梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

歴史の見方・捉え方

2018年01月13日 10時34分42秒 | Weblog
1月からNHKの大河ドラマで“西郷どん”がスタートしました。2018年が、明治維新150年めであることから企画され、その維新の立役者である西郷隆盛を描いた作品です。NHKのドラマ上で、西郷隆盛がどのように描かれるのか楽しみです。

日本の歴史で、私は戦国時代の末期と明治維新に興味があります。政権が遷移する変革期で、登場人物も多才で、戦いも余儀なくされた時代です。歴史書は勿論のこと、歴史小説や、映画やテレビなどでも多く採り上げられ、様々に描かれています。

この二つの大変革期は、日本の近代に大きな影響を与え、現代の日本の国や日本人を形作っていることは確かです。江戸時代末期や明治維新については、一般的に知られていない出来事についても、興味を持って調べようとすれば私などでも可能です。

しかし私達の目が留まる範囲の書籍やテレビの歴史番組でも、つい150年前の史実が、何故か解釈が分かれます。更に言えば、今もなお明治維新の評価や、歴史上の人物の見方も定まっていないようにも感じます。

何年か前、江戸時代の水戸学の真髄についての講義を受ける機会を得ました。私の徳川慶喜の人物像がそれにより変わりました。徳川幕府の御三家の一つ、水戸九代藩主徳川斉昭の七男として生まれた慶喜は、徳川御三卿の一つ一橋家の養子となり、後に江戸幕府260年の最後の将軍となります。

戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗北し、家臣や家来を残したまま、慶喜は大阪城を脱出して江戸城に帰着します。その史実もあり、慶喜は自ら言ったことを覆したり、幕末の動乱に翻弄されたり、ドラマなどでは優柔不断な人物として度々描かれます。

「慶喜には百の欠点があったとしても、長い日本の歴史においても特筆大書せられるべき一人で、大政奉還の決断は何人も出来なかった」。これは明治以降に活躍したジャーナリストで思想家の徳富蘇峰が、慶喜を評価した言葉です。

「もし朝廷と幕府と弓矢に及ぶとも、我等は幕府にそむくとも絶対に朝廷に向かいて弓引くことあるべからず。これ義公(水戸二代藩主光圀)以来の家訓なり」。父斉昭より、二十歳の慶喜が受けた教訓です。官軍の後ろ盾になった天皇には、絶対戦いを挑まないとの慶喜の自戒です。

慶喜ついては、以上のような事を学びました。どんな汚名を着せられようが、また何事も自分の手柄と自慢せず、皇国日本の存続を願った水戸藩の家訓に忠実に従った慶喜像が浮かびます。

佐幕派として巧みに和戦両様の構えで、江戸無血開城を導いた第一人者の勝海舟についても、見方は分かれます。例えば、実際の下交渉は山岡鉄舟が事前にやっていて、勝がその手柄を持っていったと悪口をいわれることもあります。

“西郷どん”の西郷隆盛も同様で、特に西郷は評価が分かれます。維新の功労者には間違いないが、西郷は幕府を倒したものの新国家の青写真を持っていなかった。つまり薩摩は王政復古などのクーデターや軍事力の発動でもって、幕府を力で消滅させることについては長けていたが、新しい政府のプランはなかった。との見方です。

~次回に続く~
コメント
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