因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団俳優座公演 №327 『城塞』

2016-01-14 | 舞台

*安倍公房作 眞鍋卓嗣演出 公式サイトはこちら シアタートラム 17日で終了
 安倍公房作品の観劇経験は非常に少ない。思い出せるものは、ハイリンド公演『幽霊はここにいる』、岡田利規演出『友達』(ブログ開設以前、青年座の公演も見た記憶あり)あたり、ずばり作品というより、安倍公房と妻、愛人の葛藤を描いた『安倍公房の冒険』(松枝佳紀作 荒戸源次郎演出 2014年夏新国立劇場小劇場)がもっとも間近な観劇である。
 今回の『城塞』も、はじめてみる作品だ・・・と思っていたら、2008年夏に、同じシアタートラムでリーディング公演(森新太郎演出)を見ていることを観劇中徐々に思い出した。このときは息子役の吉見一豊のぶっちぎるような熱演に魅了され、作品については喜劇的な面が強く印象づけられた。

 「拒絶病」と診断された父親(中野誠也)のありさまは、一種のまだら呆けのようであり、その後のできごとを「拒絶」するほど戦争中の体験が強烈であったということが、いまひとつぴんとこない。わざわざ人を雇ってまで自殺した娘を登場させ、父を正気にもどそうとする息子の気持ちもわかりかねる。
 しかし物語が進むにつれ、舞台の設定についての違和感はいつの間にか消えていた。50年以上前に書かれた作品であり、登場人物たちに消しがたい記憶を刻みつけた戦争はそこからさらに前のできごとであるが、年月の隔たりや感覚の相違を超えて、ずっしりと重厚な戯曲の構造や、出演俳優が若手、中堅、ベテランそれぞれの経験値をすべて注ぎ込むかのような誠実な演技に引き込まれた。

 「安倍公房の作品は前衛的」という評し方が、非常に一面的で凡庸に思われた。これは「ハロルド・ピンターは不条理劇」というくくり方に対して抱く気持ちに似ている。前衛的のひと言でおさめてしまえばそこで思考停止、終わりである。「当時は前衛と言われたが、50年経ったいまならふつう」ということではなく、あの戦争を体験した世代が、傷跡もまだ生々しい時代に生み出した作品にはちがいないが、年月の経過を超えて見るものを圧倒する力を持っていること、俳優もまたそれに応えた演技ができることに、ぞくぞくするような高揚感を覚えるのである。

 もの足りなかったのは、踊り子役の若い女優の演技が、蓮っ葉な女はこのように話すのです風に、いかにも昔ながらの新劇風であった点である。台詞を替えるわけにはいかないが、声の出し方、表情の作り方、しぐさなど、もう少し抑制することはできないのだろうか。ほかの人物との対比のために、このような演技をつけるのかもしれないが、資産家の人々は、きっちりと訓練された舞台俳優らしい演技でこそあれ、古くさい新劇風には見えなかった。若い娘、それもストリッパーというものは、こんなふうに軽い調子でしゃべり、厚かましい所作をし、けたたましく笑うといったお定まりの演技とはちがうものがみたいのである。

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