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因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

二兎社公演37『こんばんは、父さん』

2012-11-01 | 舞台

*永井愛作・演出 公式サイトはこちら 7日まで世田谷パブリックシアター 12月2日まで全国を巡演 
 2001年に初演された加藤治子、平田満共演の『こんにちは、母さん』と対をなす作品だ。「母さん」の終幕で、母と子は息子が小学生のころの話まで蒸し返して大喧嘩をする。そのやりとりのなかに、既に死んでしまった父親のすがたが濃厚にあぶりだされるさまはすさまじい。向き合っているのは母と息子だが、そこにはたしかに父がいて、父に言ってほしかったこと、言いたかったことが吹き出してくる。しかし過ぎた歳月は戻らない。お互い言いたいことを言い放ってもなお言い足らず、威勢の良い花火を見上げる終幕は晴れやかというより、いっそう悲しみや虚しさが募ったことを思い出す。

 今回の『こんばんは、父さん』の舞台は、廃屋となった町工場である。経営に失敗して家族を捨てて失踪した父が、借金取りに追われて忍び込む。あとをつけてきた闇金の若手社員。息子に借金の肩代わりをさせようとしたが、大会社のエリート社員だった息子もまたホームレス同然だった。父親の平幹二朗、息子の佐々木蔵之介に、闇金社員の溝端淳平の3人芝居である。

 上演時間は1時間45分で、永井愛作品のなかでは短いものだ。夕方から夜にかけての数時間という設定もめずらしい。今回の舞台設定は、たしかに日常にある元町工場だった廃屋なのだが、そこに吹き寄せられる3人の男たち、父と息子は仕事を失くし、家族や友だちも失った寄る辺のない身の上であり、闇金青年もまた、足元の不確かな人生を余儀なくされている。
 おおぜいの人たちが入れ替わり立ち替わり登場するわけでもない、最初から最後まで3人きりだ。日常から切り離され、ほかに行き場のない男たちが出会ってしまった。劇中にリーマンショックや震災を思わせる台詞はいっさい出さずに、「あの日」から先の見えなくなった不安が色濃く反映されていて、笑いの要素もたくさんあるのだが、苦く複雑な味わいが残る。

 平幹二朗といえばシェイクスピアにギリシャ悲劇と、日常の生活感覚を超越した特殊な劇世界の怪物的存在で(!)、畳やちゃぶ台、ご飯やお味噌汁などとは無縁の印象を持っていた。   
 叩きあげの町工場の職人にはみえにくいが、劇中何度かあたかも狂気のリア王を思わせる回想場面があって、そこが大変素晴らしかった。日常言語と劇的言語、演出と俳優の演技の関係などは、永井愛作品の魅力でもあり、同時に疑問点でもある。簡単に言ってしまうと、永井さんの演出はつけ過ぎ、とかねがね気になっていた。そこに対する答をみつけるためのひとつの道筋、鍵ではなかろうか。

 終盤で、父と息子は酒を酌み交わす。父が良かれと信じて敷いてやったエリートへのレールが息子には苦痛だった。「やりたいことをやらせてやればよかったな」と父が悔いるあたりから、自分は「よし、ここからだ」と前のめりになったのだが、父子はあまり多くを語らず幕となった。闇金青年も半端に出番が終わったようで、率直に言ってものたりない。
 あと一歩、いや三歩くらい先があるのではないか。

 しかしこの不完全燃焼感がいまのこの国を覆っている不安であり、恥や過ちや後悔の多い人間の苦悩がじわじわとにじみ出てくるのもたしかで、少し時間をおいて戯曲をじっくり読み、できれば再演をみたいと願うのである。

 

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