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宗祇終焉記2 文亀元年 鎌倉-越後

(土手のカラシナの花)

土手のカラシナが今年も花を付けた。大代川の改修は3月中に完成というが、渇水期のはずがこのところ周期的に雨が降り、増水して、そのために工事は中断するらしく、作業が一向に進まない。この周期的雨は、靜岡以外の地域では大雪をもたらしてきたことは言うまでも無い。

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昨日の書き込みで、最初の場面で自分の理解に間違いがあったので、訂正しておいた。この旅で、駿河から宗長が宗祇に同行したわけではなくて、正しくは、越後に滞在している宗祇に、宗長が逢うために訪れるところから、話が始まる。したがって、越後までの旅は従者などはいたかもしれないが、基本的に宗長の一人旅である。それでは、宗祇終焉記の解読を続けよう。


山々のたゝずまい、やつ(谷津)/\のくさ(草)/\、いわば筆の海も底見えつべし。ここに八、九年のこの方、山の内、扇の谷矛楯の事出来て、凡そ八ヶ国、二方にわかれて、道行く人も容易(たやす)からずとは、聞こえしかど、こなたかなた知るつてありて、武蔵野をも分け過ぎ、上野を経て、長月朔日頃に越後のこうにいたりぬ。
※ 山の内、扇の谷 - いずれも鎌倉にある地名。
※ 矛楯の事 - 戦いを意味する。こゝでは「明応の政変」のこと。明応二年(1493)に起きた、足利将軍廃立事件で、これを戦国時代の始まりとする説もある。
※ 長月朔日(ながつきついたち)- 陰暦九月のついたち。
※ 越後のこう-「こう」は国府と書く。越後の国府は現在の上越市国府。「国府」は「こう」とも読む。


宗祇見参に入りて、年月へだゝりぬる事など、うち語らい、都へのあらましし侍る。折しも、ひな(鄙)の長路の積りにや、身にわずらう事ありて、日数になりぬ。
※ 身にわずらう事 - ここで煩ったのは宗長であろう。

よう/\、神無月廿日あまりに、おこたりて、さらば、など思い立ちぬるほどに、雪風激しくなれば、長浜の波も覚束なく、有乳の山もいとゞしからむという人ありて、かたのようの旅宿を定め、春をのみ待つ事にして、明かし暮らすに、大雪降りて日頃積りぬ。
※ 神無月(かんなつき)- 陰暦十月。
※ おこたる(怠る)- 病気がよくなる。快方に向かう。


この国の人だに、かゝる雪にはあわずと侘びあえるに、まして耐え難くて、ある人のもとに、
   おぼ(思)いやれ 年月なるゝ 人もまた あわずと憂う 雪の宿りを

かくて、師走の十日巳刻ばかりに、地震大きにして、まことに地をふりかえすにやと、おぼゆる事、日にいく度という数をしらず。五、六日うち続きぬ。人民多く失せ、家々ころび倒れしかば、旅宿だに定かならぬに、また思わぬ宿りを求めて、年も暮れぬ。
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