●キリスト教の教化力の低下と世界的なニヒリズム
キリスト教を抜きにしては、現代の人権の思想は成り立たない。人権の普遍性とは、未だ見せかけの普遍性に過ぎない、と書いたが、では今日、キリスト教文明は、さらに世界をキリスト教化し、キリスト教に基づく人権思想を世界に広める感化力を持っているだろうか。否。欧米諸国ではキリスト教の勢力は徐々に低下し、キリスト教を土台とした西洋文明の世俗化が進んでいる。そのような状態で、非キリスト教文化圏にキリスト教文化を伝道していくことは難しい。
むしろ、西洋文明で世俗化が進んでいることが、西洋文明の周辺文明と化しつつある非西洋文明に対して、世俗化という影響を与えつつある。19世紀末の西欧にあって、ニーチェは、キリスト教によって代表される伝統的価値が、人々の生活において効力を失っていると洞察した。この状況を「神は死んだ」と表現した。ニーチェは、西洋思想の歴史は、プラトンのイデアやキリスト教道徳など、彼にとっては本当はありもしない超越的な価値、つまり無を信じてきたニヒリズムの歴史であるという。ニーチェのニヒリズムは多義的であり、ニヒリズムは、超越的な価値の否定ないし喪失をも意味する。そして、ニーチェは、その意味でのニヒリズムが表面に現われてくる時代の到来を予言した。
そうしたニヒリズムが20世紀後半から西欧・北米だけでなく、非西洋文明の諸社会へと本格的に広がりつつある。一旦ある程度、キリスト教化した非西洋文明諸社会が、今度は脱キリスト教化しつつあるのである。この変化は近代化・合理化の世界的進展でもある。キリスト教文明がもはや世界をキリスト教化する感化力を失っている中で、近代化・合理化が世界的に進展しているのである。
●人権の普及力を支えるものとしての軍事的実力
脱キリスト教化し、近代化・合理化の進む世界で、人権はキリスト教以外の根拠を持ち得るか。人類は、キリスト教及びそれに基づく思想に代わって、その根拠となるような共通の世界観・人間観には未だ到達していない。現在、キリスト教的な西洋文明諸国が、経済力・軍事力において優位に立っており、欧米諸国が力において世界を圧倒しているので、人権という西欧発の思想が、ある程度の普及力をもっているに過ぎない。
現在の世界においては、脱キリスト教化しつつ国際化した人権の思想を裏付けるものは、キリスト教の神、ゴッドではない。またアッラーやブラフマンや天やカミ等でもない。ましてや、各文化の伝統・慣習ではあり得ない。今のところその裏付けは、国連や「宣言」に加盟している国々の政府の合意のみであり、意思の合成を担保するものは、外見的には「憲章」や「宣言」の言葉である。その言葉を担保するものは、国家間の力関係である。
第2次世界大戦で勝者となった連合国の主要国の多くは、キリスト教国だった。日本の占領者アメリカもキリスト教国だった。勝者の価値観・歴史観が敗者に押し付けられ、敗者を精神的に支配するようになったのである。人権の思想の世界化自体が、キリスト教的西洋文明諸国の力の優位の現れである。
この力の優位が、「連合国=国連」を中心とした第2次世界大戦後の世界秩序を生み出している。その権力と秩序の上に成立しているのが、今日の人権の思想である。これに対抗する力も存在する。たとえば、旧ソ連や中国、イスラーム教諸国等が、人権というカードによる干渉を斥けるのは、その国家間の権力関係の現れである。こうした国際社会の「力の政治」(パワー・ポリテックス)の現実をとらえずに、「憲章」や「宣言」の言葉だけによって、人権を考えると、大きな錯覚に陥る。
次回に続く。
キリスト教を抜きにしては、現代の人権の思想は成り立たない。人権の普遍性とは、未だ見せかけの普遍性に過ぎない、と書いたが、では今日、キリスト教文明は、さらに世界をキリスト教化し、キリスト教に基づく人権思想を世界に広める感化力を持っているだろうか。否。欧米諸国ではキリスト教の勢力は徐々に低下し、キリスト教を土台とした西洋文明の世俗化が進んでいる。そのような状態で、非キリスト教文化圏にキリスト教文化を伝道していくことは難しい。
むしろ、西洋文明で世俗化が進んでいることが、西洋文明の周辺文明と化しつつある非西洋文明に対して、世俗化という影響を与えつつある。19世紀末の西欧にあって、ニーチェは、キリスト教によって代表される伝統的価値が、人々の生活において効力を失っていると洞察した。この状況を「神は死んだ」と表現した。ニーチェは、西洋思想の歴史は、プラトンのイデアやキリスト教道徳など、彼にとっては本当はありもしない超越的な価値、つまり無を信じてきたニヒリズムの歴史であるという。ニーチェのニヒリズムは多義的であり、ニヒリズムは、超越的な価値の否定ないし喪失をも意味する。そして、ニーチェは、その意味でのニヒリズムが表面に現われてくる時代の到来を予言した。
そうしたニヒリズムが20世紀後半から西欧・北米だけでなく、非西洋文明の諸社会へと本格的に広がりつつある。一旦ある程度、キリスト教化した非西洋文明諸社会が、今度は脱キリスト教化しつつあるのである。この変化は近代化・合理化の世界的進展でもある。キリスト教文明がもはや世界をキリスト教化する感化力を失っている中で、近代化・合理化が世界的に進展しているのである。
●人権の普及力を支えるものとしての軍事的実力
脱キリスト教化し、近代化・合理化の進む世界で、人権はキリスト教以外の根拠を持ち得るか。人類は、キリスト教及びそれに基づく思想に代わって、その根拠となるような共通の世界観・人間観には未だ到達していない。現在、キリスト教的な西洋文明諸国が、経済力・軍事力において優位に立っており、欧米諸国が力において世界を圧倒しているので、人権という西欧発の思想が、ある程度の普及力をもっているに過ぎない。
現在の世界においては、脱キリスト教化しつつ国際化した人権の思想を裏付けるものは、キリスト教の神、ゴッドではない。またアッラーやブラフマンや天やカミ等でもない。ましてや、各文化の伝統・慣習ではあり得ない。今のところその裏付けは、国連や「宣言」に加盟している国々の政府の合意のみであり、意思の合成を担保するものは、外見的には「憲章」や「宣言」の言葉である。その言葉を担保するものは、国家間の力関係である。
第2次世界大戦で勝者となった連合国の主要国の多くは、キリスト教国だった。日本の占領者アメリカもキリスト教国だった。勝者の価値観・歴史観が敗者に押し付けられ、敗者を精神的に支配するようになったのである。人権の思想の世界化自体が、キリスト教的西洋文明諸国の力の優位の現れである。
この力の優位が、「連合国=国連」を中心とした第2次世界大戦後の世界秩序を生み出している。その権力と秩序の上に成立しているのが、今日の人権の思想である。これに対抗する力も存在する。たとえば、旧ソ連や中国、イスラーム教諸国等が、人権というカードによる干渉を斥けるのは、その国家間の権力関係の現れである。こうした国際社会の「力の政治」(パワー・ポリテックス)の現実をとらえずに、「憲章」や「宣言」の言葉だけによって、人権を考えると、大きな錯覚に陥る。
次回に続く。