ほそかわ・かずひこの BLOG

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イスラーム15~イスラーム文明の分裂、モンゴル帝国・オスマン帝国の興亡

2016-02-15 08:14:27 | イスラーム
●諸王朝の乱立によるイスラーム文明の分裂

 アッバース朝の衰退の原因は、ウマイヤ朝の残党が王朝を復興したり、イラン人・トルコ人などが独立王朝を作ったりしたことによる。
 ウマイヤ朝の残党は、アッバース朝創始の6年後にイベリア半島でウマイヤ朝を復興した。これを後ウマイヤ朝という。首都はコルドバだった。キリスト教徒のレコンキスタ(国土回復運動)や政治的内紛が原因で1031年に滅亡するまで続いた。
 後ウマイヤ朝の成立によって、イスラーム文明は分裂の時代に入った。8世紀末にはモロッコにシーア派のイドリース朝が建国された。909年にはチュニジア地方にファーティマ朝が興った。ファーティマはムハンマドの娘の名前であり、その子孫と称する者が建国した。過激シーア派であるイスマーイール派を信じ、成立当初からカリフの称号を使用した。そのため、アッバース朝との間で、カリフが2人並存することになった。932年には、イラン人のブワイフ家が独立してシーア派のブワイフ朝を建てた。バグダードを占領し、アッバース朝のカリフから政治的・軍事的権限を奪って「大アミール」の称号を受けた。そのため、アッバース朝のカリフは名目的なものになった。もともとカリフは宗教的な権限を持たないが、宗教的に一定の権威はある。後ウマイヤ朝でも、929年に3代目君主のアブド・アッラフマーン3世がカリフの称号を使用した。これにより、イスラーム文明に3人のカリフが並存することになった。これ以降、イスラーム文明における諸国家の分裂が速まった。
 カリフ制国家は、多数のイスラーム教徒が集まってイスラーム共同体をつくり、1人のカリフを選び定め、カリフにイスラーム法の施行の全権限を委ねることを前提とする。ところが、イスラーム文明に3人のカリフが並び立ち、さらにアッバース朝のカリフが他の王朝の統治下に置かれるという事態が生じた。ここでイスラーム法学者は、法を現実と一致させるという妥協を行うか、それとも神授の法の純粋性を護持するかという選択を迫られた。彼らは後者を選び、その後の新たな立法の道を固く閉ざした。これを「イジュティハードの門は閉ざされた」という。イジュティハードとは、イスラーム法の専門用語のことをいう。この選択が、スンナ派の神学の固定化を招いたといわれる。
 10世紀後半から13世紀にかけて、イスラーム文明では、各地で王朝が乱立した。 そのうち主なものを書くと、11世紀半ばにトルコ系でスンナ派のセルジューク朝が興った。ブワイフ朝を打倒してアッバース朝のカリフを解放したトゥグリル・ベクは、「スルタン」という称号を贈られた。「スルタン」はアラビア語で「政治的支配」を意味するスルタと同根の語であり、「政治的支配者」を意味する。以後、スルタンはイスラーム教国家の君主の呼び名となった。聖俗の分離は、すでにウマイヤ朝の時代から実質的に始まっていたが、セルジューク朝の時代には、明確に聖なるものの長としてのカリフと、俗なるものの長としてのスルタンが別に存在するようになったのである。
 セルジューク朝は、内部分裂の結果、1194年に滅亡した。その少し前に1169年にアイユーブ朝を建国したサラディンは、クルド人の武将で、ファーティマ朝の宰相だった。ファーティマ朝を滅ぼした後、1187年に聖地エルサレムをキリスト教徒から奪還した。サラディンは第3回十字軍と戦って勝利し、エルサレムを防衛した。イスラーム文明の英雄として名高い。アイユーブ朝は第5回十字軍を壊滅させたが、1250年トルコ系のマムルーク朝に滅ぼされた。マムルーク朝のスルタンとなったバイバルス1世は、アッバース朝がモンゴル軍に滅ぼされると、カイロにアッバース朝カリフの後裔を招いてカリフ位に就かせ、イスラーム文明の盟主となった。マムルーク朝は第6回・第7回十字軍と戦い、またモンゴル軍を敗退させた。十字軍は、一般に11~13世紀に8回行われたと数えられる。14世紀以降も続けられたが、後述のオスマン帝国に阻まれ、すべて失敗に終わった。

●モンゴル帝国・オスマン帝国の興亡

 13世紀の半ば、イスラーム文明に侵攻したモンゴル軍についてここで書くと、チンギス・ハンの孫フラグは、アッバース朝を滅亡させて、1258年にイル・ハン国を建国した。イル・ハン国は当初イスラーム教を弾圧したが、1295年皇帝ガサン・ハンが自らイスラーム教に改宗し、国教に定めた。キプチャク・ハン国、チャガタイ=ハン国などもイスラーム教を擁護するようになり、モンゴル人のイスラーム化が進んだ。ユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国は、14世紀に入ると分裂し、各国が独立するなどして解体してしまう。
 イベリア半島では、13世紀初めにナスル朝が興った。首はグラナダだった。アルハンブラ宮殿で知られる。スペインのレコンキスタによって、1492年に滅亡した。
この過程でキリスト教徒が失地を奪回した際のイスラーム教徒に対する処遇は、苛酷をきわめた。彼らは改宗を迫られ、改宗しない者は殺害されたり、徹底的に追放されたりした。こうした蛮行は、十字軍においてもみられたものであり、十字軍がエルサレムを占領した際には、住民4万人を老幼男女を問わず皆殺しにした。逆に、十字軍を迎え撃ったり、ヨーロッパに進軍したりしたイスラーム軍は、そこまでの殺戮や迫害を行っていない。
 1370年には、チャガタイ・ハン国の豪族ティムールがイスラーム王朝を建て、中央アジアの広大な地域を領土にした。首都はサマルカンドだった。ティムールの死後、息子たちが争い合い、1507年にトルコ系のウズベク人によって滅ぼされた。生き残ったティムール朝の残党は、後にインドでムガル帝国を作った。イスラーム文明は13世紀半ばから、ユーラシア大陸を広く覆ったモンゴル帝国の支配下に入ったのだが、帝国の周辺部では、モンゴル人の力に服することを潔しとしないトルコ民族が立ち上がり、1299年にオスマン朝を創建した。セルジューク朝の後裔であるルーム・セルジューク朝の傭兵部隊の指導者だったオスマン・ベイが、初代皇帝オスマン1世となった。
 モンゴル帝国は14世紀には衰退・崩壊に向かい、オスマン帝国はイスラーム文明の中心となった。また以後、600年以上も続くイスラーム文明で最長の国家となった。
 オスマン帝国は、積極的に征服戦争を行い、領土を拡大していった。強大化するオスマン帝国は、1453年にコンスタンチノープルを陥落し、東ローマ帝国を最終的に滅亡させた。コンスタンチノープルをイスタンブールと改称して首都とした。セリム1世の時代には、イランのサファヴィー朝と抗争する一方、エジプトのマムルーク朝を滅ぼし、メッカとメディナの支配権を得た。オスマン帝国のスルタンは、マムルーク朝に亡命していたアッバース朝のカリフからカリフ位の譲渡を受けたとして、自らカリフと称した。スルタンがカリフになるので、これをスルタン=カリフ制という。世俗的な君主であるスルタンが、一定の宗教的権威を持つカリフを兼ねるという新たな体制の始まりである。
 オスマン帝国が最盛期を迎えた16世紀には、中央ヨーロッパ、北アフリカにまで領土を広げた。皇帝スレイマン1世は、1529年に神聖ローマ帝国の首都ウィーンを包囲した。だが、寒波の到来でオスマン軍は、攻撃をあきらめた。それによって、ヨーロッパ文明はイスラーム文明の支配を免れた。
 このころ、インドでは1526年にムガル帝国が作られた。インドでは、13世紀初から16世紀初めまで、5つのイスラーム王朝ができ、デリー=スルタン朝と総称する。ムガル帝国は、これを倒したティムールの子孫のバーブルが建国したものである。第3代アクバルは、ジズヤを廃止するなど、ヒンドゥー教徒との融和政策を行った。だが、第6代のアウラングゼーブはシーア派のモスクやヒンドゥー教の寺院をことごとく破壊し、多くの民族・宗教集団の反乱を招いた。これに付け込んだイギリスによって、1858年に征服され、植民地にされた。
 一方、オスマン帝国は、18世紀以降、様々な方面から攻撃を受けた。なかでも不凍港を求めて南下政策を取るロシアとの露土戦争は12回に及んだ。軍事費が膨らむオスマン帝国では、物価が上昇し、貧富の差が拡大して、民衆の不満が募った。1876年西洋的な近代化をめざし、二院制議会・責任内閣制などを盛り込んだミドハト憲法を発布したが、翌年ロシアとの戦争に敗れ、東ヨーロッパの領土の大部分を失った。「瀕死の重病人」と呼ばれるまでに衰退した。第1次世界大戦では同盟国側で参戦するが、降伏した。
 大戦後、イギリス、フランス、イタリアがオスマン帝国の西アジアの領土を直接または間接的に統治することになり、残ったのはトルコ地域だけになった。イスラーム文明の諸国は、近代化した西洋文明の列強に圧倒された。1920年(大正9年)には、非イスラーム教徒に支配されていないイスラーム教諸国は、トルコ、サウジアラビア、イラン、アフガニスタンの4カ国のみになった。トルコでは、1922年ムスタファ・ケマル・アタテュルクの革命によってオスマン帝国は滅亡した。ケマルは、22年にスルタン制、24年にカリフ制を廃止して政教分離を行い、西洋化を進めた。ここに初めて近代化されたイスラーム教共和国が出現した。

 次回に続く。