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戦後左翼史 その3 1956~59年 スターリン批判 ハンガリー動乱

2016-01-05 20:28:07 | Weblog

 戦後左翼史 その3 1956~59年 スターリン批判 ハンガリー動乱

1956年(僕は1歳)

1.6志田重男の突然の失踪(スキャンダル)

2.24ソ連第20回共産党大会で、スターリン批判

7.28春日正一自己批判(旧徳田系から宮本へすり寄る)

9月椎野悦男、女性問題を理由に除名、志田離党の確認(除名は、57.5.21)

 これで、宮本による旧徳田系最高指導部、伊藤律、志田、椎野が失脚、排除

10,11月 ポーランド、ハンガリー動乱、ソ連による軍事介入

日共はソ連共産党を支持したが、これを契機に党中央批判が強まる。ここから、新左翼(トロツキスト)運動が生まれる。

 *(*印は僕の考え)ロシア革命後のソ連社会で行われた粛清などの行為は、スターリンという指導者の個人的な資質の問題に起因するのか、そもそも共産党に内在する理論的かつ根源的な欠陥なのか、それについてどこまで内省が行われたのか、掘り下げがされたのかが課題であった。しかし、想像するに当時の空気は、支社(日共)が本社(ソ共)を批判できない、社会主義社会を建設するという理想や希望という言葉が力を持っていたのではないかと推察する。しかし、これがその後の左翼組織の分裂と現在の衰退に繋がっていくと考える。

 

1957年(僕は2歳)

学生運動においても党中央に批判的な潮流が生まれる。

 

1958年(僕は3歳)

7.7党中央、香山健一全学連委員長ら学生活動家を除名

 旧徳田系の紺野与次郎は、指導の責任を問われて、常任幹部会員を解かれる。

7.13密出国していた党員65名が白山丸で中国から帰国

7.21第7回党大会 人事では、野坂参三中央委員会議長、宮本顕治書記長、春日庄次郎統制委員会議長、幹部会員は野坂、宮本、袴田、蔵原、春日(正)、聴涛克己、志賀、鈴木市蔵、松島重治の9名となり、袴田の台頭、旧徳田系の駆逐により宮本―袴田体制が確立されていく。

 理論面では、新綱領が、宮本、野坂、志賀らの「アメリカ帝国主義+日本独占資本=二つの敵論」(敵の出方論=平和革命否定も含んでいる)と、春日(正)、内藤知周らの「日本独占資本=一つの敵論」の論争に決着がつかず継続審議になる。

12.10日本共産主義者同盟(ブント)結成

 

1959年(僕は4歳)

1月キューバ革命

3月安保条約改定阻止国民会議(総評、社会党など13団体が中央幹事団体)、日共はオブザーバー参加

4月マルクス主義の創造的発展を目指すという目的で、雑誌『現代の理論』が発刊される。不破哲三、上田耕一郎も執筆するが、党中央の圧力(6月6中総決議)で9月の第5号をもって廃刊に追い込まれる。

(参考)雑誌『現代の理論』:日本共産党内の構造改革派である安東仁兵衛、長洲一二らにより1959年5月創刊(同年9月終刊)。安保闘争後、1961年に構造改革路線を打ち出し、路線対立から日本共産党から離党する。

6月全学連4役を含む幹部7名が除名される。

6月党中央では宮本派と春日(正)派の対立が深まる。

 

 

 


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