櫓は近年再建された。東御門には大きな桝形があり、桝形の出と入に二つの門があるなど、駿府城にとって、大手門より重要視されていた。本丸堀は、南東隅、巽櫓のすぐそばの角の部分が一部発掘されて、石垣の底の部分が出土したままに保存されていた。二の丸堀より内側は、明治29年、陸軍の歩兵第34連隊の誘致に伴い、本丸堀は埋められ、城郭施設は凡て取り壊された。したがって、その時に、この石垣の上部は削られたものである。
二の丸堀の西に架かる橋は、現在は恒久橋だが、往時は刎ね橋だったことが解っている。そのすぐ南に、どの駿府城の絵図面にも描かれている、真っ直ぐな道のようなものがある。東西に三の丸堀、二の丸堀、本丸堀と渡って本丸御殿の庭園まで延びている。これは本丸泉水路で、鯨ヶ池に湧き出した水を聖水としてここまで引いたものと言われている。もともと今川氏の居宅に引かれていたものを、駿府城にもそのまま利用したとされる。これはあまり知られていない事実である。
基本的に、現在の駿府城跡の発掘調査では、家康の駿府城の発掘に留め、その下にあるであろう、今川期の遺構までは発掘はされていない。ただ、一部今川期の遺構も見つかっており、それによると、今川家の居館もほぼ駿府城のあたりにあったらしいこと、また、家康が駿府九十六ヶ町を整備したと言われるが、その町割りの元は今川時代にすでに出来ていたらしいこと、などが解ってきた。
お昼を過ぎて現地で解散になった。会員の方に誘われて、蕎麦屋で昼食をとって帰った。
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‟直虎”文学散歩(4) - 掛川文学鑑賞講座
‟直虎”文学散歩の続きである。
龍潭寺はずいぶんと賑わっていた。放映まえから、すでに直虎のブームが始まっている。我々のグループに付いた老僧の、本殿前での説明が随分長くて、集中が続かない。どうやら、庭園鑑賞で先が混んでいるので、ここの説明を長くしているのだろうと思った。龍潭寺には何度か来ているので、割愛する。
(井伊家の墓地、左側の5基の五輪塔)
バスは井伊谷宮の駐車場で待っている。順路として、龍潭寺の本殿左手から井伊家の墓地の前を通って、井伊谷宮へ回る道を教わった。井伊家の墓地は、正面に初代井伊共保(右)、22代井伊直盛の墓が並び、左右に5基づつ、五輪塔が並んで、コの字型になっていた。左側の5基の五輪塔は、奥より、直盛夫人、井伊直虎(次郎法師)、23代井伊直親、直親夫人、24代井伊直政の墓だと、案内板にあった。
山道を少し行くと、井伊谷宮の真裏に、宗良親王の墓が土塁に囲まれてあった。宮内庁の管理地で、土塁の中には入れない。
(井伊谷宮)
宗良親王の墓と背を接した形の井伊谷宮に参拝する。御祭神は宗良親王である。由緒によると、宗良親王は後醍醐天皇の第4皇子で、南北朝時代に一品中務卿征東将軍として、この地、井伊谷を本拠に50年余にわたって、吉野朝(南朝)のために活躍した。その間、遠江、駿河、三河、甲斐、信濃、越後、上野、美濃などに軍を進められた。晩年、再びこの地を訪れ、元中2年、75歳で亡くなられた。なお、お墓は一見、山に向いているが、西に向かってたてられたとあり、思いを残す都に向けて墓を作ったものと納得した。
宗良親王は武のみならず和歌に秀で、その一種が歌碑になっていた。
君が代を 絶えせず照らせ 五十鈴川
われは水屑(みくず)と 沈み果つとも
井伊谷は来年にかけていよいよ賑わいを見せるであろう。自分が井伊谷を初めて訪れたのは、2年前のことである。同じ文学講座で、「女(おなご)にこそあれ次郎法師」梓澤要著、を紹介されて、読んだあと、息子に同行を頼み、個人的に訪れた。(その帰り、車の中で御嶽山の噴火の速報に接し、驚かされたのは、まだ記憶に新しい。)
2年前には、次郎法師直虎が大河ドラマに扱われるとは、夢にも思わず、それをテーマに選んだ、講師の和久田氏の先見の明には脱帽である。
(‟直虎”文学散歩の項、以上で終り)
読書:「十津川警部 愛と絶望の台湾新幹線」西村京太郎著
「台湾新幹線」に引かれて読んだ。著者も高齢となり、昔のような切れ味が無くなったと思う。台湾をうろうろする十津川警部の行動に、必要性が感じられないし、謎の解明が中途半端で、がっかりさせられる。
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‟直虎”文学散歩(3) - 掛川文学鑑賞講座
朝一番で、当班が地区の宮掃除の当番に当り、出向いた。秋のお祭りの終わった後で、もっぱら、落ちた枯れ葉の掃除をした。落葉樹ではないけれども、照葉樹もけっこう葉を落す。新陳代謝しなければならないから当然なのだが、竹ぼうきで玉砂利の上を掃きながら、そうなんだと改めて思う。
一昨日、駿河古文書会で通った、城北公園では、風が吹くわけでもないのに、ケヤキの枯れ葉が、雪でも降るように、下を歩く身体に降り注いでいたのを思い出す。もちろん地面は枯れ葉で敷き詰められていた。すでに掃除の作業車が入っていたが、これを掃くのは大変だろうと同情した。
宮掃除は一時間は掛かると思い、皆さんより少し早めに仕舞わなければと考えていたが、存外に早く終わってしまった。そのあと、予定の駿河古文書会の見学会に、静岡へ出掛けた。会場の社会福祉会館には、10時の集合より随分早く着いた。(見学会の話は後日)
‟直虎”文学散歩の続きである。
井伊谷城跡から下る。登りと違って下りは楽である。会員のY氏と元気よく下った。途中の分かれ道で来た道とは別の、二宮神社へ通じる道を下った。講師の和久田氏より、分かれ道を下り、二宮神社へ訪れることを勧められていたので、行ってみた。
(二宮神社)
下った所に二宮神社はあった。かつては、井伊郷の荘司、三宅氏の始祖多道間守(たじまもり)を祭神とし、三宅神社と呼ばれていた。井伊城を拠点に、中部、関東の諸国に活躍した、後醍醐天皇の皇子、宗良親王が当地で亡くなったあと、その尊霊をこの三宅神社に合祀し、以後、この二柱を祭神として、二宮神社と呼ばれるようになったと、神社の由緒にあった。
地元の方に尋ねながら、集合場所の図書館に戻る途中、「井殿の塚」に寄った。玉垣に囲まれた狭い矩形の地に、タブノキの大樹と、小さな2基の宝篋印塔が立っていた。「井殿の塚」は、直虎の祖父21代直宗の弟、直満(直政の祖父)と直義を供養したもので、井伊氏居館の一画にあったという。直満、直義兄弟は、井伊家の家老、小野和泉守の讒言により、謀反の疑いをかけられ、駿府で今川義元によって殺害された。井伊氏一族の苦難の歴史、その始まりの事件であった。
(共保出生の井戸の橘)
この後、龍潭寺へ移動、最初に井伊氏初代共保出生の井戸を訪れた。訪れるのは3度目だろうか。そばに橘(ミカン)の木があり、キンカンより少し大きいくらいの、小さい実をたくさん付けていた。訳知りの会員が、この実は江戸時代には収穫して、彦根城の家臣たちに、縁起物として配られたと説明があった。もっとも橘の根元にはライオンズクラブ植樹との表示杭があり、もちろんこれがその橘というわけではない。(つづく)
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‟直虎”文学散歩(2) - 掛川文学鑑賞講座
午後、駿河古文書会に出席する。
‟直虎”文学散歩の話を続ける。
直親の墓の見学の後、気賀関所に寄った。関所自体、江戸時代に設けられたものであり、ここで直虎の関連する何を見ればよいのか不明だったが、時間がたくさん取ってあったから、隣の図書館に見るべき展示が何かあったのかもしれない。しかし、あいにく図書館は図書整理か何かで休館であった。気賀関所は何度か来たことがあるが、70歳以上は無料であった。年を取ることの利点をここにも見た。
(渭伊神社の天生杉)
続いて、渭伊神社に向かう。引佐町井伊谷字天白に位置する。往昔より渭伊二十七郷の大産神であった。井伊家の産神としても尊崇されていた。昔は龍潭寺境内にあったというが、南北の兵乱の時、この地に移された。本殿前には御神木「天生杉」が、枯れて倒れた古杉をつっかい棒のようにして立っていた。樹齢は300年位であろうか。
渭伊神社の背後の小山には、天白磐座(いわくら)遺跡があった。こんな巨大な岩々がこの地にどうして存在するのか。古代の人々が神の依代とした気持が、現代でもなお感じられる磐座であった。発掘調査では古墳時代から平安時代まで、連綿と続いた祭祀場であったことが、遺物によって解明されたという。渭伊神社がこの地に遷されたのも納得される。
天白磐座遺跡のあと、井伊谷城跡に向かう。バスを図書館のそばに止め、15分ほどの山登りである。久し振りの山登りに、かなりきつい。途中設けられた2ヶ所の休憩処で休み、息を整えながら行く。2度目の休憩で、この講座の講師の和久田氏と少し話した。お遍路で1500キロ歩いて、その時は毎日この位の山を幾つも越えて来たのだが、久し振りの山登りでけっこうつらいと話す。和久田氏には前に自分のお遍路の本を差し上げてあるのだが、そこへ話題が及ばなかった。忙しくて目を通している暇が無かったのだろうと、少しがっかりした。
(井伊谷城跡)
皆んなあちこちで昼食をとる。自分も和久田氏と同じベンチで持参おにぎりを食べた。井伊谷城跡は前に来た時と何も変わらず、何も無かった。ただ、展望デッキが出来、案内板が新しくなっていた。
参加者の一人が和久田氏に質問をしていた。日常は下の居館に住んでいて、戦時は三岳城を本城としていたとすれば、この井伊谷城はどんな時に使われたのだろうか。少しニュアンスは違うが、そんな質問だったのだろう。なかなか答えにくい問題で、明確な答えは無かった。おそらく、日常、井伊谷城と下の居館は併用されていたのであろう。例えば、プライベートは居館で、公式の時は井伊谷城でというように。まあ、来年の大河ドラマでどう描かれるのか、注目してみよう。(つづく)
読書:「夜行」森見登美彦著
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