因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

文学座有志による自主企画公演『霙ふる』

2016-12-11 | 舞台

*久保田万太郎作 生田みゆき演出 公式サイトはこちら 文学座新モリヤビル1階稽古場 14日まで

 久保田万太郎の2本立て公演が行われているアトリエ手前の稽古場で、昨年の夏急逝した加藤武が演出を熱望していたという作品が若手の生田みゆきの演出で上演されるというのは、まさに文学座ならではの企画であろう。
 公演チラシによれば、本作は久保田万太郎が敗戦後直ちに執筆した作品とのこと。劇団の一員となるはずだった俳優の友田恭助が昭和12年に戦死したこと、その妻である女優の田村秋子が、夫が亡くなった中国の地を訪ねるピアニストの女性という設定で書かれている。

 劇場入ってすぐ手前にアップライトピアノが置かれ、その前の椅子にピアニストと思しき女性が座している。開演するまで動かない。劇場の四隅(あるいは2本だったか)に黒い杭があるほかは何もなく、がらんとしている(乗峯雅寛美術)。開演が告げられると俳優が次々に登場し、持ち場につく。久保田万太郎作品と言えば、よくよく作り込んだ舞台美術というイメージがあり、意外な開幕に戸惑った。いったいこれから何が始まるのか。

 あと数日で昭和19年を迎えんとする中国で、夫が戦死した土地を訪ねてやってきたピアニストと新聞記者、あれは一種の商社マンというのだろうか、彼らの乗った車がエンストし、日本兵が駐屯している小さな部隊に助けを求めてやってくる。日本兵たちは丸刈りにしている俳優もいるが、長髪や髭などもごく現代風で、軍服を着ているわけでもなく、軍隊というより探検隊といった伸びやかな風情である。ピアニストの女性はさすがに地味なコートであるが、ぜんたいに時代をあまりリアルに感じさせないつくりである。おもては霙。

 劇中椅子やアルミのコップ、銃やお盆のようなものなど、多少の小道具は出てくるが、所作だけで示される部分が多い。究極は終盤において、兵士たちと中国人の小さな男の子がいっしょに歌を歌う場面である。舞台上手の椅子に小さな雪だるまが置かれ、それを男の子に見立てているのである。そこだけ少し柔らかな光があたり、兵士たちはしゃがんで男の子と視線を合わせ、その子が日本語で「としのはじめの」を歌うのを聞き、やがて一緒に歌う。霙は雪に変わった。
 男の子の歌に合わせ、はじめはメロディだけだったピアノが、やがて美しい旋律に不協和音の混じる複雑な曲を奏でて幕を閉じる。暗譜で演奏したピアニスト役の永宝千晶、お見事であった。

 そこには物資のひっ迫も怪我人や死者もない。のどかと言ってよいほどである。しかし東京からの突然の来客を迎え、餅を焼いてもてなしたつかの間の華やぎと、新聞記者がかつて軍人であり、彼の部下であったという兵士が行き違いで会えなかったことを残念がりながらも、また会える楽しみができたと喜びをつなぐ様子など、あと数日で昭和19年が始まること、敗戦へとなだれ込むことへの予感がいつのまにか劇空間に迫っているのである。

 ふと、「としのはじめの」を歌う男の子も、優しい兵士たちも、もしかしたら既にこの世の人ではないのではないかという気がした。久保田万太郎作品にそんな幻想的な闇を感じたのは初めてで、それが作品の本意であるかどうかは賛否が分かれるであろうが、少なくとも自分にとっては新鮮な発見であり、確かな手ごたえであった。

 若手による新しい切り口の斬新な演出という面は確かにある。ピアニストが板付という設定には若干の気負いも感じた。しかし「見せ方」や「絵面」を強調したものではない。戯曲のなかに慎重に足を踏み入れ、決して浮足立つことなく、丁寧に読み解き、構築されたものと想像する。出会えたことが嬉しい1本であった。

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