風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

「娼年」「逝年」「爽年」

2020-06-02 | 読書
  

石田衣良さんの森中遼くん3部作。
「娼年」は10年以上前に読み、感想も書いたし映画も見た。



「逝年」も9年ほど前に読んでいる。
この時は東京で単身赴任中だったため、
孤独の中で内省的に読み進めた記憶がある。


そして今回は3部作の完結編となる「爽年」。
前の2作を読んだのは結構前のことだったから、
あえて最初の「娼年」から読み返し、
日曜日1日かけて3冊を通して読んでみた。
「爽年」は本当の意味での完結編。
正直言って、これまでのようなリョウの心の変化はあまり見られない。
というか、少年から壮年にかけての3部作なので
心の安定を得た大人のリョウが描かれていると言った方がいいか。

3作に共通してタテ軸となっているのは「死による別れ」。
しかもそれはとても大切な家族のような人との別れだ。
(「娼年」は家族そのものとの別れ)
リョウはそのひとりひとりとの別れのたびに成長していっている。
その成長の結果、「爽年」の中で大人になったリョウ。
そんな風に安定し落ち着いた姿に、
ほんの少し寂しさと哀しさを感じたりもするから不思議。
人はいつまでも少年でいるわけにはいかない。

そしてヨコ軸は「普通とはなにか」ということ。
ここに描かれる人たちは一般的に「少数者」と見られがちだが
本当にそうなのだろうか。
普通って何?
性格も、価値観も、倫理観も、体格も、癖も、人はみんな違う。
相手に求める好みのタイプもまるで違う。
性自認だってそのひとつだろうし、性癖もだって同じだ。
そう考えると、世界は
「人の数だけ個性ある少数者の集まり」と言えるのではないか?
なのに無理に「普通であること」を強いられた結果
人はみんな「普通」という鎧を着せられ(あるいは自ら着て)
鎧の重さに不幸になっている。
そんな人たちに寄り添い、そっと鎧を脱がせてあげられるのが
リョウが持つ優しさだし、顧客に求められる武器。
ここではあえて「性」をモチーフにしているけど、
社会を埋め尽くす鎧はもちろんそれだけではない。
(一番鎧で隠したい部分ではあると思うけど)
そんな社会への癒しを石田さんはリョウを通して与えてくれる。

ところで私はリョウに(というか石田さんに)とても共感している。
それは上記のような考え方もそうなのだが
例えば歳をとって体の変化が現れてきた女性たちを
「豊かになった」と表現できる感覚。
そういう感じ方にまったくアグリーなのだ。
そう思って、「爽年」を買った時に思ったことを
数日前にここに記事にしている。


もちろん共感するだけで、
私自身がリョウのようなことはできないけれど、
彼の考え方や行動は「自分もそうするだろう」と納得できる。
だから、この3部作についてのレビューを読んで
例えば
「年を重ねても美しいなんて、女性にとっては最高の言葉。
  こんなことを言ってくれるリョウ君みたいな人は、
  小説にしかいないと確信できる」
なーんてことを書く女性には「違うよ」と言ってあげたくなる。
男性もだけど、女性の魅力は年齢でも容姿でもない。
ちなみに、そのレビューだが
「娼年」のメグミに自分を投影している多くの女性読者を見て
彼女たちもまた固い鎧を身につけているんだろうなと
なんだか哀しくなった。
かほどこの社会は生きにくい。

以前
「『逝年』というタイトルは『醒年』の方がよかったんじゃないか」
と書いたが、「爽年」も「想年」の方がいいような気がした。
少なくともこの作品全体を通して「爽」ではないように思うんだ。

「娼年」「逝年」「爽年」石田衣良:著 集英社文庫
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