西部劇と懐かしのカントリー&ウェスタン日記

現代とはかけ離れたOld Countryの世界ですがずっと続けていきます。興味のある方は時々のぞいてみて下さい。

小紀行 ( 肥前 大村城を訪ねて )

2015年10月11日 | 歴史はロマン…九州の歴史を中心に
   
肥前 大村城(玖島城)を訪ねて 

連休のH27.10/11(日)長崎県大村市にある大村城を見に行った。以前から訪ねてみたいと思っていたところでやっと実現・・・・・博多から長崎行きの特急に乗り、鳥栖~佐賀~肥前鹿島と過ぎて諫早で降りて、そこから大村線に乗り換えて2駅目が大村駅だ。大村の町は昔 車で通ったことがあるだけで実際に見て回るのは初めてだった。印象としては、前方を大村湾が占めているので明るい感じがするけれど、どこが町の中心なのかはっきりしないこじんまりとした地方都市という感じ。でも現在は長崎空港があって長崎の空の玄関口になっているところでもある。 戦前は陸海軍の駐屯地や飛行場があった軍都であったようでその方面の遺跡も残っているらしい。 
私の興味は城下町としての大村で、日本初のキリシタン大名 大村純忠()の子大村喜前(よしあき)以来の古い城下町・・・・・ということなので大村城を中心に見て回ったのでした。大村駅は小さくて観光案内所がなかったので駅員さんに聴くと 歩けば30分はかかるとのことで時間節約のためタクシーで行くことにした。 
運転手さんに ” 大村城跡まで ” と告げると ”玖島城(くしまじょう、 大村城の別名 ) だね、お客さんお城を見に来なさったとね・・・・武家屋敷とか古かとこもあるけんね ” といわれて色々話してくれた。着いてみると、鬱蒼とした木々に覆われた海沿いの小山といった感じで町側からはお城らしいところが見られなかった・・・・・でも森の中に入ってみると石垣に白壁のまぎれもない城跡だった。1599(慶長4)年に大村喜前(よしあき)によって築かれたという大村氏2万7千石の本城、これくらいの石高だと本来なら城持ち大名にはなれなかったはずでしょうが そこは昔からその地に根を張っていた名族なので戦国時代からそのまま江戸時代~明治維新まで続いたんでしょうね。こじんまりとした城跡でしたが、けっこう高い石垣もあって小さいながらも威厳・風格のある城郭でした。 

さて、運転手さんに礼を云ってタクシーを降り、なだらかな道を登って行くと左手に白壁の石垣が見えてきていよいよ城郭なんだ・・・・・という雰囲気が出てきた。 道なりに行くと鬱蒼とした木々が現れ、まづ右手に浜田弥兵衛の碑というのが立っていました( 江戸初期の大村出身の朱印船貿易家で、長崎代官末次平蔵配下の船長で台湾との貿易で活躍した人とのこと・・・未知 )。石碑を右手に見ながら石垣のならびに沿って左に曲がって歩いていく。 
    
しばらく行くと虎口門跡の前に出てきた、右手には戊辰戦争の記念碑(大村藩から東北に出征した人達のことが書いてあり、隣にあった少年の像はその時に東北の秋田地方の戦いで15歳で戦死した鼓主 濱田謹吾の像とのことで 袖に縫い付けてあった母親の和歌が皆の涙を誘ったとのこと・・・)、大村に駐屯していた旧陸軍46連隊の碑といった石碑が並んでいます。このての石碑、記念碑というのはどの地方の城郭や神社にいっても見られます、郷土の偉人を顕彰するといったものですネ。 一般的には知られていないその土地特有のものが多いので勉強になります。その石碑群の裏は城の空堀になっているそうで、鬱蒼とした林の中にあるくぼ地といった風でした。。 
   
石碑群の前に立ってお城側を見ると本丸に至る虎口門跡の高石垣があって正面に男の子と女の子の絵が載った”七五三の写真撮ります” の看板が立っていた。そこから入っていくと両側に石灯篭があってすぐに大村神社がある本丸に行けるようだが、入らずに石碑群を右手に見ながらまっすぐ石垣に沿っていく。 
    
ちょっと行くと丁度石垣の角のところの正面にまた佐藤嘉平次少佐の碑 ( 第1次世界大戦で中国の青島=チンタオ攻略に活躍して戦死した大村出身の軍人さんで、千々石出身の橘中佐、日田出身の広瀬中佐と共にこの時代の人々に ”軍神 ”と崇められた・・・・と書いてありました。日露戦争の旅順港閉塞作戦で有名な広瀬中佐以外は全く未知のことでした。こうした ”軍神 ”といわれたような人達は戦後の日本の自虐史観のなかで忘れられていった人達だったかもわかりません)。 さて、石垣を左に折れていくとまた本丸に通じる入り口( 台所門跡 )があったのでそこから本丸に入ってみる。 
   

大村城本丸には天守閣はなかったそうで、今は質素な作りの大村神社と赤く塗った稲荷神社( 右に見える赤い鳥居から入って行くとありましたがそこら辺が藩主居館だったとのこと )、その他ここにも石碑群が建っていました。大小2つの穴のあいた貝吹石というのがあって小さい方を吹くと法螺貝の音を出すので合戦の時の合図にした-と書いてありました、どうも吹きにくい気がするんだけどホントかなあ(smile)。 城内側からみた写真を撮りながら石碑群を見てみた。 
     
写真は左から大村純勝の碑( 大村純忠から純信まで4人の当主に仕えた家老で大村家の発展に大きな役割を果たしました云々・・・・と書いてありました)、 
幕末の名君大村純熈(すみひろ)の銅像(蘭学に深い興味を持ち、藩に西洋式の軍隊を導入するなどして藩を倒幕へ導きましたとのこと)、 
大村喜前公遺徳碑(よしあき=この人キリシタン大名大村純忠の子で大村藩の藩祖、幼少時に洗礼を受けてドン・サンチョと称したそうですがキリスト教の禁止が厳しくなることを察知して領地を守るために棄教してキリスト教を取り締まるようになったとのこと。殿様としては藩政の基礎固めをした人で、大村氏の中興の祖といわれているそうです。大村氏17代になるんだそうです)の石碑がありました。
  
一通り見たあと裏手にある搦め手門跡(木の横に標柱が立っていて裏門という意味だと書いてありました)から出たり入ったりして写真を撮った・・・・・以後続く


 

コメント
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