ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

イスラーム17~イスラエルの建国と中東戦争

2016-02-19 09:42:08 | イスラーム
 今回からイスラーム文明の現代について書く。本稿は30回ほどの予定で始めたが、50回ほどとなる。

6.現代 (1945年~2010年代初め)

●イスラーム文明の現代

 私は、1945年(昭和20年)以降を人類史における現代としている。この年、人類は核時代に入った。人類が自ら生み出した科学兵器によって滅亡する危険性に人類が直面している時代が、現代である。現代の人類史については、拙稿「現代の眺望と人類の課題」に概術した。この項目では、その拙稿を踏まえて、イスラーム文明の現代について記す。
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion09f.htm
 第1次世界大戦まで、イスラーム文明では、オスマン帝国が長く君臨した。オスマン帝国が崩壊した後、現代においても、イスラーム文明では、中小の国家が群立して、文明の中核国家が存在しない。また、イスラーム文明は、宗教的にはスンナ派とシーア派に大きく分かれて対立している。宗派を越えた統一的な権威もない。また、部族支配的な社会構造が続いている国が多く、貧富の差が大きい。
 第2次世界大戦後、石油の産業的利用が世界的に発達した。そのことにより、イスラーム教諸国のうち豊富な石油資源を持つ国は、莫大な富を獲得している。その一方、石油資源に恵まれない国の多くは、貧困と低開発にあえいでいる。貧困の原因は、主に資本主義の世界的な構造によるが、イスラーム文明そのものにも資本主義的な発展に負の作用を宗教的な理由がある。利子を禁止すること、女性の労働を禁じること、教育は宗教教育がほとんどであること等である。西欧発の文明の影響を受けて、近代化が進みつつはあるが、イスラーム教という宗教・道徳・法・政治等が一元的・一体的になっている規範体系は堅固であり、イスラーム教諸国では近代化への抵抗・反発が強い。
 そのため、イスラーム文明は、現代世界の主要文明の中では、近代化が進まぬ発展途上国が多く、低迷している文明の側に入る。だが、イスラエルとアラブ諸国の対立、イスラーム原理主義の台頭、イスラーム教の宗派対立に欧米諸国の利害が絡んだ度重なる戦争、テロリズムの国際的活動等によって、イスラーム文明は世界情勢と人類の運命に大きな影響を与える存在であり続けている。
 これより、イスラーム文明の現代を1945年から2010年代初めまでの期間について書き、2010年代初め以降は、イスラーム文明の現在として別の項目に書く。

●イスラエルの建国と中東戦争

 イスラーム文明の中心地域は、中東である。中東は、ヨーロッパから見て、近東、中東、極東等と分ける便宜的な地理的概念である。中東は、世界的に見て20世紀以降、最も大きな問題を抱えるようになった地域の一つである。第1次大戦において、イギリスはユダヤ人とアラブ人の協力を得るため、双方にパレスチナでの国家建設を認めた。それと同時に、フランスと中東地域を分割統治する密約を結んでいた。その大戦後、イギリスはアラブ人、ユダヤ人との約束を反故にし、アラブ諸地域を、フランスと共に分割した。国際連盟の委任統治領という形ではあるが、イギリスはパレスチナを事実上の植民地とした。パレスチナに世界各地からユダヤ人が入植し始めると、先住のアラブ人の間に対立・抗争が起こるようになった。イスラーム文明は、その中心地域にユダヤ教社会とイスラーム教社会との緊張関係を抱えることになったのである。
 アラブ対ユダヤの対立に手を焼いたイギリスは、第2次大戦後の1947年(昭和22年)、パレスチナの委任統治権を国際連合=連合国に返上した。以後、ユダヤ人国家を建設しようとするシオニズムの後ろ盾となる国家は、アメリカに替わった。
 パレスチナにおけるユダヤ人の人口は、第1次大戦の終了時点で約5万6千人。総人口の1割に満たなかった。しかし、第2次大戦終了時点では、約60万人に増加し、総人口の3分の1にまで増えていた。
 47年11月、国連はパレスチナをアラブ国家とユダヤ国家と国連永久信託統治区に分割するパレスチナ3分割案を可決した。シオニズムの後ろ盾となったアメリカは、トルーマン大統領のもと、国連で強力な多数派工作を行った。分割案は、パレスチナの6パーセントの土地しか所有していなかったユダヤ人に、56パーセントの土地を与えるものだったから、アラブ側は激しく反発した。
 翌年5月、ユダヤ人は国境を明示しないままイスラエルの独立を宣言した。それに抗議する周辺アラブ諸国との間に、第1次中東戦争が始まった。イスラエルは独立戦争と呼び、アラブ側はパレスチナ戦争という。
 イスラエルに対抗する勢力となったのは、アラブ連盟である。第1次大戦後、オスマン帝国が解体され、西欧列強が植民地支配を広げた。この時、新たにできたアラブ諸国は、イギリス、フランス等が一部の支配層を利用して作ったもので、家産国家的な性格が強く、国民国家としての基盤は弱かった。そうした国々、イラク、ヨルダン、シリア、レバノン、サウジアラビア、エジプト、チュニジアが第2次大戦後、1945年(昭和20年)にパレスチナのアラブ人代表者とともに結成したのがアラブ連盟である。
 イスラエルの独立を不当とするアラブ連盟は、数万の軍をイスラエルに侵攻させた。しかし、アラブ側は統一的な司令部をもたず、イスラエルは圧倒的な勝利を収めた。49年4月の休戦協定では、イスラエルは国連分割案が示す範囲を超えて、パレスチナ全土の80パーセントを支配した。分割案から休戦協定までの間に、パレスチナ人約130万人のうち100万人が難民となったという。アラブ連盟は、パレスチナ人を真に支援する組織ではなかった。
 47年の国連決議では、エルサレムは、国連永久信託統治区に位置している。エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教というセム系一神教の三つの宗教の聖地である。ところが、第1次中東戦争の結果、49年のイスラエルとトランス・ヨルダンの休戦協定で、エルサレムは東西に分割された。これにより、国連決議は守られなくなった。
 大戦後、イスラエルは、アメリカの援助で軍事的に強化された。これに対抗して、ソ連はアラブ諸国に接近し、軍事援助を増やした。米ソの冷戦の影響という新たな抗争要因が、中東に加わった。
 そのことは、イスラーム文明が米ソという方や西洋文明、片や東方正教文明に根差す超大国によって、自らのあり方を左右されることになったことを意味する。

 次回に続く。

人権269~アメリカの人権政策

2016-02-18 09:38:07 | 人権
●冷戦終焉後の世界におけるアメリカの人権政策

 次に、共産主義に対抗してきた自由主義の諸国を見ていきたい。米ソ冷戦期の自由主義対共産主義というイデオロギーの対立には、自由と平等という価値観の対立が含まれていた。この対立において、自由主義の側の中心となったのが、アメリカ合衆国である。人権の思想は、アメリカを中心とする自由主義の側が、共産主義側にイデオロギー攻勢をかける道具として用いられた。
 冷戦終焉後、唯一の超大国となったアメリカは、自由を最高の価値として、より一層強調している。アメリカは自由の理念を世界に広めることを国家戦略の要とし、その戦略に基づいて、人権の普及・拡大を行っている。だが、アメリカは、自国内に深刻な人権問題を抱えていることに注目しなければならない。
 アメリカ社会は、建国以来、差異主義を根底に持つ社会である。家族型の違いによって、自由・権威、平等・不平等の価値の違いが生まれるが、差異主義は遺産相続における兄弟間の平等・不平等という対にしぼって抽出した概念である。兄弟間の不平等に基づき、人間は互いに本質的に異なると考える。これに対し、普遍主義は兄弟間の平等に基づき、世界中の人間はみな本質的に同じと考える。イギリスの主要部は、絶対核家族が支配的な社会である。絶対核家族は、自由・不平等の価値観を持ち、それが差異主義の考え方となる。アメリカは差異主義的な確信を持つイギリスからの移民が建国した。トッドによれば、アメリカは、差異の観念をインディアンや黒人に固着させることによって白人の平等を実現した。アメリカの「多数の民族が織り成す万華鏡」という多文化主義のイメージは、幻想にすぎない。現実のアメリカには、白人と黒人という二分法のみが存在する、とトッドはいう。トッドは、白人の平等と黒人への差別の共存は、「アメリカのデモクラシーの拠って立つ基盤」である、と指摘する。
 1940年代以降の黒人解放運動は大きな成果を挙げ、1964年には公民権法が成立した。権利においては平等が実現した。しかし、大都市では、居住地と学校において、黒人の隔離が続いている。黒人の多い地域から、白人が逃げ出している。かつてアメリカの白人と黒人の間には、識字率など圧倒的な文化水準の差があった。黒人の「劣等性」にはある意味で根拠があった。しかし、19世紀から1世紀に及ぶ努力の結果、黒人の教育レベルは白人のそれと並ぶにいたった。白人との知的・文化的な差はなくなり、黒人の「劣等性」には根拠がなくなった。だが、それでも差別は続いている。アジア人とインディアンが、「白人並み」に扱われるようになった現在、黒人だけが差異の対象となっている。この事態は、何を意味するか。黒人隔離の根拠は、肌の色の違いだった、とトッドは指摘する。
 第2次大戦後のアメリカは、ヒスパニックを中心に有色人種の人口が増え、世界最大の移民国家として成長し続けている。そのアメリカで2008年(平成20年)バラク・オバマが黒人初の大統領になった。これは、画期的な出来事だった。しかし、合衆国の社会構造は、簡単には変わらない。アメリカで支配的な価値観は、自由を中心とし、平等は重視しない。自由一辺倒の追求が、極端な競争社会を生んでいる。
 ノーベル経済学賞受賞者の経済学者ジョゼフ・E・スティグリッツは、米国は1%の富裕層と99%の貧困層に分かれてしまったと指摘する。「政治家やその応援団は常に1%のための政策を遂行するので、99%の不幸が続く。それが根本的に間違っている」との主張である。この極端な格差の背景には、人種差別がある。1980年代からアメリカで主導的になった新自由主義は、根底に人種差別意識のある米国社会では、市場における自由競争による格差拡大、弱者切り捨てを正当化する理論として働く。しかし、一部の富裕層が保有する富をさらに増大させても、社会全体の活力はそれほど上がらない。中間層の所得が増えて購買力が伸長し、それに伴って貧困層も上昇できるような経済社会政策が強力に実行されないと、1%対99%に二極分化した帝国は、虚栄と荒廃の中で衰亡していくだろう。
 だが、アメリカの伝統的価値観がこうした転換を阻む。優越的な立場にある白人種の多くは、開拓民の子孫という伝統から、自立自助を重んじる。そのため、国民皆健康保険制度ができていない。公的年金制度も発達していない。世界で最も豊かな国でありながら大都市にはホームレスが多くおり、貧困層を中心に乳幼児の死亡率が高い。社会保障の拡大のための徴税に対しては、政府の干渉、自由への制約として、古典的リベラリストであるリーバータリアンが反発する。もし「20世紀的人権」と呼ばれる社会権の発達をもって人権の拡大と考えるならば、この点ではアメリカは後進的である。アメリカは自由の先進国ではあるが、人権の後進国である。
 こうした人権問題を国内に抱えているアメリカが、世界に自由を広めようとしている。アメリカの歴代政権は旧ソ連や中国・北朝鮮・イラク等に対して、人権の実現を求める外交を展開してきた。民主党政権の方が共和党政権よりも人権外交に積極的な傾向を持つ。ただし、アメリカは、他国の人権より、自国の国益を優先する。たとえば、1990年代、民主党ビル・クリントン政権は、人権外交を展開していたが、途中で共産中国の市場による利益を優先し、人権の原則を放棄した。北朝鮮に対しても、人権問題より、外交上の妥協と取引を図った。その後も、共和党ブッシュ子政権は、専制的なサダム・フセイン政権を倒せとイラクには侵攻したが、中国のチベット弾圧は黙認した。明らかに国益に基づいて、判断基準を変えている。単なる理想主義ではなく、自国の国益のために人権を政治的に利用しているのである。
 アメリカは、自己の価値観を他国で実現するために、しばしば軍事力を行使する。追及する自由は、主に経済活動の自由であることに注意しなければならない。アメリカ及び巨大国際金融資本は、世界各地で市場の開放と自由な投資を求める。そのための自由が最優先されている。途上国の人民の集団としての権利や人民個人の権利の拡大は、主目的ではない。むしろ、経済的利益の追求をカムフラージュするものとなっている場合がある。
 かくして、今日の世界では、アメリカ及び巨大国際金融資本の開放・投資の自由と、発展途上国を中心とした独立・発展の自由という二つの異なる権利が、互いに実現・拡大を目指して衝突している。人権をめぐる問題は、しばしばアメリカ及び巨大国際金融資本の側が開放・投資の自由の実現・拡大を進めるための手段として使われている。手段として有益でない場合は、問題は軽視され、または政治的判断によって無視されるのである。
 そえゆえ、アメリカ主導、アメリカ一国の国益追求ではない形で、世界各国で人権の発達を目指すことが、人類的な課題となっている。

 次回に続く。

イスラーム16~イスラーム文明の栄光と停滞

2016-02-17 08:47:50 | イスラーム
●イスラーム教の広域的な伝道

 イスラーム教の広域的な伝道は、イスラーム帝国の征服・拡大に伴うものである。イスラーム文明の広がりは、オスマン帝国によるバルカン半島の征服、デリー・スルタン朝及びムガル帝国によるインド亜大陸の征服によって頂点に達した。当然、これによって、イスラーム教は異教徒の社会に進出していった。ただし、イスラーム教には、キリスト教のような教会組織がなく、聖職者もいない。そのため、伝道の仕方は独自の特徴を持つ。
 ローマ・カトリック教会では、イエズス会等の修道会の宣教師が、世俗的な国家の権力と一体になって、ラテン・アメリカ大陸で組織的に先住民の征服・教化を行った。また、キリスト教は異教徒に改宗を強制した。宣教師は、有色人種への植民地支配の先頭に立った。これに比し、イスラーム教では、信徒の商人たちが自発的に伝道した。彼らは交易のために遠方の地まで出かけた。彼らの居留地は異教徒にイスラーム教を伝え、改宗を説得するための拠点となった。
 また、もっと重要なのは、神秘主義の修行者による伝道である。イスラーム教では信仰の形式化・慣習化に対する反動として、8世紀からスーフィズムと称されるイスラーム神秘主義が興った。スーフィーと呼ばれる修行者が神秘的な神との合一体験の獲得を追及した。10世紀、11世紀になると、神秘主義の哲学体系が創られた。民衆の間でスーフィーへの崇拝の念が高まった。聖者崇拝はイスラーム教では異端とされているが、民衆の信仰は強く、排斥はされなかった。
 12世紀以降、神秘主義の教団 (タリーカ) が相次いで設立された。伝道に最も熱心な信徒は、それら神秘主義教団の教団員だったといわれる。彼らは殉教を本望とし、異教の地に赴いて、アッラーへの信仰を熱烈に説き聞かせた。インドや東南アジアでは、イスラーム軍は軍事力によって政治権力者をイスラーム教に改宗させたが、民衆はもともとの宗教の信仰を許されていた。その民衆を少しずつイスラーム教に改宗させていったのは、スーフィーたちだった。内陸アフリカ、トルキスタン、バルカンのイスラーム化も、主として彼らの努力に負うところが多いとされる。

●イスラーム文明の栄光と停滞

 イスラーム文明は、宗教・道徳・法・政治等が一体化した文明だが、そのもとで科学や数学・医学・哲学等が発展したことでも知られる。
 西欧で近代化が始まる前、イスラーム文明はシナ文明と並んで世界で最も先進的な地域であり、様々な学問を発展させていた。イスラーム文明には、『クルアーン』に基づく固有の学問として、法学・神学・文法学・書記学・詩学・韻律学・歴史学等があった。また、ギリシアやインドなどから導入された外来の学問は、それを集大成してさらに発展させた。哲学・論理学・地理学・医学・数学・天文暦学・光学・錬金術等である。こうしてイスラーム文明は、古今東西のさまざまな学問を融合し、新しい学問の構築に多大な貢献をした。ヨーロッパ文明は、イスラーム文明から古代ギリシャの哲学や先端的な科学や医学を学び取った。それがヨーロッパの思想・文化の発展のもとになり、近代西洋文明の躍進の礎となった。
 たとえば、ヨーロッパではラテン語名のアヴィケンナで知られるイブン・シーナーは、11世紀のイラン系の医学者・哲学者で、ギリシア・アラビア医学を大成し、西洋医学の発達に寄与した。またアヴェロエスとして知られるイブン・ルシュドは、12世紀イベリア半島の哲学者で、そのアリストテレスの著作への注釈はスコラ哲学の形成に大きな影響を与えた。イスラーム文明固有の学問では、11~12世紀のイラン系の神学者ガザーリーが重要である。スンナ派を代表する学者として活躍し、のちイスラーム神秘主義に傾倒し、スーフィズムを体系化した。その他、9世紀の数学者・天文学者のフワーリズミー、14世紀の歴史家のイブン・ハルドゥーン、同じく旅行家のイブン・バットゥータ等、その時代の世界で第一級の学者・知識人を多数輩出している。
 だが、イスラーム文明は、ヨーロッパ文明より遥かに文化的に進んでいながら、自生的に近代化することはできなかった。それは、イスラーム教の教義・組織・制度に原因がある。
 近代化とは、マックス・ウェーバーによると「生活全般の合理化の進行」である。近代化は、文化的・社会的・政治的・経済的の四つの側面を持つ。西欧では、最初に文化的な近代化が進んだ。宗教・思想・科学等における合理主義の形成である。次に、社会的近代化が進んだ。共同体の解体とそれによる近代的な核家族、機能集団である組織や市場の成立、近代都市の形成である。次に政治的近代化が進んだ。近代主権国家の成立、近代官僚制と近代民主主義の形成である。最後に、経済的近代化が進んだ。近代資本主義・産業主義の形成である。近代化はこれらの動向が相互に作用しながら進行する。西欧では、ウェーバーが指摘した「呪術の追放」という宗教の合理化が、生活全般の合理化を推し進め、全般的合理化を根底において規定する要因となった。詳しくは、拙稿「“心の近代化”と新しい精神文化の興隆」に書いた。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion09b.htm
 イスラーム教ではどうか。小室直樹氏は著書『日本人のための宗教原論』で次のように述べている。
 「イスラム教では、仏教、儒教、キリスト教とは違って、ユダヤ教と共に宗教的戒律、社会規範、国家の法律とが全く同一である。(略)この完璧性こそが近代化を阻んだ」と。
確かに西方キリスト教の場合は、内面的信仰と外面的行動が区別され、宗教的権威と政治的権力が分離し、神聖的価値と世俗的価値が並立するようになっていた。そのことが、西欧における近代化の発生を可能にした。それに比べ、イスラーム教は宗教・道徳・法・政治等が一元的・一体的になっているがゆえに、イスラーム文明では西方キリスト教のヨーロッパ文明のように、自生的な近代化が起こり得なかったと考えられる。
 小室氏は、また同書で次のよう述べている。
 「近代国家を形成するにあたり、イスラム教には決定的な弱点があった。それは、マホメットが最後の預言者であったことである。したがって、新しい預言者が出てきて、マホメットが決めたことを訂正するわけにはいかない。つまり、神との契約の更改・新約はありえない。未決事項の細目補充は可能だが、変更は不可能。このような教義から、イスラムにおいては、法は発見すべきものとなり、新しい立法という考えは出にくくなった。必然的に中世の特徴である伝統主義社会が形成され、そこを脱却できる論拠を持ちえなかった。これが、イスラムが近代をつくれなかった最大の理由である」と。
 ここで「未決事項の細目補充」とはイスラーム法の整備、「法は発見すべきもの」とは法源の解釈の意味と解される。また「伝統主義」とは「過去に行われてきたことは全て正しい。今後も絶対に変えてはならない」という考え方をいう。
 小室氏によれば、ムハンマドが最後の預言者であり、その後は預言者は現れないというイスラーム教の教義がイスラーム文明の近代化を阻んだことになる。こうした教義に忠実であれば、西洋近代文明を否定し、その流入以前に戻ろうとする思想・態度を取ることになるだろう。
 18世紀を通じてイスラーム文明の諸国家の衰退が進み、19世紀には西洋近代文明による支配が広がり、多くの地域が植民地または半植民地とされた。資本主義、自由主義、デモクラシー、個人主義、西欧法等の侵入は、文化的・社会的・政治的・経済的な変動を引き起こした。とりわけ神授の法としてのイスラーム法およびそれに基づく伝統的社会組織が解体し、「イスラーム世界」という観念や「イスラーム教国家」という思想が崩壊していった。そのことが、「イスラームの危機」という意識を強めた。
 こうしたなか、トルコでは、オスマン帝国が打倒され、西洋化・近代化の改革が進められた。だが、他の地域では、西洋化・近代化への抵抗が強く、積極的な対応ができなかった。この状況に変化が生じたのは、第2次世界大戦の結果、白人種による植民地支配体制が弱まり、アジア・アフリカの諸民族が独立運動を起こしたことによる。その運動の波が、イスラーム文明にも押し寄せ、イスラーム教諸国の近代化を促す時流となった。

 次回に続く。

人権268~急進的なフェミニズム

2016-02-16 08:55:35 | 人権
●共産主義の現状と急進的なフェミニズム

 20世紀末から共産主義は交代したもの、今日の人権の思想には、共産主義の影響が色濃く残存している。共産主義系の人権論者は、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンらの名前を表には出さない。彼らは、共産主義国家に起こった悲劇の原因を究明せず、その総括も行うことなく、人権の主張に共産主義の幻想を融け込ませている。そして、人権を道具として、共産主義の見果てぬ夢を実現しようとしている。
 共産主義の発祥の地、西欧では、冷戦の後期に、一時、イタリアやフランスでユーロ=コミュニズムと呼ばれる先進国型共産党が政権に参与したが、西欧の共産党は、共産党という名称を捨て、社会民主主義政党に変貌している。ところが、わが国には先進国で唯一、「共産党」の名称を保持する政党が、議会政党として活動している。かつて暴力革命を計画して様々な事件を起こした日本共産党は、レーニン=スターリン主義から方針を転換し、1980年代から人権の保障や拡大を運動の重要部分にすえている。現代世界の状況では、人権という旗を振ることが、彼らの闘争にとって有利だという判断がされたのだろう。
 共産主義による人権拡張運動は、それを通じて、我が国の皇室制度の廃止、共和制の実現、社会主義体制への移行を目指すものである。人権の擁護は、革命のための闘争の道具にすぎない。共産主義運動の行き着くところ、官僚の権利の拡大と人民の権利の縮小にいたることは必定である。共産主義こそ、20世紀以降の世界で1億人もの犠牲者を出した最大の人権侵害の災厄であることを、思い起こさなければならない。
 共産主義は階級闘争の運動である。闘争は、今日、階級対階級、民族対民族の闘争だけでなく、個人対個人、男性対女性、家族員対家族員の闘争へと細分化してきている。これは、もともとマルクス=エンゲルスの思想に内在するものが、顕在化したものである。この細分化闘争の先端を行くのが、急進的なフェミニズムである。
 急進的なフェミニズムは、男と女を対立的・闘争的関係ととらえ、この対立・闘争を女性の勝利に導こうとする。そのために、男性・女性の特徴を否定し、人間を抽象的な個人という観念に変え、家族の解体や道徳の破壊を推し進めている。その根底には、共産主義がある。性差の否定、家族の解体、道徳の破壊の末に実現されるのは、孤立した個人を、女性を中心とした官僚集団が統制する高度な管理社会である。
 急進的なフェミニズムは、女性の権利拡大が自己目的化し、男性の支配から女性の支配への逆転を求める権力闘争の運動となっている。人権という旗を揚げる者がそれぞれ自分の権利を主張し、人権を利用して自分の利益を追求している。逆に人権を認めない立場を取る者は、そのことによって自らの権利を維持し、利益を拡大しようとしているという複雑な事態となっている。
人類の文明の相当部分は、男性が築き上げてきた。有史以来、男は機械を作り出し、自然環境を変え、多くの生命を破壊してきた。女性は、男性に比べ、自然のリズムの影響を強く受けている。女性の月経は、月の満ち欠けと同じ周期性を持っている。だから、本来、女性は、男性よりも自然の側に近く、男性中心に発達した人類文明の偏りを、自然や生命と調和する方向に向ける役割があるのではないか。ところが、現代の女性の一部は、それとは正反対に、文化と家族と生命を破壊しようとする運動を推進している。
 人間には攻撃性がある。攻撃性は外の対象に向かい、その対象を破壊しようとする。ところが、障害に合い、その対象を破壊できないような場合は、攻撃性は自分に向かう。自傷行為や自殺がそれである。それが集団的に表れれば、自滅への衝動ということになる。急進化したフェミニズムは、人類の半分を占める女性の側に現れた、自滅への衝動というべきものである。
 共産主義は、破壊ばかりで建設がない。それは「建設なき破壊」の理論である。その共産主義に基づくフェミニズムも、「建設なき破壊」の運動である。それゆえ、それらは、物質科学文明の進展のなかで、自然と生命と精神の価値を見失った人類が、攻撃・破壊の衝動を高めていることの現れと言えよう。
 人権の観念を利用して、左翼的な思想を実現しようとする運動を、私は左翼人権主義と呼ぶ。その主要部分を為すのが、今日の先進国の共産主義と急進的なフェミニズムである。人権主義的な共産主義者や急進的なフェミニストは、人権を闘争の武器としている。人権を道具として、自分たちの思想の実現を図っていることに注意する必要がある。共産主義や急進的なフェミニズムが唱える人権の言葉に惑わされることなく、「発達する人間的な権利」としての人権に関する考察を深めていく必要がある。

 次回に続く。

関連掲示
・共産主義に関する拙稿は、下記をご覧ください。
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion07.htm
・拙稿「急進的なフェミニズムはウーマン・リブ的共産主義」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion03d.htm

イスラーム15~イスラーム文明の分裂、モンゴル帝国・オスマン帝国の興亡

2016-02-15 08:14:27 | イスラーム
●諸王朝の乱立によるイスラーム文明の分裂

 アッバース朝の衰退の原因は、ウマイヤ朝の残党が王朝を復興したり、イラン人・トルコ人などが独立王朝を作ったりしたことによる。
 ウマイヤ朝の残党は、アッバース朝創始の6年後にイベリア半島でウマイヤ朝を復興した。これを後ウマイヤ朝という。首都はコルドバだった。キリスト教徒のレコンキスタ(国土回復運動)や政治的内紛が原因で1031年に滅亡するまで続いた。
 後ウマイヤ朝の成立によって、イスラーム文明は分裂の時代に入った。8世紀末にはモロッコにシーア派のイドリース朝が建国された。909年にはチュニジア地方にファーティマ朝が興った。ファーティマはムハンマドの娘の名前であり、その子孫と称する者が建国した。過激シーア派であるイスマーイール派を信じ、成立当初からカリフの称号を使用した。そのため、アッバース朝との間で、カリフが2人並存することになった。932年には、イラン人のブワイフ家が独立してシーア派のブワイフ朝を建てた。バグダードを占領し、アッバース朝のカリフから政治的・軍事的権限を奪って「大アミール」の称号を受けた。そのため、アッバース朝のカリフは名目的なものになった。もともとカリフは宗教的な権限を持たないが、宗教的に一定の権威はある。後ウマイヤ朝でも、929年に3代目君主のアブド・アッラフマーン3世がカリフの称号を使用した。これにより、イスラーム文明に3人のカリフが並存することになった。これ以降、イスラーム文明における諸国家の分裂が速まった。
 カリフ制国家は、多数のイスラーム教徒が集まってイスラーム共同体をつくり、1人のカリフを選び定め、カリフにイスラーム法の施行の全権限を委ねることを前提とする。ところが、イスラーム文明に3人のカリフが並び立ち、さらにアッバース朝のカリフが他の王朝の統治下に置かれるという事態が生じた。ここでイスラーム法学者は、法を現実と一致させるという妥協を行うか、それとも神授の法の純粋性を護持するかという選択を迫られた。彼らは後者を選び、その後の新たな立法の道を固く閉ざした。これを「イジュティハードの門は閉ざされた」という。イジュティハードとは、イスラーム法の専門用語のことをいう。この選択が、スンナ派の神学の固定化を招いたといわれる。
 10世紀後半から13世紀にかけて、イスラーム文明では、各地で王朝が乱立した。 そのうち主なものを書くと、11世紀半ばにトルコ系でスンナ派のセルジューク朝が興った。ブワイフ朝を打倒してアッバース朝のカリフを解放したトゥグリル・ベクは、「スルタン」という称号を贈られた。「スルタン」はアラビア語で「政治的支配」を意味するスルタと同根の語であり、「政治的支配者」を意味する。以後、スルタンはイスラーム教国家の君主の呼び名となった。聖俗の分離は、すでにウマイヤ朝の時代から実質的に始まっていたが、セルジューク朝の時代には、明確に聖なるものの長としてのカリフと、俗なるものの長としてのスルタンが別に存在するようになったのである。
 セルジューク朝は、内部分裂の結果、1194年に滅亡した。その少し前に1169年にアイユーブ朝を建国したサラディンは、クルド人の武将で、ファーティマ朝の宰相だった。ファーティマ朝を滅ぼした後、1187年に聖地エルサレムをキリスト教徒から奪還した。サラディンは第3回十字軍と戦って勝利し、エルサレムを防衛した。イスラーム文明の英雄として名高い。アイユーブ朝は第5回十字軍を壊滅させたが、1250年トルコ系のマムルーク朝に滅ぼされた。マムルーク朝のスルタンとなったバイバルス1世は、アッバース朝がモンゴル軍に滅ぼされると、カイロにアッバース朝カリフの後裔を招いてカリフ位に就かせ、イスラーム文明の盟主となった。マムルーク朝は第6回・第7回十字軍と戦い、またモンゴル軍を敗退させた。十字軍は、一般に11~13世紀に8回行われたと数えられる。14世紀以降も続けられたが、後述のオスマン帝国に阻まれ、すべて失敗に終わった。

●モンゴル帝国・オスマン帝国の興亡

 13世紀の半ば、イスラーム文明に侵攻したモンゴル軍についてここで書くと、チンギス・ハンの孫フラグは、アッバース朝を滅亡させて、1258年にイル・ハン国を建国した。イル・ハン国は当初イスラーム教を弾圧したが、1295年皇帝ガサン・ハンが自らイスラーム教に改宗し、国教に定めた。キプチャク・ハン国、チャガタイ=ハン国などもイスラーム教を擁護するようになり、モンゴル人のイスラーム化が進んだ。ユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国は、14世紀に入ると分裂し、各国が独立するなどして解体してしまう。
 イベリア半島では、13世紀初めにナスル朝が興った。首はグラナダだった。アルハンブラ宮殿で知られる。スペインのレコンキスタによって、1492年に滅亡した。
この過程でキリスト教徒が失地を奪回した際のイスラーム教徒に対する処遇は、苛酷をきわめた。彼らは改宗を迫られ、改宗しない者は殺害されたり、徹底的に追放されたりした。こうした蛮行は、十字軍においてもみられたものであり、十字軍がエルサレムを占領した際には、住民4万人を老幼男女を問わず皆殺しにした。逆に、十字軍を迎え撃ったり、ヨーロッパに進軍したりしたイスラーム軍は、そこまでの殺戮や迫害を行っていない。
 1370年には、チャガタイ・ハン国の豪族ティムールがイスラーム王朝を建て、中央アジアの広大な地域を領土にした。首都はサマルカンドだった。ティムールの死後、息子たちが争い合い、1507年にトルコ系のウズベク人によって滅ぼされた。生き残ったティムール朝の残党は、後にインドでムガル帝国を作った。イスラーム文明は13世紀半ばから、ユーラシア大陸を広く覆ったモンゴル帝国の支配下に入ったのだが、帝国の周辺部では、モンゴル人の力に服することを潔しとしないトルコ民族が立ち上がり、1299年にオスマン朝を創建した。セルジューク朝の後裔であるルーム・セルジューク朝の傭兵部隊の指導者だったオスマン・ベイが、初代皇帝オスマン1世となった。
 モンゴル帝国は14世紀には衰退・崩壊に向かい、オスマン帝国はイスラーム文明の中心となった。また以後、600年以上も続くイスラーム文明で最長の国家となった。
 オスマン帝国は、積極的に征服戦争を行い、領土を拡大していった。強大化するオスマン帝国は、1453年にコンスタンチノープルを陥落し、東ローマ帝国を最終的に滅亡させた。コンスタンチノープルをイスタンブールと改称して首都とした。セリム1世の時代には、イランのサファヴィー朝と抗争する一方、エジプトのマムルーク朝を滅ぼし、メッカとメディナの支配権を得た。オスマン帝国のスルタンは、マムルーク朝に亡命していたアッバース朝のカリフからカリフ位の譲渡を受けたとして、自らカリフと称した。スルタンがカリフになるので、これをスルタン=カリフ制という。世俗的な君主であるスルタンが、一定の宗教的権威を持つカリフを兼ねるという新たな体制の始まりである。
 オスマン帝国が最盛期を迎えた16世紀には、中央ヨーロッパ、北アフリカにまで領土を広げた。皇帝スレイマン1世は、1529年に神聖ローマ帝国の首都ウィーンを包囲した。だが、寒波の到来でオスマン軍は、攻撃をあきらめた。それによって、ヨーロッパ文明はイスラーム文明の支配を免れた。
 このころ、インドでは1526年にムガル帝国が作られた。インドでは、13世紀初から16世紀初めまで、5つのイスラーム王朝ができ、デリー=スルタン朝と総称する。ムガル帝国は、これを倒したティムールの子孫のバーブルが建国したものである。第3代アクバルは、ジズヤを廃止するなど、ヒンドゥー教徒との融和政策を行った。だが、第6代のアウラングゼーブはシーア派のモスクやヒンドゥー教の寺院をことごとく破壊し、多くの民族・宗教集団の反乱を招いた。これに付け込んだイギリスによって、1858年に征服され、植民地にされた。
 一方、オスマン帝国は、18世紀以降、様々な方面から攻撃を受けた。なかでも不凍港を求めて南下政策を取るロシアとの露土戦争は12回に及んだ。軍事費が膨らむオスマン帝国では、物価が上昇し、貧富の差が拡大して、民衆の不満が募った。1876年西洋的な近代化をめざし、二院制議会・責任内閣制などを盛り込んだミドハト憲法を発布したが、翌年ロシアとの戦争に敗れ、東ヨーロッパの領土の大部分を失った。「瀕死の重病人」と呼ばれるまでに衰退した。第1次世界大戦では同盟国側で参戦するが、降伏した。
 大戦後、イギリス、フランス、イタリアがオスマン帝国の西アジアの領土を直接または間接的に統治することになり、残ったのはトルコ地域だけになった。イスラーム文明の諸国は、近代化した西洋文明の列強に圧倒された。1920年(大正9年)には、非イスラーム教徒に支配されていないイスラーム教諸国は、トルコ、サウジアラビア、イラン、アフガニスタンの4カ国のみになった。トルコでは、1922年ムスタファ・ケマル・アタテュルクの革命によってオスマン帝国は滅亡した。ケマルは、22年にスルタン制、24年にカリフ制を廃止して政教分離を行い、西洋化を進めた。ここに初めて近代化されたイスラーム教共和国が出現した。

 次回に続く。

人権267~共産中国の人権抑圧

2016-02-14 08:41:24 | 人権
●共産中国の体制と人権の抑圧

 ソ連・東欧の共産主義政権の崩壊によって、冷戦は終焉した。だが、共産主義は、死滅してはいない。今日も、シナ大陸では共産党が支配している
 共産中国は、国連安保理の常任理事国である。国連の発足後、冷戦が終わるまでの約40年間、国連は麻痺状態にあった。この間、最初の大規模な国際紛争となったのが、朝鮮戦争である。当時、ソ連が安保理をボイコットしおり、アメリカは安保理を強行して、朝鮮半島に介入した。アメリカ主導の国連軍が派遣された。国連軍は、1949年(昭和24年)に建国された中華人民共和国の人民解放軍と激突した。当時の常任理事国は中国といっても、中華民国(台湾)だった。中華民国は、国連創設時からの加盟国である。しかし、中華人民共和国が建国されると、蒋介石政権は台湾に移った。1971年(昭和46年)10月に、北京政府が台北政府にかわって代表権を認められた。国連憲章では、今も安保理常任理事国は「中華民国」のままである。中共の加盟、蒋介石政府の脱退後も、「中華民国」を「中華人民共和国」と読み替えることにして、ずっと放置してきたからである。中華人民共和国が国連に加盟を許された時、国連から脱退したのは、厳密には蒋介石政権であって、中華民国そのものではない。しかし、実質的に台湾は国連から追放されたに等しかった。こうして共産中国は、国連のメンバーとなり、かつ拒否権を持つ主要国の一角に座を占めた。その地位にある共産主義の国が人民の自由と権利を抑圧している。
 毛沢東指導下の中国は、ソ連ほど工業化が進んでおらず、社会主義体制というより、アジア・アフリカ・ラテンアメリカにおける軍事政権による開発独裁に近い体制だった。開発独裁は、政府主導の近代化・産業化であり、資本主義化の道と社会主義化の道を選択しうる。中国の場合、毛の時代には、まがりなりにも社会主義経済体制を目指していた。しかし、毛の政策は、大躍進政策や文化大革命等、破壊と混乱を繰り返すばかりで、膨大な犠牲者を出した。また、ほとんど経済成長ができなかった。毛の死後、実権を握った小平は、経済的な停滞を打開すべく、「社会主義市場経済」の導入という政策を掲げた。中国は共産党独裁下で資本主義的な経済発展の道を進んだ。いまや中国はかつてのソ連の地位に取って代わるほどの経済的・軍事的な大国となっている。だが、旧ソ連に似て中国の人権状況は劣悪なままである。
 シナ大陸には、アジア的専制国家の土壌に、マルクス=レーニン主義が移植され、シナの官僚制と共産党の官僚制が融合し、アジア的共産主義の国家が建設された。自由やデモクラシーは認められない。政府は人命を尊重しない。人々の自由と権利は無視される。中国は長い間、間人権問題は「国家主権の範囲内の問題(国内専権事項)」と言ってきた。発展途上国で人権の獲得・拡大が進むと、1991年に「人権白書」を発表するなど人権の擁護を解禁したが、それを集団的努力により達成される人民の生存権に読み替え、主権の優位を強調し続けた。
 小平の跡を継いで、1993年に江沢民が国家主席になると、1997年に国際人権規約のA規約に署名、2001年に批准し、B規約に1998年に署名した。その結果、中国は形の上ではロック=カント的な人間観に立つ人権を認めることになった。これは、ロック=カント的な人間観をブルジョワ的と批判するマルクスの思想とは、異なる対応である。ただし、中国は国家間の権力関係を有利に進めるために、国際人権規約に参加しているだけで、自国内では積極的に人権状況を改善しようとはしていない。共産党の特権集団が富と権力を独占し、彼らに搾取・抑圧されているのが、農民労働者である。とりわけ少数民族や宗教者への弾圧は、激烈である。
 中国のチベット侵攻は、1950年(昭和25年)に始まった。ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺以後最大のジェノサイド(民族大虐殺)が行われてきている。チベット人は仏教徒であり、唯物論的共産主義による宗教弾圧が行われている。国際的に中国の人権弾圧への非難が高まっているが、人権の擁護・普及の世界的な中心であるはずの国連で、中国のチベット問題は、議論らしい議論が行なわれない。中国が安保理常任理事国の一員だからである。2008年(平成20年)4月国連人権理事会で、欧米はチベットの人権問題を取り上げようとした。ところが、中国は内政干渉だと反発し、これにキューバ等の独裁国家が加勢し、議題として取り上げられることもなく、同理事会は会期を終えた。
 中国は、チベット自治区だけでなく、新疆ウイグル自治区でも、弾圧・虐殺を行っている。ウイグル人はイスラーム教徒であり、ここでも宗教弾圧が行われている。さらに、中国では民主化運動家への弾圧、インターネットへの監視・規制、法輪功への弾圧、生体からの臓器取り出し等が行われている。2010年、民主化運動家・劉暁波にノーベル平和賞が贈られると、中国政府は激しく抗議し、劉暁波を事実上の軟禁状態に置いている。
 中国やロシアの人権問題について国連で議論らしい議論がされないのは、これらの国が安保理常任理事国だからである。ロシアにしても中国にしても、人権問題を扱うことを頭から拒否する。これら二国が国連において人権問題で連携すれば、主要5大国は二分する。そのため、安保理では、これまで人権弾圧を非難する本格的な決議や声明は出されていない。こういう現状ゆえ、国連は「人権のとりで」としての存在意義が問われている。国連憲章、世界人権宣言、国際人権規約の思想と、国連の現実は違う。

 次回に続く。

イスラーム14~カリフの世襲化とイスラーム帝国の成立

2016-02-13 10:11:26 | イスラーム
●カリフの世襲化とイスラーム帝国の成立

 アリーが暗殺されると、ウマイヤ家出身のムアーウィアがカリフとなり、ウマイヤ朝を創始した。
 この過程も複雑である。アリーの死後、アリーの長男のハサンがカリフを名乗った。だが、ハサンはムアーウィアとの争いに勝てる見込みがなかったので、ムアーウィアの死後はハサンの弟でアリーの次男であるフサインにカリフを譲ることを条件として、ムアーウィアにカリフ位を譲った。アリーの息子が世襲のようにカリフを名乗ることも、それを条件付きで政敵に譲位することも、カリフの本来のあり方とは違っている。
 ハサンはムアーウィアとの約束を信じて故郷のメディナで隠退した。だが、ムアーウィア側は、このハサンを暗殺する。そして、ムアーウィアは約束を破って、カリフの位を自分の息子のヤジードに譲った。以後、ウマイヤ朝でカリフは世襲となった。
 ヤジード1世がカリフに即位すると、アリーの次男でムハンマドの孫であるフサインが怒り、父と兄の仇を討つため、挙兵した。ところが、フサインの軍は敵の流したデマに引っかかって、680年10月10日、カルバラーの地で全滅した。勝者ヤジード1世は、フサインの一族を奴隷にした。
 アリーの支持者は怒り、アリーとその子孫のみを正統の後継者とする党派を作った。これをシーア派という。一方、大多数のイスラーム教徒は、ウマイヤ朝の代々のカリフを正統と認めた。彼らをスンニ派という。このスンニ派とシーア派の宗派対立によって、イスラーム教の分裂が起こった。
 後で述べるが、ウマイヤ朝以降、様々なイスラーム王朝が成立する。そのうちイドリース朝、ファーティマ朝、ブワイフ朝、サファヴィー朝の四つがシーア派の王朝である。
 正統カリフの暗殺が続いたうえに、カリフの継承をめぐって武力闘争をして宗教集団が分裂するとは、すさまじいことである。イスラーム教徒にとっては、これもアッラーの意思ということなのだろうか。
 ウマイヤ朝は猛烈にジハードを展開し、領土を急速に拡大した。最大時の支配領域は、中央アジア、西北インド、北アフリカ、イベリア半島にまで広がった。ウマイヤ朝時代は単独のイスラーム王朝としては最大の領土を誇っている。
 732年にイスラーム教軍はピレネー山脈を超えて、フランク王国に侵攻したが、トゥール・ポアティエの戦いで、メロビング朝の宮宰カール・マルテルに撃退された。この戦いに勝った西方のキリスト教徒はヨーロッパ文明を発展させることができた。
 ウマイヤ朝は、これほどの勢いを示しながら、100年もせずに崩壊する。その原因はアラブ人優遇政策に対する民衆の不満だといわれている。
 正統カリフ時代からウマイヤ朝にかけて、アラブ人が征服・支配に活躍した。アラブ人は、さまざまな特権を持っていた。この時代のイスラーム教国家はアラブ人中心のものだったので、アラブ帝国と呼ばれる。
 アラブ人は、ジズヤという人頭税と、ハラージュという土地税が免除されていた。イスラーム教徒の義務である喜捨(ザカート)を行うだけで良かった。この一種の救貧税は、収入の2.5%程度だった。同じイスラーム教徒でも、非アラブ人には、異教徒と同じくジズヤとハラージュが課せられた。イスラーム教に改宗しない者は、税金を支払えば自分の宗教を維持できるから、それで納得する。だが、イスラーム教に改宗してもアラブ人でなければ、異教徒と同じく税金を取られる。彼ら非アラブ人のイスラーム教徒をマワーリーという。マワーリーたちは、アラブ人の特権はイスラーム教の平等の教えに反するとして、不満を強めていった。遂に750年、その不満が爆発し、革命が起こった。この動きに、シーア派が加わった。
 ウマイヤ朝を打倒した革命の指導者は、アブー・アルアッバースだった。彼はムハンマドと同じくハーシム家の出身だった。自らカリフに即位して、アッバース朝を創始した。アッバース朝では、アッバース家がカリフ位を独占した。
 アッバース朝ではアラブ人優遇政策は廃止された。イスラーム教徒ならば人種に関係なく人頭税を払う必要はなく、土地税のみとなった。アッバース朝がイスラーム教徒の平等を実現したことにより、イスラーム教社会はそれまでのアラブ人中心のアラブ帝国から真の意味でのイスラーム帝国になった。私は、750年のアッバース朝の成立を以て、アラブ文明はイスラーム文明となり、かつ当時の世界の主要文明の一つになったと考える。ここで文明とは、独自の文化を高度に発展させた大規模な社会をいう。
 第2代カリフのマンスールは、首都をバグダードに移した。バグダードは、最盛期に人口が150万人いたとされる。当時世界最大の都市であり、8世紀半ばに人口が100万人を超えたのは、他にシナの唐王朝の長安のみだった。
 広大な領域の征服・支配によって莫大な富がカリフに集中されるようになると、カリフの権力は著しく強大化した。また、9世紀ころまでにはシャリーア(イスラーム法 ) の体系化が行われ、その執行にあたるカリフの権限は著しく強化された。カリフは「神の使徒の代理」から「神の代理」とみなされるようになり、ウラマー(法学者)もカリフ権は神から直接委ねられたとするカリフ権神授説を唱えるにいたった。
 だが、9世紀以降、アッバース朝は次第に衰退し、最後は1258年にモンゴル軍に滅ぼされてしまう。

 次回に続く。

人権266~旧ソ連とロシアの人権状況

2016-02-12 08:51:47 | 人権
●ソ連の体制と人権の抑圧

 共産主義は、西方キリスト教の西洋文明を脱キリスト教化し、近代化・合理化を進める思想・運動の一つである。だが、共産主義は西欧ではなく、ロシアで定着・発展した。共産主義は、ロシアで支配的な共同体家族の権威・平等の価値観と親和性があったためである。レーニン、スターリンは、人権という無階級的な概念を批判し、これに労働者の権利や被抑圧民族の権利を対置した。しかし、旧ソ連の実態は、労働者の国家ではなく、共産党官僚が労働者や農民を支配する官僚専制国家だった。マルクス主義は、階級闘争を説き、プロレタリア独裁を目指すので、人間一般の権利を認めない。世界人権宣言の採択の際、ソ連と東欧5か国(ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、ユーゴスラヴィア、チェコスロバキア)は棄権した。当時の共産主義者は、人権の思想はブルジョワ的とし、人権の尊重は階級闘争を阻害するものとした。
 ソ連は、第2次大戦において米英等によって民主主義勢力とされ、戦勝後は「国連=連合国」の安保理常任理事国という特権的な地位を得た。また共産主義を東欧・アジア等に広げた。ソ連は1956年(昭和31年)のハンガリー動乱を鎮圧し、1968年(昭和43年)チェコスロバキアの「プラハの春」を戦車で蹂躙した。安保理で拒否権を持つソ連に対し、国連は無力だった。東欧の衛星国は、ソ連の植民地に近い状態に置かれていた。
 冷戦体制下では、人権保障をめぐる議論は、ともすると東西両陣営及び南北諸国のイデオロギー対立の影響を免れることはできなかった。国連の人権活動のあり方や条約・制度の実施のあり方についても、人権はしばしば外交とイデオロギー闘争の手段となった。共産主義諸国は大規模あるいは系統的な人権侵害の批判を受けると、しばしば内政干渉と非難した。そのため、国際的な人権保障制度は、実際の人権問題に直面してたびたび機能マヒに陥った。
 世界人権宣言の思想は、共産主義の階級闘争的・民族闘争的な権利論に対して、自由主義の階級融和的・民族協調的な思想で対抗するという一面があった。冷戦期における人権の強調は、共産主義に対する自由主義の思想・宣伝・文化戦略の一環だった。共産党の支配下では、表現の自由、思想・信条の自由、集会・結社の自由等が厳しく制限された。労働者の国家を標榜していながら、ソ連の労働者は自由主義圏の労働者が享受する権利を制限または剥奪されていた。「宣言」における社会権の保障には、共産主義革命を防ぎ、漸進的な社会改良を進めようという欧米諸国の意図がうかがえる。経済的には、ソ連は計画経済を試みた。一見合理的なようだが、市場メカニズムを欠くことで、イノベーションの不全、消費者心理の無視、労働意欲の減衰、非効率等の欠点を生んだ。生産性が向上せず、経済は停滞した。軍需中心で民生軽視の経済で国民生活は疲弊した。自由と権利を強く制限され、生活も苦しいのでは、人々の不満は募る一方となる。
 自由主義側の対共産主義戦略は成功し、1991年12月、ソ連の共産主義政権は崩壊した。連邦は解体し、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、グルジア、カザフスタン等、15の共和国が独立し、民主化・自由化が進められた。これらの国々のうち、12か国は独立国家共同体(CIS)を結成し、ゆるやかな国家連合体をなしている。
 共産主義体制の崩壊後、旧ソ連圏では人権状況がかなり大きく変化した。旧体制との相違を示すために、ロシア、東欧諸国の新政権は個人通報手続をはじめ、人権条約の実施及び国連の人権活動に対して、積極性を見せるようになった。

●ロシアにおける人権状況

 アメリカとソ連の対立は、ハンチントンの文明学的な分類では、西洋文明とロシア文明の中核国家の対立だった。宗教的には同じキリスト教圏の文明だが、カトリック・プロテスタントとロシア正教との違いがある。トッドの家族形態論で言えば、旧ソ連は共同体家族が支配的な社会であり、権威/平等を価値観とする。この価値観は、アメリカの絶対核家族に基づく自由/不平等の価値観とは、大きく異なる。家族型的な価値観の違いによって、人間観が異なり、自由と権利に対する考え方も異なっていた。ソ連解体後は、ロシアがロシア正教文明の中核国家となっており、ロシアは文明学的にも家族形態論的にも旧ソ連の特徴を引き継いでいる。
 ロシアは、脱共産化によって生まれた国家ゆえ、一定の民主化が行われてはいる。しかし、欧米や日本に比べると、国民の権利は規制されている。旧KGB出身のプーチンは、大統領職、首相職、再び大統領職を歴任して、強権的な政治を行い、政権に批判的な政治家、ジャーナリスト、財界人等を逮捕したり、拘束したりしている。彼らの暗殺を行っているという批判もある。
 旧ソ連の場合は、社会主義共和国連邦と称したが、各自治共和国は民族や文化が異なっており、それを共産党が支配する連邦制の国家だった。ロシア民族が人口の5割を占めた。スターリンによって、ロシア民族による少数民族への支配・搾取が行われた。その代表的な例が、チェチェン民族に対するものである。チェチェン人は、スターリンからナチス・ドイツに協力したと決めつけられ、民族ごと強制移住させられたという苦難の経験を持つ。
 1991年11月、チェチェン独立派が、崩壊寸前のソ連からの独立を宣言し、以後独立運動が続けられている。これに対し、94年にロシア軍がチェチェンに武力侵攻を行い、二次にわたる紛争が起こった。チェチェンは石油、天然ガス、鉄鉱石などの地下資源が豊富であり、ロシアは独立を認めようとしない。ロシアは無差別かつ大規模な民間人への攻撃を行い、チェチェン人口の約10分の1が死亡し、5万人のチェチェン人が国外で難民となっている。チェチェン人過激派はモスクワ等で無差別テロを行い、泥沼化している。チェチェン人はイスラーム教徒が多い。ロシア正教文明とは異なるイスラーム文明に属する。チェチェン人への対処は、独立国家共同体(CIS)に加盟するイスラーム系共和国との関係に影響する。それだけに、ロシアは武力でチェチェン人の独立を防ぎ、他に波及しないように画策している。このような国が国連では安保理常任理事国の地位にある。
 2014年2月、ロシアは、ウクライナのクリミア共和国を併合した。この出来事は、冷戦終焉後、初めての現状変更であり、世界の緊張が高まった。米欧日はロシアに経済制裁やG8から除く等の対処をしたが、プーチン大統領によってクリミア併合は既成事実化された。ウクライナ東部では、ウクライナ政府軍と親ロ派による内戦状態になり、ようやく2015年2月に停戦合意がされたものの、なお不安定な状態が続いている。こうした事実上の領土併合、武力による制圧、内戦等は、単なる外交・安全保障の問題ではなく、人々の生存・生活を揺るがす点で、同時に人権問題でもある。国家の主権をめぐる紛争が生じている状況では、個人の権利より、主権の問題が優先される。個人の権利は集団の権利あってのものである。集団の権利が確保され、安定していないと、個人の権利の保障はできない。

 次回に続く。

本日は建国記念の日

2016-02-11 08:59:33 | 日本精神
 2月11日は現在、「建国記念の日」という祝日になっています。国民の祝日に関する法律(祝日法)では「建国をしのび、国を愛する心を養う」ことを趣旨としています。しかし、学校教育や新聞、マスコミなどの情報の中で、この日の意義は、ほとんど伝えられていません。
 2月11日は明治時代から昭和23年(1948)までは紀元節と呼ばれていました。紀元節が設けられたのは、明治維新の後のことです。幕末の日本は、西欧列強の植民地にされるおそれがあり、その危機感の中で、日本人は、新しい国民結集の政治体制をつくろうとしました。その方向性を決定づけたのが、慶応3年(1867)12月に出された「王政復古の大号令」でした。その中には、「諸事神武創業のはじめにもとづき……」という文言があります。初代・神武天皇の建国をモデルにすることが謳われ、新国家建設が進められたのです。
 神武天皇は、建国にあたり「八紘(はっこう)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)む」つまり「天下に住むすべてのものが、一つ屋根の下に大家族のように仲良くくらせるようにする」という理念を掲げました。そして、奈良県の橿原の地で、天皇の御位におつきになったと『日本書紀』に記述されています。それは、「辛酉(かのととり)年春正月」の一日のことだといいます。この日を太陽暦に換算すると2月11日となります。そこで、明治6年(1873)に、2月11日が紀元節と定められたのです。「元」とは元始の義であり、また年号のことにも用います。そこで、日本の紀元の始まる日であるとして、紀元節と名づけたものでした。
 アメリカは独立後に独立記念日、フランスは革命後に革命記念日を設け、毎年、国を挙げて祝っています。これにならい、日本は明治維新後に紀元節が定められたのです。そこには、国の伝統、建国の理念を踏まえつつ、新しい近代国家を建設しようという志が込められています。
 こういう意義ある日ですので、明治憲法を発布する際にも、この日が選ばれました。帝国憲法は明治22年(1889)の2月11日に発布されたのです。国の初めの日に、新しい憲法を発布して、立派な国づくりをしようとしたわけです。
 戦前、紀元節は国民的な祝祭日として祝われ、「雲に聳(そび)ゆる高千穂の……」という『紀元節』の歌が小学校などで歌われました。
 ところが、大東亜戦争の敗戦後、わが国を占領したGHQは日本の伝統を破壊しようとしました。占領軍の資料『降伏後における米国の初期対日方針』には、「日本国が再び米国の脅威となり、または、世界の平和および安全の脅威とならざることを確実にする」と、占領の目的が書かれています。すべて、この目的に沿って占領行政が行われました。
 独立国同士の関係にあって、未来永劫に決して脅威とならなくするためには、米国の属国状態に置かない限りあり得ないことです。GHQはまさにそれをめざしました。
 GHQは占領政策の一環として、昭和23年(1948)に祝祭日を変える方針を打ち出しました。これによって、紀元節はこの年をもって廃止されました。2月11日という日を否定することで、日本の神話、歴史、天皇と国民のつながりを破壊しようとしたのです。

 昭和26年(1951)、日本はサンフランシスコ講和条約を結びました。国の独立回復にあたり、わが国の伝統を保ちたいとする政府は、世論調査を実施しました。その結果、祝日に残したい日の第1位は正月、第2位は4月29日の昭和天皇誕生日でした。この日は当時、天長節と呼ばれていました。今は「昭和の日」と呼ばれています。そして、残してほしい祝日の第3位が2月11日でした。
 当時の吉田茂首相は、「紀元節の復活から手を付けていきたい」と国会で答弁しました。そして、昭和27年(1952)4月28日の主権回復以降、紀元節復活運動が行われました。法制化の努力が続けられた結果、昭和41年(1966)6月の国会で、ついに祝日法(国民の祝日に関する法律)の改正がなりました。この時、紀元節は、「建国記念の日」と名を変えて復活することになりました。昭和42年(1967)2月11日には、第1回の「建国記念の日」が祝われました。
 このように、建国記念の日は、敗戦後、日本人の努力で取り戻した日です。国民の努力によって、日本の歴史の原点を取り戻すことができたものです。
 戦後の日本は、6年8ヶ月に及ぶ占領が行われ、この間、日本弱体化政策が強行されました。昭和27年に主権を回復した後には、二つの動きがあります。一つは、占領軍の意志を引き継ぎ、日本の主権を制限されたままにし、固有の歴史観や国家観を否定しつづけようとする動きです。こちらは、「進歩的文化人」を代表とする近代化主義者や、社会主義者、共産主義者による動きです。これに対し、日本を再び独立自尊の国として立て直そうという動きもありました。その運動の代表的なものが、失われた2月11日を取り戻す努力、紀元節復活運動でした。担い手は、日本の伝統や文化を愛する人たちです。
 昭和42年に、「建国記念の日」が制定されて以降、昭和49年(1974)には元号法制化の運動が起こり、昭和53年(1978)に法制化がなりました。また、昭和50年(1975)には昭和天皇のご即位50年奉祝運動が行われました。昭和60年(1985)には同じくご即位60年奉祝運動が行われました。また、「日の丸」「君が代」の法制化運動も行われ、これは平成11年(1999)に国旗国歌法が制定に結実しました。このように、日本再建に向けての努力は、戦後ずっと続けられてきたのです。その努力のきっかけとなったのが、紀元節の復活運動であり、2月11日の意義を知ることは、日本の伝統と文化を理解することになるのです。

 さて、わが国の政府は一時、「建国記念の日」の建国記念式典を後援していたのですが、平成18年(2006)以降は記念式典そのものが行なわれていません。せっかく長年の努力によって回復した記念日が形骸化していることは、大変残念なことです。
 「建国記念の日」が制定された昭和41年(1966)以降、「建国記念の日奉祝会」という民間団体が建国記念式典を開催し、本来は首相出席の上、政府が記念式典を主催すべきことを訴えてきました。昭和53年(1978)に総理府の後援が実現し、以後、文部省・自治省も後援に加わったのです。ところが、昭和59年(1984)、中曽根康弘政権は、式典プログラムから「神武建国」を削除すること、及び「天皇陛下万歳」を「日本国万歳」に変更することを、首相出席の条件として提示しました。民間側はこの政府の要求を拒否したため、昭和63年(1988)からは政府後援の「『建国記念の日』を祝う国民式典」と、民間側の「建国記念の日奉祝中央式典」が別個に開催されるようになりました。
 民間主催の集会は、現在も一貫して「神武建国」「天皇陛下万歳」のある形で行われています。政府後援(主催ではない)の集会は「神武建国」「天皇陛下万歳」のない形で行われていましたが、平成17年(2005)に役員の高齢化を理由に式典が中止になり、翌18年(2006)には一切の行事が取り止めとなってしまいました。以後、記念式典そのものが行われていません。こうした現状を改善すべく国民運動が行われています。
 自民党は一昨年2月建国記念の日や竹島の日などに合わせた政府主催式典の開催を目指し、党内に「歴史・伝統・文化に関する連絡協議会」を設置しました。祝日の由来や意義、文化的な位置づけ、祝日の改廃の経緯などに関する勉強会を開き、政府主催で式典を行う意義を広める活動を行う方針といいます。だが、まだ広く国会議員に賛同を呼びかけ、国民を啓発する動きには至っていません。
 日本の建て直しは、日本建国の由来を知り、その伝統に誇りを持つことから始まります。政府が式典を主催するとともに、建国の由来を教科書に記載し、青少年に教育すべきであります。 そして、祝日には、家庭や地域で国旗「日の丸」を掲揚しましょう。

イスラーム13~正統カリフの時代

2016-02-10 06:40:42 | イスラーム
●正統カリフの時代

 ムハンマドは後継者を指名せずに亡くなったといわれる。彼の死後、信徒たちは後継者を選挙で決めることにし、ムハンマドの妻ハディージャの父アブー・バクルが「カリフ」に選出された。この初代カリフから4代目までの時代を正統カリフ時代と呼ぶ。632年から661年までの約30年間である。この時代の首都はメディナだった。
 カリフは、アラビア語のハリーファの英語読みである。「後継者」「代理人」を意味する。イスラーム教では、「神の使徒の代理」を意味する。カリフは、ムハンマドが持っていた宗教的権限と政治的権限のうち、政治的権限だけを継承した。イスラーム教徒の最高指導者として権力を行使するが、立法権と教義決定権は有しない。イスラーム教では、法律や教義はアッラーが決めるものであって、人間が決めるべきではないという考えだからである。
 カリフ体制の国家に対し、離反する部族が現れた。盟約はムハンマド個人との契約によるものと考えていたからである。これに対し、アブー・バクルは、離反者や異教徒を征服するジハード(聖戦)を開始した。ジハードはイスラーム教の組織の防衛と拡大のために行われた。ジハードの戦死者は天国に直行するという教えを受けた戦士の士気は高く、イスラーム教徒の軍隊は圧倒的な強さを誇った。
 634年にアブー・バクルが病死すると、第2代カリフに勇者ウマルが選出された。勇猛果敢なウマルは積極的にジハードを行い、ササン朝ペルシャを滅亡に追いやり、ビザンツ帝国からシリア・パレスチナを奪い、エジプトも征服して、西アジア一帯を支配下に置いた。
 こうしたイスラーム圏の拡大は、ムハンマドの教えを信奉する者たちの死をもいとわぬほどの情熱によるところが大きい。ビザンチン帝国、ペルシャ帝国の装備充分の正規軍を、その兵力10分の1、15分の1にも満たない集団が撃破していったのは、ただならぬ精神的な高揚があったからだろう。
 各征服地にミスルという軍営都市が次々に作られ、アーミルという徴税官とアミールという総督(軍事責任者)が派遣された。イスラーム教徒は、税金を納めれば、異教徒に改宗を迫ることはしなかった。ウマルは、各地から徴収された税をアター(俸給)として、イスラーム共同体の有力者やイスラーム戦士たちに支給する中央集権的な国家体制を築いた。だが、ウマルは暗殺されてしまう。イスラーム共同体の長であるカリフが殺害されたのである。
 ウマルの死後、第3代カリフには、ムハンマドの義父の一人、ウスマーンが即位した。ウスマーンの時代に『クルアーン』の編纂が行われ、イスラーム教の教義の確立が進んだ。『クルアーン』はムハンマドの死後に記録された。初代カリフのアブー・バクルが、相次ぐ戦争で啓示を記憶している者が多数戦死したので、このままでは神の啓示が砂に埋もれてしまうと考えて、ムハンマドの秘書をしていたサイド・イブン・サービトに命じて記録・編集をさせた。しかし、この時にまとめられた『クルアーン』には不備な点が多く、また別の者たちが編集した異本もあったようで、紛争が生じた。そこで第3代カリフのウスマーンの時代に、今日の版の『クルアーン』が編集されたといわれる。だが、ウスマーンは同族を優遇したことで反感を買って、これまた暗殺された。
 ここで第4代カリフに即位したのが、ムハンマドの従弟で、ムハンマドの娘ファーティマを妻とするアリーである。ムハンマドの死後、彼の血統を受け継ぐアリーを後継者とすべきだという集団が存在した。その集団が熱望していたアリーが、ここでようやくカリフの地位に就いた。
 だが、征服地シリアの総督ムアーウィヤがアリーと敵対した。ウスマーンの暗殺にアリー関わっていたとしてムアーウィアが内乱を起した。アリー側とムアーウィア側がスイッフィーンで血で血を洗う戦いをした。この戦いの収集を巡ってアリーが融和的な態度を取ると、これに不満としてイスラーム教で最初の分派となるハワーリジュ派が結成された。アリーはハワーリジュ派の刺客によって暗殺された。
 アリーが暗殺された661年以後、選挙によるカリフの選出が行われなくなった。初代カリフから第4代のカリフまでは、神に正しく導かれたカリフの時代ということで、正統カリフ時代という。だが、この神聖とされる時代において、カリフが3名続いて暗殺されるという深刻な事件が連続していた。そして、正統カリフ時代以降は、カリフが世襲制になったり、イスラーム教社会が分裂して複数のカリフが並立したりしていく。そうしたイスラーム文明の質的低下は、すでに正統カリフ時代に始まっていたのである。

 次回に続く。