今回からイスラーム文明の現代について書く。本稿は30回ほどの予定で始めたが、50回ほどとなる。
6.現代 (1945年~2010年代初め)
●イスラーム文明の現代
私は、1945年(昭和20年)以降を人類史における現代としている。この年、人類は核時代に入った。人類が自ら生み出した科学兵器によって滅亡する危険性に人類が直面している時代が、現代である。現代の人類史については、拙稿「現代の眺望と人類の課題」に概術した。この項目では、その拙稿を踏まえて、イスラーム文明の現代について記す。
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion09f.htm
第1次世界大戦まで、イスラーム文明では、オスマン帝国が長く君臨した。オスマン帝国が崩壊した後、現代においても、イスラーム文明では、中小の国家が群立して、文明の中核国家が存在しない。また、イスラーム文明は、宗教的にはスンナ派とシーア派に大きく分かれて対立している。宗派を越えた統一的な権威もない。また、部族支配的な社会構造が続いている国が多く、貧富の差が大きい。
第2次世界大戦後、石油の産業的利用が世界的に発達した。そのことにより、イスラーム教諸国のうち豊富な石油資源を持つ国は、莫大な富を獲得している。その一方、石油資源に恵まれない国の多くは、貧困と低開発にあえいでいる。貧困の原因は、主に資本主義の世界的な構造によるが、イスラーム文明そのものにも資本主義的な発展に負の作用を宗教的な理由がある。利子を禁止すること、女性の労働を禁じること、教育は宗教教育がほとんどであること等である。西欧発の文明の影響を受けて、近代化が進みつつはあるが、イスラーム教という宗教・道徳・法・政治等が一元的・一体的になっている規範体系は堅固であり、イスラーム教諸国では近代化への抵抗・反発が強い。
そのため、イスラーム文明は、現代世界の主要文明の中では、近代化が進まぬ発展途上国が多く、低迷している文明の側に入る。だが、イスラエルとアラブ諸国の対立、イスラーム原理主義の台頭、イスラーム教の宗派対立に欧米諸国の利害が絡んだ度重なる戦争、テロリズムの国際的活動等によって、イスラーム文明は世界情勢と人類の運命に大きな影響を与える存在であり続けている。
これより、イスラーム文明の現代を1945年から2010年代初めまでの期間について書き、2010年代初め以降は、イスラーム文明の現在として別の項目に書く。
●イスラエルの建国と中東戦争
イスラーム文明の中心地域は、中東である。中東は、ヨーロッパから見て、近東、中東、極東等と分ける便宜的な地理的概念である。中東は、世界的に見て20世紀以降、最も大きな問題を抱えるようになった地域の一つである。第1次大戦において、イギリスはユダヤ人とアラブ人の協力を得るため、双方にパレスチナでの国家建設を認めた。それと同時に、フランスと中東地域を分割統治する密約を結んでいた。その大戦後、イギリスはアラブ人、ユダヤ人との約束を反故にし、アラブ諸地域を、フランスと共に分割した。国際連盟の委任統治領という形ではあるが、イギリスはパレスチナを事実上の植民地とした。パレスチナに世界各地からユダヤ人が入植し始めると、先住のアラブ人の間に対立・抗争が起こるようになった。イスラーム文明は、その中心地域にユダヤ教社会とイスラーム教社会との緊張関係を抱えることになったのである。
アラブ対ユダヤの対立に手を焼いたイギリスは、第2次大戦後の1947年(昭和22年)、パレスチナの委任統治権を国際連合=連合国に返上した。以後、ユダヤ人国家を建設しようとするシオニズムの後ろ盾となる国家は、アメリカに替わった。
パレスチナにおけるユダヤ人の人口は、第1次大戦の終了時点で約5万6千人。総人口の1割に満たなかった。しかし、第2次大戦終了時点では、約60万人に増加し、総人口の3分の1にまで増えていた。
47年11月、国連はパレスチナをアラブ国家とユダヤ国家と国連永久信託統治区に分割するパレスチナ3分割案を可決した。シオニズムの後ろ盾となったアメリカは、トルーマン大統領のもと、国連で強力な多数派工作を行った。分割案は、パレスチナの6パーセントの土地しか所有していなかったユダヤ人に、56パーセントの土地を与えるものだったから、アラブ側は激しく反発した。
翌年5月、ユダヤ人は国境を明示しないままイスラエルの独立を宣言した。それに抗議する周辺アラブ諸国との間に、第1次中東戦争が始まった。イスラエルは独立戦争と呼び、アラブ側はパレスチナ戦争という。
イスラエルに対抗する勢力となったのは、アラブ連盟である。第1次大戦後、オスマン帝国が解体され、西欧列強が植民地支配を広げた。この時、新たにできたアラブ諸国は、イギリス、フランス等が一部の支配層を利用して作ったもので、家産国家的な性格が強く、国民国家としての基盤は弱かった。そうした国々、イラク、ヨルダン、シリア、レバノン、サウジアラビア、エジプト、チュニジアが第2次大戦後、1945年(昭和20年)にパレスチナのアラブ人代表者とともに結成したのがアラブ連盟である。
イスラエルの独立を不当とするアラブ連盟は、数万の軍をイスラエルに侵攻させた。しかし、アラブ側は統一的な司令部をもたず、イスラエルは圧倒的な勝利を収めた。49年4月の休戦協定では、イスラエルは国連分割案が示す範囲を超えて、パレスチナ全土の80パーセントを支配した。分割案から休戦協定までの間に、パレスチナ人約130万人のうち100万人が難民となったという。アラブ連盟は、パレスチナ人を真に支援する組織ではなかった。
47年の国連決議では、エルサレムは、国連永久信託統治区に位置している。エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教というセム系一神教の三つの宗教の聖地である。ところが、第1次中東戦争の結果、49年のイスラエルとトランス・ヨルダンの休戦協定で、エルサレムは東西に分割された。これにより、国連決議は守られなくなった。
大戦後、イスラエルは、アメリカの援助で軍事的に強化された。これに対抗して、ソ連はアラブ諸国に接近し、軍事援助を増やした。米ソの冷戦の影響という新たな抗争要因が、中東に加わった。
そのことは、イスラーム文明が米ソという方や西洋文明、片や東方正教文明に根差す超大国によって、自らのあり方を左右されることになったことを意味する。
次回に続く。
6.現代 (1945年~2010年代初め)
●イスラーム文明の現代
私は、1945年(昭和20年)以降を人類史における現代としている。この年、人類は核時代に入った。人類が自ら生み出した科学兵器によって滅亡する危険性に人類が直面している時代が、現代である。現代の人類史については、拙稿「現代の眺望と人類の課題」に概術した。この項目では、その拙稿を踏まえて、イスラーム文明の現代について記す。
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion09f.htm
第1次世界大戦まで、イスラーム文明では、オスマン帝国が長く君臨した。オスマン帝国が崩壊した後、現代においても、イスラーム文明では、中小の国家が群立して、文明の中核国家が存在しない。また、イスラーム文明は、宗教的にはスンナ派とシーア派に大きく分かれて対立している。宗派を越えた統一的な権威もない。また、部族支配的な社会構造が続いている国が多く、貧富の差が大きい。
第2次世界大戦後、石油の産業的利用が世界的に発達した。そのことにより、イスラーム教諸国のうち豊富な石油資源を持つ国は、莫大な富を獲得している。その一方、石油資源に恵まれない国の多くは、貧困と低開発にあえいでいる。貧困の原因は、主に資本主義の世界的な構造によるが、イスラーム文明そのものにも資本主義的な発展に負の作用を宗教的な理由がある。利子を禁止すること、女性の労働を禁じること、教育は宗教教育がほとんどであること等である。西欧発の文明の影響を受けて、近代化が進みつつはあるが、イスラーム教という宗教・道徳・法・政治等が一元的・一体的になっている規範体系は堅固であり、イスラーム教諸国では近代化への抵抗・反発が強い。
そのため、イスラーム文明は、現代世界の主要文明の中では、近代化が進まぬ発展途上国が多く、低迷している文明の側に入る。だが、イスラエルとアラブ諸国の対立、イスラーム原理主義の台頭、イスラーム教の宗派対立に欧米諸国の利害が絡んだ度重なる戦争、テロリズムの国際的活動等によって、イスラーム文明は世界情勢と人類の運命に大きな影響を与える存在であり続けている。
これより、イスラーム文明の現代を1945年から2010年代初めまでの期間について書き、2010年代初め以降は、イスラーム文明の現在として別の項目に書く。
●イスラエルの建国と中東戦争
イスラーム文明の中心地域は、中東である。中東は、ヨーロッパから見て、近東、中東、極東等と分ける便宜的な地理的概念である。中東は、世界的に見て20世紀以降、最も大きな問題を抱えるようになった地域の一つである。第1次大戦において、イギリスはユダヤ人とアラブ人の協力を得るため、双方にパレスチナでの国家建設を認めた。それと同時に、フランスと中東地域を分割統治する密約を結んでいた。その大戦後、イギリスはアラブ人、ユダヤ人との約束を反故にし、アラブ諸地域を、フランスと共に分割した。国際連盟の委任統治領という形ではあるが、イギリスはパレスチナを事実上の植民地とした。パレスチナに世界各地からユダヤ人が入植し始めると、先住のアラブ人の間に対立・抗争が起こるようになった。イスラーム文明は、その中心地域にユダヤ教社会とイスラーム教社会との緊張関係を抱えることになったのである。
アラブ対ユダヤの対立に手を焼いたイギリスは、第2次大戦後の1947年(昭和22年)、パレスチナの委任統治権を国際連合=連合国に返上した。以後、ユダヤ人国家を建設しようとするシオニズムの後ろ盾となる国家は、アメリカに替わった。
パレスチナにおけるユダヤ人の人口は、第1次大戦の終了時点で約5万6千人。総人口の1割に満たなかった。しかし、第2次大戦終了時点では、約60万人に増加し、総人口の3分の1にまで増えていた。
47年11月、国連はパレスチナをアラブ国家とユダヤ国家と国連永久信託統治区に分割するパレスチナ3分割案を可決した。シオニズムの後ろ盾となったアメリカは、トルーマン大統領のもと、国連で強力な多数派工作を行った。分割案は、パレスチナの6パーセントの土地しか所有していなかったユダヤ人に、56パーセントの土地を与えるものだったから、アラブ側は激しく反発した。
翌年5月、ユダヤ人は国境を明示しないままイスラエルの独立を宣言した。それに抗議する周辺アラブ諸国との間に、第1次中東戦争が始まった。イスラエルは独立戦争と呼び、アラブ側はパレスチナ戦争という。
イスラエルに対抗する勢力となったのは、アラブ連盟である。第1次大戦後、オスマン帝国が解体され、西欧列強が植民地支配を広げた。この時、新たにできたアラブ諸国は、イギリス、フランス等が一部の支配層を利用して作ったもので、家産国家的な性格が強く、国民国家としての基盤は弱かった。そうした国々、イラク、ヨルダン、シリア、レバノン、サウジアラビア、エジプト、チュニジアが第2次大戦後、1945年(昭和20年)にパレスチナのアラブ人代表者とともに結成したのがアラブ連盟である。
イスラエルの独立を不当とするアラブ連盟は、数万の軍をイスラエルに侵攻させた。しかし、アラブ側は統一的な司令部をもたず、イスラエルは圧倒的な勝利を収めた。49年4月の休戦協定では、イスラエルは国連分割案が示す範囲を超えて、パレスチナ全土の80パーセントを支配した。分割案から休戦協定までの間に、パレスチナ人約130万人のうち100万人が難民となったという。アラブ連盟は、パレスチナ人を真に支援する組織ではなかった。
47年の国連決議では、エルサレムは、国連永久信託統治区に位置している。エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教というセム系一神教の三つの宗教の聖地である。ところが、第1次中東戦争の結果、49年のイスラエルとトランス・ヨルダンの休戦協定で、エルサレムは東西に分割された。これにより、国連決議は守られなくなった。
大戦後、イスラエルは、アメリカの援助で軍事的に強化された。これに対抗して、ソ連はアラブ諸国に接近し、軍事援助を増やした。米ソの冷戦の影響という新たな抗争要因が、中東に加わった。
そのことは、イスラーム文明が米ソという方や西洋文明、片や東方正教文明に根差す超大国によって、自らのあり方を左右されることになったことを意味する。
次回に続く。