平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
ブログの力(「かさぶた日録」10年) 2
(荒らされた花壇と、ネットを張った花壇)
昨日の朝から材料を買ってきて、扇型の花壇を作り、頂いた花の苗をぎっしり植えた。今朝、花壇がめちゃくちゃになっているのに気付いた。夜中に野良ネコが来て遊んで行ったようだ。新しく入れた土はふかふかで気持ち好かったのであろう。今朝、直して周りに網を張った。
(昨日の続き)
「一豊堤」の件は決着したように思ったが、それでは、どうして公的機関までが、その堤のことを「一豊堤」と呼ぶようになったのだろうか、という疑問が残った。
いったい何時からから「一豊堤」と呼ばれるようになったのか、手っ取り早く、ネットで検索してみた。
最初に検索されてきたのは、掛川市の関連HPのようで、「一豊と掛川 その4」で、「この堤は現在も地元の人達に、一豊堤(横岡堤)と呼ばれ、石碑が建てられ、大切にされています」という記述であった。これを読んで、中村先生はその石碑に「一豊堤」と記されていると早合点されたのだろうと思った。
次の検索では、2006年3月19日の「かさぶた日録」が出て来た。「一豊堤」について、自分も書いていたのである。その頃、NHKの大河ドラマ「功名が辻」で一豊が扱われていて、それにちなんだ記事で、以下のように「一豊堤」を紹介している。
志戸呂堤とか横岡堤といわれているが、藩主の名前をとって一豊堤と言われることもあるようだ。
ネット上ではこれがもっとも古い「一豊堤」の記事のようだ。自分も女房も「一豊堤」のことは義父に聞いていて、当然、一般に言われているのだろうと信じて疑わなかった。義父は自分でネーミングしたのか、誰かから聞いたのか、今となっては判らないが、誤りを広めた元凶は、顕彰碑ではなくて、この「かさぶた日録」だった。
ブログの力は恐るべきである。「一豊堤」は、もういくら否定しても、定着した名前として、消すことは出来ないだろうと思う。
義父がどうして「一豊堤」にこだわったのだろう。金谷の町は、天正の瀬替え及び一豊堤によって、大井川の川原だった一帯が利用できるようになり、開発されて出来た町である。ところがそのことは、町民にすら知られていなかった。だから、顕彰碑を建てたいと思った。その際、堤の名前が「横岡堤」や「志戸呂堤」では、その物語が見えてこない。「一豊堤」と称することで、物語が大きく広がって見えてくると考えたのではなかろうか。
同じ理由で、その後、様々なところで「横岡堤」や「志戸呂堤」ではなくて、「一豊堤」の名前が使われるようになったのだと思う。歴史的事実を曲げてはならないというのであれば、2006年、NHKの大河ドラマで「功名が辻」放送がきっかけで、地元で「一豊堤」と呼ぶようになった、と記せば、これが歴史的事実になるであろう。
(つづく)
ブログ10年目の一年、大変お世話になりました。来年はいよいよ古来稀なる齢を迎える。どんな年になるであろうか。
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ブログの力(「かさぶた日録」10年) 1
12月5日、「金谷の歴史いろいろ」と題した中村肇氏の講演会に出席したことは、このブログで触れたが、講演の中で、話が天正の瀬替えになったとき、気になる発言があった。
地元の人から、天正の瀬替えについて顕彰碑を建てたいが、駿河山の切り割りと同時に、金谷側に堤が作られた。当時の掛川藩主は山内一豊だったから、現存するその堤を「一豊堤」と呼びたいが、歴史的にどうであろうかと、尋ねられた。その堤は、志戸呂堤とか横岡堤と呼ばれてきたが、歴史的に「一豊堤」と呼ばれた事実はないと答えたが、その後、顕彰碑に「一豊堤」と記してしまったようで、以降、公的な機関までが、その堤のことを「一豊堤」と呼ぶようになってしまった。後世に残る石碑で歴史をゆがめるのは、困ったことである。
実は、碑を建てたのは、誰あろう、亡くなった女房の父である。義父も長年教師を勤めて来た人だから、そんな勝手なことをするとは信じ難かった。さっそく、横岡に建つ碑を見に行った。横岡の旧道沿い、横岡水神社の石段左側に石碑は建っている。現代文で書かれているから、そのまま読める。
中村一氏、山内一豊 顕彰
天正18年(1590)駿河領主中村一氏が駿河山を切り割り、大井川の流れを駿河側に替えた。(現在の牛尾山を駿河山相賀山とも言う)掛川藩主山内一豊は堤防を築き、五和、金谷河原を開き、黄金の波打つ美田を造成した。これを天正の瀬替と言う。
追補11年間の東海道(新宿の地名)
慶長9年(1604)大井川の洪水により、田地は押し流され一面河原と化した。島田の北側山地沿いの元島田に宿を移し、元島田から片瀬、旗指、河原口、伊太村、笹久保を通り、大井川を渡り、牛尾を抜け、竹下、新宿を通り、掛川坂または観音寺坂から行田原に登り、ここから御林を通り日坂に出るコースが、元和元年(1615)までの11年間、正規の東海道として利用された。元和元年には元島田から島田宿に復帰し、翌年元島田と野田村境に建てられた代官所を、宿の中央に移した。
平成七年五月 贈 金谷町北川茂
何度、読んでみても「一豊堤」とは、一言も記されていない。中村先生は、この碑を自分の目でご覧になったわけではないようである。義父は中村先生の話を聞いて、納得して「一豊堤」の表示を断念したのだろう。この件に関しては、亡き義父は全くの冤罪である。いまや反論できない義父に代わって、義父の名誉のために発言しておかねばならないと思った。(明日へ続く)
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上越秋山紀行 下 34 秋山言葉の類 2 (終り)
頂いてきたビオラなどの苗、年内には地に植えなければならない。
「上越秋山紀行 下」の解読を続ける。
一 すべて衣類をぶうとうと云う。その上に、細絹など着るもあり。これは山にあるイラと申す草を製し用い、油袋などに里へも売り出すとなん。ぶうとうは我等方にても申すなり。いかにも破れたる垢付きたる衣類を訛りにて申すなり。
一 寒中には里の藁筵の如く、長く織りたるを二つに折り、叺(かます)にいたし、その中へ柔かなる干草、または藁のしび入れて、その中へ体を入れて寝る。夫婦はひとしお大きなる叺に入り寝る。何れ叺を用いるは、まだ上品なり。多くは極寒と云えども、帯解かずそのまゝに臥し、また炉に大火を焚き、その辺りに寝るもあり。この話、書くうちに不図(ふと)思い出るにまかせて、
※ しび - しべ。藁の穂の芯。わらしべ。屑藁。
みちのくの 菅にもならで 秋山の
叺の中に 妹と背がねる
一 茶煎は予が立寄る毎に、家々に見たる。皆な鍋欠けなり。
一 米は一年中に、大晦日の晩に限り。正月三箇日は栃にも餅栃と云うあり。これを製して三ヶ日は栃餅を食べる。また春、秋、日待ちと云うありて、右の栃餅を搗く。ここに一つの噺あり。一とせ、見玉の者、借金にもまれて、秋山へ逃げ行く時に、秋山の知り人の方を尋ね、鯖二た掛け土産に持ち行くに、大丗日(大晦日)の夕飯に、家内の者、一と切れずつ焼いて喰う。折からその家に老人あり。家内へ申すには、シャバ(娑婆=鯖)で年取るは今夜切りと訛りて申すとかや。これ見玉村に頃日(近頃)舎(とま)りし時の茶話なり。かゝる間違いの異語、その外数々ならめと、予は聾にして、家族は気遣いそうに、何一つ噺もなく、却って老人達の里言葉勝ちが、予が為には地走(馳走)ならず、なれどせんすべなし。
一 十月より三月まで雪の内は、村により栃餅がちに喰う。その白き事、雪をあざむく。製し方、前巻に記せし故略す。その余、この土地の上食は、粟に小豆交ぜたるなり。朝には年中、稗焼餅にて、また貧なるものは粟糠に稗を交ぜ飯に焚く。雑水(雑炊)は秋より末は暫くの内、蕪の根を葉がらみに切り刻み、乃至、三人位の家内の食用なれば、稗の粉一合位も入れて、煮立つ時、掻い交ぜて喰う。また楢の実を製して食うもあり。故に四十六年の昔、卯の凶年には木の実もならず、畑ものも実らず、飢死する外なし。故に里地へ乞食に出、疱瘡も厭わず。道路に餓死する者多し。取わけ秋山の内にても、上の原、和山など、栃、楢の実がちに用いるとなん。
一 秋山中に梅の木一本も見ず。これ深山の奥にて育たぬと見えたり。況やその余の庭木らしきは更になし。今、四、五十年も過ぎれば、必ず好事のものありて、谷水自在に、大小奇石多き故、泉水、築山など楽しむ、もの好きも有ぬべし。実に大平の御代続き、逐年里振りを習うに故こそ。
※ 好事(こうず)のもの - 好事家。物好きな人。また、風流を好む人。
※ 逐年(ちくねん)- 年がたつにつれて物事が進行・変化すること。年々。
一 稲、入口の秋山、下結東、上結東、清水川原、小赤澤などに、田二、三枚、三、四枚ずつ見たり。小赤澤にて老人の噺に、稲は里ならでは出来ぬものと心得しが、極早きものは、四、五十年以前、少し植え始め、多くは十四、五年この方、家の辺に一、二枚ずつ、田を堀り耕(たがや)すとなん。
一 味噌は大豆作る故、製しても糀(こうじ)は少しも入れず。その月々に早製して用いるがして、納豆の匂いすと桶屋が云う。
一 荏草を落しながら慰みのように喰う。
※ 荏草(えぐさ)- えごまのこと。
一 火口を、ほっちと唱う。茶碗を、石五器と云う所もあり。
一 人が立ち寄ると、何処からわせたと云うて、大なる盆をさし出す所あり。これを、つもの盆と云う。この方より手をさし出すと、もの摘みなされと申す。これが礼儀のよし。
一 座敷の事を、唐戸と云う。
一 男の褌(ふんどし)の事を、尻くゝりと云う。女の褌を、サネスダレと云う。
一 人の死したる時、坊主と云うもなければ、夜に入り、近処ある村は、十四、五才以下の童の男女集りて、回向のただ同音に、ナマ/\と唱え終りて后、粟の赤飯を出す。十五以上の者は寄らず。
一 持って来よと云うを、モツコウと云う。
これで「秋山紀行上下」を読み終えた。年内に切りよく終えられて、気分が良い。
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上越秋山紀行 下 33 七、八日目 小出村より帰庵、秋山言葉の類 1
土手のスイセンはすっかり人の手を離れて、土手の草刈りが終った後に、茎を出して花を付ける。
名古屋のかなくん一家が帰郷してきた。さっそく、まーくん三兄妹がやってきて、大賑わいになった。
「上越秋山紀行 下」の解読を続ける。
やゝ秋山の地元を離れ、見玉村に至り、再ひ不動尊拝礼し、頃日(近頃)、宿りし瑠璃山正法院に笠を脱ぎ、中食を用う。法印の留守に力なく爰元(ここもと)を立ち、元、来たりし道は記すに及ばず。
黄昏近く妻有の庄、小出村、狩人市郎右(衛)門が家に舎(やど)る。主の夜話に、この村、圓右衛門と申す者、親と一集(一緒)に壮年の時、樵(きこり)する。往く先に、大樹の中茫々たる葎の中に、大木横たわり、圓右衛門親、踏みまたがんとするに、俄かに草木鳴動し、木にはあらで大蛇の頭上るを、斧振り揚げ、既に真二つにせんとするを、圓右衛門その手にすがり、携えたる斧奪ひ取り、無難にして宿へ帰り、親は悪気吹かけしやらん、心神悩み乱れて、命終る。今なお圓右衛門は存生してあるとなん。
※ 葎(むぐら)- 生い茂って薮のようになる、つる草の総称。
また眼下の清津川向えにカクマ村と云うあり。先代孫兵衛と申す勇猛のもの、大蛇を殺し、代々子孫に崇る事あれども、この市郎右衛門は山に猟し、川に漁(あさ)る事、昼夜の差別なけれども、やゝ五十の齢に及ぶまで、奇なる事に逢わずと。
この程、秋田の狩人輩が申すに符合せりと思いぬ。この夜は馴れぬ長途に草臥(くたび)れて、いと早く臥し。翌日は旦(あした)より、露時雨も七、八日の内に始めて降り。また元の十二峠越して、無事に帰庵を祝う。
※ 露時雨(つゆしぐれ)- 露が一面におりて時雨にぬれたようになること。また、草木においた露が、時雨の降りかかるようにこぼれること。
秋山言葉の類
一 行く事を、いかず。来る事を、こず。
一 呑む事を、のまず。喰う事を、くわず。
一 処により極(ご)く下賤のもの、自分の女房を、かゝさと申す。
一 先方の女房の事を、かゝどのと申す。
一 拙と申すを、うらと云う。
一 拾う事を、ふるうと申す。
一 きをちと唱えるは、取わけ、大赤沢、小赤沢、上の原、和山
などなり。譬えるは、茸をつのこ。煙管筒を、ちせる。来なっ
たと申すを、ちなつた。またきせるを、けせると申す所あり。
一 こう往くわいのうを、こういくいもうと云う。或はこう往く
を、こういきすとも云う。
一 味噌を、めそと云う。傘を、おしつほりと云う。傘は秋山
中になし。里にては雨の降る時は、おしつほりなど云う。頭巾
を、てっぺんと云う。
(この項続く)
もう少しで秋山紀行も読み終える。何とか年内に読み終えることが出来そうである。
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上越秋山紀行 下 32 七日目 秋山の評 2
ようやく年賀状を書き終えて出す。年々減って行くのは寂しいことである。新しいプリンターがトラブって、途中から旧のプリンターに切り替えた。
「上越秋山紀行 下」の解読を続ける。
秋山の評(続き)
少しも閑を得る時は、予が如く名利名聞のため、十返舎が著述に、この辺境に奔走も、皆な、命を削り齢を縮む媒も、悟らんとして悟り難きに、この秋山こそ神代の長寿の如く、この天賦を自然に守り来たり。
※ 名利名聞(みょうりみょうもん)- 名聞名利。この世の利益と世間の名誉。
※ 十返舎(じゅっぺんしゃ)- 十返舎一九。江戸時代後期の戯作者、浮世絵師。日本で最初に、文筆のみで自活した。「東海道中膝栗毛」の作者として知られる。鈴木牧之と親交があり、秋山紀行のきっかけをつくった。
※ 媒(ばい)- 仲立ちとなるもの。
※ 天賦(てんぶ)- 天から賦与されたもの。
この土地相応の栃の実、楢の重(種)、粟、稗などを、都鄙の飯食も同じく賞翫し、これ則ち天より給わる所の、この地の産物にして、身、仙術を学ぶが如く、色慾、飲酒も恣(ほしいまま)にせず、正直一遍にして、夜、閉ざさず。聖代の俤(おもかげ)ありて、貢ぎものとても九牛の一毛故に、手足叶う内は山畑に雨露風霜を厭わず。恰(あたか)も鳥獣の如く、馴れて奔走し、
※ 都鄙(とひ)- 都会と田舎。
※ 賞翫(しょうがん)- 味のよさを楽しむこと。賞味すること。
※ 聖代(せいだい)- すぐれた天子の治める世。聖世。
※ 九牛の一毛(きゅうぎゅうのいちもう)- 多数の中のごく一部分。取るに足りないこと。
宿の翁、八順(八十歳)になん/\として、鶏鳴に起き上り、暮秋の朝寒に、綴(つづ)くり着物の、襟も袖も短かき山袷せ一つ着、況んや股引などは、なお履(はか)ず。兀たる親椀に盛り上げたる粟餅、四、五盃、箸早やに食する様子、或る五障三従の訳さえ知らぬ女子までも、自然に仙境に生れた人の如く、寿(齢)は長しとかや。
※ 暮秋(ぼしゅう)- 秋の終わり。秋の暮れ。晩秋。
※ 兀たる(こつたる)- はげたる。
※ 五障三従(ごしょうさんしょう)- 女性が生れつき身にそなえている五種の障害と、女性が従うべきものとされた三つの道。
希(ねがい)は范蠡にはあらねども、一度はこの秋山の猿飛橋の奇景の勝地に葊を結び、中津川の清流に命の洗濯したらんには、と思い侍りぬ。
※ 范蠡(はんれい)- 中国、春秋時代末の越の忠臣。越王勾践に仕えて富国強兵を図り、呉を滅ぼして会稽の恥をそそいだ。のち野に下り、陶朱公と称して巨万の富を築いたという。
※ 葊(あん)- 庵。いおり。
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上越秋山紀行 下 31 七日目 逆巻 2、秋山の評 1
女房が出来を自慢するので、収穫前に撮る。昨夕の食卓の載った。
姪の亭主の訃報に接す。永年税務署に勤務し、緊張の緩める時がなかったのだろう。酒量が増え、身体が耐えられずに、不治の病を得て、定年に年を残して足早に逝った。仕事がら税務署員とはお付き合いもあったが、還暦前後で亡くなった人を何人も知っている。一種の職業病のように思う。これが今年最後の訃報であってほしい。
「上越秋山紀行 下」の解読を続ける。
暫くこの巌上の平かなるに、桶屋が荷をおろさせ、案内もろともに休(いこ)うに、見渡せば両岸の光景、紙筆にも及び難く、奇樹怪石、川上、川下まで、目枯れせぬ詠めの内に、案内が帰ると見るに、足早やにつら/\とその橋渡るに、感ずるに堪えたり。
また飛猿橋と名付けたるも理なり。既に秋山の入口故、左右の高山より数々の溪川流れ込み、川幅も広がらんに、底は千尋と見え、ここのみ千雷が落ちても崩れぬ大巌の、額(ひたい)合せのように狭き故、この方、何方(いずかた)と、猿も飛越える風情に、名付けたるべし。何んぞ、猿の飛越すなどとは思いも寄らず。川幅、秋山第一にせまき故、名付けたるべし。今年の仲秋、洪水の時は、万年も落ちぬこの橋落ちて、なお橋より七、八尺上まで水増す故、流れ落ちしと、案内の者がもの語りに聞きぬ。
これより登り口嶮岨にして、漸々佳(よ)きなりの途(みち)に出て、心うれしく往々(ゆきゆき)て、頃日、来し東秋山の小道にて、清水川村も後になり、川西の下結東村は往かずして横にながめ、見玉村の持山近くなりぬ。
※ 頃日(けいじつ)- 近ごろ。このごろ。
秋山の評
実に秋山は鈍(にぶ)き事古硯のごとく、先に宿りし上結東村、纔か二十九軒の白屋(くさや)に八順に余れる翁、今なお四人あり。また近き頃、九十八齢にて最後の長寿もあり。宿の祖父、今年七十九翁が、日々寒暖の厭いもなく、山挊(はたらき)の健なるなど、感佩に銘す。
※ 白屋(はくおく)- 白い茅で屋根をふいた貧しい家。
※ 八順(はちじゅん)- 八旬のこと。八十歳。
※ 感佩(かんぱい)- 心の強く感じて忘れないこと。
倩(つらつら)考えるに、里人の、内に七情の気欝し、外には色慾をほしいままにし、山海の魚鳥の肉身を崇(たゝ)らかし、諸々の患い、萬の悲みに心を迷わし、夏の虫の火に入り、流れの魚の毒穢をはむが如く、胸三寸に煩悩の浪高く、真如の月も宿らず。
※ 七情(しちじょう)- 七種の感情。「礼記」では、喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲。仏教では、喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲をいう。
※ 気欝(きうつ)- 気分がふさぐこと。
※ 真如(しんにょ)- ありのままの姿。万物の本体としての、永久不変の真理。
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上越秋山紀行 下 30 七日目 逆巻 1
「上越秋山紀行 下」の解読を続ける。
これより逆巻と云う村へ赴く。道筋の風景は具(つぶさ)に記さず。往々(ゆきゆき)て、ここにゆうべ翁が噺の通り、荒し畑に一面に尾花、雲の如く、斜めなる山の麓まで、真白に見涸れせぬ詠(なが)めの内に、大小の山猿、我等が足音にや、凡そ四、五十疋も続きて、親猿と見え小猿を肩に引かけ、前途より横へ反り、尾花を分けて逃げ去りぬ。
秋山一見に、狗は処々に見えれども、餘獣はこれまで始めてと、興を催し、やゝ逆巻近き処は、大樹原にして、その嶮岨を降りれば、この村、纔かに四軒の家経営処ながら、近頃建てたる風情の、九尺二間位の土蔵、この秋山中、巡村の内に始めて見請けたり。実に聖代数百年続き、かゝる深山の奥までも開きたりと、感嘆頻りなり。
※ 餘獣(よじゅう)- ほかのけもの。
音に聞く猿飛橋とは、この村の辺りにありて、恐しき橋となん。そは却って好もしく、渡らんと直に家の辺りより樹影に見ゆる故、桶屋先へ進んで、柴橋半ば見え、この方の巌影に半ば見えず。橋際近く往く処、絶壁の立岩に足がゝり、纔かに切り付けしのみ。
兎や角悩み、不図(ふと)考え、右の村家へ帰り、門に大足落す男に酒手を呉れて、手引き案内頼みければ、この者先へ進み、予が笠も杖も短刀も、腰にさし背にかけ、最初の岩角を巡るに見上れば、巌石聳え見下せば、潭水藍に似て、名も逆巻の水、逆さまに巻き、渕は足下にて、案内は予が帯を左の手に掴み、右の手は岩角にすがり、頓(やが)て橋今少しに、一つの大磐石、水際より天窓のうえまで、屏風を立てたる如く、一歩も進みかね、進退ここに極まる処、大なる藤縄の蔓あり。
かの八海山頂の鉄の鎖を思い出し、または芭蕉翁の命をからむ蔦かづらなど、溜め息の内に吟じ、辛くして橋際に至れば、三、四人も安座する程の大磐石、中津川へ鼻さし出したる如く、この処、川幅せまく水法(の)り流れ、その深き事知るべからず。
※ 法(の)り - ゆったりと。
両岸狭き処に二本の長き木を渡し、横に柴かき付け、中程撓(たわ)みて気味わるく、案内の者の手を引いて渡らんとするに、危く例に匍匐(はらば)い、中程になり橋は頻りと震い、冷汗流れて顔をひたし、辛(かろ)うじて向への岸の大磐石に、始めて蘇生したる心持に、
澗水逆巻孤村東 澗水逆らい巻く孤村の東
険巌一路巡屏風 険巌の一路は屏風を巡る。
藤蔓掛手露命 藤蔓に手を掛け、露命を(と)ぎ、
切岸側足溜息通 切岸に足、側(かたむ)け、溜息を通(つ)く。
九間芝橋如仙境 九間の芝橋は、仙境の如く、
千尋中津怪龍宮 千尋の中津は、龍宮かと怪しむ。
漸到磐石互見皃 漸く磐石に到り、互いの皃(かお)を見れば、
冷汗未止従猿紅 冷汗未だ止まず、猿より紅なり。
なんばんの ように撓(たわ)みし 猿橋を
から/\わたる 皃(かお)の紅葉ば
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上越秋山紀行 下 29 七日目 上結東村 6
クリスマスイブの今日、トーマス・ジェームスの重連があるというので、散歩がてら撮影に行った。昨日逆光だったというので、東側に渡って撮影した。
「上越秋山紀行 下」の解読を続ける。
膳過ぎて、宿の主、桶屋に白き骨のようなるを売りたり。予、手に取り見るに、真白にして鮮かなり。すべて秋山谷にては、折節農
人ながらも熊も取り、その陰茎の干したると云う。これ里よりも折々注文あり。一寸見れば骨のようなれども、その堅き事は金鉄と云えども猶及ばず。大名様の刀の目釘になり、決して折れる気遣いはない。
また里人はこれを摺り、粉にして、淋病に用いるに、その功、息席(即席)にありと云う。能々見れば透き通るように、少し反り、末程尖り、刀の鎬の如き筋左右にあり。予はこれぞ奇品の、家土産にせんと、桶屋に所望すれど、能き價になるかして離さず。
※ 鎬(しのぎ)- 刀剣で、刃と峰との間に刀身を貫いて走る稜線。
愚案するに、小松原の大屋敷跡は人の栖には有るべからず。かゝる深山幽谷には、種々無量の処ありて、自然の平場なるべし。その證(あかし)は、予、文化九甲(年)の文月、苗場山の頂上を探りしに、平原渺々たる処、霧のかゝるように、見切りもなき平地に、田形までも数々、況んや高山の裾には様々の処あるべし。
※ 文月(ふみづき)- 旧暦七月のこと。
※ 渺々(びょうびょう)- 果てしなく広いさま。遠くはるかなさま。
期(ご)して、家内の者は炉端に真黒なる稗焼餅を、膳もなく、椀の笠に漬菜を盛りて、喰う内に、亭主櫃形に切りたる餅一つ焙り、十歳位より以下の子供三人、三つに分けて呉れければ、三人(みたり)ながら押し戴くこと両三度にして、さも珍しそうに喰う。風情、実に五穀の内にも米は最上の宝と、ここにて感を催す。
※ 漬菜(つけな)- 漬物にする菜。ハクサイ・カブ・キョウナなど。
さて長噺に時刻を移し、今日も日並みよく、嘸(さぞ)や男女が世話し(忙し)からんと、出立して上妻有の庄、小出村まで帰りたしと云うに、七十九のかの老人申すには、近年塩沢に、乙(きのと)の大日の開帳の時、この村より日着に参詣し、またその時、日下(ひもと)が高いから、田中村まで引返し泊ったと云う。その俤(おもかげ)今なおありて、日々農を楽しみ、何一つ放埓もなく、天然を楽しむ故にや長寿も殆多し。
※ 日並み(ひなみ)- 日のよしあし。その日の吉凶。日柄。
※ 日着(ひづき)- その日のうちに到着すること。
※ 放埓(ほうらつ)- 勝手気ままに振る舞うこと。おこないや生活がだらしのないこと。
※ 殆(ほとほと)- 非常に。本当に。
頓(やが)て立たんとして、旅籠の銭を置くに、色々辞退する故に、漸々その半を渡し、俄かに短冊、扇面などを認(したた)め呉れて別れぬ。
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上越秋山紀行 下 28 七日目 上結東村 5
祝日で、掛川のまーくん一家が来て、遊んで行く。大井川鉄道のSLは今クリスマスバージョンで、沿線では大賑わいである。今日の写真は息子の撮影。
「上越秋山紀行 下」の解読を続ける。
暁過ぎて、寒冷弥増しなれば、頓(やが)て爐に大火を焚きぬれば、家内は白昼のごとく幸いに、起き上り腹ばいしてあたりを巳廻すに、家内男女は処々に、やはり昼の内着たる衣類の侭にて、寝臥して見ゆる内に帯仕直し、水盤の掛け水に手洗し、四方の拝、祖先の回向も終り、ただ寒さに堪えかね焚火に寄れば、家翁は予が声を聞いて起しや。
朝飯まで亭主もろとも噺の中に、昔、大秋山事なきてありし時、川東、上の原村の対図に当りて、中津川の東岸に大なる岩穴あり。この洞穴より折々一丈余りの女の妖女物(ばけもの)、髪あくまで長く、両眼日月の如きが、人を悩まし、この洞穴の辺へは絶へて人も通わず。
※ 対図(ついず)- 対岸。
その頃、大秋山に平家の末葉の村長ありて、その家に蝘蜒(とかげ)丸と云う名作の刀あり。これをさしてその化生を退治に赴く。いまだ東の岸へ中津川渡らぬ内に、かの大女は穴端に居、一目見るより俄に飛びつかんとする躰の処、腰にさしたるとかげ丸、己れと抜き行き、化物を真っ二つに切り、元の鞘に納り、手も濡さず変化退治の名刀なれども、大秋山村段々零落し、その後、箕作村冨家島田三左衛門の秘蔵の宝になつたと申す。また箕作り村より地頭へ差上げたとも云う。
※ 化生(けしょう)- 化け物。妖怪。
噺、予倩々(つらつら)考るに、魍魎鬼神は山川の精物にして、木石の怪と聞く。今にさえ漫(すずろ)に身の毛も揚げ立つ程の、寂莫たる処のみ多きに、況んや数百年の奇樹怪巌の処故、想像に堪えたり。
また問う、この辺り深山に奇景はなきやと云うに、亭主の答えには、信州越後の境、苗場山の北、小松原と云う処に、大工の墨鉄打ったる様な、真平らなる数丁の大屋敷跡、二、三ヶ所あり。語り伝えには、往昔平家の落人ここに住み居ると云うなり。今はその平地に、姫小松、、弱檜(さわら)、檜、シガ掬など、老木多く、また苗場山の下に流る、七ツ釜と云う渕あり。この谷川を、右の屋敷と申し伝う処を帯て、その七ツ釜の前後左右の巌石、千勝萬景の噺に涎流して聞きぬ。
※ 墨鉄(すみかね)- 建築で、曲尺(かねじゃく)を使って必要な線を木材に引く技術。
兎角する内に、旦の膳に向えば、厚さ寸余りの、櫃形に切りたる粟の餅三つ、椀に盛り、餘り大き故、三つ目は椀の縁(へり)より上に反り、雑煮と見え、味噌汁であえたる如く、真中に大きなる里芋二つ、丸ながらに乗せて、漸くに一つ給わるに、汁気なく、予は味噌汁が好きなり。汁椀に一つと乞うに、かの里芋汁、沢山に盛り呉れたるを力に、漸々二つ食べ、残り一つは桶屋に助けて貰いけるに、頻りに、宿の者替る/\強(し)いつけると云えども、粟一色にて、味も佳(よ)しなど云えども、蕎麦の下地の悪しきは進まぬ道理。
※ 下地(したじ)- 醬油。また,醬油を主にしただし汁やつけ汁。
漸々時宜を云う時、桶屋が申すには、きのう夕余り不食だから、今朝は蕎麦切りの御馳走と申すを、そばは嫌で御座ったと云いたりや。粟餅を進ぜたいと申すから、それは何よりの御馳走と、拙が申したれば、俄かに寝る時分から粟をふかし餅を搗きなされた。依って責めて今一つと申すにぞ。その心ざし甚だ感嘆に堪えず。
※ 時宜(じぎ)- 時にかなったあいさつ。時儀。
うづ高く 盛った粟餅 二つ喰う
あとのひとつは これであき山
芋を沢山に汁椀に盛りしを、さてこの辺は疱瘡(いも)と云い、鬼神よりも恐れるに、里芋には中々能いと申して、即吟、
秋山や 畑のいもは 嫌いなし
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上越秋山紀行 下 27 六日目 上結東村 4
「上越秋山紀行 下」の解読を続ける。
紺屋と云うは、ここも上妻有広しと云えども、田中と申す村に一軒切り、秋山などには、その時代、紺屋などは名さえ知らず。染物にやるものもなかった。近年は驕りになって、何ぞ染めねばならぬ品は、今には上妻有に沢山紺屋が出来て、勝手の方へ進ずと云う。
※ 勝手(かって)- 便利。便宜。
また問う、川東の秋山より、川西は日向(ひなた)も能(よ)いように見請けたり。耕作義は相似たる事かと問うに、すべて西も東と同じく、新たに畑を見立てるには、幾抱えとも云う大きなる樹原なれば、その大木の皮を前の年、剥ぎ、立ち枯らしにして、その翌年、四、五月時分、小木は草もろともに伐り倒し、三十日も過ぎて、日和後に火を付けると、ただ残るは大樹の立枯れと、処々に大小の磐石残るのみ。
この草樹の灰をこやしにして、その年は蕎麦、翌年は粟、その翌年は稗、かように替る/\作る間に、粟ならば三度位作り、八ヶ年目位には、土痩(やせ)て実らず。故に荒し置くと、自然に己ずと茅が一面に生えるから、道々見られた通り、茅原の中に枝葉なき大樹が立ちてある通り。かゝる茅沢山な村々でも、入用なけりゃ、打ち捨て置く。茅野に三十年ばかりもいたし、その時茅に火を付け焼きて、また畑といたすなり。この川西と違うて、川東の秋山などは、人の往来も稀なる大木原多き村々なれば、地元(が)よいから、畑もの続けて十七、八年から二十年位も作ると云う。
倩(つらつら)考えるに、この結東村も翁が噺の通り、三、四十年以前までは、皆掘立て屋の場所が、今は里めきたる家造りも、外々の村より佳なり。言葉、人相も里めけるにや。小赤澤、大赤澤、上の原、和山の村々をさして、秋山の者は地元が能いと、翁が噺。この地も秋山の内に孕(含?)れないから、殆んど心に可笑しと思いぬ。
やゝ夜話はてゝ、炎々と焚く大火の炉端を離れ、松明の燈を挑(さ)げて便所へ行くに、この家に厩ありて、馬も繋いで見えたり。ここへ木の切れ二つ、路地に飛び石のように置いて、小便すと見えたり。外に予が履くべきものとてもなく、幸い手作りと見えたる、荒々しき麁末の下駄に、太き藁緒なるが、筵のうえにあるを幸い、翌朝までも便所へ用いぬ。
さて寝んとするに、夜具がないなどの挨拶もなく、族(やから)は予が炉端に居った薄畳、纔かに張りたる椽のうえに敷き、短き洗濯布子一つ切り、長き夜寒の夜具に、迷惑ながら帯解かねば、草臥(くたび)れ直らず。湯本にて、かの狩人より索(もとめ)たる、猿の皮を幸いに寝敷きにし、道中蒲団に合羽まで背通りにかけ、まんまるになって、更に真睡もせず。
※ 真睡(しんすい)- 熟睡。
秋山修行はここなりと、時刻過ぎれど家内は寝ず。暫くありて臼にて何か搗(つ)く音頻りなり。ただ徒らに蚤にさゝれ、これ猿の皮故と、密かに取り捨て、夜半過ぎて一首の夜詠、胸に浮みて労(つか)れ眠りぬ。
夜具薄く 八聲の鶏よりも
暁急ぐ きぬ/\の宿
※ 八聲(やこえ)鶏 -「彌聲」のこと。鶏は朝、続けさまに、いやが上にも鳴くものだから「いや聲」という。
※ きぬぎぬ(衣々、後朝)- 衣を重ねて掛けて共寝をした男女が、翌朝別れるときそれぞれ身につける、その衣。転じて、男女が共寝をして過ごした翌朝のこと。(ここは男二人で、何とも無粋)
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