晴走雨読

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戦後左翼史 その5 1960年① 安保闘争 トロツキスト

2016-01-17 14:02:08 | Weblog

 あまりにも本の整理がつかない状態になっているので、「お値段以上ニトリ」で書棚を購入。一昨日は、帰宅後標準組み立て時間90分となっているところ2時間以上かかりようやく組み立て終了。30本くらいネジくぎを締めたので右手が筋肉痛に。

 例年に比べ積雪は少なく、日中も陽が射しているが、気温は最高でも-5℃、これでは外でリハビリトレーニングは無理。室内を片付けて、ペダル漕ぎでもしますか。

 

 戦後左翼史 その5 1960年① 安保闘争 トロツキスト

1960年(僕は5歳)上半期に国内外であったこと。

60年安保闘争、三井三池炭鉱闘争、社会党から民社党が分裂、韓国で李承晩政権崩壊、米軍の偵察機U2がソ連上空で撃墜される、全学連で民青系が東京都自治会連絡会議(都自連)を結成。

*僕は小学校に入学する前の年だったが、子どものたちが「アンポ、ハンタイ!」といいながらデモごっこをした記憶がある。「カラスの赤ちゃんなぜ泣くの」を「岸さん、岸さん、なぜ泣くの」とした替え歌も覚えている。

1960.2.20、22、23アカハタ 「安保改定阻止国民会議の発展のために 国会・羽田闘争の評価をめぐって 清水幾太郎ら進歩的文化人について」中央委員神山茂夫

(参考)当時、党中央委員として国会への直接行動を主張した清水幾太郎らを批判した神山茂夫も1964年に除名され、志賀義雄らと日本共産党(日本のこえ)を結成。1967年には中野重治とともに日本のこえも脱退する。

1960.3.16アカハタ 解説「トロツキストの国際的活動について」

1960.3.17アカハタ 主張「トロツキストと全学連指導部」

1960.4.6アカハタ 日本共産党中央委員会青年学生部「全学連の臨時大会について」 3.16から開かれた第15回臨時大会で共産主義者同盟(ブント)が執行部を独占、全学連は、ブント系の社学同、革共同系のマル学同、日共系の民青同に色分けされた。

1960.4.18 アカハタ 3.21付けで、『日本読書新聞』静岡大学助教授浅田光輝「全学連と大衆の間」に反論

(参考)浅田光輝(1954年除名 豊田四郎、神山茂夫に共鳴し戦後入党)

『新日本文学』4月号村上一郎「羽田ふらぐめんて」安保改定に対する自然な怒りと挑発の分別が重要

(参考)村上一郎(戦後中野重治に共鳴して入党したが脱党)

1960.5.1アカハタ 「いわゆる日米修好百周年 日本への手紙」呉(ウーハン)北京副市長

(参考)呉:北京副市長、後に文化大革命で失脚

1960.5.9アカハタ あいつぐ米経済視察団の来日 もうけ確実な対日投資、外資導入緩和は日本独占の望むところ

1960.5.9、5.10、5.11アカハタ 「日米経済関係の実態」(一)軍国主義復活と対米従属を強める「軍事援助」と「特需」、(二)「経済援助」と「借款」による対米従属、(三)貿易と技術および外資導入を通じる対米依存

1960.5.20アカハタ 日本共産党中央委員会幹部会「全学連指導部(トロツキスト)のたびかさなる分裂・挑発活動について」

*安保闘争に対する日共のスタンスは、「日本は米国の半植民地で従属国」とした規定から反米民族独立闘争を重視した。従ってアイク(アイゼンハワー大統領)訪日阻止、羽田でのハガチー(大統領新聞係り秘書)事件だけが、安保闘争における唯一の闘いだった。日本の独占資本に対して戦いを挑むとか、安保を政治闘争の位置づけにはできなかった。

このため、先鋭的な闘いを行う学生(全学連主流派=ブント)に対して、「トロツキストの挑発行動に乗るな」「冒険主義」と批判を浴びせ、その闘うエネルギーへの妨害、組織的な切り崩しなど「反革命」的な存在に終始した。吉本隆明の言葉を借りるなら、これが「擬制(前衛)の終焉」である。

 日共の反米愛国はまるで右翼の使う言葉だが、ただブントも根はナショナリズムに基づいた国家(日本国)の存在を前提にした闘いだったと思う。国家を開く(廃絶する)という射程を持ったインターナショナリズムの考え方はどの党派にも無かった。

 

 

 


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