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戦後左翼史 その2 1955年

2016-01-03 17:14:50 | Weblog

 新年あけましておめでとうございます。元日の社説、道新は「岐路の年に 格差と分断のない社会を」、朝日「分断される世界 連帯の再生に向き合う年」でしたが、今一つインパクトが無かった。一方、日刊スポーツの元旦記事、「本気で党名変更 共産 日本大衆党か」は興味を引いた。

 国会冒頭の天皇の開会宣言に出席し、野党結集のためには候補を降ろし、次は党名を「大衆党」に変更するというのか。そうなると、大衆を導く前衛という概念も当然に無くなるだろうから、機関紙『前衛』も雑誌『大衆』にし、革命も民主集中制という組織原理も捨て去るのか。いずれにしても党内でコソコソと議論をしない党を開くことから始めるべきと思う。

 

 戦後左翼史 その2 1955年

 1955.7.30アカハタ(六全協決議)の次のスクラップは、

1959.9.26アカハタ 主張「マルクス・レーニン主義の破りがたい原則―雑誌『現代の理論』をめぐって」まで飛ぶので、その間の党史について「れんだいこ」氏のHP『左往来人生学院』に学んだ。

1955年(僕は0歳)の動き

 六全協で、1950年以降分裂していた徳田旧執行部派(所感派)、野坂参三、志田重男、紺野与次郎、西沢隆二、椎野悦男、春日正一、袴田里美らと、志賀義雄、宮本顕治、春日庄次郎らの国際派が統一。これにより宮本グループの執行部入り、宮本の書記局入り、野坂―宮本執行部が確立された。

 ここから、宮本による旧徳田系グループの掃討戦が始まる。

 第1弾は、1955.9.19志田重男、椎野悦男のスキャンダル(金と女)が暴露される。党員としての政策論争や活動に対する批判では無く、宮本は醜聞という卑劣な手段を駆使して権力闘争をこの先勝ち抜いていく。これは重要である。もし、政権に参画したら、政敵や国民は同様の方法を使われることを意味するのだから。

 党史の謎がある。北京機関の存在である。徳田球一委員長は既に(1953年)に北京で死亡している。スパイの嫌疑をかけられ北京に幽閉されている伊藤律を、西沢、紺野、袴田、宮本太郎がしばしば訪問し査問を行っている。そして白鳥事件の容疑者たちも北京に逃亡している。当時の中国共産党と日共の関係、北京で一体何が行われていたのか。

 

 

 

 


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