4.生活
●世界観
イスラーム教の世界観では、現世は不可視界(ガイブ)と可視界(シャハーダ)の二つの領域に分かれる。不可視界とは、現世の一部だが、人間の五感ではとらえられない領域であり、「この世に関わる限りでの神の意志の本来的場所」(井筒俊彦氏)である。可視界とは「その不可知・不可測である神の意志が徴となって実際に発現する場所」(同上)とされる。不可視界と可視界を合わせたものが現世であり、この世とは全く別の次元の世界として来世が存在するとされる。ただし、来世は、世界の終末に初めて顕現するものとされる。
イスラーム教は、現世を否定しない。現世を神の経綸の場所として、宗教的共同体によって宗教的秩序を創り出していこうとする。性愛を肯定し、結婚を義務とし、信徒に共同体の成員としての責任を果たすように求める。
●個人と共同体
信徒は、まず自らの信仰を通じて、自らの救済が得られるように努力しなければならない。ただし、イスラーム教では、個人と共同体は切り離すことができない。ウンマと呼ばれる宗教的共同体を離れて個人の信仰と生活は成立しない。個人は、イスラーム教の教えを受け入れて信徒になった時から、自分の所属するウンマの命運について、責任を持たねばならない。
ウンマでは、聖と俗を切り離すことなく、政教一致を原則とする。個々の信徒は、単なる個人としてではなく、共同体の成員としてはじめて、聖なるものと関わりを持つことができるとされる。
イスラーム教では、原則的に修道院制度を否定する。共同体における社会的責任を逃れて、出家することを認めない。
●性と結婚
イスラーム教は、性愛に対して肯定的である。性愛は人間の根源的な喜びで、十分楽しむべきものと教えている。ただし、性愛は婚姻関係の中で楽しめ、と言う。
アッラーがアーダム(アダム)とその妻を創造したのは、二人が夫婦になり、子供を生み、家庭をつくり、子孫を増やすためである。男と女がいて、その間に愛情が生まれるのは神の思召しである。
アッラーの教えを忠実に守る者にとって、正式な男女の交わり、つまり結婚は、必要だから許されているのではなく、積極的な義務とされる。ムハンマドの言葉として。「結婚はわが教えの一部である。わが道から離れる者は、わが仲間ではない」と伝承されている。
これとともに、結婚以外のあらゆる性行為、すなわち婚前交渉や夫婦間以外の性関係は厳禁である。なぜなら、婚姻とそれによって作られる家庭は、人間が作り出した形式ではなく、アッラーがこの世を創始した時から人間に課せられた規範として考えられているからである。
イスラーム教における性愛の肯定は、キリスト教と著しい対照をなす。キリスト教は極めて現世否定的で来世志向的である。そこから、キリスト教では性行為を罪としてとらえる傾向が強い。旧約聖書の「創世記」によると、アダムとイブが蛇に誘惑されて、神によって禁じられた「善悪の知識の樹」からとった実を食べたために、神によって楽園を追放された。ユダヤ教では、神の教えを守れない人間の愚かさが強調されるのに対し、キリスト教では、誘惑した蛇が悪魔としてとらえられ、誘惑は性的なものとして解釈された。すなわち、人類の始祖は悪魔に誘惑されて、神から禁じられた性愛を行うようになったとして、原罪の観念が強調されるようになった。そしてキリスト教は性愛に対して極めて禁欲的な宗教になった。ユダヤ教には、基本的に性愛に結び付けた原罪の考え方はない。
キリスト教が禁欲を重視する点は、聖職者のあり方に反映されている。カトリックでは、聖職者に生涯独身であることの誓いが求められる。妻帯する聖職者はいない。修道士、修道女も生涯禁欲を守る。一般の信徒も、性交は子供を作るためだけに許され、性の快楽を追求することは否定される。婚前交渉や夫婦以外の性行為は罪になると考える傾向が強い。
イスラーム教は、一夫多妻を肯定する。イスラーム法では、同時に4人までの女性と結婚することが許されている。これは、「やむをえない場合には、4人まで妻を娶ってもよい」という教えによる。その現実的な理由は、イスラーム教ではジハード(聖戦)を信者の義務とするので、聖戦で戦い、死んだ者が残した未亡人や孤児の養育のために救済策をとらなければならなかったことが挙げられる。一人の妻以外の女性との性愛を奨励するのではなく、社会政策的な意味が大きい。
セム系の民族では、一夫多妻はごく一般的な慣習であった。ユダヤ教は妻の数を制限してない。イスラーム教は、その数を4人までに限定した。4人まで妻帯してもよいという教えに対し、実際に複数の妻を持つ男性はそれほど多くない。イスラーム国家でも、複数婚は少なくなり何人も妻を持つことは悪習であると考えることが常識化しつつある。
次回に続く。
●世界観
イスラーム教の世界観では、現世は不可視界(ガイブ)と可視界(シャハーダ)の二つの領域に分かれる。不可視界とは、現世の一部だが、人間の五感ではとらえられない領域であり、「この世に関わる限りでの神の意志の本来的場所」(井筒俊彦氏)である。可視界とは「その不可知・不可測である神の意志が徴となって実際に発現する場所」(同上)とされる。不可視界と可視界を合わせたものが現世であり、この世とは全く別の次元の世界として来世が存在するとされる。ただし、来世は、世界の終末に初めて顕現するものとされる。
イスラーム教は、現世を否定しない。現世を神の経綸の場所として、宗教的共同体によって宗教的秩序を創り出していこうとする。性愛を肯定し、結婚を義務とし、信徒に共同体の成員としての責任を果たすように求める。
●個人と共同体
信徒は、まず自らの信仰を通じて、自らの救済が得られるように努力しなければならない。ただし、イスラーム教では、個人と共同体は切り離すことができない。ウンマと呼ばれる宗教的共同体を離れて個人の信仰と生活は成立しない。個人は、イスラーム教の教えを受け入れて信徒になった時から、自分の所属するウンマの命運について、責任を持たねばならない。
ウンマでは、聖と俗を切り離すことなく、政教一致を原則とする。個々の信徒は、単なる個人としてではなく、共同体の成員としてはじめて、聖なるものと関わりを持つことができるとされる。
イスラーム教では、原則的に修道院制度を否定する。共同体における社会的責任を逃れて、出家することを認めない。
●性と結婚
イスラーム教は、性愛に対して肯定的である。性愛は人間の根源的な喜びで、十分楽しむべきものと教えている。ただし、性愛は婚姻関係の中で楽しめ、と言う。
アッラーがアーダム(アダム)とその妻を創造したのは、二人が夫婦になり、子供を生み、家庭をつくり、子孫を増やすためである。男と女がいて、その間に愛情が生まれるのは神の思召しである。
アッラーの教えを忠実に守る者にとって、正式な男女の交わり、つまり結婚は、必要だから許されているのではなく、積極的な義務とされる。ムハンマドの言葉として。「結婚はわが教えの一部である。わが道から離れる者は、わが仲間ではない」と伝承されている。
これとともに、結婚以外のあらゆる性行為、すなわち婚前交渉や夫婦間以外の性関係は厳禁である。なぜなら、婚姻とそれによって作られる家庭は、人間が作り出した形式ではなく、アッラーがこの世を創始した時から人間に課せられた規範として考えられているからである。
イスラーム教における性愛の肯定は、キリスト教と著しい対照をなす。キリスト教は極めて現世否定的で来世志向的である。そこから、キリスト教では性行為を罪としてとらえる傾向が強い。旧約聖書の「創世記」によると、アダムとイブが蛇に誘惑されて、神によって禁じられた「善悪の知識の樹」からとった実を食べたために、神によって楽園を追放された。ユダヤ教では、神の教えを守れない人間の愚かさが強調されるのに対し、キリスト教では、誘惑した蛇が悪魔としてとらえられ、誘惑は性的なものとして解釈された。すなわち、人類の始祖は悪魔に誘惑されて、神から禁じられた性愛を行うようになったとして、原罪の観念が強調されるようになった。そしてキリスト教は性愛に対して極めて禁欲的な宗教になった。ユダヤ教には、基本的に性愛に結び付けた原罪の考え方はない。
キリスト教が禁欲を重視する点は、聖職者のあり方に反映されている。カトリックでは、聖職者に生涯独身であることの誓いが求められる。妻帯する聖職者はいない。修道士、修道女も生涯禁欲を守る。一般の信徒も、性交は子供を作るためだけに許され、性の快楽を追求することは否定される。婚前交渉や夫婦以外の性行為は罪になると考える傾向が強い。
イスラーム教は、一夫多妻を肯定する。イスラーム法では、同時に4人までの女性と結婚することが許されている。これは、「やむをえない場合には、4人まで妻を娶ってもよい」という教えによる。その現実的な理由は、イスラーム教ではジハード(聖戦)を信者の義務とするので、聖戦で戦い、死んだ者が残した未亡人や孤児の養育のために救済策をとらなければならなかったことが挙げられる。一人の妻以外の女性との性愛を奨励するのではなく、社会政策的な意味が大きい。
セム系の民族では、一夫多妻はごく一般的な慣習であった。ユダヤ教は妻の数を制限してない。イスラーム教は、その数を4人までに限定した。4人まで妻帯してもよいという教えに対し、実際に複数の妻を持つ男性はそれほど多くない。イスラーム国家でも、複数婚は少なくなり何人も妻を持つことは悪習であると考えることが常識化しつつある。
次回に続く。