平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
お茶の凍霜害に緘口令?
靜岡県の30日の凍霜害はかなり広範囲のもので、大きな被害になったようだ。温度が低すぎて防霜ファンも効かなかったという。霜害というよりも凍害で、免れたのはスプリンクラーが回っていたところだけのようだ。もっともまだ芽が動いていなかった遅場地域は凍霜害の影響はないのだろう。
温暖化が進んだせいなのか、この10数年、年々お茶が早くなっている。かつては新茶といえば、「♪夏も近付く八十八夜‥‥」で5月の始めに店頭に出てくるものであったが、最近はどんどん早くなってきた。一つには茶園で防霜ファンが回ることで、お茶の芽だしが早くなったとも言われている。新茶の時期に販売される新茶はほんの一部で、ほかは一年間にわたって消費されるのだから、お茶がそんなに早く出来ても保管費用が掛かるだけである。それでも先を争って1日でも早く生産しようとするのは、荒茶が品質だけで価格決定されるのではなく、相場が日を追って下がっていくからである。その結果、昔ならこの時期の霜など影響がなかったものが、大被害を起こしてしまうようになった。
早場として有名な地域の茶園には行政やJAなど茶業関係者の視察がひっきりなしに来て、新芽の黄緑に染まっていた茶園が茶色に変じているありさまを見て帰ったという。30年振りの大凍霜害だという人もいる。
ところが本当に不思議なことであるが、これだけの大きな被害について、テレビや新聞、インターネットなど色々調べてみたが、この被害に触れたものが見事に一件も無かった。見逃したのかもしれないが、まるで、業界、マスコミ挙って緘口令が引かれているのではないかと疑われるほどである。
生産者はこれだけの被害が出ているのなら、もっと大々的に報道してもらって、世間の注目を受けて、国から激甚災害の対策を受ける必要があると思う。それでなくても事業仕分けに厳しい民主党政権では、世間的に注目を受けなければ、援助の手も差し伸べられないのではないかと危惧する。
どういう思惑からの緘口令なのか、さっぱり理解できない。値が上がることを恐れて、問屋側が口を閉ざそうとするならばわかるが、生産者側も口を閉ざすのが理解ができない。霜を受けた葉が混じるとお茶の商品価値は無くなる。霜を受けたお茶を黙って売ってしまえるほど、お茶の問屋はいい加減ではない。緘口令を引いてみても、情報は全国の茶業関係者の間を駆け巡っている。霜を受けたニュースが大々的に報道されると、新茶の商戦に水をぶっ掛けてしまうという思惑があるのであろうか。業界の近くにいながら昔から疑問に思ってきたことである。
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今朝の霜が心配なお茶の産地
今朝、静岡県には霜注意報が出ていて冷え込んだ。広範囲に霜が降りたようだ。出掛けにご近所のMさんに会った。我が家の向かいの茶園の様子を見に来たようであった。霜柱が立っているという。冷え込みが予想以上で、大きな被害が出ていなければいいがと心配そうに言う。自宅の前の茶園は芽が2センチほど出ていて、昨日はすでに黄緑色の新芽の色に変わってきていたが、新芽が霜にやられて色を失いつつあった。防霜ファンが付いていないから、出ている新芽はおそらく助からないであろうと思った。一芽欠いてしばらく常温で置いて置いたら、写真のように茶色くなった。茶園全体がこうなってしまうと刈り落とすしかない。東側の茶園はまだ芽が出ていなかったから被害はなかったようだ。
車で少し走った茶園はスプリンクラーが作動して、茶園の表面を氷が覆っていて、全面見事に凍っていた。これだけ凍っていても、このまま水を掛け続けておけば、氷が溶けるが、新芽を傷めないで済む。スプリンクラーは防霜ファンよりも有効な霜対策である。
(霜にやられたお茶の新芽)
全県的にどのくらいの被害になったのだろう。特に早場の地域の被害が気になった。ほとんどの茶園には防霜ファンが付いているから被害を免れているところは多いと思う。
会社へ出て話題にしていて、新しいことを教わった。お茶の表面が凍るだけなら0度で新芽を駄目にすることはないが、日が当って氷が溶けて水になるとき周囲から熱を奪って、その低温で新芽が駄目になるというメカニズムであることは知っていた。日が当った面の新芽だけが駄目になった茶園なども、かつて見たことがある。ところがもっと気温が低くて氷付いてしまうと駄目になる。前者が霜害で後者が凍害で、合わせて凍霜害などと呼ばれる。
スプリンクラーの場合、一見氷が張り付いているようでも、水が次々に供給されて次々に氷が出来ていく状態であれば、氷が溶けるときに熱を奪うのとは真逆に、水が凍るときには周囲に熱を放出するため、周囲の氷は0度以下には下がらないから、新芽を駄目にすることもないという。凍害は霜で下りた水分が凍って、外気がさらに低いと氷が0度よりも低くなってしまうから、その時点で新芽の細胞を壊してしまうというメカニズムである。
朝になってスプリンクラーで水を掛け続けておれば、氷が溶けるときに熱を奪って0度より下がろうとするのを、掛ける水で防ぐことが出来る理屈である。だから、防霜ファンよりもスプリンクラーの方が凍霜害に有効であるといわれる。
明朝も霜注意報が出ていて、今朝ほどではないけれども冷え込むというから、大変心配である。
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高野山へ結願の報告に行く その3
奥の院参道から出て来た所が一ノ橋口であった。それより金剛峯寺に向って歩いた。道路左側に、熊谷寺、恵光院、大明王院、苅萱堂、右側には地蔵院、遍照光院、三宝院、摩尼塔、などと続いていく。苅萱堂には親子の名乗りを上げないまま修行を続けた苅萱道心と石童丸の伝説が残っている。摩尼塔は昭和59年に建立された金剛峰寺成福院の八角三重塔である。ビルマ戦没者供養塔ともいわれる。三重塔というより、ビルマのパゴダを意識して造られたものといわれる。
(金剛峯寺本堂)
千手院橋の四つ角を直進し、200メートルほど進んだ右側を入った所に金剛峯寺があった。静かな広い境内に檜皮葺きの間口が広い本堂があった。高野山真言宗の総本山で、全国3600といわれる末寺を束ねている。檜皮葺き屋根の棟に幾つか桶が載っている。観光客の一段がやって来て、ガイドの男性が桧皮葺の説明の後、
「棟に上がっている桶は火災に備えて水を湛えて置く桶ですが、現在は消火設備も整っているから水は入っておりません。今、巷で流行の “カラオケ” です」
と説明し、どっと笑いを呼んでいた。本堂正面で勤行を終え、右手の社務所に靴を脱いで上がって納経印を頂いた。これで本日の目的は終った。それほどゆっくりは出来ないから、中の見学は又の機会として、金剛峯寺を後にした。
(根本大塔)
ここだけはどうしても見ておきたいと考えていた、根本大塔などのある壇上伽藍に向う。蛇腹道という固められた土の道を通って壇上伽藍に入った。右手に東塔、三昧堂、大会堂、愛染堂と続き、向かいに不動堂、その向こうに朱も鮮やかな巨大な根本大塔が聳えていた。根本大塔の向かいの大きな建物が金堂である。金堂前の広場で根本大塔を背景に、コンサートがあるようで、準備が進んでいた。壇上伽藍はさらに続いていたが、根本大塔に圧倒されて、見学はここまでにし、帰途に着いた。もう少し行けば、西塔があったことに後から気付いて少し残念だった。
千手院橋の四つ角まで戻って、うどん屋に入り鍋焼きうどんを頼んだ。テーブルの斜め前に自分より少し年配の男性遍路がいた。白いひげを伸ばし四国遍路を終えてその足で高野山に来たという風情であった。聞いてみようかなと思ったが、四国であれだけ気楽に言葉が交わせたにも関わらず、最初の一言が結局出ないで終った。おそらく自分もお遍路の装束に身を固めておれば、言葉は何の躊躇もなく出たのだろうと思った。
バスを待つ間にも、帰りの電車でも、お遍路さんを何人か見たけれども、結局、今日一日お遍路さんと一言も交わすことがなかった。お遍路はもう4ヶ月前に終っていて、自分はもうお遍路さんで無かった。自宅には午後8時過ぎに着いた。
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高野山へ結願の報告に行く その2
高野山のケーブルカーで高野山のガイド放送を流していた。弘法大師が開山された高野山には74のお寺がある。高野山は標高800メートルの高地に広がる宗教都市である。町の人口は4000人、内僧侶が1000人といわれているなどと案内していた。
ケーブルカーで登り着いた高野山駅からフリー乗車券でバスに乗った。バス道は山に沿って大きく蛇行して進むが、ほとんど高度は高めていない。10分も行かないうちに高野山の街中に入り、道の両側に様々な意匠の寺院が並んでいる道をさらに10分足らずで奥の院前に着いた。
お遍路の服装で来るかどうか迷ったが、結局、菅笠、金剛杖、白衣は止めて頭陀袋だけをザックに入れてきた。山の中で、寒いだろうと冬支度でやってきて正解だった。道路の日陰に白いものが残っているから、昨夜もちらついたのだろう。日差しは春を感じさせるが、標高800メートルの山地は冷える。
(高野山奥の院参道)
奥の院への参道には樹齢何百年という杉が立ち並んでおり、その間を夥しい数のお墓が新旧入り混じって建っている。それを貫くように石畳の参道が続いている。それらのお墓は大変興味を引かれるが、見学は帰りにして、奥の院へ進んだ。
弘法大師が入定された後、廟をこの地に建て、弘法大師信仰の中心聖地、奥の院とされている。御廟の前の燈籠堂には「貧女の一燈」や「白河燈」が一千年以上消えることなく燃やし続けられているという。燈籠堂の背後、山の斜面の廟を見上げる場所で勤行をして、結願の報告を行った。納経所の場所を聞くと200メートルほど手前にあった。若い男性係員が丁寧に書いて、ドライヤーで乾かすところまでやってくれた。多くのお寺を回ったが、これだけ丁寧な納経所は初めてであった。各札所では御本尊の御姿を頂いてきたが、ここのお姿はもちろん弘法大師その人の姿であった。
帰りは墓所を見学しながら歩いて金剛峯寺へ行こうと思った。奥の院の参道の両側はお墓で埋め尽くされていることは書いたが、有名どころには標識が立っていて判る。武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、石田三成、伊達政宗と武将たちのお墓が並んで、まるで大河ドラマの世界のようであった。江戸時代に入っても、浅野内匠頭と四十七士、加賀前田家、薩摩島津家、徳島蜂須賀家、出羽庄内酒井家など諸大名が並ぶ。途中で、大岡越前守の墓所を見かけたかと、女性に聞かれた。それは見逃してきた。それらの墓所の間に、日産自動車、江崎グリコ、パナソニックなどの企業戦士たちに慰霊碑なども混じり、市川団十郎の墓所があるかと思えば、一般庶民のお墓も数多くある。不思議な場所であった。徳川家の墓所がないのは、徳川家霊台という別の場所にまとめてあるからである。敵味方、勝者敗者、歴史に名を残した人物から名も無き庶民まで、死んでしまえば何の区別も無く、弘法大師を崇敬しているという一点さえあれば、差別無く受け入れてしまう、弘法大師信仰の大らかさをこんなところにも感じた。(明日へ続く)
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高野山へ結願の報告に行く
今朝、5時に起きて、朝一番の電車で高野山へ結願の報告に出掛けた。遠いけれども新幹線を使えば日帰り出来ない距離ではない。一泊することも考えたが、日帰りを選んだ。この3ヶ月間、パソコンの前に胡坐をかいて作業をしている時間が多くて、腰を痛めてしまった。絶えられないほどではないが、鈍痛が気になって、鎮痛消炎剤を貼っていた。そんなこともあって日帰りに決めた。
高野山の奥の院には今も弘法大師が生きている。その証拠に1200年以上の間、毎日欠かすことなく弘法大師のために食事が用意され続けているという。弘法大師の跡をたどって、四国八十八ヶ所の霊場をお遍路して結願をしたら、高野山へ結願の報告に行くしきたりになっている。すでに結願してから早くも3ヶ月経ってしまったが、ようやく今日、結願の報告が出来る。
「四国お遍路まんだら」のあとがきにはどうしても高野山行きのことに触れなければならないから、何とか3月中には実行しようと思っていた。
新大阪から地下鉄で難波に行く。大阪の地下鉄のエスカレーターでは、急ぐ人を通すため右側に乗って、左側を空けるルールになっている。関東では左に寄って右を空けていたから、間逆になっている。関西でも新幹線は関東ルールになっているようで、地下鉄に向うエスカレーターで左に乗って前後を見て違いに気付き、右に寄った。狭い日本で、そんなことは全国統一でいいと思うのだが、これも関西の反骨精神であろうか。
南海電鉄には始めて乗った。窓口で切符を買おうとすると、サービック券というセットの券を進められた。「高野山・世界遺産きっぷ」となっていて、高野山への往復乗車券、往路特急券、南海りんかんバスの高野山山台フリー乗車券がセットになっていて、各種割引券がついて、3,310円と割安になっている。
(南海電鉄特急こうや)
特急電車も高野山に近付き、山の中に入って来ると、急カーブが続いて特急らしからぬ、のろのろ運転になって、極楽橋駅まで1時間半近く掛かった。極楽橋駅から高野山駅は南海高野山ケーブルで標高800mまで5分で登る。サービック券の表示は無かったが、南海電鉄の乗車券がこのケーブルカーまで含めた料金であった。
朝食をせずに出て来て、朝早くて構内の売店も社内販売も無く、高野山駅前の食堂まで来てようやくきのこカレーを食べた。カレーの味が丸くて、昔のインスタントカレーのようであった。おそらく業務用のカレーなんだろう。自分が作るカレーの方が遥かに美味い。(少し自慢)とにかく食事に有りついて、腹ごしらえをし、バスで奥の院に向った。(明日へ続く)
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土手の桜の花
今日は、一転して晴れたが、風が冷たかった。留守番二日目、ムサシの散歩の途中に、咲き出した桜の花を写す。
午前中、一年9ヶ月のまーくんのお守を頼まれる。何とか泣かせないで済ませた。
明日は一番の電車で高野山へ報告のお参りに行く。今夜は早く寝なければならないので、ここまで。
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ムサシは雨を厭わない
女房は今日早く名古屋に出かけて、二日間留守番である。1日目の主たる仕事はムサシの散歩だけである。外は1日雨で、ムサシの散歩以外はテレビを付けたまま呆けたようにうつらうつらして過ごした。お遍路の原稿を提出し終えて気が抜けてしまったようである。
ムサシは躾けたわけではないが、家の屋敷内では排泄をしない習慣が付いてしまった。小は縄張りのためにあっちの草むらこっちの電柱と、少しずつ引っ掛ける。人の家の前ではさせないようにリードを引くが、散歩コースはほとんど土手や畦道だから小は勘弁してもらう。大はやや広めの草が刈られた後、例えば田んぼに農機具を入れる斜面などを好んでする。直前にリードをぐいぐい引っ張って勢い良く進み、腰を屈めて気張る。その気配にすかさず四つ切にした新聞紙で受けて包み、ビニール袋に入れて持ち帰る。ドッグフードしか食べさせていないので、糞もこじんまりしたもので扱いは楽である。散歩させる愛犬家の中にはいまだに糞を処置しない人や、小さなスコップを持っていて、すくって川の方に放り投げてすます横着者がいる。そのような人は犬を飼う資格がないと思う。
そんな訳で、朝夕2度、散歩に出ないと、じっと耐えているのが辛そうに見えるから、どうしても出ないわけには行かない。ムサシの散歩に女房はいつもお天気を気にしていて、ネットのピンポイントのお天気情報で雲の動きを見ながら、雨の止む時間をねらってムサシを散歩に連れ出している。女房はムサシが雨だと散歩を嫌うという。今までは、自分も雨の止むのを待ってムサシを連れ出すようにしていた。
ところがこのところ雨ばかりである。雨が上がるのを待っていては散歩に出れない。今日も朝から1日雨で、かまわずに朝の散歩も夕方の散歩も雨の中出掛けた。それで判ったことは、ムサシは決して雨を厭わないということであった。犬はそのために防水の毛皮を着ているわけで、濡れればぶるっと一振るいすればノープロブレム。今日は2回とも雨の中を元気良く散歩に出掛けた。
雨を厭うのは付き合う人間様の方で、風があったりするとズボンが濡れてしまう。しっかり服装を固めて出かければ大丈夫である。2度とも近回りして帰ってくるかと思えば、こちらがセーブしないと、どこまでも行ってしまいそうな、いつもと同じ勢いであった。
さて、ちゃんと糞もして持ち帰り、ご苦労さんのおやつを与え、リードを自宅用の長いものに付け替えようと近付いた途端、ブルブルっと一振るいして、こちらの方が濡れてしまった。そのタイミングで一振るいはまずいよムサシ!
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茶価は正当に決められているか その2
お茶とみかんの何が違うのか。そんな疑問符に終って二週間近く経った。続きはすぐに書くつもりでいたが、理論展開に少し揺らぎがあって、この二週間にこの問題について何人かの人と話してみた。自分の意見をぶっつけてみると、少し乱暴な展開をしていることにも気付いた。自分の考えも少し進化させて、改めて、疑問符を投げかけるところから話を始める。
お茶とみかんの何が違うのか。
最も大きな違いはお茶は一次加工をした荒茶の段階まで進めて置くと、保存が長期に出来る点である。ミカンであれば冷凍をして何ヶ月か保存は出来ても、保存の後に販売するのは “冷凍ミカン” であって、生のミカンはそれほど保存はきかない。一方、お茶は窒素を封入して低温で冷蔵すれば、1年経っても2年経っても品質はほとんど変らないと言われている。そこまで冷蔵保存技術が確立している。
だから、在庫に残っても、問屋側は安売りして処分する必要は全くない。新茶の時期に、生産者は問屋筋の在庫量を大変気にしている。お茶は決して産地間で競争しているわけではなく、自分たちが昨年以前に販売したお茶と販売競争を強いられている。昨年、安く取引したお茶が残っていると、問屋はその価格より高いお茶は中々買わない。行き場のないお茶は値を下げることで何とか販売しようとする。問屋は値が下がるのを待って買えばよいわけで、そのお茶が次年度に在庫になっても何も問題ないから、安くなれば需要の増減に関わらず取引が成立する。そのようなメカニズムでお茶の値は年々下がってきた。
1年で売り切らねばならないならば、需要が下がれば、問屋は決して余分に買うことは無く、売れなくなるお茶が出ることになっても、安い茶価が翌年以降の茶価に影響することにはならない。また売れなくなるお茶が出ることで、自然にお茶の生産は翌年以降調整される。
しかし安くなっても売れている以上は翌年に生産が調整されることはない。それどころか、茶価が安くなっても昨年の売上げを確保したいと思う生産者は増産して対応しようとさえしている。売上げは茶価×生産量で計算できるから、その一点で考えれば計算間違いではないが、増産した結果は翌年の茶価を下げる方向に確実に響いてくる。このような悪循環が茶業界で起きていて、茶価は年々下落して行く。お茶が安売りされることはないから、問屋側が一方的に利益を得る結果となる。
お茶の需要が下がって、問屋の売上も確実に下がっているが、利益は着実に上がっているから、問屋筋にほとんど危機感がない。生産者が需要拡大のために、生産者が問屋筋の消費者への働きかけをどれだけ期待しても、利益が着実に上がっている以上、問屋筋が本腰になることは期待できない。
いつからこんな状態になってしまったのだろう。続きは次回。
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筆文字の出来栄え
「四国お遍路まんだら」の題字を毛筆で書こうと思った。一文字ずつゆっくり書けば何とか見られる字が書けるはずだと思った。三日ほどかかって、こんなものでよいかという字になった。上手い字は嫌味である。まずい字では格好が付かない。本当は年齢から滲み出る味のある字を書きたいと思ったが、それはまだ無理なようだ。それでようやくこんなものかと諦め半分に決めたのが写真の字である。一番難しかったのは四国という同じように□で囲われた2文字で、どうにも格好が取りづらくて何度書いてもいい字にならなかった。
学校の授業以外で先生に付いて習字を学んだのは小学校三、四年の頃だけである。自信の源泉はそこだけであった。小学校三年の担任の女先生が書道の先生で、その先生に課外で学んだ。もっともそこで学んだのは太筆による楷書だけで、行書、草書、細筆の使い方などを学ぶところまで行かなかった。
その後50数年、会社生活ではほとんど筆を使うことはなかった。年賀状を筆で書こうとしたこともあったが、うまい字が書けないまま、パソコンが発達して、その機会もなくなった。最近では慶弔用の袋書くらいで、上手に書けた例(ためし)がない。近所のお葬式で他に書き手がいなくて、細筆を持たされる役回りになって、筆ぺんを持って下手でも何でも限られた時間にたくさんの文字を書く機会が何度かあった。上手下手を度外視して思い切り書く度胸は出来たけれどもそれだけであった。
細筆の使い方、行書、草書の基本を知らないから、何度書いても一向に上手にならない。金谷宿大学で古文書を2年勉強して、読むことはかなりできるようになったから、今年は細筆で細かい字を書く勉強をしてみようかと思う。月2回で一年やってみれば少しは書けるようになれるだろうか。
故郷の亡くなった親父は書を良く書いた。戦後、40歳を過ぎてから習った書であった。性格をそのままに、きっちりした楷書だけであった。行書や草書は見たことがなかったから、学ばなかったのだろう。展覧会に出すような書ではなかったが、子供の目にも上手だと思った。晩年は老人施設の会合の案内看板などを頼まれてボランティアで良く書いていた。
親父から書について何かを教わったことは無かったが、画数の少ない我が家の名字を上手に見える書き方として、筆の第一着目を思い切って太く書く方法は、見様見真似で覚えて、今でも実践していて、中々効果的だと思っている。
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とうとう原稿が我が手を離れた
今朝、「四国お遍路まんだら」の原稿及び写真を印刷屋さんに渡した。媒体はUSBメモリーで、原稿をA4版に印刷したものと共に渡した。ついでにイメージを早く知りたくて昨日作成したA5版の本にしたものを見せたところ、中を見てよく出来ていると誉めたあと、この通りでよければ手間が省けて安く上がるという。そこはちゃんとプロの目を通してもらわないと意味がないから、そういう訳にはいかないと断わった。自費出版の2冊目を作ることがあれば、その時はそんな方法で安く上げることも悪くはないが、素人が気付かない幾つかのポイントがあるはずである。
以下打ち合わせた内容を書いて置く。
1.文字の書体は明朝体でよいかと聞かれた。他に良い書体があれば教えて欲しいと答えた。大きさは10.5ポイントでよいかと聞くから、読む人が年齢の高い人が多いだろうから、最低でもこのくらいは欲しいと答えた。
2.段組は一段で良いかと聞かれた。2段組にするのは文字が小さく文字数が増えたときに、それのほうが一行の文字数が減らして読みやすくするためである。ただ、この文字大きさのままで、2段組にすると一ページに収まる量が減るから、ページ数が増えることになる。文字はこの大きさで、この文字数でよいと答えた。
3.一行の文字数、行数ともに、少し窮屈で、上下と左右の空白はもう少し余分に取るから、ページ数が少し増えるという。
4.写真はキャプションを入れるから今の90%ほどの大きさになる。自分の方からは、写真のファイル名に何日目とキャプションが入れてあるから、合わせて欲しいと頼んだ。
5.カラー写真8ページをアルバムとして作る件は、写真を42枚用意したが、費用が安く上がるようなら、何とか入れたいと思っていると話した。その場合、カラー写真にナンバーを付けて、本文から跳べるように、本文中に注を入れたいとも話した。
6.題字は自分で筆で書いて渡そうと思うがどうだろうと聞くと、色々な書体が用意できるが、出来れば自分で書かれた方が味が出てよいという。
7.とにかく少し進めて総ページを求め、確かな費用を算出することを急ぎたいという。
8.あとがきはまだ書いていないことを前もって話した。出来るだけ早く、高野山に報告に行って、その結果を書きながらあとがきを書こうと思う。
高野山には何とか、今度の土日ぐらいで行きたいと考えている。高野山への報告を終えた上で、それを踏まえてあとがきを書こうと思う。
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