梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

カントの認識論(その3)

2011年05月14日 09時54分11秒 | Weblog
カントの言葉として私が書き留めてあったのは、簡単に言うと「多くの人の発言とは一面的な主観からであり、その見方の多様性をもっと学ぶべきだ」となります。本来カントの言っていることは、物事はどうして認識できるのかの論なのですから、どっちが正しい間違えのような一元的なべき論ではないようであり、書き記していた言葉に違和感を持ちました。

これは或る人が伝えてくれた内容を、私自身が聞き方を間違っていたのかもしれません。こんな事例からでも推測出来るのは、伝える人が正しくとも、聞き手が違う解釈をしてしまう危険性は常にあります。ともあれカントが唱えた論理を、今回少しでも調べられたことは、私は収穫だったと思っています。

ここで話を身近なものにしたいと思います。最近私は人の書いた文章を二度読み三度読みすることが多くなりました。歳を取って一回では頭に入らなくなったとも考えられますが、一回だけですと読み落としや間違った解釈をしているところが意外とあるのです。

こうなると書かれていることを正確に認識すらしていないとなります。人の話を聞くとなると、その人の先入観や表情表現までもが入ってしまいますからもっと厄介です。さらに認識を曲げてしまう要素が入り込んでしまいます。

赤い花を識別するような例として挙げた自然現象や事象ならば、まだ誤解も許せるかもしれません。しかし人間に関わる情緒や心情についての感受は、言うなればイギリスの経験論においても、多様性の前に、先ず正確に認識することの大事さが問われます。

人間の感性や感知能力というものは、人間に自我や我欲がある限り、偏りから完全に逃れることは出来ません。そうであるならば、感情で持って感知してしまっても、理性で持って考えてみる。これが解決の糸口になるかもしれません。この理性とは、世の中のことわり(摂理・法則)、大陸の合理性と言ってもいいのではないでしょうか。

カントの認識論を長々と書いてきました。私の解釈や見解も、物事の認識論においての一つの認識です。後は皆さんの認識に委ねたいと思います。
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