草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

吉田松陰とは似ても似つかぬ平成の世のインテリを嗤う!

2012年11月17日 | 思想家

 日本が大変な危機に直面しているにもかかわらず、インテリと評される学者やジャーナリストは、あまりにも平平凡凡とした生活を送っているのではないか。現代の日本に吉田松陰がいたならば、幕末にあって義憤を覚えたごとく「吾、読書の人を観るに/面目、誠に憎む可し」と怒ったに違いない。国家が乱れているのに、第三者でしかなく、火中のクリを拾いたくはないからだ。それでいて「利害僅かに鴻毛なれば/左右忽ち狼顧す」と右往左往するのである。松陰は獄中にあって「偶作」と題する詩で、当時のインテリを痛烈に批判した。現代においては、松陰のような憂国の士は皆無に近い。利を先にして、勝ち組になろうとして、新自由主義を説く連中ばかりである。維新回転の先駆けとなった松陰は、諸外国からの侵略の危機に直面して、それらを撃破しようと考えていた。そのために仁道を第一としたのである。「先ず一身・一家より手を下し、一村・一郷より同志同志と語り伝へて、此の志を同じうする者日々盛にならば、一人より十人、十人より百人、百人より千人、千人より万人、万人より三軍と、順々に進み進みして、仁に志す者豈寥々ならんや」(『孔孟剳記』・近藤啓吾全訳注)。今の世のインテリは、大義を見失っている。だからこそ、目先の利害だけで、何でもありの世の中になってしまったのだろう。松陰のような「千万人と雖も吾往かん」といったパトスがないのである。


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政治は実際家が担うべきで暴走は許されない!

2012年11月17日 | 政局

 いよいよ天下分け目の決戦だが、理解に苦しむのが石原慎太郎である。先日、太陽党を結成したと思ったらば、今度は日本維新の会に吸収されるのだという。そこまで第三極にこだわる理由が、一体どこにあるのだろう。橋下の街頭演説がネットにアップされていたが、あまりにもお粗末なので、失笑を禁じえなかった。大声を張り上げて既成政党をこきおろしているだけで、ワイドショーのコメンテーターの域を出ていない。第三極を担おうとする政党の代表なわけだから、そこが致命傷になるのではないか。ガッカリなのは石原の暴走である。主義主張もかなぐり捨てて、総選挙に突っ込むというのだから、情けないにもほどがある。石原と懇意にしていた江藤淳が生きていたならば、現在の石原を厳しく叱責したと私は思う。江藤は「日本を支えて来たものが生活する実際家たちの努力で、それを危地においやったのが理想家の幻想であったという一本の筋が今日までつながっているのが見えるであろう」(『戦後知識人の破産』)と書いていた。石原が橋下に共鳴したことは、アメリカの走狗と化して、新自由主義の軍門に下ることである。保守として、何を守るべきかを考えないから、そんな行動がとれるのである。本来の政治は「実際家たち」の日々の努力であり、大衆を熱狂させるような劇場であってならない。保守の精神を忘れた石原は、迷惑を通り越して、害毒を流しているだけだ。


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