晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

さっぽろ祭りマラソン

2006-06-11 17:17:43 | Weblog
 第21回さっぽろ祭り市民マラソンに参加しました。
今年、初めてのフルマラソン、昨年よりチョット良いタイムで完走。
42.195km、いつもこの半端な距離を実感する。(アテネとマラトンは
どうでもいいこと)
まず、2kmの半端が堪える。そして1950mのおつりもまた効くのです。

 ひところ、芝居の世界では役者の肉体論が流行したが、このただ走るだけの
単純だが手抜きのできないマラソンという競技は、どこか哲学を
持っているような気がする。

 なぜなら、走り終わった人たちの顔が神々しく見えるから。

 この大会、毎年アコムが後援しているが、業績不振を感じさせる今年の
大会運営でした。ゲスト(宇佐美とか谷川真里が来ていた。)無し、アコム
陸上部の参加も無し、そして参加賞、完走賞の内容低下著しい。

 僕の、辺見庸の思いでは日を改めて。

 

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Philosophy No.3 (生住滅)
2006-06-15 22:32:56
 観念論に組する気は毛頭ありませんが、古典力学の遺影を引きずる唯物論、荒く言えば唯物論における物質は「物質とは客観的実在を表す概念であり、真理の客観性、真理の認識可能性が唯物論の正しさを証明している。」ことと言えるが、ここで引っかかるのは物質の概念事態が変質してきていることです。

 電子が静止していれば質点の近似として捉えることができ、古典力学の世界であり客観的実在が認識できるが、電子が動いているときには場の近似(その所で消滅し別の所で発生し、エネルギーの移動が行われる)として捉える虚数エーテルのモデルの領域に踏み込むと、客観的実在の認識は、生住滅にとっては理解できても認識はできない。

 マイナス1/3eのdクォーク1個とプラス2/3eのuクォーク2個で、電荷はプラスマイナス0となり陽子ができているが、客観的実在と認識されるのかな。また、虚数エーテルのモデルの領域を同じように客観的実在と認識されるのかな、認識できるということは、生住滅にとっては観念論そのものと考える。

 それらを含めて物質だとか、現在の最先端の物理は了見していないとかの見当外れの反応が予想されますが、それは置いておいて、物質には客観的実在を認識できない領域があることを是とする再定義が必要と考えます。

 昔日の唯物論への決別が必要です。精神は先を行っているので昔日の唯物論に拘っていると保守になり、犯罪的な反動に成り果てます。



 さて、ここで命題です「認識できない事柄を再定義するのは観念論でないのか」。



 この解は「愛犬が東を向けば、尾は股間の間。否、空を指しています。」です。

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