梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

コルベ神父とは(その2)

2017年10月14日 09時49分44秒 | Weblog
一人の処刑者の身代わりとなった神父は、更に何と言ったのか。「私はカトリックの神父であり、もう若くはなく、妻も子もいませんから」と申し出たのです。そして牢の中で、神父は一緒に処刑される餓死死刑者のためにひたすら祈り、賛美歌を歌ったといわれます。

一人また一人息絶えていく中で、他の死刑者が錯乱状態で死ぬのが普通であったのに、なお神父は意識を失わず、毅然として生き続け、二週間後さすがに見かねた収容所の医師により薬剤を注射され、天に召されます。亡くなった時、神父の顔は輝いていたといわれています。

とても皮肉な話となりますが、脱走した囚人は、後になって収容所の便所で溺死しているのが見つかりました。つまり神父達は、この発見がもう少し早ければ、餓死刑に処せられずに済んでいたのです。

神父が天に召されたのは8月14日、翌日その遺体は他の多くの遺体と共に焼却されました。その8月15日は、偶然カトリック教の大祝日でもある聖母マリアの被昇天の日でした。「聖母の祝日に灰になり、後に何も残らないように風で運ばれて世界の隅々まで散りたい」と、神父は語っていたそうです。

一方、神父が身代わりになり救われた囚人は、フランシスコ・ガイオニチェクという、当時39歳のポーランド人軍曹でした。その後彼は他の収容所に移送され、そこで連合軍に解放され、終戦を迎え生き延びました。そして彼は、神父の命日には毎年アウシュヴィッツを訪れるようになります。

また、神父の行為を広く世に知らしめるために、彼はヨーロッパやアメリカを回るようになりました。彼の熱心な活動に後押しされ、コルベ神父は1971年にローマ教皇パウロ6世によって列福、1982年にはヨハネ・パウロ2世によって列聖されました。いずれの機会にも、ガイオニチェクはヴァチカンに招待されました。

「自分の命欲しさのために神父の死の宣告書にサインした」、神父のことを思うたびに自責の念に駆られた彼。だからこそ自分のしたことを伝え続けたのです。そして94歳の天寿を全うします。神父に命を救われて、実に53年と7ヶ月が経っていました。このような幾重にも連なる壮絶なドラマが、アウシュヴィッツにはありました。

神父は生前、「どんな苦しみにも意味がある。戦争という、決してあってはならない状態の中でも、真剣に生きていかなければならない。苦しみや痛みが大きくなればなるほど、イエスさまとマリアさまにささげ、敵をも愛さなければならない」と、全てを受け入れました。

前にも紹介したフランクルも、やはり収容所の中で、自分の人生には未来がないと、自暴自棄に陥っているユダヤ人の仲間に、生きる力を与え続けました。フランクルに劣らず人間の尊厳を大切にして、誰もそれは絶対潰せないと、その精神を貫いた人物、それがコルベ神父です。

神父を今回色々調べてみると、自我を超越している人間でした。二人の人物から、私は、忘己利他を学びます。精神科医だからカトリック司祭だから、特別だったのではありません。二人には高い志の道があり、実践したのです。自分の考えや行動を見直す機会にします。

  コルベ神父

 精神科医フランクル 
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