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『暴力はいけないことだと誰もがいうけれど』 その1

2011-06-01 20:39:03 | Weblog

『暴力はいけないことだと誰もがいうけれど シリーズ14歳の世渡り術』(萱野稔人著 河出書房新社 2010年刊)

 

 表題からもわかるが、本書はいわゆる常識を超えた興味深い提起を含んでいる。以下、簡単に論旨をまとめた。

 

第1章 暴力は善いものなのか、悪いものなのか?

 暴力は「善いもの」でもなく、「悪いもの」でもない。学校で教えられる「暴力=悪」という図式を捨てよう。人間の存在自体が暴力のうえに成り立っている。この世界には、暴力によってしか解決できないことがある。これらを前提にしないと、暴力について思考することができない。

 

第2章 「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに誰も答えられないわけ

 「死刑」は、場合によっては人を殺してもいいと認めている。

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して、決定的な答えは無い。例えば、人を殺したら悲しむ人がいるからと答える。→悲しむ人がいなければいいのか。→悲しむ人がいることのどこが悪いのか(人を悲しませるために殺すのだから)という反論が成立する。言葉は、道徳を究極的に正当化できるようにはできていない。

 

第3章 カントの定言命法と暴力の問題

 道徳の基礎は、「~せよ」「~するな」、すなわち「ダメなものはダメ」と命じる「定言命法」にある。例えば、「人を殺してはいけない」は「定言命法」である。反対に、道徳の基礎に、「仮に~になりたくなかったら~せよ」という仮定のもとで成り立つ「仮言命法」には無い。従って、道徳にはその理由の根拠が無い。

 

 カントは、他人に危害や損害を与えたものは、それと同等の不利益を与えられることによって処罰されなければならない、という「同等性の原理(同害応報の原理)」により死刑を肯定した。社会秩序の維持、犯罪の抑止、遺族の復讐などのためといった手段にしない。(定言命法として)

 

 しかし、「人を殺してはいけない」と死刑を肯定する二つの定言命法の間に矛盾が存在する。結局、道徳は時と場合に左右され、究極的な根拠が無い。仮言命法としてしか成り立たない。

 

 最初に戻って、「いかなる場合でも暴力はよくない」という立場は道徳的には立派なようでいて、存在論的にはまちがっている。そもそも私たちの存在が暴力のうえに成り立っているという事実がある。

 

 

 *本書は、以下の展開で政治の次元に入っていく。ただ、14歳にとってはかなり難解な書物に思われる。中学校での道徳教育がどのような内容で行なわれているのかはわからないが、こういう本をテキストに授業が行なわれると哲学や論理学の基礎も学べ、自分の頭で考える方法が身に付くのではないか。

 

 *社会の劣化が問題にされ、道徳教育の必要性が叫ばれるが、哲学的思考を伴わない道徳教育は、単なる常識教育といえよう。交通ルールを教えるような次元で道徳を教えてほしくないと思う。

 

 

 

 

 

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