風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

レジリエンス

2024-04-18 | 社会
テレビドラマ「不適切にもほどがある(ふてほど)」で
昭和と令和の価値観の違いが描かれ、話題となった。
私はどちらの時代も体験していて
なんと小学生時代から教師によるビンタを経験している。
中学時代はグーでも殴られたし、野球部ではバットケツもあった。
見えない形での陰湿ないじめはなかったが、
面と向かっての罵倒や大っぴらな仲間外れはあった😅
決していい時代とばかりは言えない。
(なんなら先生から「今日は●●くんと話してはいけない」も)
一方で、令和の時代の〇〇ハラスメントだらけの窮屈さも疑問に感じている。
あまりの価値観の違いに笑うしかないのだが😅
どちらがいいとは(どちらが悪いとも)言えないとは思う。

少なくとも「人の痛み」を慮って配慮する令和の感覚は
決して悪いことではないし、いい時代だと思う。
何があろうと、人は暴力を振るわれるべきではない。
でもね、最近の風潮として
レジリエンスの力が不足している気がするんだ。
昭和の時代は(良し悪しは別として)上下関係や体罰などが
結果として個々のレジリエンス力を育んだ気がする。
だから受験、就活の失敗や仕事上のミス、意見の対立などにより
困難な状況に陥っても、その程度で心が折れるということはなかった。

しかし現代はどうだろう。
体罰や上下関係による圧力、理不尽な罵倒などは減ったが
それでも学校生活、仕事などにおいて理不尽さは必ず起きる。
災害も、思いもよらない事故も、思うようにいかないこともある。
現代はそれを「親ガチャ」「配属ガチャ」「パワハラ」などの言葉で
甘え、逃げてはいないか?
受験に失敗しただけで「人生終わった」「詰んだ」、
保育園の抽選に外れただけで「日本死ね」、
仕事上、少し壁にぶつかっただけで早期退職・・・。
貧困で受験すらできない人、妊活しても子どもに恵まれない人、
就職がうまくいかず不正規雇用に甘んじている人などは
それらの言葉や行動をどう感じるか思いが至っていない。
あるいは「自己責任」で切り捨てる。
ならば受験の失敗も仕事の壁も自己責任じゃないの?
他人は切り捨て、自分は流行りの言葉に逃げる。
そこで踏ん張る力(レジリエンス)が働いていない。

岩手県の旧制中学時代からの伝統校では
入学すると厳しい応援歌練習が義務付けられている。
私の母校では入学式のすぐ後に
新入生ひとりひとりが上級生の前で挨拶する応援団入団式がある。
数年前に週刊誌で、そういう慣習が「パワハラ伝統」と報じられた。
体罰はない。
厳しいのも応援歌練習中のせいぜい1週間だ。
それが終われば、仲の良い上級生と下級生の関係になる。
レジリエンス力(母校で言えば「黒橋魂」「不撓不屈」の理念)を育む
訓練的イベントだと理解してほしいのだが
令和の時代には「パワハラ」の一言で片付けられるのだろうか。
それではレジリエンス力はどこで育まれるのか。

昭和な男から令和の時代へのささやかな疑問。
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