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『暴力はいけないことだと誰もがいうけれど』 その2

2011-06-13 18:36:24 | Weblog

 

『暴力はいけないことだと誰もがいうけれど シリーズ14歳の世渡り術』(萱野稔人著 河出書房新社 2010年刊)その2(2011.6.1当ブログの続き)

 

 *以下で本書の続きをノオト的にまとめる。

 

第4章 国家と暴力の切れない関係

 著者は、ここで国家の本質を暴く。

 

 国家は、暴力(軍隊、警察)のうえに成り立ち、社会における唯一合法的な暴力を独占する。

 

 国家は、合法、違法の範囲を確定し判断しながら、違法行為を暴力(物理的実力行使)によって取り締まり、それによって社会の中に権利関係(合法的な行為の可能性の関係)を決定する。

 

第5章 国家はどうやって形成されてきたのか?

 暴力を独占した近代主権国家が誕生したのは400500年前のこと。17世紀から18世紀に論じられた社会契約説は、自然状態で人々が持っていた<暴力への権利>が国家に委譲されていくという国家の成立過程を論理的に説明した。

 

 この国では、豊臣秀吉が行なった刀狩(<暴力への権利>の規制)によって、武士の身分と百姓の身分を区別することで、近代における<暴力への権利>の独占を準備した。またそれは、銃器の伝来によってもたらされた軍事上の変化によって可能となった。

 

 すなわち、私たちは自らの意志によって国家を設立したのではなく、テクノロジーの発達によっていやおうなく国家のある社会へと突入した。このことから、私たちは自由意志によって国家を作ったり無くしたりすることはできないのではないかという問題が提起される。言い換えると、「国家の廃絶」が私たちの意思にはよらないということを示している。

 

第6章            暴力をカネにする

 服従の反対給付は保護であるということは支配を考える上で重要な要素である。ヤクザと国家の違いは、国家だけが合法的だということである。それは、民衆の合意や公共性とは無関係である。

 

 暴力は権力である。富をめぐって暴力で争うことが国家の基底にある。

 

第7章        暴力とどう付き合うか

 例え、国家がなくなっても暴力の問題はなくならない。暴力への対処は、以下の三つの選択肢しかない。①合法的な暴力を独占する国家によって暴力に対処する。②合法性はもっていないがその地域を実効的に支配する暴力組織に守ってもらうことで暴力に対処する。③自分たちで暴力を組織し行使することによって暴力に対処する。

 

 国家の存在意義は、暴力が力の論理(②と③)以外のやり方(法によるコントロール)で制御される可能性が開かれたところにある。(①)

 

 暴力を道徳的に論じても始まらない。暴力は私たちにとって親密でかつ危険な生の条件である。その条件にどう向き合うのか。生き様が問われている。

 

 

*私の問題意識「私たちは今国民国家の黄昏に立ち会っている」ということを論理付けるために必要な「国家とは何か」という問いへの答えが少し明らかになった。

さらに、国家の廃絶は、私たちの意思を超えるということも著者によって提起された。

 引き続き、『国家とはなにか』(萱野稔人著 以文社 2005年刊)を参考に考えてみたい。

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