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井戸端会議の井戸話

(咲き揃った三種のアサガオ)

会社の雑談で、この頃は降りそうで雨が降らないなあという話から、O氏が畑の井戸にポンプがないから水が掛けられず、里芋などの葉が枯れてしまう影響が出ている。畑には昔打ったパイプの井戸があるけれども、昔は付いていたポンプが今はない。手押しポンプを付けたいが、設置のために基礎を造る必要があるから、足踏み用のポンプを探しているという話になった。

井戸の話が出て、S氏は井戸は自分で掘れるという話になった。水を注入しながら人力でとんとん突いて泥をすくうということを、ひたすらくり返していると浅い井戸なら掘れる。そんな道具がある。自分の家の庭の井戸はそんな風にして掘った。聞く話では、低開発国にはそんなやり方の井戸掘りを教えているらしいという。深いときは割った竹を使って延長する。煙突掃除の要領で、竹は丸めて扱えば持ち運びも出来るという。

家は今でも井戸水を使っていると話した。水道も来ているが、基本料金分だけ使うようにと、トイレの水洗にだけ使っている。ほかは飲み水もすべて井戸水である。金谷は大井川の伏流水で水質は好いし、水が枯れることもほとんど無い。井戸は13メートルほど打ってある。もちろんポンプで吸い上げている。

O氏はポンプは1気圧では10メートルしか吸上げ得ないから、13メートルは無理ではないかと疑問を呈する。言われて見ればおかしい。しかし現に汲み上げている。地上から50cmほどは掘り下げたところにポンプを据えてあるが大勢に影響はない。もう30年も使っている。O氏は深井戸型のポンプなら可能だろうが、地下に円筒型のポンプを埋めて押し上げる形にポンプを使うのだという。家のポンプはごく普通のポンプである。

井戸端会議が終わって、少し時間があってふと気付いた。13メートルまで管が届いていても、地下水位が13メートルという話ではない。井戸には自噴するものだってある。管を入れると地圧で水が押し上げられて10メートルより浅いところまで水位が上がっていれば地上からポンプで十分汲み上げられる。答えが出たと思った。正解かどうかは分からないが、説明としては理屈が通っている。井戸掘りの業者に聞けば常識なのだろうが、考えるところに意味がある。そのあと、O氏にも話した。

井戸端会議で井戸の話に花が咲いたというだけの話である。

     ※    ※    ※    ※    ※    ※

明日から3日まで、女房と帰郷する。書き込みは二日ばかり休むことになる。
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故郷の「柳まつり」の記憶

(柳まつりポスター)

今週末に帰郷する。夏恒例の墓参を兼ねた帰郷である。例年であれば、お盆の時期に帰郷するのであるが、甥姪たちもそれぞれに家庭を持って、お盆の時期は皆んな帰郷して来るから大混雑となる。だから、この何年かは時期を少しずらして帰郷することにしていた。何しろ故郷の次兄は子供が5人で、連れ合いを数えると倍の10人、さらに孫が8人で、お盆の故郷はパンク状態になる。今年からは時期も自由に取れるようになったから、伊勢の長兄とも示し合わせて、8月1~3日の帰郷日程に決めた。実は1日、2日と故郷の町では夏祭りである、「柳まつり」がある。今回はそれに合わせてみようという企みであった。

兵庫県の北部の豊岡市は柳行李が名産品であることはかつて書き込んだ。柳は水辺を好む樹木であって、柳を生産したのは円山川沿いの地域であった。柳まつりは柳の栽培地だった地に遷座する小田井神社のお祭りである。

小田井神社の境内にその摂社として、柳に関連する五男三女神を祀る「柳の宮」が創建され、地場産業である柳の供養と感謝の意を表わしている。「柳まつり」はこの「柳の宮」の例祭で、昭和10年頃から毎年真夏の時期に行われている。

子供の頃の柳まつりの圧巻は、何と言っても円山川廃川で行われる花火大会であった。夜になって、水を豊かに湛えた廃川を、舳先に鳳凰の飾りをつけた舟に神輿を乗せて、北から南へ神輿が渡っていく。周囲にはたくさんの川舟が囲み、空には次々と花火が上る。スターマインのようなにぎやかで派手な花火はなかったが、花火と舟の灯りが川面に映えて大変美しく、目に焼きついている。とりは立野橋一杯に繰り広げられる仕掛け花火で、ナイヤガラのような光の滝が流れ落ちる、当時として目を見張る光のイリュージョンであった。

最ももう50年も前の話である。どこまでが本当に見たもので、どこからが後で膨らませたイメージなのか、今となっては判らない。

この50年の間に廃川は生活廃水の垂れ流しでどぶ川と化し、埋め立てられた幹線道路が通り、さらに埋め立てられて市民会館や幾つかの建物と市営駐車場が出来て、わずかに細いどぶ川が残った。何艘もいた小船もすべて消えて、花火大会も円山川の新川に移った。

今、柳まつりはどのように変貌してしまったのだろうか。この目でしっかり見て来たいと思っている。
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「高熱隧道」を読む

(吉村昭著「高熱隧道」)

吉村昭の随筆を読んでいて、著者に「高熱隧道」という小説があることを知った。さっそくネットで図書館の検索をしたところ、島田図書館の閉架にあったので、予約して借りた。閉架は利用者は直接見れない倉庫に保管されているもので、リクエストすれば出してもらえる。古い本だから廃棄処分待ちの状態だったのだろう。薄い本で一息に読み終えた。

第2次世界大戦直前の昭和11年から15年にかけて、国策の一環として黒部峡谷の電源開発が遂行された。人跡を拒む秘境の黒部峡谷に、人と資材を運ぶトンネルと発電用の水路を掘削していく工事であったが、熱水を噴出する高熱断層にぶち当たり、難工事となった。初めはトンネルが無いから、渓谷の壁に刻まれた狭い歩道を資材を背負って運んだ。転落して奔流に呑まれる歩荷が続出した。工事では160℃を越える岩壁に誤発破が起きて、多くの人命が失われた。未知の「ほう雪崩」が起きて、鉄筋コンクリートの宿舎が600メートルも吹き飛んで、多数の死者を出した。

県や警察の工事中止命令も、国策工事の名のもとでは、立ち消えになるしかなかった。結局犠牲者を233人も出して、工事は終った。工事に当っては当然学者や専門家の意見を聞きながら実施してきたが、災害は人知をはるかに超えて発生する。熱水は100℃前後まで、その層を越えると下がるという学者の説明は全く裏切られた。雪崩には絶対安全と思われた場所で「ほう雪崩」というとんでもない雪崩が起きた。100年、200年に一回と思われた「ほう雪崩」が連続して起きてしまった。

※「ほう雪崩」は「表層雪崩の一種。雪が煙のようになって落下するもので、大きな破壊力をもつ。黒部峡谷で生じるものが有名。あわなだれ。雪崩を構成する雪煙が最大で時速200km以上の速度で流下する。」

時速200キロとすれば、秒速は56メートルである。これが風であれば鉄筋コンクリートの建物が600メートルも吹き飛ばされることにはならない。雪煙が高速で落ちる中で空気が圧縮されて、個体のような破壊力をもったといえばよいか。時速200キロで新幹線がぶつかってきたと言えば、想像しやすいかもしれない。別の「ほう雪崩」の記述では樹齢何百年の巨木が数十本、根こそぎ吹き飛ばされたともいう。

自然災害で、想像を超えた破壊力を持ったものに、火砕流や土石流がある。「ほう雪崩」は気体に近い分、地表の抵抗が無くてスピードが上り、破壊力が増すのだろう。
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クマゼミ前線、我家に達す

(今朝クマゼミが鳴いた庭のマツ)

昨日の朝、目覚めにこの夏初めてクマゼミの声を聞いた。クマゼミ前線が我が庭にもやってきた。今年は少し遅くはないだろうか。梅雨明けが遅かったせいであろうか。今朝も出掛けに庭でけたたましくクマゼミが鳴いていた。

虫の声とかセミの声とか、「声」というけれど、あれは厳密には「声」ではない。声は喉から出すもので、鳥や蛙の声は「声」だが、羽根をこすったり、腹にある発生器から出しているから、虫の声は声ではない。声に似たものだから声と呼んでいるのだろうと思っていた。気になって今回、辞書で確認してみた。「声」とは「人や動物が発声器官から出す音」(広辞苑)とあって、「のど」とは書かれていない。この定義からすると虫が出す声も立派な「声」であった。

かつて、セミと言えばアブラゼミのことだった。どこにでもアブラゼミがいて、動きが鈍いのか、子供にも取りやすかった。ジージーと夏のじりじりとする暑さを象徴するようなセミであった。ところが近年、アブラゼミは影を潜め、クマゼミの全盛になった。あの鍛冶屋が鉄を鍛えるときの音に似た、叩きつけるような声が、40℃に迫る熱波を象徴している。クマゼミは温暖化や都市化に強いセミだといわれ、現代の日本の都会を我が世と謳歌している。

昔はクマゼミは生息数が少なくて、動きもすばやいので採るのは難しかった。何とか手に入れたいセミの王様であった。そしてセミのもう一方の雄にミンミンゼミがいた。クマゼミは街中でも聞けたが、ミンミンゼミは田舎の山に行かないとなかなか聞くことが出来なかった。夏、母方の田舎にお墓参りに行くと、里山から聞こえてくる声をよく耳にしたものであった。みーん、みーん、みーんと何回か繰り返し最後の「みーん」が、サイレンが終る時のように、少し音が下がって、ワンフレーズが終る。このフレーズを繰り返して、波紋が広がるように森の中に染み渡っていく。

テレビドラマや映画で、真夏のシーンの効果音としてセミの声を使うとき、ほとんどはミンミンゼミの声である。良く注意して聞いていると判る。ドラマを見ていて、シーンが街中でも平気でミンミンゼミを鳴かせている。どうにも気になって仕方がない。思うに、クマゼミでは喧し過ぎてドラマの邪魔になる。他のセミではセミの声かどうかわかりにくい。ミンミンゼミならバックで鳴かせるとドラマを邪魔せずに夏の雰囲気が出る。そんな理由でミンミンゼミが抵抗無く使われるのであろうが、現代の都会のドラマならば、クマゼミを使わなければ、嘘になると思う。

これからしばらく、朝、クマゼミの声に起される日々が続く。
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明治13年の雹(ひょう)の話

(雨を呼ぶ暗雲、このあと雨が降る)

午後、夕立があった。10日ぶりほどの雨である。そんなに大雨にならずに上がり、夕方には夕焼けが雲を染めた。

余りにも暑くて、この2、3日、冷房を入れて「古文書に親しむ」の次回の予習をして過ごした。与えられた「歳代記」の次の項を読むのである。ところで「古文書」を「こぶんしょ」と読んでいたが、「こもんじょ」と読むのが正しいと知る。時々、こんな読み違いをして、気が付かないでいることがある。恥ずかしい話ではあるが。

さて予習した部分に、明治時代に金谷に雹(ひょう)が降ったという話が出ていた。筆で細かく書かれた「歳代記」を解読するのは大変であるが、時間を掛けてテキストに落としていくうちに文字が見えてくる。解読できなかった部分は■で残した。次回の講座で解明していきたい。

明治十三年辰十月廿五日夜午後十時頃ヨリ雨不降稲光リ強クシテ 廿六日午前第三時頃雹降出シ 追々烈発相成其音石ヲ打付ル如クナリ 夜中之事ニ候 唯々神佛ニ燈明ヲ照シ祈願ヲ致シ居■候 光リハ強ク雷ハ八方ニテ鳴り断々雨交リニ相成暫クシテ光リ雷雹トモ小降ニ相成候 夫ニ明リヲ照シ戸毎ニ軒下或ハ往還エ出テ降残リシ雹を拾イ上ルニ其雹壱寸五より弐寸位イ其形ハ少シ平クシテサヾイノ如ク中ニウズ巻ノ形アリ 午前七時頃五ヶ村■■■リ候■稲ハ一位■■■悉皆雹ニテ打落シ候 ■■五ヶ村へ見舞トシテ■■■字根岸ヨリ代官■番生寺地先ハ時干八時頃ニ至リ■門■未タ雹ハ四五寸迫リ田一面ニツモリシ候打■キ蕎麦■ハ地面ヨリ■■シ如ク野菜物ハ石ニテ打キ付タル如ク瓦屋根■シ藁屋根ハ■■タル家モアリ其雹目方五拾匁より六拾匁位イ実ニ噺シニ■不■及夫ヨリ嶋村牛尾村ヘ迫る道筋■■■足冷テ我足ノ覚ナシ同村ノ景■テ■根道ニテ■■ハ雹ニテ打レ死又ハ雀ヒヨ等打レ数多アル■■我家敷ニテ拾羽拾五羽位イ雀外小鳥ヲ拾ウ人アリ 又屋敷泉水之■■■鯉鱒等モ打レ死有 池ヨリ飛出シ地面ニ打レ死モ有 実ニ其場ヘ望ミシ上■ノ通リノ次第に候也

大事なところが所々分からないが、分かる部分は多い。

明治13年10月25日、午後10時ごろより強い稲光があって、翌午前3時ごろから雹(ひょう)が降った。その音は石を打ちつけるようであった。小康状態になって、家々では明かりを照らして軒下や往還に出て降り残った雹を拾い上げた。その雹は壱寸五より弐寸(4.5~6cm)位でその形は少し平たくてサザエのように渦巻きの形のものもあった。
その朝、8時ごろ、五ヶ村ではまだ雹が四五寸(12~15cm)、田一面に積っていた。野菜物は石で打ちつけたようであった。雹の目方五拾匁から六拾匁(188~225g)位であった。歩く間に足が冷えて感覚が無くなるほどであった。蛙や小鳥や泉水の鯉なども雹に打たれて死んだものも多くあった。

ざっと、そんな内容が読み取れた。
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内祝のアイディアお米

(「内祝」のアイディアお米袋)

2週間程前、まーくんの内祝に何をしようかと下の娘夫婦が話し合っていた。こういうお祝いはさっと消費してなくなってしまうものがいい。それでも、もらって喜んでもらいたいし、何か心に残るものが欲しいと、色々頭を悩ましていた。

その中に女房が割り込んで、ネットで見つけたという内祝を提案した。それはお米を内祝にするというもの。お米は主食だし、不可欠のものだし、悪くはない。低迷するお米の消費にも協力できる。それに魚沼産コシヒカリだ。

この提案は楽天に出ていた。新潟県魚沼産のコシヒカリで、赤ん坊の出生体重と同じ重さのオリジナルのお米袋を作って、出産の内祝として遣う。頂いた人はお米袋を抱っこして、赤ん坊の重さを実感してもらおうというアイデア商品である。お米袋のデザインも、赤ん坊の写真を入れたり、注文主が工夫して作れる。価格は1グラム1円、グラム単位まで正確にお米袋を作ってくれる。

このアイデア商品は楽天市場で5年間で14000袋を売上げている。2008年上半期のキッズ・ベビー・ランキングでも上位入賞をはたしている人気商品となっている。

娘夫婦は、結局、身内など極親しい間柄の人にだけ、それにしようと決めて、ネット通販に詳しい名古屋の上の娘にも相談して、注文したようであった。

今日、その内祝が届いた。米袋の表面には「内祝」の表示と、「赤ん坊の写真」「赤ん坊の名前」「生年月日」「グラム表示の出生体重」「身長」が記され、次の言葉が添えられていた。「この度は、お祝いを頂きましてありがとうございました。出生体重と同じ重さのお米です。ぜひ抱っこしてみてください。」

下の娘とまーくん、それに名古屋の上の娘も帰って来ていて、女房も含めて交代でお米袋を抱いてみた。お米袋が腕へ馴染んで、赤ん坊を抱いたときと似た感じである。多分これくらいだったよなあ。そばで寝ているまーくんもそのあと抱いてみて、一ヶ月半で重くなったことに改めて驚いた。この「内祝」がヒットしている理由が理解できた。何よりも赤ん坊の誕生の一端を体験できるような気分にさせてくれる。

ただし、まーくんが3kg少々だったから使えた内祝いで、4kgもあったとしたら、娘夫婦も二の足を踏んだだろう。

故郷の「コウノトリ米」も、結婚式の引き出物に使ってもらうなど、色々なアイデアで販売しているという。「コウノトリ米」にも使えそうなアイデアだが、ビジネスモデルとして登録されているのだろうか。興味のある方は下記のHPへ。

新潟県長岡市山田1-7-4 株式会社今議商店
http://www.okomeplaza.com/ 
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真夏のキリギリス

(庭の夜のヒマワリ)

二階の廊下に上がると裏の畑でキリギリスが一匹鳴いていた。ギーース チョン ギーース チョン ‥‥ 夜涼しくなってから鳴く虫は数あるけれども、この暑い真昼間に鳴く虫は、蝉を除けばキリギリスだけである。「蟻とキリギリス」の童話ではキリギリスは冬に備えることをせずに遊んでばかりいる怠け者のように描かれているが、どうしてどうして懸命に猛暑を日向で生きている。子孫を残すためにメスを求めて懸命に鳴いているのである。

子供の頃はやせっぽちでキリギリスみたいだといわれた。キリギリスを良く見ると、他のバッタに比べて短胴でガッチリしていて、痩せっぽちとはいえない。ただ細くて長いのはその後ろ足で、飛び跳ねて逃げるのに使う。

50年前、故郷の真夏、盆地で風がなく真夏の昼下がりはじりじりとフライパンを焼くような暑さであった。しかし昔の子供は暑さなど気にしない。帽子だけを被って、円山川の土手へ遠征する。父親が畑を借りている立野という、昔の円山川の流れを変える河川改修工事で、新川と廃川の間に挟まれた集落である。真夏には畑と堤防が緑に埋まっている。

虫かごを肩から掛けているが、今日は虫網は持っていない。今日のターゲットはキリギリスなのだ。畑でも土手でも草むらがあると必ずキリギリスが鳴いていた。しかし縄張りを持っているのであろう。声が合唱になることは決してない。点々と鳴き声が聞こえている。

キリギリスも鳴き始めると一生懸命である。そおっと近付いて、じいっと目を凝らして探す。メスに見つかりやすいように草の葉先に近いところで鳴いているから、草に紛れやすい緑と茶色の体色だけれども、慣れてくれば見つけるのは比較的容易である。羽根を擦って懸命に声を出しているのは、オスだけで、メスは鳴かない。尾部に刀のような産卵管を持っているのがメスである。鳴かないメスはめったに見つけることは出来ない。ターゲットはオスである。

見つけたら周りの草を動かさないように両手で挟んで取る。鳴くのを止めたら気配を警戒している状態で、気付かれるとキリギリスは草むらに落ちて姿をくらます。そうなるとなかなか見つからない。他にたくさん居るから次のターゲットを探す。

元気そうな一匹か二匹を家に持ち帰って飼う。竹製の虫籠に入れて軒下に吊るす。慣れてくるとやがて鳴き始める。風鈴のように、キリギリスが鳴けば涼しさを呼ぶという訳ではない。町屋で夏らしさを演出する一工夫である。夏の暑さを逃れるのではなく、夏らしさを楽しもうという発想である。クーラーも冷蔵庫もなかったが、そんな知恵があった。
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権限を利権に換える

(毎日のように続報が続く大分県教委汚職)

オリンピックを直前にして、中国では毎日のように各地で暴動が起こっている。打ち続く自然災害に加えて、国はオリンピックが最大の課題で、他の問題はなおざりにされている。インフレが進み貧富の差がいよいよ大きくなっている。それらの矛盾が、腐敗した地方政府や警察に対して、暴動の形でぶつけられているのである。オリンピックが無事に閉幕を迎えることが出来るのか、誰よりも中国政府が危惧している。

最近読んだ本の中で「中国人は権限を利権に換えることを当然のことと思っている」と書かれていた。若干でも中国に関わった経験から言えば、その言葉は概ね正しいと思う。

中国では上は高級官僚から一般庶民まで、自分が仕事で与えられた権限ことごとく利権に変えている。1枚の書類を受理するという単純な仕事に過ぎなくても、その権限は利権に変えられる。何時まで経っても書類が通らないと思い、1カートンのタバコをつかませたら即刻書類が通った、などという話は日常茶飯事である。企業に雇われた人たちも例外ではない。車の運転手は委ねられた車を休みの日にはマイカーのように乗り回して少しも悪びれない。仕入担当は仕入業者から個人的にリベートをもらうことを当然のように考えている。中国では信用とか信頼という言葉は無いに等しい。

我々は中国及び中国人のこんな仕事に対する姿勢を笑いの話題にしていた。ところが大分県の教育界に大混乱を起こしている教師の採用、昇格に大金がやり取りされていたという事件は、とても中国のことを笑えない恥ずべき事態だと思った。

話は少し遡るが、江戸時代、田沼時代でなくても、幕府の役人になるためには多額の付届けが必要であった。そんなお金を払っても、その役に就けば十分取り返せると考えられていた。それが慣わしなってしまうと、悪いとは解っていても役人の間でやり取りされる賄賂は絶つことは出来ない。収賄側はかっては贈賄側で身銭を切ってきたわけで、それを取り戻せる利権をおいそれと離すはずは無いのであった。

大分県の教育界ではこの悪循環がまさに発生していたのではないだろうか。学校の先生は聖職と考えられ、外部からの干渉が少ない状況が続いた。何時から始まったかは知らないが、誰かが採用や昇格が利権になると気が付いた。金で身分を買いたいと考えた人が賄賂を出した。そういう人が次の時代の賄賂を受ける立場になっていくのであろう。これだけ世の中が様々な不正の糾弾に騒いでいるにもかかわらず、指摘される直前まで不正が続いてきたのは、この悪の循環から抜けられなかったためだと思う。

賄賂に手を染めた瞬間から彼らは教育者の資格を失ったのだと思う。無資格者に教育を受けてきた子供たちこそ一番の被害者であることを忘れてはならない。そういう先生の教えは子供たちの心の中で瞬間に色褪せてしまう。
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ここはぼくんちではない!

(壁に向かい合う、家の庭のヒマワリ)

日曜日、まーくんがアパートに引き上げたことは書き込んだ。昨日、午後、娘夫婦がまーくんを連れてやってきた。他の用もあって来たのだが、昨日の夜は一晩中泣き騒いで大変だったという。それも火の付くような泣き方で夜中まで続いた。夫君も寝不足で目をしょぼしょぼとして、黙り込むと居眠りでもしそうな感じで、今日が祝日で助かったようだ。家に居る間は夜泣きしてこんなに困らせたことは無かった。お宮参りに1日引き回されて興奮したのだろうというと、それもあるが、家が変わったことを敏感に感じたのではないかと娘夫婦はいう。まあ、少しすれば慣れるよとなぐさめる。座布団に寝かされたまーくんはぎらぎらと天井を見ている。

ここは一つまーくんの気持になって考えてみよう。生まれて一ヶ月過ごした我が家でまーくんはほとんど天井を見て過ごした。父母の顔よりも長く天井を見ていたはずである。

始めはぼんやりとしか見えなかったものが、だんだんはっきり見えるようになった。腹が減った、おしめが濡れた、眠いなど、世界が意に沿わないときは泣けば何とかなる。あとは天井を見ている。ときどき人の顔がそこに割って入るが、まだ誰が誰だか判らない。最もよく顔を見るのが母乳をくれる人である。天井を見るのに飽きると、少し泣けば抱っこしてくれて、天井の景色が少し変わる。さらにむずかれば、廊下に、隣の部屋に、台所にと天井の景色が変わって見飽きない。

少しだけ外出した。天井がなくなるとまぶしくて仕方がない。空は底が知れないから恐ろしい。外出する時は目を瞑っているに限る。昨日、お宮参りとかで少し長い外出をした。目を瞑ってひたすら寝たふりを決め込んだ。写真館で写真を撮りたいらしく、回りは何とかぼくの目を開けようと必死で、鈴や太鼓を鳴らしたり、身体のあちこちを触ったり、帽子や涎掛けを付けられたりと、うっとうしいことで、とっくに目が覚めていたが、絶対に目を開けてやるものかとがんばった。

妙に間延びした変な声が聞こえている。初めて感じる妙な気分である。少し泣こうとしたが、母乳をくれる人が泣かれると困るといった雰囲気が感じられた。ここはしばらく我慢して、泣くのを止めた。後ろのほうで一人騒いでいる赤ん坊がいたが、場所をわきまえない赤ん坊だと思った。

車に乗ってやっと家に帰ってきた。やれやれ、今日は長い外出だった。これでゆっくり寝られる。何と言っても赤ん坊は寝ることが仕事なのだから。天井が目に入った。だんだん焦点が合ってくる。あれっ!違う、違う、ちがう~~! ここはぼくんちではない!!
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第2回「古文書に親しむ」

(「歳代記」の中の「中山新道開通祭典絵図」)

土曜日の午後、第2回「古文書に親しむ」に出席した。2年前から継続して教材にしている「歳代記」の残り数ページを読み解くのが当面の課題である。「歳代記」は金谷宿の有力者が幕末から明治にかけて金谷宿の日々の出来事を記録したものである。これまで読み解いた分では幕末のえいじゃないか騒動の記録は面白かったと、先輩のMさんが話す。

「歳代記」の今日の解読部分には、主に、明治11年年末の金谷宿の大火の始末と、明治13年5月30日の中山新道の開通式の祭典の模様が詳しく記されていた。

「中山新道」は、明治になって、旧東海道の難所と呼ばれた小夜の中山を越して、金谷宿から日坂宿まで、車の通れる道を民間の力で開通させたもので、全長6.7km、工事費の総額が32,140円であった。日本最初の有料道路として通行料を取って運営した。(日本最初の有料道路は明治8年開通、小田原の板橋から湯本までの有料道路という説もある)明治22年、国鉄が開通したことにより9年にわたる役割を終えた。

筆書きの小さな文字で読みづらいが、読み解くうちに、明治初期の金谷宿の人々が今とほとんど変わらない日常を送っていたことがわかる。以下へ読み解いた文を掲載しよう。

関係者が集まった事前の会議で、落成の祭典は郷社巌室神社の祭典にならって行い、中山新道に御神輿の渡御(神輿が渡ること)を依頼し、縣令(県知事)を呼ぶことも決めた。そして当日を迎える。

 当月三十日、晴天、午前四時頃、定例太鼓にて町々へ触れ、次いで午前六時、御神輿が御社(やしろ)内を御出発。当宿坂口新道の御仮家(仮設建屋)へ御休み、その時、靜岡公団社員七名が奏楽を始め、次いで七時、靜岡縣令大迫貞清殿(以下「令公」)始め、ほか縣官数名、右場所へ到着。この際、打上花火一発、右打上壱番源平打分け。令公休憩過ぎて、また令公御先頭、続いて御神輿、御行列、戸長・議長・用係・議員・各町村惣代・氏子一同御供奉(ぐぶ)つかまつる。
 次いで午前十時、中山の小泉忠六郎殿、菊川村境まで国旗を持たせ御先払い。ほどなく小泉屋敷の御仮家へ御到着。暫く休憩。令公は日坂宿入口まで御巡覧。その間、小泉方にて白丁(神事で白衣の従者)警衛の人、各御神酒、昼飯いたす。ほどなく令公日坂より御帰り、休憩ありて又々御先頭は令公、続いて御神輿、御供揃い行列にて還御。御通筋の賑しき事、当宿坂口の御仮家へ御到着。また花火一発。最寄参詣の人々押分け、暫く休憩ありて、その際奏楽始る。終って御社(やしろ)内へ御到着に相成り、渡御を目出たく御祝いし、一同退散。
 それより坂口新道の景況は、縣令ほか官員へ結社人(工事の発起人)より饗応、続いて戸長・用係ほか役員へ饗応、それより投餅、接待酒が始まり、午後三時頃、令公御帰縣に相成り、その後、町中群がる人々多し。新町より坂まで、諸商人板店さらにカラクリ、もっとも本日は日曜にて隣宿・隣村、老若男女、童とも見物多し。
 新道入口の飾り付けは、まず入口へ西洋飾り、長さ拾五間、周り壱丈弐尺の蛇籠にて仕立て、中へ藁を入れ、榊・椿の青葉を差し、橙(だいだい)を吊り下げて、さらに赤き小提灯をおよそ壱米五十程下げて、白縮緬にて中へ緋縮緬の丸を入れたる、その国旗、長さ一丈八尺、巾八尺、右飾りへ打ち違いに弐本建て掛け、その並びへ仮小家を数ヶ所建て、紅白幕にて囲う。午後六時より打上花火拾発、さらに仕掛花火、西洋飾り中段へ藤棚をこしらえ、およそ拾間先、見物人の中より網火にて火を移し見事に花火終わる。石流に響く靜岡曲金村の仕掛花火、伏見殿の御気遣いにて拝見、大評判々々々。以来も少しずつ氏神祭典に頼みたく候えども御遠慮々々々。

(「てにをは」を付けたり意訳した部分もある)
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