因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団民藝公演 KEIKOBA『善人たち』

2023-08-10 | 舞台
*遠藤周作作 小笠原響演出 公式サイトはこちら 川崎市黒川・劇団民藝稽古場 13日終了
 2021年12月、長崎市遠藤周作文学館で未発表の直筆戯曲数本が見つかった。そのうち、遠藤文学の最も主要なテーマが凝縮された作品として研究者の注目を集めているのが『善人たち』であり、さらに劇団民藝に書き下ろされたものであったという(公演チラシより)、大変な作品である。長い年月眠っていた戯曲が発見され、遠藤周作生誕100年の年に初演されるのは偶然ではなく、何か大いなるものの取り計らい、導きが感じられる。アメリカ東部の町オールバレイを舞台に、牧師になるという志を抱く日本人青年と、彼を受け入れたロジャーズ一家、教会の人々の温かな交わりが、日米開戦よって崩壊していく物語。信仰と現実の人間、日本人とキリスト教について生涯問い続けた遠藤文学の真骨頂とも言える重苦しい内容だが、チケットは完売日続々の盛況である。この日もほぼ満席、心を鎮めて開幕を待つ。

 ロジャーズ家は善良で敬虔なキリスト教徒の亡父を誇りに、母のロジャーズ夫人(中地美佐子)、町の教会の牧師補をつとめる長男のトム(塩田泰久)、妹のキャサリン(神保有輝美)、黒人召使のコトン(橋本潤)が暮らす。いわば町の名士である。町の神学校へ留学のため、ロジャーズ家に寄宿する日本人青年を待ちながら、夫人とキャサリンは興味津々の歓迎ムードだが、キャサリンの婚約者で、出世の野望を抱く銀行員フレッド(天野民生)は警戒と皮肉を隠さない。そこに表れた阿曽コウキチ(滑川龍太)は純朴、誠実を絵にかいたような青年だ。

 登場直後のコウキチはロジャーズ夫人の質問にたどたどしく、奇妙な日本語で答える。この口調により、彼の英語がまだおぼつかないことを示す(次の場ではこの調子は消える)。コウキチは終始日本語で話し、中盤から登場するトムの姉ジェニー(小嶋佳代子)含め、ロジャーズ家、仏領印度志那人(戯曲の表記ママ)ホー(平野尚)、日系二世で米国籍の掲示ジェームズ・今野(吉岡扶敏)、教会の人々を代表する存在のボブ(千葉茂則)まで全員を劇団員が演じ、日本語で発語するという特殊な構成の戯曲なのである。90年代に劇団昴が、同じく遠藤周作の『沈黙』を舞台化した際(公演名『沈黙―SILENCE―』)、宣教師ロドリゴはじめ数人の外国人俳優は英語の台詞を話し、舞台に日本語の字幕が設置されていた記憶がある。映像作品であれば、役に応じた国籍の俳優を配して字幕を施せるが、舞台ゆえのハードルや表現の上でいささかの無理や不自然が予想されたが、思ったよりすんなりと舞台の世界に入りこむことができた。

 河野しずか、森田咲子、野田香保里、仲野愛子、清水川千紘、吉田正朗、保坂剛大、小守航平によって構成される「コロス」が今回の舞台の特徴である。舞台は銃声の鳴り響く戦場で、従軍牧師のトム(塩田泰久)が洞穴に潜んでいる日本兵アソ・コウキチに向かって投降を呼びかける場面に始まるのだが、コロスはここではトムの台詞をささやくように発しながら、投降か死かの選択が迫る戦場の緊迫感を表現する。また戯曲に「阿曽の声だけで」と記された彼の本音を発したり、教会に集う町の人々を演じたりする。戯曲にはコロスの設定がないため、これは今回の演出によるものだろう。

 平和で安心して暮らせるなら、相手を寛容に受け入れられる。相手も「よい子」であろうと努力する。しかしたとえ間接的であっても自分たちの暮しを脅かす存在となれば、状況は一変する。それは神への信仰のもと、博愛を謳うキリスト教徒であっても例外ではない。聖書の鉄板メッセージ「敵を愛せよ」も影を潜め、問題から逃げて異物を排除し、保身に走る。キリスト教会が内包する一種の胡散臭さ、同調圧力の描写は容赦ない。

 ことに侵略された故郷を憂い、牧師やコウキチに激しく問いかけるホー青年にまともに向き合わず、「馬鹿馬鹿しい質問」と一蹴するブランデー牧師の弱腰は、不快感とも言いにくい微妙な感覚を残す。また、やがて牧師となる自分のキャリアのために、出奔してプエルトリコ人とのあいだに生んだ子の病のためにからだを売ろうとした姉のジェニーを追いやり、アメリカに残りたいというコウキチの希望を退けるトムの言動はさまざまなことを考えさせる。

 トムはジェニーを「腐った林檎」と言い、「汝の右の手。汝を躓かさば之を切り棄てよ」の聖句を引いて家から遠ざける(この場でこの箇所の引用は適切なのだろうか)。マグダラのマリアへ「民衆に石を投げられる前によそへ行け」というに等しい行為である。また呼びかけも虚しく、コウキチの潜む洞穴が焼かれようとするとき、「主よ、許したまえ。彼等はそのなすことを知らざるなり」とつぶやく。トムは誰を神にとりなそうとしたのか。キリスト者である遠藤周作が自身の心の奥底を容赦なく照らし、切り裂き、逃げ場を奪い、そこから何が見えるかを模索していると思われた。

 書籍『善人たち』の帯に「『神も仏もあるものか』の涯に出会う物語」とあるように、人々から後ろ指をさされるジェニーこそ、苦難の果てに神と出会ったのではないか。神に異議申し立てし、神から遠い人の傍らにこそ、神の存在が感じられる。そのジェニーとの歪んだ愛に身をやつしたコトン、日本人の血を嫌悪してアメリカ国籍を持ちながら、その国の神を否定して無神論者だと言うジェームズ刑事など、どれほど複雑な背景があるのか想像もできない。前述のトムにしても、ペトロの否認を通して自己肯定しようとするなど、聖職者を目指す者の苦悩はいかばかりかと思う。単純に演じられる人物は一人として無く、といって「これなら正しい」という地点に到達することは至難と思われる。その作り手の試行錯誤、紆余曲折を含めて『善人たち』の舞台成果であり、初演に立ち会えた幸福とともに、確と受け止めたい。
 
 

 
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