ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

イスラーム18~ナーセルの挑戦と挫折

2016-02-21 08:47:06 | イスラーム
●ナーセルの挑戦と挫折

 1948年(昭和23年)の第1次中東戦争でアラブ連盟がイスラエルに敗北したことにより、中東におけるイスラエルの存在感は強まった。以後、56年の第2次中東戦争、67年の第3次中東戦争、73年の第4次中東戦争と、4度にわたる戦争を繰り返すことになった。この戦争は、ユダヤ教徒とイスラーム教徒の戦争という宗教的な要素を持つ。
 第2次中東戦争後、イラクとシリアでは、1958年(昭和33年)にアラブ復興党とシリア社会党が統一して、バース党が結成された。バース党は、アラブ復興社会党の略称であり、バースは「復興」「再生」を意味する。シリアのダマスカスに本部を置き、アラブ諸国に支部を持つ。アラブ統一・社会主義・自由を基本綱領とし、アラブ・ナショナリズムによるアラブの統一と社会主義社会建設を目指す。共産主義には反対する。後に同党から、イラクではサダム・フセインが、シリアではバッシャール・アル=アサドが登場する。
 なお、私は、基本的にネイションを政治社会としての「国家」または政治的集団としての「国民」または「国民共同体」、エスニック・グループを「民族」とし、ナショナリズムを「国家主義」「国民主義」、エスニシズムを「民族主義」と区別する。詳しくは、拙稿「人権――その起源と目標」第6章に書いた。
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion03i-2.htm
 アラブの盟主を自任するサウジアラビア王国は、1932年(昭和7年)にイブン・サウドがイギリスの支援を受けて建国した。しかし経済的には、33年以降、ロックフェラー系のカリフォルニア・スタンダード石油が石油利権を握り、アメリカ資本の支配下にあった。同社は、44年にアラムコに合併された。同国は、アメリカに石油を供給すると共に、アメリカの中東政策の拠点となっている。
 さて、第2次大戦後の中東に大きな変動をもたらしたのが、エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセルである。エジプトは、1882年以来イギリスの占領下にあったが、第1次大戦後、1922年(大正11年)に独立国となった。36年(昭和11年)に条約によりイギリス軍は撤兵したが、スエズ運河は除外され、イギリスによる軍事占領が続いていた。エジプトの将校だったナーセルは、第1次中東戦争の敗北で、自国の王政の腐敗に幻滅した。52年に革命を起こし、54年から政権を掌握し、大統領となった。
 ナーセルはアラブ諸国で初めて農地改革を行い、反英的な非同盟政策を取って、アラブの民衆の支持を得た。こうしたナーセルを警戒した米英両国は、56年世界銀行によるアスワン・ハイダム建設への資金援助を打ち切った。ナーセルは、これに対抗し、同年スエズ運河の国有化を宣言した。イギリスは、フランス、イスラエルとともにエジプトに軍事干渉し、利権の維持を図った。
 ここに勃発したのが、第2次中東戦争である。イスラエルはシナイ戦争と呼び、アラブ側はスエズ戦争という。この時、アメリカは英・仏・イスラエル三国の行動を支持しなかった。ソ連がエジプトを支持して武力介入する可能性があり、それを避けるためアメリカは英仏を非難したのである。国連決議により三国軍は撤退に追い込まれ、57年戦争は終結した。イスラエル軍は一時制圧していたシナイ半島から撤退し、エジプトはスエズ運河の国有を維持した。
 戦争の結果、ナーセルは、一躍アラブ諸国の指導者的存在となり、アラブのナショナリズムは高揚した。ナーセルは、1961年(昭和36年)にはインドのネルーなどとともに非同盟諸国首脳会議を主導した。ここには、近代西欧発のナショナリズム、すなわちネイションの形成・発展を目指す思想・運動の影響がみられる。アラブのナショナリズムは、西欧諸国に多いシビック(市民的)なナショナリズムとは異なる、エスニック・グループ(民族)をもとにしたエスニック(民族的)なナショナリズムである。そして、近代国家を建設して、欧米諸国に対抗しようとするものである。その点で、本来、西欧の国家思想とは異なる伝統的なイスラーム教の国家思想とは別種のものである。
 ナーセルは、イスラエルへの対抗意識を強め、1967年(昭和42年)、イスラエルのインド洋への出口であるチラン海峡の閉鎖を試みた。これにイスラエルが応戦し、第3次中東戦争が勃発した。
 イスラエル空軍は電撃作戦を展開し、エジプト、シリア、ヨルダンの空軍基地を奇襲攻撃によって破壊した。また同陸軍は、ヨルダン川西岸、ガザ地区を占領したことにより、パレスチナの全域を支配下に収めた。さらにシナイ半島、ゴラン高原をも制圧した。わずか6日間で決着がついたので、6日間戦争ともいう。
 戦争の結果、約300万人のパレスチナ人の半分が、イスラエルの支配下に入った。一方、アラブの星だったナーセルの威信は、地に堕ちた。

●エルサレムの占領と紛争の恒常化

 エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の聖地ないし重要な場所である。第3次中東戦争でイスラエルが占領したヨルダン川西岸に存在する。エルサレムは、第1次中東戦争後、国連決議を無視した形で東西に分割されていたが、イスラエルが全市を押さえることとなった。イスラエルは、エルサレムを「統一された首都」と宣言した。同市を国連永久信託統治区としている国連決議を完全に無視した行動である。そのため、世界の多くの国は、エルサレムを首都と認めず、大公使館をティルアビブに置いている。
 イスラエルというと、多くの人はユダヤ人だけの国家のように思っている。国民の8割はユダヤ人だが、残りの大部分はアラブ人である。当然イスラエルには、ユダヤ教徒だけではなく、イスラーム教徒もいる。自由主義者もいれば、社会主義者もいる。政党は右翼政党連合のリクード、左翼の労働党の他、少数党がいくつもある。アラブ諸国との対決を主張する勢力もあれば、和平共存を願う勢力もある。そこに複雑性がある。
 一方、アラブ側には、1964年(昭和39年)、パレスチナ解放機構(PLO)が結成された。PLOは、68年にパレスチナ国民憲章を制定した。憲章は、敵はユダヤ教徒ではなく、英米勢力と結びついたシオニストであるとし、パレスチナに民主的、非宗教的国家を建設する方針を出した。しかし、69年アラファトがPLO議長になると、闘争的な組織に変わった。PLO加盟諸派にはテロやゲリラ活動を行うグループがあり、シオニストとの闘争は激化していった。

 次回に続く。