●第4次中東戦争と世界を襲った石油危機
1970年(昭和45年)エジプトでナーセルが死に、副大統領のサダトが大統領となった。サダトは、イスラエルに占領されていたシナイ半島、ゴラン高原などの奪回を目指して軍事行動を起こした。エジプト・シリア両軍は、73年10月6日、イスラエルに対して奇襲攻撃を行い、第4次中東戦争が始まった。
不意を衝かれたイスラエル軍は苦戦したが、やがて劣勢を挽回してシリアに攻め込み、スエズ運河を渡ってエジプトに侵入した。これに対し、最初から軍事的劣勢を自覚していたアラブ側が産油国の強みを活かした強力な策を打った。それが石油戦略である。
同年10月17日、石油輸出国機構(OPEC)に加盟するペルシャ湾岸6カ国が、原油価格の21%引き上げを発表した。アラブ石油輸出国機構(OAPEC)に加盟する10カ国は、前月の産油量を基準に、イスラエルを支持する国向けの生産量を毎月5%ずつ削減する。逆に、アラブ諸国を支持する国、イスラエルに占領地からの撤退を求める国には、従来通りの量を供給すると発表した。そのうえ、アメリカ・オランダなどのイスラエル支援国には、石油の全面禁輸措置が取られた。こうしたアラブの石油戦略の発動は、先進国の経済に深刻な影響を与えた。これを第1次石油危機という。
アラブ諸国の石油戦略は、石油を使ってアラブ諸国への支持を広げ、イスラエルを孤立させることを狙ったものだった。アラブの産油国は、石油を武器にすれば、国際社会で強い影響力を持てることに気づいたのである。それまで親米路線をとり、石油戦略の発動に慎重だったサウジアラビアも強硬路線に転じた。
石油の全面禁輸をちらつかせるアラブ側の前に、日本や西欧諸国は次々と対イスラエル政策の見直しを声明した。これを切り崩そうとするアメリカに対し、サウジも強硬姿勢を示し、アメリカの軍事介入を防いだ。こうして、アラブ側は、日本や西欧諸国に中東政策の見直しを迫ることに成功した。
1930年代以降、オイル・メジャーと呼ばれる巨大な国際石油企業が、世界の石油を支配していた。これらの企業は、アメリカ、イギリス、オランダ系の7社だったので、セブン・シスターズ(七人姉妹)とも呼ばれた。この7社が生産と価格に関するカルテルを結んで、莫大な利益を上げていた。これに対し、産油国は1960年(昭和35年)9月、OPECを作った。さらにアラブの産油国は、独自に68年1月にOAPECを結成し、メジャーの寡占体制に異議を唱えるようになった。
産油国のこうした行動は、西洋文明に対するイスラーム文明の応戦であり、非西洋文明の応戦である。また近代世界システムにおける周辺部の中核部への反抗でもある。また国家単位で見れば、旧植民地の旧宗主国への逆襲であり、また資源ナショナリズムの高揚でもある。こうした画期的な行動だった。
アラブ産油国の主体意識は、強まった。1970年代に入ると、世界の石油生産量の36%を中東が占めるようになっていた。先進諸国は中東への石油依存度を高めており、産油国は発言力を増した。こうした事情を踏まえて、アラブの産油国は、石油戦略を発動したのである。
第4次中東戦争は1973年(昭和48年)11月に停戦となり、痛みわけに終わった。OPECは、同年12月には石油の削減の中止と増産を決めた。石油危機はひとまず終わった。しかし、アラブ側がこの戦いで取った新戦術が、その後も世界を大きく左右していく。
アラブの石油戦略は、欧米のオイル・メジャーから、石油の価格と生産量の決定権を取り返すものだった。石油のような地下資源は、いつかは枯渇する。産油国が協調すれば、供給を制限したり、価格を引き上げたりすることができる。そうして得た資金を経済基盤の整備に当てれば、石油が枯渇した後も繁栄を維持できるようになる。石油戦略には、こうした長期的な構想があったとみられる。
石油の決済は、ドル建てである。アラブの産油国に流れ込んだ大量のドルは、価値の増殖を求めて、世界の金融市場を動きまわるようになった。これをオイル・マネーという。オイル・マネーは、世界経済の動向に一定の影響力を与えるものとなった。
次回に続く。
1970年(昭和45年)エジプトでナーセルが死に、副大統領のサダトが大統領となった。サダトは、イスラエルに占領されていたシナイ半島、ゴラン高原などの奪回を目指して軍事行動を起こした。エジプト・シリア両軍は、73年10月6日、イスラエルに対して奇襲攻撃を行い、第4次中東戦争が始まった。
不意を衝かれたイスラエル軍は苦戦したが、やがて劣勢を挽回してシリアに攻め込み、スエズ運河を渡ってエジプトに侵入した。これに対し、最初から軍事的劣勢を自覚していたアラブ側が産油国の強みを活かした強力な策を打った。それが石油戦略である。
同年10月17日、石油輸出国機構(OPEC)に加盟するペルシャ湾岸6カ国が、原油価格の21%引き上げを発表した。アラブ石油輸出国機構(OAPEC)に加盟する10カ国は、前月の産油量を基準に、イスラエルを支持する国向けの生産量を毎月5%ずつ削減する。逆に、アラブ諸国を支持する国、イスラエルに占領地からの撤退を求める国には、従来通りの量を供給すると発表した。そのうえ、アメリカ・オランダなどのイスラエル支援国には、石油の全面禁輸措置が取られた。こうしたアラブの石油戦略の発動は、先進国の経済に深刻な影響を与えた。これを第1次石油危機という。
アラブ諸国の石油戦略は、石油を使ってアラブ諸国への支持を広げ、イスラエルを孤立させることを狙ったものだった。アラブの産油国は、石油を武器にすれば、国際社会で強い影響力を持てることに気づいたのである。それまで親米路線をとり、石油戦略の発動に慎重だったサウジアラビアも強硬路線に転じた。
石油の全面禁輸をちらつかせるアラブ側の前に、日本や西欧諸国は次々と対イスラエル政策の見直しを声明した。これを切り崩そうとするアメリカに対し、サウジも強硬姿勢を示し、アメリカの軍事介入を防いだ。こうして、アラブ側は、日本や西欧諸国に中東政策の見直しを迫ることに成功した。
1930年代以降、オイル・メジャーと呼ばれる巨大な国際石油企業が、世界の石油を支配していた。これらの企業は、アメリカ、イギリス、オランダ系の7社だったので、セブン・シスターズ(七人姉妹)とも呼ばれた。この7社が生産と価格に関するカルテルを結んで、莫大な利益を上げていた。これに対し、産油国は1960年(昭和35年)9月、OPECを作った。さらにアラブの産油国は、独自に68年1月にOAPECを結成し、メジャーの寡占体制に異議を唱えるようになった。
産油国のこうした行動は、西洋文明に対するイスラーム文明の応戦であり、非西洋文明の応戦である。また近代世界システムにおける周辺部の中核部への反抗でもある。また国家単位で見れば、旧植民地の旧宗主国への逆襲であり、また資源ナショナリズムの高揚でもある。こうした画期的な行動だった。
アラブ産油国の主体意識は、強まった。1970年代に入ると、世界の石油生産量の36%を中東が占めるようになっていた。先進諸国は中東への石油依存度を高めており、産油国は発言力を増した。こうした事情を踏まえて、アラブの産油国は、石油戦略を発動したのである。
第4次中東戦争は1973年(昭和48年)11月に停戦となり、痛みわけに終わった。OPECは、同年12月には石油の削減の中止と増産を決めた。石油危機はひとまず終わった。しかし、アラブ側がこの戦いで取った新戦術が、その後も世界を大きく左右していく。
アラブの石油戦略は、欧米のオイル・メジャーから、石油の価格と生産量の決定権を取り返すものだった。石油のような地下資源は、いつかは枯渇する。産油国が協調すれば、供給を制限したり、価格を引き上げたりすることができる。そうして得た資金を経済基盤の整備に当てれば、石油が枯渇した後も繁栄を維持できるようになる。石油戦略には、こうした長期的な構想があったとみられる。
石油の決済は、ドル建てである。アラブの産油国に流れ込んだ大量のドルは、価値の増殖を求めて、世界の金融市場を動きまわるようになった。これをオイル・マネーという。オイル・マネーは、世界経済の動向に一定の影響力を与えるものとなった。
次回に続く。