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再びの巨木巡礼 5 梅地のタブ

(梅地のタブ/倒失)



昨日(8月30日)、第3回目の「再びの巨木巡礼」に女房と出かける。行き先は、町民全体がすでにコロナのワクチン接種が終わり、静岡県一、コロナ感染者累計の少ない川根本町である。少し遅掛けだが、11時前に出発。とにかくひたすらに大井川の奥を目指す。

最初に目指したのは接阻峡温泉にある「梅地のタブ」である。しかし、残念ながら失われていた。今は冒頭写真のように、ひこばえや雑木に被われて根元もよく見えない。奥に残っていた一枝も、枯れてしまっているのが、写真右側に写っている。

(在りし頃の梅地のタブ/平成10年6月6日巡礼)

「巨木巡礼」では「梅地のタブ」について以下のように記している。

『わが町わが村自慢の木』に、本川根町(現、川根本町)の木として紹介されていたので、早速見に行く。本川根町千頭から井川へ向かう道を、工事中の長島ダムを過ぎて、接岨峡温泉へ下る。目的のタブは橋を渡ったすぐの『タブの木の宿』と看板の出た民宿の裏山にあった。

民宿に被さるように、苔と宿り木に覆われた古木があった。地上1.5mほどで二本に分かれた主幹の山側の一本が朽ちて切られ、蓋がされている。また残った幹も、4mほどの高さの太い枝が折れたためか、切られて蓋がされている。恐らく内部の空洞化はかなり進んでいるのであろう。
  
本川根町梅地は500年ほど昔、京都の梅津の里より移り住んだ、筑地氏により開かれたといわれている。このタブの木はその筑地一族の守護神でもあったようだ。

見覚えの『タブの木の宿』に車を乗り入れて、人影の見えた奥の住宅へ声を掛けると、年配の夫婦が出て来て、主人が「タブは幹が折れて倒れてしまった」と問わず語りに、「あれは、平成29年、爆弾低気圧に襲われた夜、倒れて、朝、発見した。夜中、倒れる音には全く気付かなかった。根元が空洞化していたので、強風に煽られ、捻じれるように倒れたのだと思う。」と話す。

枝が地上に触れんばかりに垂れ下がっていたというから、おそらく、倒れた音は風の音に紛れてしまったのだろうと思った。主人の口調には、亡くなった身内の年寄の最期を語るような雰囲気があった。このタブノキは「静岡県の巨木153 」にも入っておらず、天然記念物にも指定されておらず、人でいえば市井で生涯を終えた無名の人である。

平成10年の記録では、樹種タブノキ、幹周囲6.2m、根元周囲8m、樹高     20m、樹齢1500年とあった。「樹齢1500年」は盛り過ぎであろう。別の場所に、同じ木の種から育ったタブノキが大きく育っているとも聞いた。そういえば、『タブの木の宿』の看板も無くなっていた。

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今朝、久し振りにOさんから電話があり、一枚、古文書を解読してもらいたいとの依頼があった。明日頃に古文書が郵送で届くようだ。
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「雲渓庵日記」の解読 54


(高天神城追手のスギ/8月27日撮影)

(「再びの巨木巡礼」余禄)
掛川市指定天然記念物なるも、幹回り3メートル以上の、巨木には至らず。(目通り2.6メートル)「城跡に巨樹なし」といわれる。山城は見通しを良くし、不意の敵襲を防ぐため、ことごとく樹木は伐採されて、城の材料などに使用された。どんな木も、落城、廃城後に育ったものだから、なかなか巨木は見つからない。なお「城跡に巨樹なし」とは、私が勝手に作った言葉なので、どこかの文献に書かれているわけではない。

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「雲渓庵日記」の解読を続ける。

用紙廿分     竪て、曲尺八寸
――――――――――――――――――――――――――――――
  養子の御方は養祖父・父方
  宿所            祖父 何の誰 勤めか
  元高            父 何の誰  勤めざるか
  この扶持何程 静岡勤番組頭支配何等 何の誰
                    巳歳何
  何年何月幾日、父・養父か、家督頂戴か、下し置かる―――
  ―――――――――――――――何年何月幾日、静岡勤番組
  の頭支配、罷り成り候か。貸廈か、又は自分普請か、相対
  替えかにて、静岡勤番組の頭支配罷り成り候。
――――――――――――――――――――――――――――――
※ 貸厦(たいか)➜ 借家。

――――――――――――――――――――――――――――――
            静岡勤番組頭支配
  元高何程       何等勤番組
       ㊞      何の誰
  この扶持何程        巳歳何
    宿所           家族何人
――――――――――――――――――――――――――――――
      竪て、四寸五分

半紙弐分折り
  元高          何等勤番組
  この扶持         何の誰
   宿所           巳歳何
家族人数
家族の内
東京何所、何役、何の誰へ預け置くか。
元知行所、何国何郡何村、武士・百性、誰、預け置くか。
 一 祖父          何の誰
   父             巳何才
 一 祖母   何州か    何の誰娘
   母             巳幾つ
 一 妻    〃      〃
   同
 一 実子惣領        何の誰
                 巳歳何
 一 次男          同
 一 娘             巳幾つ
    但し、余、右に順じ御認め
右の通り御座候、以上。
  巳何月            何の誰 印

巳十一月十三日、河野右郎殿御渡し。
       政事庁掛りへ
近来、無刀にて乗馬の者これ有り。右は素より士族の輩にてこれ有りまじく候えども、郷附その地の者ども、兵隊に紛らわば、右体の所業致し候者これ有るやに相見え、如何事(いかなこと)に付、向後、心得ざるの輩これ無き様、その主宰により、屹度取り締り致すべき事。
   十一月               太政官
※ 如何事(いかなこと)➜ どうしたこと。思いもよらぬこと。とんでもないこと。あきれたこと。
※ 屹度(きっと)➜ 急度。話し手の決意や確信、また強い要望などを表す。確かに。必ず。
(「雲渓庵日記」の解読つづく)

読書:「離縁状 知らぬが半兵衛手控帖 8」 藤井邦夫 著
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再びの巨木巡礼 4 垂木の大スギ


垂木の六社神社

朝、予定されていた町の避難訓練は中止となり、合わせて区の訓練も中止となった。コロナ禍は地震災害を越えたようだ。ひたすら身を縮めて、ワクチン接種が進むのを待つしか、なさそうだ。


(一昨日、事任八幡宮の続き)
掛川バイパスの大池の出口を下りて北へ進み、掛川市の下垂木と上垂木の境辺り、県道沿いに馬場と呼ばれる緑地がある。今でもお祭りに流鏑馬が行われると聞く。馬場の手前を左(西)に折れて、右(北)へ曲って六社神社に至る角に大スギがある。通り過ぎて、先に、小山の上の六社神社へ参拝する。

神社の案内板に、江戸時代後期の地誌「掛川誌稿」からの引用として「下垂木六所大明神、二之谷という所の山にあり、雨桜天王の脇宮と称し、祠官の徒、仕える上下の差なく、東南の田野の中に馬場あり、左右に松樹を植えてある」と記されていた。


垂木の大スギ(静岡県の巨木153/№31) 

平成8年9月28日「巨木巡礼」時の大スギ

角の大スギまで戻る。垂木の大スギについて、「巨木巡礼」(1996 .9.28)には次のように記している。

上垂木の六所神社の参道の入口、今では住宅地の中の公会堂の後ろに垂木の大スギはあった。六所神社の御神木である。神社の境内でなかったために、いつか住宅に囲まれてしまい、公民館建築のために下部の大枝を切られ、足元までアスファルト道路に迫られて、大変厳しい環境下にあったが、けなげに生き延びていた。

昭和55年、掛川市の天然記念物に指定された巨木である。案内板によると、高さ18メートル、幹回り4.5メートル、根回り6.7メートルの巨木で、天明8年(1788)の古絵図に、この大杉が村境、及び、六所神社への道標として描かれているという。その頃から根元に、大人が立って入れるほどの空洞があったと伝わるから、樹齢は400年以上はあるだろう。

23年前の写真と比べて、公民館建築のため枝が切られたというあたりに緑が増しているが、よく見ると葉が違うから、寄生木が植生しているのだろうと思う。
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再びの巨木巡礼 3 事任八幡宮の大クス


事任八幡宮の境内/奥に大クスが見える




事任八幡宮の境内は、ずいぶん明るくなった印象であった。その訳は、山側に大きな木の根株が安置され、その案内板で知れた。境内の中央にあって、夫婦杉と呼ばれた一対の杉が、平成30年の台風24号により倒木したのだという。明るくなった境内には、何本か、杉の苗(たぶん)が植えられていた。

事任八幡宮の大クス(静岡県の巨木153/№120)


平成6年10月9日「巨木巡礼」時の大クス

「巨木巡礼」時と同じ、石段の上、本殿前から撮った。ほとんど違わない姿を保っている。ただ、大クスの周りは柵で囲われていた。案内板には目通り6メートル、樹高31メートルとあった。「目通り」は「幹回り」、あるいは「幹周囲」ともいう。「巨木巡礼」時は、「幹周囲5メートル、樹高30m」だったから、まだまだ成長している。「巨木巡礼」(1994 .10.9)では次のように感想を記している。

大クスは境内中央本殿前にあり、根の張り具合が良く、まだまだ勢いがある。太い枝が1本南へ伸びてバランスが悪く感じた。
 
柵で囲われた中、一ヶ所から大クスに触れる
そんな配慮がうれしい

読書:「居合の女 はぐれ長屋の用心棒 48」 鳥羽亮 著
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再びの巨木巡礼 2 事任八幡宮の大スギ


事任(ことのまま)八幡宮/右に大クス、大スギは石段上の本殿右手奥。



午後から「再びの巨木巡礼」で、女房と掛川方面に行く。まずは、日坂の事任八幡宮に参拝した。「巨木巡礼」では、1994年10月9日の記事に、事任八幡宮について、次のように書いている。

掛川市日坂の国道1号線沿いで、筆者は通勤で毎日のように前を通りながら、この森に巨木があることは気にも留めていなかった。事任八幡宮は延喜式に記載があるほど、昔から街道筋にあった古いお宮で、『枕草子』にも名前が見られる。『枕草子』の第二百二十六段に、「社は、‥‥ 言のままの明神、いと頼もし。」と書かれている。(『枕草子』はその後に、「さのみききけんとやいはれんと思ふぞ、いとをかしき」と続く。)

久し振りに訪れた事任八幡宮は、すっかり様変わりしていた。往時は祭礼でもない限り、参拝する人もいない寂しい境内に、大スギと大クスが場違いに目立っていた。その後、神社側の努力も大きかったのだろう、パワースポットになって参拝者が激増、諸施設もきれいになり、そばに食事処も出来た。だから、この猛暑の中にも、ちらほらと参拝者が見られた。


事任八幡宮の大スギ(静岡県の巨木153/№30)


平成6年10月9日「巨木巡礼」時の大スギ

参拝後、本殿右奥にまっすぐに立つ大スギを仰ぐ。天に伸びた幹は神々しく、まさに天を支える柱に見える。

案内板によると、「樹高36.5メートル、目通り6.3メートル、根回り11.2メートル」とあった。昭和55年に、掛川市の天然記念物に指定されている。樹齢はあとで、社務所で1000年から2000年と聞いた。社歴からすればその位は当然だが、樹勢から考えると、かなり盛り過ぎと感じた。「巨木巡礼」では次のように感想を書いている。

石段を上がった本殿右の御神域に素性の良い大杉があった。御神木で切られることはないだろうが、良い柱が取れそうである。柵が開いていたので、中に失礼して、幹に触って精気を頂いて来た。

社務所で御朱印を頂いた。



(「事任八幡宮」の項、明日へ続く)

読書:「急報 聡四郎巡検譚 5」 上田秀人 著
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再びの巨木巡礼 1 熊野神社の大クス(島田市牛尾)


熊野神社の大クス/島田市牛尾、牛尾山
奥に熊野神社が見える。「疾病終息祈願」の幟り旗も見える。

永年御世話になったプロバイダーを移ることになり、四半世紀前に「巨木巡礼」と命名して始めた、個人的なホームページで、長く手付かず状態だったものを、終了することになり、この頃、そのデーター保存をしていて、思い付いた。

あれから20年以上経つ間に、その巨木たちがどうなっているのか、再訪してみるのも面白そうである。

バブルがつぶれても、大震災があっても、コロナ騒ぎがあっても、巨樹、巨木は大地に根を張り、びくともしない。いや、何があってもその場から逃げ出せない運命にある。高々100年の人の命をはるかに越して、何百年、数千年とその場で生き続けている。

そんな巨木たちも、かって経験したことのない、この急速な気候変動には難渋しているのではなかろうか。マツクイムシにやられたり、大風や土砂崩れに倒れたり、人に嫌われて切られたり、この四半世紀の短い間にも、消えていった巨木の話も伝わってくる。

以前に訪れた記録と照合しながら、そんな巨木たちを再訪してみようという計画である。県外に出ることは憚られるから、先ずは静岡県の近場から始めてみよう。ほとんど車で移動し、目的の巨木にたどり着いても、観光客がいるわけではないから、三密はもちろん、一密にもならない。今時の旅の遣り方かもしれない。



この題字はホームページに使っていたものである。当時、取引仲間の人に作成していただいたものである。今回もそのシンボルマークとしよう。

「巨木巡礼」を始めた経緯について、HPに以下のように書いている。

平成4年9月、会社の先輩と縄文杉を見に屋久島へ行った。4時間の歩行の間に、たくさんの屋久杉を見て、その大きさに驚いたりあきれたり、そして縄文杉に会った。森の中で、他のどの屋久杉よりも、桁外れに巨大に生きていた。まだ若々しい木肌の、壁のような幹に触ると、数千年生きてきた巨木から、命が流れ込んで来るような、不思議な感覚に打たれた。
 

縄文杉
その後、図書館で、静岡県の巨木を調査した本を見つけ、静岡県内にも巨木がたくさん存在することを知った。その本の中で、代表的な巨木として、写真と地図が付いた153本の巨木について、早速、所在地を国土地理院発行の2万5千分の一地図に落とし、会社の先輩3人に呼びかけた。「巨木を見に行こう!」と。
(注)あの当時、まだ世界遺産にもならない時で、縄文杉の側まで行けて、触ったり抱きついたり出来た。今では遠くから眺めるだけで、我慢しなければならないようだ。

さて、思い付いたが吉日と、昨日の午後、先ず「熊野神社の大クス」を女房を誘って、見に行った。自宅から散歩で寄ったこともあるお馴染みの巨木である。

当時、自分だけの巨木、「MY巨木」として、このクスを勝手に決めていた。誰にことわることもない、自分だけの約束事である。あまり流行ることはなかったが、苦しい時に逢いに行けば勇気がもらえる巨木として、全国でどれだけの人が「MY巨木」 を持っているだろうか。調べてみたい気もする。


熊野神社の大クス/島田市牛尾、牛尾山


平成8年11月30日「巨木巡礼」時の大クス

この大クスは巨木巡礼の当時、静岡県の巨木153にも入っておらず、天然記念物指定もなかった。その後、平成13年に、市指定天然記念物になっている。以下、「巨木巡礼」(1996 .11.30)から引用する。

金谷町の北部の大井川沿いに小高い台地-牛尾山がある。遠目にも一叢の木立ちが見える。大井川岸から登ると、茶畑の中に熊野神社はあった。樹高50mの楠は社叢から突き抜けて高かった。

社殿の前を塞ぐようにそびえていた。このクスノキは静岡県の153本の巨木には入っていない。太さでは34本のクスノキ中、16番目に当たる。何よりも樹高50mはダントツの1位である。次が35mだからすごい。自宅に近いひいき目ではなく、巨木に入っていないのはおかしいと思う。だから番外として取り上げることにした。

平成13年、市指定時の案内板に、「樹高35メートル、幹回り11メートル、枝張り37メートル、樹齢400年以上」とあった。幹回り11メートルは根廻りの間違いだと思う。島田市博物館のHPには「根廻り11m」と記されているが、幹回りは記されていない。幹回りは「巨木巡礼」では、8.5メートルとある。一度、測り直してみるか。(幹回りは、地上120から130cmの辺りの太さを示す)

近くに、牛尾山を貫通するように新東名が通り、新東名の向うには工業団地が出来るという。また、いつの間にか、境内手前左手の樹木が切られ、砂利が敷かれて駐車スペースが出来ていた。その分、明るくなって写真が撮りやすくなった。ただ、クスの脇に楕円形にロープが張られ、枯れた枝が落下の注意書きがあった。環境の変化で、このクスがいつまでこの樹勢を保てるか、少し心配になった。

どこまでも根が拡がる
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「雲渓庵日記」の解読 53


(裏の畑のケイトウの花)

ついにハリハラ塾の講座も、宣言中の全講座が中止になり、9月の講座が中止になった。残念だが仕方がない。

午後、牛尾の熊野神社に、女房とクスノキを見に行った。講座がいくつも中止になって、出来た暇に、「巨木巡礼」を再開しようと思い付き、その最初に「熊野神社のクスノキ」を選んだ。記事は明日からとする。

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「雲渓庵日記」の解読を続ける。

宿所方 本通り、町中の通り       頭取  佐藤銓吉
同   下石町三丁目常岩寺上宿     世話役 登娪 窟
同   江川町通り、虎生青方会所内   同   最上陣内
同   北安東村地蔵堂         同介  大森面七
同   川井新田村上ヶ土、与五右衛門方 同   足立覚造
同   人宿町三丁目          同   田村義太郎
同   新通大工町、吾妻屋治平方    同   原田静一
同   南家村、百姓永八方       同   奥留鎗五郎
なお以って、明細短冊三枚、印紙小札三枚、御家族書壱枚、別紙雛形の通り、御認め、廻状御到来次第、御遅滞なく、御差し出し成さるべく候。かつまた、拙者ども宿所、手狭まに相成り候間、諸事御引合いなどは、政事庁調所において、御引き合い致すべく候間、左様御承知成さるべく候。
一 御頬(領?)内規則等之儀者追々御達可申候以上。
(「雲渓庵日記」の解読つづく) 

読書:「遺言状 新・問答無用 3」 稲葉稔 著
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「雲渓庵日記」の解読 52


(風鈴が鳴っている!)

朝、起きて気付いた。風鈴が鳴っている。我が家に風鈴が鳴るのは何年ぶりだろう。

8月7日、区長の仕事で、区のお年寄り居場所の集りのお世話で参加していた。この日のテーマは七夕飾りの制作。まず絵が描ける風鈴に、皆んな思い/\に絵を書いて、七夕飾りにするという。年齢は十分参加資格があるからと、自分にも風鈴を渡された。尻込みするほどのことではないから、簡単にスイカ、バナナ、サクランボの絵を書いた。一週間、センターに飾られて、先週土曜日にわざわざ持って来て頂いた。渡すつもりの次回の 居場所の集りが、コロナの特別警戒宣言で中止になったためである。

そんなわけで、我が家にやって来た風鈴が、心地よげに鳴っている。長雨が止んで、吹いた風には、早や秋の気配があった。

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「雲渓庵日記」の解読を続ける。

一 御警衛相勤め候者へ、御手当て下され候に付、別段、御賦(くば)りは下されず候間、その心得を以って、弁当用意これ有るべく候。もっとも、右御手当ての儀は、御通輦(つうれん)場屯所にて、引揚候上(故)、同所におゐて、支配向きより渡さるべく候間、当日印形持参これ有るべく候。なお心得方などの儀は、委細差引の者より、当朝申し談すべく候。廻状、昼夜に限らず、刻附を以って順達、留りより遅滞なく、政事廰静岡調所へ返さるべく候、以上。
   十月十三日              静岡勤番組の頭

急廻状を以って、啓上致し候。然れば、勤番組の者、今般(領?)に御定め、相成り候に付、各(おのおの)様方、拙者とも特網に相成り候間、諸願い、御届書とも、これまでの通り、調所において、拙者どもの内へ、御差し出しならるべく候。これにより、この段御達し申し候。
   十二月四日
(「雲渓庵日記」の解読つづく)
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「雲渓庵日記」の解読 51


(裏の畑のニラの花)

ニラの花は食べられるらしい。

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「雲渓庵日記」の解読を続ける。

八月廿三日、確造殿
        金    千両     大参事
       金   八百両     権大参事
       金   六百両     少参事
       金   四百五拾両   権少参事
右の通り、御役金下され候事。

この度、御役廃止され、 御奉公、御免成され候者どもの内、これまで百両以上下され候分は、九月、十月弐ヶ月分、百両以下下され候分は、九月、十月、十一月三ヶ月分、下され候間、その意を得らるべく候。
      横須賀勤番組之頭   大番組之頭   駒井 尊(たけし)
      静岡勤番組之頭    〃       今堀登代太郎
      横須賀勤番組之頭   同兼      伊庭軍平
      小嶋勤番組之頭    御書院組之頭兼 大久保 忠
      相良勤番組之頭    郡司      中村勘佐
      静岡勤番組之頭    應對役     久世平九郎
      小嶋勤番組之頭    御書院組之頭  白戸 砂
      赤坂勤番組之頭    三州横須賀奉行 桜井秀雄
廿六日の部 刑法掛        小嶋添奉行   西吉十郎
      小嶋勤番組之頭            林 又三郎
      刑法掛                大久保檉軒

急状を以って、申し達し候。然れば、程なく仰せ出され候、皇居行啓に付、十月十六日、藤枝宿御泊り、同十七日、静岡驛御休み、同日、江尻宿御泊り相成り候に付、支配組へ御道固め命じられ候間、その意を得、差引(やり繰り)、世話役頭取、初伝(しょでん)に差図を受け、麁略(そりゃく)これ無き様、相勤むべく候。もっとも、服紗小袖(ふくさこそで)、麻上下(あさかみしも)着用、銘々、挑灯(ちょうちん)持参、十七日暁七ッ半時、柚木村七郎右衛門方へ、遅れざる様相到り申すべく候。かつ、天気の模様により、手傘(てがさ)持参、これあるべく候。
(「雲渓庵日記」の解読つづく)

読書:「慶応えびふらい 南蛮おたね夢料理9」 倉阪鬼一郎 著
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「雲渓庵日記」の解読 50


(裏の畑のアゲハチョウの幼虫)

脱皮の数の四齢と思われる。五齢のあとさなぎになる。

駿河古文書会、二ヶ月中止の連絡が入る。

夜、班長会に出席する。防災訓練や秋祭りなど、区の行事が次々に中止になる。

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「雲渓庵日記」の解読を続ける。

巳三月十一日、新番組へ達す。
      定め
参詣の輩(やから)、印鑑これ無く候ては、登山相成らざる候間、当役所において、一ノ御門入出鑑札、相渡し候間、申し出べきものなり。
     巳三月               久能取締役所
右の通り、下馬札の辺りへ相立て候間、この段、御達し及び候。
     巳三月

巳四月、新番組へ達す。
以来、正月、四月、五月、九月十七日、御祭の節、御参詣三日の間、諸人参詣、御差し許し相成り候に付、右日限中、一ノ御門通行の儀、十七日の通り、心得らるべく候事。

巳七月、新番組へ達す。
七月十七日、これまで、諸人参詣御差し免(ゆる)しに相成る様候儀に付、これまでの通り、参詣致し候事にこれ有り候間、右の趣、一ノ御門へ御達しこれ有り候様致したく、この段、御達しに及び候。
     巳七月

       心得書
一 御参詣、正月、四月、五月、九月十七日。
  但し、同門番士、麻上下着用、御付台にて平伏の事。
一 毎月十七日、御名代、中老衆御登山の事。
  但し、右同断。
一 御宮御幣束(へいそく)、御清巻殿(?)御札、御進献の御品、通行の節、開門御座これ有り候の事。
※ 幣束(へいそく)➜ 神に供えるささげもの。幣帛(へいはく)。ぬさ。みてぐら。
一 正月三ヶ日、毎月朔日、十五日、十七日、廿八日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日、暁六つ時より夕七つ時まで、開門の事。
一 御宮、御用達町人並び諸職人、御門通行致し候者は、御取締方鑑札にて、通行致させ候事。
  但し、御取締方調役並び定役の内にて、召し連れ候の節は、断(ことわ)りのみにて通行の事。
一 社僧並び社役人、他所の者同道致し候節も、断りのみにて通行致し候事。
一 参詣人罷り越し候節、御取締役所、取次の者同道致し候節は、断りのみにて通行致させ候事。
  但し、組頭家来、同道致し候節も同断。
一 右同断、旅人は御取締役所において、一と通り改めの上、小遣いの者差添え、鑑札を以って通行致させ候の事。
一 御道通り、御掃除日、毎月六日、十一日、十六日、廿一日、廿六日、晦日、定め日の事。
  但し、風雨にて落葉これ有り候節は、臨時に御掃除致させ候事。
(「雲渓庵日記」の解読つづく)
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