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「甲陽軍鑑」を読む 47

(日没の西原)

午後二時半ごろから、女房と散歩に出る。今日は直ぐの所から西原に登り、西原の茶畑を南に歩いて下る道を探し、なかなか見つからず随分歩き、国道一号線の向こうに漸く降り口を見付けて、下って帰ってきた。約二時間の上り下りの散歩に、草臥れてしまった。帰宅後、撮った上の写真の、右端から登り、左端のあたりを降りて来たことになる。約八キロ近くは歩いた勘定になる。

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「甲陽軍鑑巻第十二」の解読を続ける。「味方ヶ原合戦の事」の項、続き。

敵の居城(いじろ)(ぎわ)へ深く働き、負けたるに付いては、大河、大坂を越えて退(の)く事ならず、一騎一人も残る事なく、討ち捕られ候えば、若き時より後れを取らず、信玄勝利の誉れ、皆な水に成りて、年寄の分別違うは、屍(かばね)の上の恥辱、末代までの悪名と仰せられ、馬場美濃と勝頼と山縣と、三人に相知らせ、今日は山際まで引き取り候えと仰せ付けられ候所に、小山田兵衛尉内の、上原能登守、味方ヶ原、さ(それ)へ乗り下ろし、犀ヶ谷の方より、家康人数を見てあれば、九手に備え、ただ一皮(ひとかわ)なり。信長加勢の者どもは、人数多しといえども、旗色澄やかにして、しかも速く敗軍の色付いたり。早く帰りて、この機を兵衛尉に申し候えば、則(すなわ)ち、馬場美濃守に語る。馬場美濃と小山田と打ち連れ、信玄公へこの事を申し上げる。
※ 居城(いじろ)➜ 領主が普段から住む城。または、領主が拠点とする城。
※一皮(ひとかわ)➜ 一枚の皮。皮の一重。


信玄仰せらるゝは、戦(いくさ)に勝べきとの踏まえ所はと、仰せらるゝ。小山田申上げるは、敵の人数、ただ一重皮(ひとえかわ)に候て、味方五分一と申す。信玄公仰せらるゝは、証拠ある申し様なり。さらば籏本の物見番、功者(こうしゃ)の人、今日はたそ(誰ぞ)と御尋ねあり。室賀(もろが)入道にて候と申す。室賀入道を召し、上原能登守に指し添え、重ねて見せ給えば、上原が見様(みよう)、一段理究(りきわ)め、相済み申し候間、今日の御防戦疑いなく、御勝ちと、室賀入道走り帰りて申し上げ候故、小山田兵衛尉に合戦始めを下され候時、(さる)の刻に成りて、合戦始まるは種々御遠慮のゆえなり。
※ 踏まえ所(ふまえどころ)➜ よりどころ。頼りにするところ。
※ 功者(こうしゃ)➜ 巧者。物事に熟練していること。また、そのさまやその人。老練。
※ 申の刻(さるのこく)➜ 午後四時を中心とする約二時間。
※ 遠慮(えんりょ)➜ 遠い先々のことまで見通して、よく考えること。深慮。

(「味方ヶ原合戦の事」の項つづく)
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「甲陽軍鑑」を読む 46

(散歩道の紅梅/昨日撮影)

新型コロナウイルス、日本へ上陸し、いよいよ臨戦体制になってきた。人口密度が低く、観光地でもない当地まで伝染することは、まずないだろうが、年寄りは人混みには出来るだけ出ないことが肝要であろう。

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「甲陽軍鑑巻第十二」の解読を続ける。「味方ヶ原合戦の事」の項、続き。

家康後詰の押えに馬場美濃守手勢組添えて、雑兵七百余り小田原氏政衆、千、合わせて千七百余り。次は御籏本組添えて、四千余り、これは浜松の押えなり。然れば家康、八千の人数をもって後詰(ごづめ)と見えつるが、川をうち越え、早々引上げる。馬場美濃守、信玄公御前へ参り、申さるゝは、天龍渡り、内々絵図をもって馴らしの時、沙汰仕り候えども、浅き深きは更に見及ばざる所に、家康越したるを能く見て候えば、一段浅く相見え申す。若武者ゆえ、川を渡りて見せたると、申し上げらるゝは、もっともの儀なり。
※ 後詰(ごづめ)➜ 先陣の後方に待機している軍勢。予備軍。後手(ごて)。うしろづめ。

さて日々生け捕りを仕り、侍大将衆、聞き届け申され候に付、(本多)平八郎事も、(内藤)三左衛門申したる事も、家康二俣後詰の批判も、能く聞こゆるなり。さて又、中根平左衛門、二俣の城、水の手を取られ、降参仕り、城を渡し、浜松へ退き候。水の手に付、信玄、御工夫いくつもあり。殊に、二俣御番勢に信州先方侍大将、芦田下総を差し置かれ候。さ有りて程なく、極月廿二日に、浜松味方が原まで、押し詰め成さる。その日、御一戦有るべしとて、廿二日の朝、信玄公軍神(いくさがみ)へ進(しん)ぜらるとて遊ばすとて、御歌に、

  ただ頼め 頼む八幡(やわた)の 神風に 浜松ヶ枝は 倒れざらめや

※ 番勢(ばんぜい)➜ 戦時の見張番。また、守備の軍勢。
※ 軍神(いくさがみ)➜ 平安時代後期から中世にかけて、武家の筆頭であった清和源氏が、石清水八幡を氏神とし、鎌倉の鶴岡八幡宮をはじめ各地に勧請したことから、八幡神は広く武士達に軍神として崇拝されるようになった。


とかくあれども、合戦はなさるまじきと有り。子細は、海道一番の弓取りとはいえども、吾朝(わがちょう)に若手の武士に、家康一人に留めたり。その上、信長加勢を九頭(かしら)まで仕るに、しかも岡崎、山中、吉田、白須賀まで、取続けて、信長被官(ひかん)ども、居たるときく。殊更(ことさら)、家康伯父水野下野も、半途(はんと)に控えたるは、さだめて家康と合戦を遂げ、勝利を得たると云うとも、敵大軍をもって、草臥(くたび)れたる味方へ掛かられ候わば、疑いなく信玄、後れを取るべく候。
※ 吾朝(わがちょう)➜ 我が日本国。
※ 被官(ひかん)➜ 家臣。家来。
※ 半途(はんと)➜ 行く道の途中。行程のなかば。

(「味方ヶ原合戦の事」の項つづく)

読書:「隠し湯の効 口入屋用心棒39」 鈴木英治 著
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「甲陽軍鑑」を読む 45

(散歩道のブロッコリーの花)

これが何とブロッコリーの花である。野菜のブロッコリーをそのままに置くと、こんな花盛となる。ようやく晴れて、春の陽気の中、午後、女房と散歩に出てブロッコリー畑で見つけた。暖かい冬で野菜の生育がよく、マーケットでは、ずっしり重いキャベツが、98円で並んでいた。

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「甲陽軍鑑巻第十二」の解読を続ける。「味方ヶ原合戦の事」の項、続き。

そこにて本多平八郎、その歳廿五歳なれども、家康下において、度々の誉れ有るよし。内々(ないない)武田の家へも聞こゆる様なりつるが、かの平八郎、甲(かぶと)に黒き鹿(か)の角を立て、身命を惜しまず、敵味方の間へ乗り入れ、引き上げたる様子は、甲州にて、昔の足軽大将、原美濃守、横田備中、小幡山城、多田淡路、山本勘介、この五人以来は、信玄公の御家にも、多くなき人に、相似たり。家康小身の家に、過ぎたる平八郎なり。その上、三河武者、十人が七、八人は、唐の頭(からのかしら)を掛けて出る。これも過ぎたりと、小杉右近助と申す、信玄公御籏本の近習、歌に詠みて、見付坂に立つる。その歌は、「家康に過ぎたる物は二つある、唐の頭に本多平八」と詠む。
※ 唐の頭(からのかしら)➜ 兜の上につけるヤクの尾で作った飾り。
※ 近習(きんじゅう)➜ 主君のそば近くに仕える者。近侍。


その後、二俣の城へ取り詰め、攻めらるゝに、四郎勝頼公、典厩(てんきゅう)、穴山殿、三人の大将にして、二俣を攻め給う。中にも勝頼公は、紺紙金泥(こんしこんでい)の法花(華)経の母衣(ほろ)を成され、差物(さしもの)にして、御精を入れらるゝ。右三頭(かしら)の内にても、四郎殿を諸人(しゅう)奉るは、信玄公の御養(やしな)いある、その歳六つに成り給うを、惣領(そうりょう)にと有りて、太郎信勝と申す御曹司の御親父(しんぷ)なる故、勝頼公を副将軍と定められ、典厩、穴山、勝頼三人に、惣人数を渡し、二俣、中根平左衛門を攻めらるゝ。
※ 紺紙金泥(こんしこんでい)➜ 紺紙に金泥(こんでい)で経文や仏画などを書いたもの。
※ 母衣(ほろ)➜ 矢などから防御のため、兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもので、後には旗指物の一種ともなった。
※ 差物(さしもの)➜武士が戦場で目印のため、鎧の背などにさしたり、従者に持たせたりした小旗や飾り物のこと。
※ 執する(しゅうする)➜ 深く心にかけるのこと。
※ 惣領(そうりょう)➜ 家を継ぐ子。あととり。
※ 太郎信勝(たろうのぶかつ)➜ 武田信勝。武田勝頼の子。甲斐武田氏の第二十一代当主。戦国大名、甲斐武田家の最後の当主。

(「味方ヶ原合戦の事」の項つづく)
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「甲陽軍鑑」を読む 44

(みんくる前のオトメザクラ)

夜、夢つくり会館で、金谷宿大学成果発表会の打ち合わせの教授会があった。

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「甲陽軍鑑巻第十二」の解読を続ける。

(味方ヶ原合戦の事)
一 同壬申年(1572)十月中旬に、山縣三郎兵衛、信州伊奈へ打ち越し、それより東三河へ出て、信玄公、遠州表へ御発向を聞き合い、罷り有り候内、競(せ)り合いなどこれ在るなり。信玄公、十月中旬に、甲府を御立ちあり。遠州多々羅(只來)、飯田両城落ちて御仕置あり。乾(いぬい)天野宮内右衛門に遠州の定番(じょうばん)の儀、能(よ)き様に仰せ付けらる。久野の城、御見廻(みまい)の時、家康衆、随分の侍大将、三ヶ野(みかの)川を切り、四千余りの人数にて、打ち居(お)る。信玄公、あれを逃がさざる様に、討ち取れと、仰せ付けらる。家康衆引きあぐるなり。甲州武田勢は食い止むるなり。
※ 発向(はっこう)➜ 目的地に向かって出発すること。特に、軍を出動させること。
※ 仕置(しおき)➜ 戦国時代、封建領主が領民を支配すること。
※ 定番(じょうばん)➜ 一定期間、城の警備などの任にあたるもの。
※ 見廻(みまい)➜ 見回ること。


浜松衆、既に大事(だいじ)とある時、家康内の侍大将、内藤三左衛門と申す者、家康八千の惣人数は、五千これまで出て、信玄と云う名大将の、しかも三万余りの大軍と、家康出で給わぬに、合戦仕り負(ま)くるは、必定(ひつじょう)なり。これにて各(おのおの)負け候わば、家康御手前ばかりをもって、何とて信玄と合戦成り申すべく候。ここをば先ず引き取り候て、浜松へ帰り、重ねて一戦を遂げ候わば、その時はまた、信長御加勢を成らるに付いては、それを同勢にして三河武者八千をもって、無二(むに)の防戦を遂げられ候らえ。但し、かくは云いながら、人数上ぐる(引上げる)儀は、これ程取り結びての上、三左衛門は、成るまじきと申し候。
※ 大事(だいじ)➜ 重大な事柄。容易でない事件。
※ 必定(ひつじょう)➜ 必ずそうなるに決まっていること。そうなることが避けられないこと。
※ 無二(むに)➜ 同じものが他に一つもないこと。並ぶものがないこと。
※ 取り結ぶ(とりむすぶ)➜ 戦いをまじえる。

(「味方ヶ原合戦の事」の項つづく)

読書:「武者鼠の爪 口入屋用心棒38」 鈴木英治 著
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「甲陽軍鑑」を読む 43

(散歩道のヤナギタンポポ三兄弟/一昨日撮影)

世の中のニュースには、ほとんど興味が失せている自分が、中国発の新型コロナウイルスの感染拡大のニュースにはぴくりと反応した。循環器系や消化器系の臓器には自信がある自分が、死ぬときの死因は肺炎になるだろうと想像している。だから、肺炎と聞くと反応する。まあ、肺炎は高齢の老人の死因の中では一番だから、それほど珍しくはないのだが。

中国には、現役の頃、出張で度々訪れた。現地で、一番の御馳走は野生動物だと、よく聞いた。火鍋など熱くてトウガラシが利きすぎて、とてもまともには食べられなかったが、中に入った肉は、野生の動物だと聞いた。何という動物であるのかは、最後まで知らされなかった。市場に行けば、そういう野生動物が肉になって、山と並んでいる。そういう中に、その野生動物だけにいたウィルスが、ある時、人に感染し変移して、人から人に感染するウィルスとなる。中国発で感染が起きるメカニズムがそこにあって、これは今後も中国の食生活が変わらない限り、何度も起きることなのだと思う。都市封鎖というような大ナタを揮うことが出来るならば、将来のために、上記のメカニズムを断ち切る仕組みを構築すべきだと思う。

それにしても、今夜あたりのニュースは、中国の団体客の出国が禁止されて、春節を当て込んだ日本の観光業が大打撃を受けるとの話が主になっていた。新型コロナウイルスの感染そのものを、もっと取り上げるべきであろうに、まだまだ、エコノミックアニマルと云われた過去の残影が、テレビ界には根強く残っているのであろうか。いやはや。

まずは、戦国の世、甲陽軍鑑の世界に戻ろう。明日からは、いよいよ三方ヶ原の戦いに突入する。

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「甲陽軍鑑巻第十二」の解読を続ける。「遠州、三河絵図、並び備え定め」の項、続き

また、二の手は、勝頼公、典厩武田左衛門佐殿、穴山殿、土屋殿、望月殿、跡部大炊介。脇備えは小山田備中、小宮山丹後、栗原左兵衛、今福丹波。左は原隼人、相木市兵衛、安中左近、駒井右京。御後(うしろ)は逍遥軒、組衆添えて六頭(かしら)、合わせて百九十騎。一條右衛門大夫殿、組添えて四頭、合わせて百七十騎。海野衆、仁科衆、御籏本組は、市川宮内、小山田大学、下曽根、長坂長閑、諸賀入道、三枝勘解由左衛門、真田喜兵衛、曽根内匠助、諸牢人衆、弐百騎余り。

兵庫殿、御組頭にて、御国境目御留主居。上野(こうずけ)定番に永井豊前。小幡三河、和田、この衆に、信州浮き勢、千貫百騎の衆を本役にて、五頭箕輪の城に置き、また五頭を秋山伯耆に添え、伊奈の御留主に伊奈秋山伯耆組の衆。下条は三河足助の城に残りて四頭。芦田下野(しもつけ)と一所にして、これは落城。御抱えの乃地に御番の勢のためなり。道作りは新衆を千五百、これは御中間頭、十人廿人衆頭に、五百付けらるゝ。

駿河御留守、武田上野殿。田中に板垣殿。清水に舟手衆。土屋備前、向井、間宮兄弟に、小浜。伊丹大隅。小山の城に、大熊備前。甲府の御留守、御蔵前衆、御曹司衆、御料人衆、御しょうどう衆、四衆合わせて百廿八騎。御蔵前衆の内にて五騎は、駿州むきの代官衆。御扶持方、万(よろず)のために御供なり。甘利衆は小荷駄の奉行なり。大形(おおかた)夏秋の御定(さだめ)、かくの分なり。後は様子により、少し違い申すこともこれ有るなり。

(「遠州、三河絵図、並び備え定め」の項終り)
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「甲陽軍鑑」を読む 42

(庭のビオラの咲き始め)

今朝早く、女房と、自動車免許高齢者講習にて、電車で興津まで行く。会場は興津のスルガ自動車教習所であった。今日に至るまでに、少々経緯がある。自分の高齢者講習のハガキが一月の初めに来た。受講期間が1月13日からという。更新はまだ半年先だが、混み合っているのでお早めに、とあった。聞けば女房も書き換えがこの三月だという。これは急がねばと、会場になっている近くの自動車教所へ電話をしたが、予約できるのは半年先の6月という。三ヶ所ほど聞いたが何れも同様であった。講習が受けられなければ、免許証が失効となると、ハガキにおどし文句がある。そんな理不尽な、これではまるで年寄いじめではないか。ハガキに書かれた運転免許課に電話をすると、興津のスルガ自動車教習所を紹介された。電話をすると、女房と二人で、今日の日が予約出来た。少し早すぎるが、これから自動車学校も、学生の免許取得で忙しくなるようで、早く済ませるにしくはない。かくて、電車で一時間近くかかり、雨のそぼ降る中、夫婦して興津まで行くことになった。

高齢者講習の参加者は7名、講義、目の検査、運転実技の三項目で、何れもよっぽどでなければ、失格になることはないようだ。75歳以上にはあらかじめ認知症の検査があると説明があった。今回は関係なかったが、7名の内、3名は75歳以上で、認知症の検査を事前に受けたという。認知症検査は3問あって、第一は本日の日付と曜日を書かせる。第二は36の絵を見せて、その絵を1問済ませた後、どれだけ覚えているか書かせるというもの。第三はアナログ時計の絵を書かせ、ある時間の針の位置を書かせる。易しいようで、第二問などは、なかなか難しそうである。

二時間かかって講習を終え、目出たく終了証明書を頂いた。講習費用、一人5100円。色々とハードルを見せられ、免許返上を促されているように見えるのは、年寄のひが目であろうか。帰りに静岡に寄り、昼食を食べ、夕食を買い、何れも商品券で支払ってきた。

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「甲陽軍鑑巻第十二」の解読を続ける。

(遠州、三河絵図、並び備え定め)
一 同年申の夏秋、遠州、三河の絵図を以って、両国嶮難(けんなん)の地、或るは大河、小河の出で様、一村一里に渡り、いくつ有り、ふけ(深田)、たまり池、萬(よろず)を遠州、三河牢人(ろうにん)衆に沙汰させ、原隼人、内藤修理、両侍大将、能く聞く。信玄公御前において、申し上げ、穿鑿(せんさく)成されて後、御備え、先衆七手は山縣三郎兵衛、内藤修理、小山田兵衛尉、小幡上総守、真田源太左衛門、高坂弾正、馬場美濃守、七人なり。
※ 嶮難(けんなん)➜ 道などが非常にけわしく、通過するのに困難なこと。
※ ふけ ➜ 深田のこと。
※ 牢人(ろうにん)➜ 主家の没落などによって主従関係を断ち、代々の家禄その他の恩典を失った武士。


山縣組共に九百八十騎の内、大熊三十騎、遠州小山の定番(じょうばん)相木八十騎、御跡備え残して、八百七十騎なり。内藤組八頭(かしら)添えて、六百騎、組衆半役にして百七十五騎、内藤手前も五十騎、箕輪に置き残りて、三百七十五騎なり。高坂は手勢組共に、千廿七騎を、手前にて五十騎、組にて百七十騎跡に残して、八百騎。小幡は留主居、いづく(何処)の衆三百騎あまり持つ故、御役帳(やくちょう)に有る如く、五百騎連れて、御供申すもうすべきの由、申上候。
※ 定番(じょうばん)➜ 常に番をすること。また、その人。
※ 役帳(やくちょう)➜ 戦国大名または近世大名が,家臣の1人ごとにその提供すべき軍役の内容と量を割り当てるために作成した帳面。

(「遠州、三河絵図、並び備え定め」の項つづく)
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「甲陽軍鑑」を読む 41

(裏の畑のロウバイも花盛り)

知らない中に、裏の畑のロウバイも花盛りであった。ついでに、キンカンを少しばかり収穫した。

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「甲陽軍鑑巻第十二」の解読を始める。「身延山へお使い立てらる事、並び家康より輝虎へ使者」の項の続き。

一 同年閏(うるう)正月中旬、家康は金谷筋、小笠原はいろう(色尾)筋、大井川を越して河原まで働き、即時引き取るなり。

一 同閏正月廿八日に、越中椎名肥前守方より、注進申し上げる子細は、去年申の九月、徳川家康、越後輝虎(謙信)へ、両使をもって起請を仕られ、頼み申し候間、謙信もこれをよろこび、家康に無沙汰有りまじくと、誓言(せいごん)成され候由、確かに承り候。家康より謙信公へ進物は、唐の頭一頭(かしら)、輝虎公御返札に、(月)の馬一疋進ぜられ候。定めて家康、信長ばかりは頼み少なきと存じ候故とて、輝虎のよろこび、家康を籏下(はたした)にする。北国の事は申すに及ばず、都までも、信長の威光振(ふる)わるゝ国々へ、謙信の弓箭(きゅうぜん)強ければこそ、信長一味の家康の、遠き輝虎を頼むと批判有るべきと、長尾(謙信)家の衆申し候。さ候わば、当年(今年)は、謙信信州へ罷り出でらること、御座候との注進なり。
※ 無沙汰(ぶさた)➜ なおざりにすること。ほうっておくこと。
※ 誓言(せいごん)➜ 言葉に出して誓うこと。また、その言葉。
※ 唐の頭(からのかしら)➜ 兜の上につけるヤクの尾で作った飾り。
※ 返札(へんさつ)➜ 返事の手紙。返書。返信。
※ 鵇毛(つきげ)➜ 月毛。謙信の愛馬(放生月毛)は、月毛の名の通り、クリーム色の毛色をしていた。
※ 定めて(さだめて)➜ 必ず。きっと。まちがいなく。
※ 籏下(はたした)➜ 旗頭の下に直属すること。また、 その人。はたもと。
※ 弓箭(きゅうぜん)➜ 弓矢で戦うこと。戦い。
※ 批判(ひはん)➜ 物事に検討を加えて、判定・評価すること。

(「身延山へお使い立てらる事、並び家康より輝虎へ使者」の項終り)

(輝虎、河中嶋へ出馬)

一 同年四月初めに、輝虎(謙信)、信州河(川)中嶋へ馬を出され、さりながら、在々の儀、焼くこともなく候。伊奈の四郎勝頼公、これを御聞きあり。夜を日に継ぎ、懸け付け給い、輝虎壱万ばかりの人数に、勝頼公、千足らずの備えを以って、打ち向い成られ候えば、謙信構(かま)いなく早々引き取り、馬を入らるゝなり。その後、信玄公、明(妙)高山まで御働き成られ候。先衆はそれより奥へ押し付け候えども、謙信取り合いなく候故、信玄公、やがて御馬をかいつへ移され候て、その年霜月、師走、次年二、三月までの様子、仰せ付けられ、御馬を入り給うなり。
※ 在々(ざいざい)➜ あちこちの村里。また、いたるところ。
※ 夜を日に継ぐ(よをひにつぐ)➜ 昼夜の別なく、続けてある物事をする。

(「輝虎、河中嶋へ出馬」の項終り)

読書:「御上覧の誉 口入屋用心棒37」 鈴木英治 著
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「甲陽軍鑑」を読む 40

(散歩道のイソヒヨドリ)

散歩中に撮ったものを図鑑で調べると、ヒヨドリにも似ているが、胸の茶色のところがイソヒヨドリの特徴を示していた。「イソ」と名が付くが、今では都市近郊にも普通に見られるようだから、イソヒヨドリに間違いないと思った。ヒヨドリのように群れにはならないようで、我が家の裏の畑に、よく来ている中にも、このイソヒヨドリが居たかもしれない。

昨夜、電話があり、地元広報誌に「佐束紙」について扱いたいが、このブログの記事を転載させてもらってよいか、という話であった。ずいぶん昔、駿河古文書会で読んだ古文書で「佐束紙」のことを知り、名前の由来になった掛川市の佐束に出かけて、調べたことがあった。今、調べてみると、2012-09-232012-09-27の二回にわたり、佐束紙のことを書いていた。自分で書いていながら、ほとんど忘れていたが、けっこうしっかりと調べて書いている。もちろん、自由に使ってもらってよいと返事をした。あの時にお話をお聞きした鵜藤満夫さんも、もう亡くなられたと聞いた。ブログの更新が5000回にも及ぶと、こんなこともある。

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今日から「甲陽軍鑑巻第十二」の解読に入る。記事は、いよいよ、三方ヶ原の戦いに突入する。

   甲陽軍鑑巻第十二
     甲陽軍鑑品第丗九目録


一 身延山へお使い立てらる事、並び家康より輝虎(謙信)へ使者。
一 輝虎、河(川)中嶋へ出馬。
一 遠州、三河絵図、並び備え定め。
一 味方ヶ原合戦の事。
一 高坂弾正、異(意)見の事。
一 信長より織田掃部(かもん)、刑部(おさかべ)道差し越さるゝ事。
一 信長と御手切れの事。
一 氏政より御使札(しさつ)の事。
※ 使札(しさつ)➜ 使者に持たせてやる書状のこと。
一 公方義秋(昭)公より御使者。
一 人質取替(とりか)ゆる事。
一 信玄公御馬入りの事。付たり、秋山伯耆と信長縁辺(えんぺん)の事。
※ 縁辺(えんぺん)➜ 縁故のある人・家。特に血縁・婚姻による親族関係。
一 信玄、公方(足利義昭)へ御返状。
一 信長、公方へ申し状の事。
一 東美濃へ御出馬の事。
一 信玄公、御他界の事。付たり、御遺言(ゆいごん)の事。
一 信玄公御一代、敵合(てきあい)作法三ヶ条。
一 信玄公、人の御仕(つかい)、成され様。
一 同 御家中武士、手柄の事。
一 同 御家中城取極意。
一 高坂弾正、申し候事。
一 信玄公、御家中諸侍礼。
一 同国法背きたるをも、人により免(ゆる)し給う事。
一 同御家中、音信定むる事。


(身延山へお使い立てらる事、並び家康より輝虎へ使者)

一 元亀三壬申年(1572)、初めの正月廿一日に、信玄公、法花(華)宗身延へ御使いを遣わされ候。子細は、去年庚未(1571)に、織田信長叡山を焼くにより、身延を叡山になさるべく候間、身延山を御所望あり。その代りには、長野に寺を立て、今の身延より大きに御普請仰せ付けられ、相渡すべしと仰せらる。

身延山各(おのおの)出家衆、御返事に、日蓮聖人御影(みえい)の前にて鬮(くじ)を取り、その後もっともと申し上ぐべきとて、鬮を三度、五度、七度まで取れども、合点(がってん)の鬮下りず。その上(故)、山の変わらざる祈念(きねん)とて、壱万部の法花経を読む。不思議なり。日蓮聖人のお告げ、多く有りたるとの沙汰なり。それをば信玄公御存知なくて、以来は是非、身延を東の叡山になさるべきと、御内存定め候(そうらい)つる。出家に悪しく当らぬものとは、次の年、酉の四月十二日に、思い当たりて候なり。
※ 御影(みえい)➜ 神仏・貴人などの肖像・彫像・写真など。
※ 合点(がってん)➜ 同意すること。うなずくこと。承知。
※ 祈念(きねん)➜ 神仏に、願いがかなうように祈ること。
※ 内存(ないぞん)➜ 心の内で思うこと。内々の所存。
※ 酉の四月十二日 ➜ 信玄の死去した日。

(「身延山へお使い立てらる事、並び家康より輝虎へ使者」の項つづく)

読書:「天下流の友 口入屋用心棒36」 鈴木英治 著
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「甲陽軍鑑」を読む 39

(散歩道の白梅/一昨日撮影)

朝から雨、夕刻止む。くしゃみ連発で、今年初めてべにふうきを飲む。苦し。今年もうっとうしい季節が巡ってきた。

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「甲陽軍鑑巻第十一下」の解読を続ける。「信長より家康と御無事の儀申さる事」の項続き。

その時、信長公より御音信は、信玄公召しの御小袖一重(ひとかさね)、いつもの如く蒔絵の箱に入れ、御綿帽子、御頭巾まで、例の如く美しき箱に入れて、この外、繻子(しゅす)緞子(どんす)合わせて三十巻、また御料人(ごりょうにん)へも御小袖いつもの如く、この外、厚板五十端(反)薄板五十端、五十端、片色五十端、撰糸(せんじ)、以上。
※ 繻子(しゅす)➜ 繻子織りにした織物。経糸,緯糸の交錯点を一定の間隔に配置した、経糸または緯糸の浮きが多い組織で、光沢があり、柔軟で滑りがよく、摩擦に弱い。
※ 緞子(どんす)➜ 繻子織地に繻子織の裏組織で模様を織り出した織物。厚地で光沢があり、どっしりとした高級感がある。
※ 御料人(ごりょうにん)➜ 中世以降用いられた、主に女性に対する敬称の一つ。ここでは、信玄の側室で武田勝頼の母である、諏訪御料人を指すか。
※ 厚板(あついた)➜ 厚地織物の一。生糸を横糸、練り糸を縦糸として、模様を織り出した絹織物。厚絹。厚板織り。
※ 薄板(うすいた)➜ 薄い板に巻いた薄地の絹織物。薄板物。
※ 嶋(しま)➜ 縞模様に織り出した織物。
※ 片色(かたいろ)➜ 練貫(ねりぬき)の一種で、経(たていと)の生糸と緯(よこいと)の練り糸の色の違っている織物。
※ 撰糸(せんじ)➜ 撰糸絹の略。薄い絹織物で、羽二重に類するもの。
※ 疋(ひき)➜ 織物の長さを表す単位。反物二反分の長さを一疋という。


信玄公、家康と御無事の、信長へ御返事の御事は、

度々来意珎々重々候。然れば、遠、三、両国の境目に居住仕る逆侍(ぎゃくし)躍倒(やくとう)赦免の儀、翁(信玄)、更(さら)に相心得ず候。委細は後音(こういん)、申し述ぶべきものなり。
   極月廿三日           大僧正信玄
    織田上総守殿
         御報(ごほう)
※ 来意(らいい)➜ 手紙の趣旨。。
※ 珎重(ちんちょう)➜ めでたいこと。祝うべきこと。「珎々重々」はそれを強調している。
※ 逆侍(ぎゃくし)➜ 謀反をたくらむ侍。
※ 躍倒(やくとう)➜ 暴挙。
※ 心得ず(こころえず)➜ 納得できない。理解できない。
※ 後音(こういん)➜ 後のたより。あとで書き送る手紙。後便。
※ 御報(ごほう)➜ 身分の高い人に出す文書での返事。また、その手紙の脇付に用いる語。

(「信長より家康と御無事の儀申さる事」の項終り。甲陽軍鑑品第丗八終り。甲陽軍鑑巻第十一下終り。)
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「甲陽軍鑑」を読む 38

(掛川松ヶ岡の山崎家長屋門)

「長屋門の見て回り」最後、九ヶ所目は、掛川の松ヶ岡の山崎家であった。ここも今日は開いていなかったが、何度か訪れている所である。Nさんはまだ廻りきれていないと言い、近いうちに、二回目を実行する予定である。

今日、午後、掛川中央図書館に行く。「相良町史」を見たいと思ったが、島田の図書館は23日まで長期の休館だったので、掛川まで足を延ばした。調べたかったのは相良町の江戸時代の町名であったが、町史を読むと、相良の町のあるあたりは河原のような不毛の地で、元々人は住んでいなかったところを、城下町、あるいは湊町として江戸時代に町を作ったという。そして、新町、前浜町、市場町の三町が出来、その後、福岡町が加わったと判明した。

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「甲陽軍鑑巻第十一下」の解読を続ける。

(関東侍衆馬進上の事)
元亀二年霜月下旬に、関東下総、東金(とうがね)両酒井小金(こがね)、高木(高城)、終に、音信申上ざる衆三人ながら、能き馬を進上申し候。その外、関東侍衆、日来(ひごろ)御入魂(じっこん)申さるゝ人々、多賀谷、宇津の宮を初め、皆な馬を進上申すなり。
※ 東金(とうがね)➜ 東金城。千葉県東金市にあった城。一五二一年に戦国武将である酒井定隆と隆敏が土気城から田間城を経て東金へと移り、築いたとされる。
※ 両酒井(りょうさかい)➜ れい。土気(とき)城の酒井氏と東金城の酒井氏。
※ 小金(こがね)➜ 小金城。下総国葛飾郡(千葉県松戸市)にあった高城氏の居城。

(「関東侍衆馬進上の事」の項終り)

(氏政より御音信の事)
一 北條氏政より、白鳥十、江川酒樽一対、八丈嶋廿端(反)仁田山絹百疋、御音信(贈り物)なり。
※ 江川酒(えがわしゅ)➜ 伊豆国韮山周辺において、同地域の領主・江川氏のもとで製造された銘酒。
※ 八丈嶋(はちじょうじま)➜ 黄八丈(近年の呼称)。八丈島に伝わる草木染めの絹織物。島に自生する植物の煮汁で黄色、鳶色、黒に染められた糸を平織りまたは綾織りに織り、縞模様や格子模様を作ったもの。
※ 仁田山絹(にたやまぎぬ)➜ 群馬県仁田山地方(今の桐生市)産出の、仁田山織の太絹織物。

(「氏政より御音信の事」の項終り)

(信長より家康と御無事の儀申さる事)
一 極月中旬に、織田信長より織田掃部を以って、家康御無事の儀、その御状に、(わざ)啓上奉り候。
※ 無事(ぶじ)➜ 平穏であること。平和であること。また、そのさま。有事に対していう。
※ 態と(わざと)➜ 正式に。本格的に。


遠州、参州両国の守護により、徳河(徳川)家康事、貴国御近所に罷り在り、慮外(りょがい)仕り、相違の儀候わば、御返事次第、この方へ召し寄せ、差し置き、異見(意見)申すべく候。委細は、この使者、口上に言上致すべく候間、紙面早々、かくの如く候。恐惶謹言。
   極月朔日(ついたち)          織田上総守 信長
  法性院(信玄)殿 人々御中
※ 慮外(りょがい)➜ 礼儀を欠くこと。ぶしつけなこと。また、そのさま。無礼。

(「信長より家康と御無事の儀申さる事」の項終り)

読書:「木乃伊の気 口入屋用心棒35」 鈴木英治 著
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