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伊藤清次郎さんの「天災地変記録」 11 - 掛川古文書講座

(ムサシの散歩の影)

掛川古文書講座に出席する。先月に続いて、伊藤清次郎さんの「天災地変記録」の明治の分である。

天子様御東幸仰せ出され、いよいよ三月御幸輦に相成り申し候。三月御幸輦に相成り、徳川様御役人方、壱町間に御壱人ずつ、麻上下にて御立ち並び、御警固遊され候。御奉行内藤七太郎様、その外、地方役所より御役人、皆々御出張り。四月廿二日大水、善光寺下、水丈六、七尺。

五月、奥州脱走平定の風聞有り。五月廿日、これより凡そ四十日、雨天続き、冷気にて綿違作。七月十三日、烈風吹出し、大雨大満水、善光寺下水丈、凡そ壱丈ばかり。廿四日頃、雨降り田畑とも違作。その内、綿大違作にて、過半、穂をこぎ申し候。九月一日、中水。官軍、奥州平らげ登る。町役毎日当たる。九月、十月雨天がち、水あり。

明治三午年二月九日朝、原川土橋まで、中泉様御支配所、井通り村々より、人数八、九百人、靜岡へ蓑のかぶりに参り候ものの由。三月十六日、中水、善光寺下水丈六尺。七月廿一日大降り、善光寺下水丈七尺。九月八日朝より、東風大きに吹き、また西風成りて強し間に潰家あり。並木ころぶ。大水出る。善光寺水丈七、八尺。また十八日大風雨、同所水丈七、八尺。納米廿分一の積籾する。御上様にても、廿分一の積籾する。これは萬民御助成の御思し召しと云う。本年七、八月の風雨にて、違作と成り、御検見に相成り申し候。
※ 蓑かぶり - 百姓一揆の一種。
※ 積籾(つみもみ)-納米の一部免除をして、飢饉に備える、減税の一種。


一 明治四未年一月一日より、中頃まで寒気強く、氷る事珍しき事なり。七月、岡津村大庭文右衛門方へ、靜岡御役所より、水利御役人、内田少属、倉橋史生と言う御方、ご両人、善光寺下乗り水御見分として、御出張り、逆川筋御見分の上、当梅橋村字かやの木坪、及び字高畑より新堀へ、二ヶ所瀬違えの御談示あり。

度々、岡津村御宿、大庭文右衛門殿方へ行き、二ヶ所だけの瀬違えにては、梅橋田面尚々水入場と相成り、迷惑の旨申し上げ、何卒その一ヶ所、瀬違え致し、原ノ谷川落口まで、真っ直ぐに相成り候様、願い出で候所、その義、むずかしき趣に付、然らば、梅橋田面字稗田より、下石野村境まで大丈夫成る堤防、新築相願い候旨出願致し候処、これは御聞届け成るべく候えども、その後間もなく、御二方静岡へ御引取りに相成り、右の瀬違えは御流れに相成り候。七月十三日、大満水、善光寺下水丈八尺。

八月十九日、社寺境内上地の御見分来たる。この時、前々境内の内、上地と現境内と境杭を打ち、徳川様御領地上地し、浜松へ県立たむ。諸大名残らず上地と相成り、王政復古御一新と相成り候。
※ 上地(あげち)- 上知。江戸時代,幕府が大名・旗本・御家人から,また大名が家臣から,それぞれの知行地を没収すること。また,その土地。
(続く)
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