ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

人権264~文明間の違いと地域的人権条約

2016-02-07 08:55:18 | 人権
●文明間の違いと地域的人権条約

 文明間の違いとの関係で再度言及しておきたいのが、地域的人権条約である。地域的人権条約については、特殊志向的な人権条約の項目に書いたが、国連で世界人権宣言が採択され、人類共通的な人権思想が広がる一方で、1951年に欧州人権条約、69年に米州人権条約、81年にアフリカ人権憲章等が採択されてきている。欧州・米州・アフリカで地域的な人権条約が作られてきたことは、非西洋文明の諸社会は近代西欧発の人権思想を受容すると、これを自分たちの権利意識に合うように修正しつつ、発展させていることを示している。
 その時、欧州に対抗して、ラテン・アメリカやアフリカで独自の人権条約が制定されていることは、単に地域ではなく文明という観点からも見る必要がある。ハンチントンは、主要文明の中に、キリスト教的カソリシズムとプロテスタンティズムを基礎とする西洋文明(西欧・北米)のほかに、カトリックと土着文化を基礎とするラテン・アメリカ文明と、アフリカ文明(サハラ南部)を挙げた。米州人権条約はラテン・アメリカ文明の地域で制定されており、アフリカ人権憲章はアフリカ文明を含むアフリカ地域で制定されているのである。それゆえ、私は、これらの人権条約を単に地域的ではなく、文明圏的な人権条約と考える。
 世界で最大の人口を擁するアジアでは、地域的な人権条約は作られていない。このことは、アジアの権利意識が欧米と共通だからではない。逆に違いが大きいためである。欧米に起源を持つ個人中心の人権思想は、共同体と個人の調和を前提とするアジアの社会には妥当でないという主張がある。この点はアフリカ以上にアジアの特徴である。またアジアは、イスラーム文明、ヒンズー文明、シナ文明、日本文明と主要な文明が四つある。ラテン・アメリカ、アフリカと比較すると、アジアではそれぞれの文明ごとに地域的または文明圏的な人権条約が模索されることになるかもしれない。
 ここで、アジア、アフリカを中心に世界各地に多くの信者を持つイスラーム教における人権動向を書いておきたい。世界人権宣言の採択の際、サウジアラビアは、イスラーム教の教義から宣言の定める自由と権利の一部は受け入れられないとして、採択を棄権した。その後、イスラーム教諸国会議機構に加盟する中東、北アフリカの国々は協議を重ねた。これらの諸国は、ウィーン会議を前後して、1990年(平成2年)に「イスラーム教における人権に関するカイロ宣言」を採択した。また1994年(平成6年)には「人権に関するアラブ憲章」を採択した。これらの宣言及び憲章は、人権概念とイスラーム教の国家原理との調和を図るためのものである。イスラーム教諸国の側から欧米に向けて発せられた「どのような人権なら受け入れることができるか」を示すメッセージだったとも理解できる。
 カイロ宣言では「イスラーム教における基本的権利及び普遍的自由は、イスラーム教の信仰の一部である」ことが確認された。アラブ憲章では、人権が「イスラーム教のシャリーア(イスラーム法)及びその他の神の啓示に基づく諸宗教によって堅固に確立された諸原則」であることが確認された。このことは、イスラーム教諸国は人権が西洋文明の所産であるという見方を否定したことを意味する。移動や居住の自由、表現の自由といった個別的な人権については、シャリーアの優越が強調された。またカイロ宣言は、イスラーム教諸国の地域性を反映して「高利貸しは絶対的に禁止される」とし、アラブ憲章は「アラブ・ナショナリズムが誇りの源泉である」「世界平和に対する脅威をもたらす人種主義とシオニズムを拒否する」等の他地域の人権条約には見られない規定が盛り込まれた。
 このように、イスラーム教諸国の人権解釈は、イスラーム教の教義に人権の概念に当たるものを見出して、教義と人権概念の矛盾を解消し、それでもなお矛盾の生じかねない部分、たとえば移動・居住・表現等の自由については、シャリーアの規定を優先させている。ここには西欧発の人権思想を一定程度摂取しながら、それをイスラーム教に固有の概念で置き換えて土着化させるという文明間における主体的な対応が見られる。
 国際人権諸条約に定められた個人の自由及び権利が国家の体制のいかんを問わず、実現すべき価値であるという認識は、大局的には深まりつつある。また国際人権規約の自由権規約及び社会権規約は、今日ともに160以上の国が締約国となっている。個別的人権条約についても、締約国が最も多い子どもの権利条約は190以上の国が締約国となっている。また女性差別撤廃条約も締約国は180以上となっている。
 それにもかかわらず、人権の思想の根本にあるべき人間観については、人類は未だ共通の人間観を構築できていない。表面的には、人権は一元的・単線的に発達しており、今後も同様に発達し続けると見えよう。だが人権の発達史を文明学的に見ると、人権は一元的・単線的な発達過程ではなく、ある程度の多様性を持って発達してきている。人権は普遍的・生得的な「人間の権利」ではなく、歴史的・社会的・文化的に発達する「人間的な権利」であるから、文明を単位として一定の多様性を持ちながら発達し続けていく可能性がある。

 次回に続く。

イスラーム11~死と死後の考え方

2016-02-07 08:39:24 | イスラーム
●死と死後の考え方

 イスラーム教の来世観には、ユダヤ教、キリスト教と同じく、最後の審判という教えがある。この審判は、個々人に対して死後に下されるのではない。人類の歴史の最後において、全人類に対して審判がなされるのである。
 最後の審判の日に、死んだ者は全員が生き返り、神の審判を受けるとする点は、ユダヤ教、キリスト教と同じである。ここで天国に行く者と、地獄に行く者とに分けられる。イスラーム教では、魂だけが天国に昇ったり、あるいは地獄に堕ちたりするのではない。現世の時と同じ肉体のままで、天国または地獄に行くとされる。また、最後の審判の時に復活する人間には肉体が必要だとして、死者を土葬にするのが、イスラーム教の特徴である。火葬は、地獄に堕ちた者に対して、神が下す処罰だと考えられている。したがって、火葬は人間が行うべきものではないとされ、遺体を火葬にしない。
 イスラーム教では、地獄(ゲヘナ)は火のイメージで描かれる。『クルアーン』には、そのイメージによる言葉が多く記されている。たとえば、第4章56節「本当にわが印を信じない者は、やがて火獄に投げ込まれよう」。第22章22節「苦しさのため、そこから出ようとする度に、その中に押し戻され、『火炙りの刑を味わえ。』(と言われよう。)」などである。
 この地獄の責め苦は永遠に続くとされる。第5章第37節「かれらは、業火から出ることを願うであろうが、決してこれから出ることは出来ない。懲罰は永久に続くのである」。第43章74節「罪を犯した者は、地獄の懲罰の中に永遠に住む」戸いう具合である。
 仏教では地獄を一定期間の贖罪の場と考えている。もっとも一番短い刑期は、1兆6200億年である。気の遠くなるような時間だが、有限であって無限ではないのが特徴である。これに対し、キリスト教やイスラーム教では、地獄は永遠の責め苦を受ける場所である。いったん地獄に堕ちたら、二度と帰ることはできない。
 だが、キリスト教やイスラーム教は、有限の刑期の場所も設けている。これを煉獄という。煉獄は、罪の浄めのために一時的に服役する場所である。キリスト教では、もともと天国と地獄だけだったが、中世のカトリック教会は天国と地獄の間に煉獄を置くようになった。プロテスタントは煉獄を言わない。
 イスラーム教は、現世については非常に禁欲的な生活を説くが、来世については極めて肉体的な快楽と官能的な欲望の実現を説く。魂の精神的な喜びとは、異質である。
 イスラーム教の天国は、緑園といわれる。緑や水の豊かな場所がイメージされている。砂漠の民にとっての憧れの地なのだろう。緑園では、現世で禁じられている酒は飲みたい放題である。食物も美味で食べたい放題である。多数の美女と性交することができ、いくら交わってもその美女は処女のままだとする。
 イスラーム教は、欲望の追求を否定しない。だが、現世での欲望など大したものではなく、善行を積めば来世の天国で遥かに大きく欲望が実現される、と教えている。この点、欲望の追求こそが迷いであるとして最も罪悪視する仏教とは、根本的に異なっている。
 イスラーム教徒であっても、現世で大きな罪を犯した者は、最後の審判を受けて地獄に落とされる。ただし、いったんは地獄に落とされるけれども、最終的には、アッラー以外の神を拝まない限り最後はアッラーが許して天国へ入れてくれることになっている。イスラーム教徒である限り、最後はみな天国に行く。そこで家族みなで暮らせるというわけである。アッラー以外の神を信じることは最大の罪とされ、永遠の地獄に送られる。
 イスラーム教徒は、死後、最後の審判の時を待つ。その審判がいつ行われるかは、具体的に説かれていない。ひたすら時の到来を待つ。ただし、例外がある。それはジハード(聖戦)で死んだ者である。聖戦で殉教した者は、最後の審判を待たずに天国に直行すると信じられている。こうした教えによれば、戦闘に当たり死など恐れるに足らぬものとなる。日本では、浄土真宗の門徒は、阿弥陀如来に帰依すれば死後必ず極楽浄土に行けると信じたので、一向一揆で死を恐れずに奮闘し、織田信長さえもさんざん苦しめた。イスラーム教は、異教徒との戦いを聖戦とし、これを信者の義務とし、戦士に来世の救済を約束することで、勇猛果敢な軍隊を組織し得た。そこに、イスラーム教が短期間に広域に宣布された最大の理由がある。

●暦

 イスラーム教諸国では、イスラーム暦を使っている。ヒジュラ(聖遷)の622年を、イスラーム暦の元年とする。一部の国では新聞等に西暦が併記されている。
 イスラーム暦は純粋な太陰暦である。月の運行だけで暦をつくる。1年の日数は354日しかない。閏年も4年に1回ではなく、30年に11回である。そのため、太陽暦とは毎年約11日ずつずれていく。

 次回に続く。